The Monkees: Our Life in 15 Songs

Micky Dolenz, Michael Nesmith and Peter Tork tell the stories behind some of their most enduring tunes

ミッキー・ドレンツ、マイケル・ネスミス、ピーター・トークが不朽の名曲の裏側を語る

 

NBCでのTV放送開始からほぼ50年後の9月16日、残ったモンキーズのメンバーはハリウッドのパンテージ・シアターのステージに立つ。1966年のその夜から始まった熱狂的なモンキーズ・ブームはほんの2年で終わったが、彼らは熱に浮かされたように活動し、"I'm a Believer"、"Pleasant Valley Sunday" のような大ヒットを飛ばし、58話のTVシリーズを収録しつつ、世界中をツアーで回り、サイケデリックな映画 "Head" を撮影した。

 

「モンキーズのTVプロデューサー、バート・シュナイダーは僕たちをキャスティングした時、奇跡が起きたと言った。問題もあったし、僕としては完璧とは言い難いこともあったけど、納得せざるを得ない。」とピーター・トークは語る。

 

デイビー・ジョーンズは2012年に亡くなったが、その年トークとマイク・ネスミス、ミッキー・ドレンツはツアーのために再結成し、その事が最終的に彼らのニュー・アルバム "Good Times!" の成功へとつながった。ネスミスは出版予定の著作のため、ツアーには参加していなかったが、パンテージ・シアターのライブに出演することになった。モンキーズの50周年にちなんだ新譜も数多く発売されるが、その一つ、3枚組CDセット "Monkees 50" が8月26日に発売される。

 

私たちはドレンツ、トークそしてネスミスにモンキーズの曲から15曲について話を聞いた。

 

 

"Last Train To Clarksville" (1966)

ミッキー・ドレンツ:これは戦争に行く男の歌なんだ。反戦歌そのものだ。テネシー州クラークスヴィルに向かう男の歌で、僕の間違いでなければそこには軍の基地がある。男は徴兵が決まっていて、ガールフレンドに「家に戻れるかどうかわからない」と言っている。この曲がモンキーズの、しかもファースト・シングルだと考えると、レコード会社の偉い人の頭を素通りしたのでなければ、発売されたことに驚くよ。

 

レコーディングの事は思いだせないんだ、あの頃はあまりにも沢山のことをやっていたから。一日中TVショーの撮影をした後、一晩で2, 3曲をレコーディングしていた。ボビー・ハートが僕は一晩で歌ってきたと言うんだ。歌を覚えて、繰り返したと言っていた。キーとか全部作っていた。この曲にはブリッジがあって、"di da di di da di da?" っていうところなんだけど、元々は歌詞があったんだ。でも僕は覚えるのが間に合わなくて、「ボビー、ここ歌えないよ」って言った。そうしたらボビーが「そう、じゃあ "di da di di da di da" ってやってみよう」と納得してくれた。

 

初めてこの曲をラジオで聞いた時の事は、すごくお気に入りの思い出なんだ。KHJラジオはその頃大きな局だった。デイビーと僕はハリウッド・ヒルズの家を借りていて。ビバリー・ヒルズにあった、その大きくて美しい家を引っ張り上げていた。その時、「さあ、ここでモンキーズの『恋の終列車』です」と聞こえて、僕たちは路肩に寄せて、お互いの顔を見てニヤ〜!と笑ったんだ。

 

"Mary Mary" (1967)

マイク・ネスミス:これは初期の曲。曲をしばらく書いていない時で、僕はカントリーとブルースの中間を見出すことに興味を持っていた。当時はランディー・スパークスの元で仕事をしていた。彼はフォーク・ロックのバンド、ニュー・クリスティー・ミンストレルズで成功して、音楽出版社を始めていた。僕は作家として雇われたんだ。ある日、彼のオフィスで "Mary Mary" を書いたら、フレイザー・モホークがポール・バターフィールド・ブルース・バンドの曲に取り上げてくれて、レコードになった。あれですごく自信がついたよ。

 

ランディーはその後、僕の曲をスクリーン・ジェムス・コロンビア・ミュージックに売却した。モンキーズのTVショーの音楽用の会社で、この曲をセカンド・アルバムに採用してくれた。それは良かったんだが、演奏することも歌うこともさせてもらえなかった。スクリーン・ジェムスはドン・カーシュナーに仕切られてたからね。何年か後、RUN-DMC がカバーしてる。彼らのバージョンも好きだよ。歌詞はいくぶん変えてるけど、気にならなかった。そんなに深い歌じゃないしね。

 

"I'm A Believer" (1967)

ミッキー・ドレンツ:これもレコーディングの事は特に覚えてない。一日の撮影が朝8時から10時間かかって、週末はツアーのリハーサルだった。撮影の後、スタジオに行ってボーカルを録音しなくちゃいけなかったんだ。一晩に2、3曲やったことも何度かあるのを覚えてる。とにかく番組の曲をたくさん揃えなくちゃいけなくて、毎週1曲は新しい曲が必要だった。

 

そうは言っても、この曲は僕の代表的なモンキーズ・ソングだろうね。ライブをやったら10回中9回は、この曲がラストを飾る。どうしてこんなに人気があるのかは分からないけど、こういう作品を省略するわけにはいかない。共同作業で作られたものなら、なおさらだ。ニール・ダイヤモンドの歌詞なのか、いや、メロディーが?それともバック・コーラス?どんな作品であろうと、様々な理由でそれぞれのパーツの合計よりも集合体の方がはるかにおおきな結果を生むんだ。

 

"You Told Me" (1967)

マイク・ネスミス:モンキーズに加入した時、「ポップ・ソングを書け」と言われ続けていた。これは "The Girl I Knew Somewhere" と一緒に書いた2曲のうちの1曲。こういう形になって、本当にうれしかった。僕たちだけで作った唯一のアルバム "Headquarters" に収録したんだ。僕が「僕たち」と言う時は、4人の主演俳優のことを意味する。ピーターがアルバムに取り入れたバンジョーは最高だった、生き返った気持ちだったよ。

 

TV番組のために雇われた4人の若者が実際に活動するバンドになるなんてすごい事だと思われるけど、僕はそうは思わない。あの時代の空気を考えれば、全然すごい事じゃない。1960年代は4人の若者を一つの部屋に押し込めば、バンドが出来上がった。グレイトフル・デッドもバッファロー・スプリングフィールドもみんなそうだ。4人集まれば、歌って一緒に演奏するのが当たり前で、俳優として雇われたとしてもそれは同じだった。

 

僕たちが活動を維持できなかった理由の一つは、始まる前から巨大なビジネスの渦に巻き込まれていたことにある。関わってくる金や時間や人、とりわけ多数のソングライターが存在する、とても大きな事業だったんだ。

 

"Randy Scouse Git" (1967)

ミッキー・ドレンツ:この時まで、僕たちはアルバムについて何か言うことを許されていなかった。僕たちが望んでなかった訳じゃない。基本的にこう言われていたんだ、「だまって、金を受け取れ」ってね。マイクとピーター、特にマイクは不満が溜まっていた。彼を責めるなんてできないよ。マイクはシンガーでソングライターだし、彼の曲を使うと言われていたんだから。マイクは "Different Drum" を書いたけど、「それはモンキーズの曲じゃない」と言われた。「待ってくれ。僕はモンキーズの一員じゃないか」と言い返したけど、結局その曲はリンダ・ロンシュタットにゆずった。あとは歴史の通り。またある時は、ピーターがベースを持ってレコーディング・スタジオに行ったら、「ここで何をしてるんだ?」と言われたり。僕たちはアルバムが店頭に並ぶまで、ジャケットすら見ていなかったんだ。

 

"Headquarters" では全部やりかったっかし、その通りやった。"Randy Scouse Git" はイングランド・ツアーに行った時に書いた。ビートルズが僕たちのためにすごく有名なナイトクラブでパーティーを開いてくれて、ストーンズや色々な人たちが来ていた。翌朝、僕はギターを抱えて部屋に座って、意識の流れを曲に書いた。"four kings of EMI" はもちろんビートルズのことだ。僕はイギリスのコメディ番組 "Till Death Us Do Part" を見ていて、何年か後にこれはアメリカで "All In The Family" になるんだけど、そのお父さんが若者の歌を "Randy Scouse Git" と呼んでいた。なんて意味かは分からなかったけど、心の中で「うわぁ、すっごくかっこいい。僕の歌のタイトルはこれにしよう」と思ったんだ。

 

アメリカに帰ったら、イギリスのレコード会社がこの曲をシングルで出したいけどタイトルを変えて欲しい、と言っていると聞いたんだ。プロデューサーのひとり、ウォード・シルベスターが1967年4月18日に受け取った手紙があるので、読んでみてほしい。

 

「親愛なるウォード、 "Randy Scouse Git" について送った電報の詳細を送ります。イギリスの表現はアメリカの表現とはまったく異なる意味を持つこと、またその逆もあるとお気づきかと存じます。然るに今回はその逆の問題です。この曲名を正確かつ簡単にアメリカ語へ訳すと、リバプールの売春婦の淫乱な放蕩息子という意味になります。この言葉は確かにこちらの国のTV番組で使用されていますが、深夜の成人向け番組限定の話です。英国メディアはモンキーズをクリーンなアメリカン・ボーイとみなしています。したがって、この曲名はあなた方に甚大なる損害を与えるやもしれません。手遅れでなければ、アメリカでの曲名も変更することを強くお勧めします。しかしながら、私の懸念は主に当方の問題なのであしからず。」

 

すごくない?僕に他の曲名が必要だって言うから、「わかった、それにしよう」って答えた。だからイギリスでは "Alternate Title" として知られてるんだ。

 

"Daydream Believer" (1967)

ピーター・トーク:この曲は僕が「ミックス・モード」と呼んでいる時代にできた。第一期はドン・カーシュナー・モードで、レコードから何から全て彼の監督下に置かれていた。それで、僕たちは僕たちだけで、"Headquarters" を作った。「ミックス・モード」は僕たちとスタジオの何人かのプロのことだ。"Daydream Believer" では、僕はピアノを担当して、冒頭のあのフレーズを思いついた。キラキラして独創的だと思ったんだ。今でもあのフレーズを聞けば、誰もが "Daydream Believer" を思い浮かべる。

 

この曲のキモは、"Cheer up sleepy Jean" の "Jean" でのコード・チェンジだと思う。Ⅳ(F)からⅤ(G)、Ⅲ(Em)へと変化する。これはかなり意外だけど、魅力的なコード・チェンジだ。ここでグッと引き込まれる。そして、歌詞が "What can it mean to a daydream believer and a homecoming queen" とくる。すぐには理解できないと思う。でも、考えてみると分かるだろう。「この男は俗世界にいて、空想にふけっている。彼のガールフレンドは家にきた女王様だった。でも彼らはそれでも十分なんだ。」じっくり考えないと理解できないだろう。

 

この曲はデイビーが歌っている。彼は才能豊かな男で、いい俳優だった。多分、僕たちの中で一番いい俳優だ。ミュージカルへの想いも人一倍持っていた。最高の頭脳と、そして最高のこころの持ち主だった。

 
"Tapioca Tundra" (1968)
マイケル・ネスミス:その時はモンキーズのライブで演奏していて、歌詞がひらめいたんだ。すごく大きなコンサートで2万人位の観客がいた。僕たち3人、僕とミッキーとピーターで演奏していて、デイビーはタンバリンかマラカスを鳴らしていた。僕たちが演奏すると毎回、すごいことが起きた。コンサートは僕たちをバックステージとは別の何か、ザ・モンキーズに変化させた。ピーターはそれを「5番目の存在」と呼んでいた。つまり、観客のことだ。テレビ番組が作り上げたものを実体化させるために観客はそこにいて、彼らが現実のものにしていた。まさしく彼らのことだった。コンサートの後、モンキーズが聴衆として生き返った現実を体感したことから、この歌詞は生まれた。まあ、ちょっと形而上学的だけどね。
 

"Porpoise Song" (1968)

ミッキー・ドレンツ:映画 "HEAD" はボブ・レイフェルソンとバート・シュナイダー、そしてジャック・ニコルソンによって作られた。モンキーズの脱構築(古い構造を破壊して、新しい構造を生成すること)についてそれほどこだわった訳じゃないけど、ハリウッドの映画産業の脱構築の比喩として、モンキーズの脱構築を用いていた。年令制限は17才以上限定だったと思う。僕たちのファンの多くは、劇場に入ることさえできなかった。商業的な観点からいうと、製作自体が間違いの映画だった。だけど、僕たちはTVショーの90分バージョンを作りたいとは思わなかった。それに、"Easy Rider" と "Five Easy Pieces" を作りに行きたいヤツらがいたからね。彼らにはここで引き延ばすチャンスがあったんだ。"Porpoise Song" は歌うのが好きな曲の1つで、映画のテーマみたいなものだ。

 

"Can You Dig It?" (1968)

ピーター・トーク:これは僕が大学で(禅の)変化について書いたことがきっかけだったけど、それをどうするかは分からなかった。ある日の午後、モンキーズのセットでTVショーの撮影をしていた時、僕は楽屋でギターを持っていた。基本の歌詞が浮かんで、僕の頭の奥に仕舞ってあったその変化が湧き出てきて、なんとなくとスペイン風と北アフリカ風を調和した感覚を書き取った。僕は全ての偉大な未知なる源について書いたんだ。"Head" のサウンドトラックにはぴったりだったよ。

 

"Circle Sky" (1968)

マイク・ネスミス:「これも演奏していた頃に書いた曲だ。僕は自分たちのスリーピース・バンドの姿を探求したかった。不思議なことに、僕たちは実際かなり良かったんだ。ミッキーは本物のガレージ・バンドのドラマ―で、僕は本物のスクリーム&シャウト系のギタリストだった。ピーターは緻密なプレイヤーだったし、ベースラインの付け方が上手かった。僕たちの間に存在したスリーピース・バンドの姿が探求されることはほとんどなかったけど。歌詞はテレビと会社人間についての歌だ。

 

"Listen to the Band" (1969)

マイク・ネスミス:この曲の由来はすごく興味深い。僕の新しい本で1章の半分位はこの事について書いてる。めったにない瞬間だった。モンキーズのTVシリーズが終わって、映画も撮り終わった。やるべき事には全て印がついていた。僕はモンキーズのお金があるうちに、ナッシュビルへ出向いて、デビッド・ブリッグスやジェリー・キャリガン、ノーバート・パットナムのようなナッシュビル・キャッツ(ボブ・ディランのナッシュビルでのアルバム制作に参加したスタジオ・ミュージシャンの総称)に演奏される曲を作りたかった。そこにはこの並外れた音楽をまとめた彼らがいて、ウィルソン・ピケットやアレサ・フランクリンなどのR&Bと共に文化革命を起こしたんだ。

 

僕がスタジオに入った時、LAのレッキング・クルーの面々とはまったく違う雰囲気だった。レッキング・クルーはコマーシャルやオーケストラや、TV番組など色々やっていた。マッスル・ショールズ・スタジオでは、ずっとR&Bだけだった。彼らはとんでもないプレイヤーだった。僕が1曲弾いてみせると、「へえ、いいじゃん」なんて言って、そのままレコーディングしてしまうんだ。それで僕はロサンゼルスに戻って、ホーンを付け加えた。

 

僕は出来上がりに興奮して、リチャード・ペリーのところへ駆けつけた。リチャードは当時いくつかの曲のプロデューサーで、すでに大成功を収めていた。彼とはハリー・二ルソンの "Without You" で出会った。「リチャード、このレコードができたんだけど、自信作なんだ、君のために演奏したい」と言ったら、彼は「ああ、すごくいいね。」と返事をくれた。それで僕は「次のレコードになるんだ。君にもプレゼントしたい。」と言ったら、「うん、わかった。僕がモンキーズのレコードを買う事はないと思うよ、原則的に。」と返された。僕はこう思った、「おっと、これが生まれてくるのはそこか。」孤児として生まれ、居場所もなければ手助けもない。

 

訳注

○ニルソンの "Without You" は1971年発売なので、マイクの記憶違いかもしれません。

 

"That Was Then, This Is Now" (1986)

ミッキー・ドレンツ:1986年にMTVが古いTVショーの放送を始めて、僕たちはツアーのために再結成した。これが大当たりした。その年のツアー興行収入で最大の売り上げになったんだ。当時は、アリスタがレコードの版権を持っていて、クライブ・ディヴィスが彼のA&R(レコード会社の制作担当)のロイ・ロットを通して、僕に連絡してきた。「聞いてくれ、これは大きなチャンスだ。20周年記念の再結成はもっと大きなものになる。我々は昔のヒット曲をCDで再発売するつもりでいる。そこで、もし君たちが新曲をレコーディングしたら最高じゃないかと考えている。」てことだった。

 

僕たちはもうツアーのリハーサルをしていたんだけど、彼らは2週間位でそれをやってくれと言ってきた。僕は「わぁお!すごいや。やらせてほしい。僕のエージェントでもなんでもいいから連絡して。でも、僕はどうしてもやりたい」ていう感じで。ピーターも賛成だった。だけど、デイビーは違った。デイビーはこのレコーディングには参加しない選択をしたんだ。で、その2日後に僕はスタジオでボーカルの収録をしていて、1、2週間後にはレコードが発売されて、トップ20に入った。

 

作者のヴァンス・ブレシアとはいい友達になったよ。別のギタリストが必要になった時に何度か出演してくれた。いつでも、僕たちは一緒に歌うんだ。

 

訳注

○クライブ・ディヴィス:元コロンビア・レコードの社長で、ベル・レコードの社長に就任後、社名をアリスタに変更した(ベル・レコードはコルジェムスなど、コロンビア系列のレコード会社を統合したレコード会社)。

 

"Run Away From Life" (1996)

ピーター・トーク:マイケルがビクトリア・ケネディー(後の妻)と付き合い始めた頃の話なんだけど、"Head" のサントラを聞かせたら、彼女がベースを弾いてるのは誰?と聞くから、「ピーターだ。」と答えて。で、また彼女が「そのパートは誰が書いたの?」と聞いて、「ああ、それもピーターだ。」と答えたんだって。マイケルは "Friends" のテーマ・ソングは "Headquarters" にそっくりだと思っていて、告訴を考えてたらしい。で、確かめてみたくて、僕とミッキーにジャム・セッションしないかと声をかけてきた。そんな風に一緒に演奏するのは1969年以来初めてだったよ。

僕はベースを弾いて、ミッキーはドラムで、マイケルがギターを弾いて。そうしたら、まったく同じ音がしたんだ。本当にすごかった。僕たちはジャム・セッションをして、デイビーも巻き込んで、その結果として "Justus" が出来上がった。僕は、アルバムが正当な評価をうけていないと思ってる。誰も、僕たちとエンジニア以外は誰もスタジオに入れなかったんだ。僕が書いた "Run Away From Life" は妄想家の歌で、すごく皮肉が効いてて、かなりヤバい。でもアルバムに関しては、僕たちはする必要がなかった節度を保ってやっていたと思う。

僕自身の一番の失敗は、もっとギターを弾けば良かったと思ってる。ただ、このアルバムのミッキーのドラムは本当にすごいよ。

 

"Admiral Mike" (1996)

マイク・ネスミス:僕が "Admiral Mike" を書いたのは、ある提督が何か恥ずべき行為をしたとマスコミが報じたことで彼が自殺したという記事を読んだから。しかもその記事には何の証拠もなかった。彼は裁判にもかけられてなかった。彼はいかなる不正行為も認められなかった。しかし、マスコミは慎重かつ中立な報道姿勢を保つのではなく、一方的に彼を非難した。僕はこの事に怒りを感じて、「ジャーナリストが真実に対する責任感を持つ必要性について、何か書かなくては」と思った。かつてないほど、顕著で現実的な問題に直結しているんだ。

 

この曲が入っているアルバム "Justus" は誤解されている恐れがある。僕たちは、バンドとしての自分たちの時間を中心として構築されたアルバムを作ろうとした。それは演奏している僕たちから生まれるものだ。しかし、僕たちはバンドとしては継続していなかったし、お互い何年も会っていなかった。僕たちにはいつも一緒に働くチームがいたんだ。まずTVショーのスタッフがいて、それから、ツアーを運営するチームに、曲のためのブリル・ビルディング(音楽事務所やスタジオが入ったビル)の仕組みがあった。多分、僕たちはモンキーズの陰でアーティスト的な影響力のある作業をあまり担っていない。次のアルバム(2016年の "Good Times!" )ではもっと上手くいった。

 

"Me & Magdalena" (2016)

ミッキー・ドレンツ:これはデス・キャブ・フォー・キューティーのベン・ギバードが僕たちの "Goos Times!" のために書いてくれたんだけど、実に素晴らしい曲だ。ファウンテンズ・オブ・ウェインのアダム・シュレシンジャーがプロデュースをしている。本当は僕一人で歌いたかったんだけど、結局は僕とマイクのデュエットの形でやる事になった。ネスミス&ドレンツ・ハーモニーをやるのはいつでも大歓迎だよ。

 

マイク・ネスミス:話してるように、僕はロサンゼルスから車で戻るんだ。ミッキーとスペイン語バージョンを録音したところでね。

 

ピーター・トーク:この曲には心をわしづかみにされる。僕はマイケルがこんなに情緒たっぷりに歌えるのを初めて聞いた。このレコードの評価がいい事には満足している。ただ僕としては、このレコードが初期のものと比べて、そこまでいい訳じゃない事を面白がってる部分もある。視野の狭い道義的な考え方がなくなって、純粋にアルバムを楽しめるようになったって事だ。それから、ポップ・ロック・グループの作品は全て自分たちで書かないといけないという風潮があからさまに衰退しているという点にも帰結している。他にも、熱狂から50周年という事実もあって、ノスタルジーが僕たちを後押ししてくれる。本当に信じられない。そのど真ん中にいるなんてびっくりだ。周りを見回しちゃうよ、「何、これ?」って。

 

訳注

○マイクのコメントは、歌詞の "we're driving south through Monterey" と、Magdalena がスペイン風の名前ということにひっかけた高度なギャグです。

 

https://www.rollingstone.com/music/music-lists/the-monkees-our-life-in-15-songs-103726/tapioca-tundra-1968-107543/