◆今日の一言
No.453(07/7/20)

『古典とは、時間がたっても古くならない作品だ』





東京国際ブックフェアから帰ってきて、「心機一転、さぁ頑張るぞ!」と日々の仕事に戻った矢先…

バイクが盗まれ、中身も全部なくなってしまいました。

数日後、鍵もイスもミラーも壊され、唐人町で発見された愛車を見て、不快さが改めて催したのはもちろんのことですが、それにしても、よくもこんなことを白昼堂々とやるものだと、現代社会について考え込んでしまいました。



数日後知ったところによると、どうやら西区に拠点がある九州最大の暴走族が一斉摘発されたらしく、ある少年が「盗んだバイクの数は多すぎて覚えていない」と供述したとか。

皆さんも自転車やバイクには気を付けて下さいね。

ということで、東京出張やバイクのごたごた、止まっていた仕事の処理などで、10日近く配信が止まってしまい、すみませんでした。



さて、僕はここ数日、大月さんの「mai place」の新サービスのお手伝いの一環で、職業観に関する古い本を優先的に読んでいます。

なんでも、mpのホームページを大幅にリニューアル・増強し、サイト内にシンクタンク的なコーナーを作ろうということなのです。

そこで、いくつかテーマを決めて、資料を漁ってみました。そのテーマとは、たとえば以下のようなものです。



◆金銭を卑しむ思想の由来は何か

◆江戸時代の士農工商の価値観は明治時代にどう引き継がれたか

◆昭和5~20年の社会主義の怒涛のような流入の背景は何だったのか

◆戦後の社会主義の普及は学校教育や職業教育にどんな影響を与えたか



◆現代の学校教育や大学教育に見られる社会主義的価値観と昭和初期の青年の価値観の共通点は何か

◆職業観形成や是正に尽力した先人は何を問題と見、どんな解決策を設定したのか

◆各時代の教育行政、学校教育の代表的人物は、問題をどう分析し、何を原因と規定したか



そんなことを考えながら読んだのは…

■『共産主義と人間尊重』(小泉信三/文藝春秋新社※絶版)
■『真理と平和を求めて』(田中耕太郎/講談社※絶版)
■『石田梅岩と都鄙問答』(石川謙/岩波新書※絶版)
■『人間の建設』(岡潔・小林秀雄/新潮社※絶版)
■『兄小林秀雄との対話』(高見沢潤子/講談社現代新書※絶版)
■『風蘭』(岡潔/講談社現代新書※絶版)
■『論語と算盤』(渋沢栄一/国書刊行会)

などです。

ほとんど絶版で書店では入手不可能ですが、もしかしたら見つかることもあるかもしれないし、欲しい人もいるでしょうから、以下、少し詳しく書いておきますね。興味があったら探してみて下さい。



『共産主義と人間尊重』の小泉信三博士は、本メルマガの長年の読者の方ならご存知の、戦前~戦後の慶応大学を率いた塾長です。

経済学者としても立派な業績を残し、天皇陛下の教育係を務められ、美智子皇后との縁談をセッティングされた、日本が誇る教育者ですよね。

戦前、戦後を通じて外国人にも物怖じせず、堂々と意見を主張し、相手から深い尊敬と信頼を集めた姿は白洲次郎にも通じるところがあり、昨今の軟弱、軽薄な国際交流などとは雲泥の差です。



『真理と平和を求めて』の田中耕太郎博士は、終戦直後の文部大臣で、反骨の法律家としても有名であり、長年最高裁判所長官を務めた学者です。

田中博士は、西南大の隣にある修猶館高校の出身で、東大学法科を首席で卒業し、明晰な頭脳とカトリック信者としての温かい感性で終始共産主義を批判したことでも知られています。

わが国における商法の第一人者で、人間愛と経済的合理性は矛盾しないことを説き、本書では一貫して日本の学者、官僚が国際的に大変勉強不足であることを憂え、叱咤しています。



『石田梅岩と都鄙問答』の石川謙博士は、戦後日本が陥った精神的貧困を救うため、日本の商業思想を形成した江戸時代の古典『都鄙問答』を終生研究したことで知られています。

『都鄙問答』については、今さら繰り返すまでもないでしょう。



また、文芸分野では、『人間の建設』の岡潔博士と文芸評論家の小林秀雄さんは、本メルマガの読者の方であれば既にご存知でしょう。

自然や芸術を優しい愛情で見つめ、人間性をどこまでも肯定、尊重した両氏の作品は、没後も多くの愛読者を持っています。

『兄小林秀雄との対話』は実の妹である高見沢潤子さんが小林秀雄さんの生き方、考え方を分かりやすくまとめた本で、ページを開くたびに優しさと感動、素朴な発見が満ち溢れていて、本書は僕の学生時代の愛読書でした。



このような名著を昭和50年生まれの僕が読んでいる、いや、持っているというだけで時代錯誤と言われそうですが、実はこれらの本は、読めば読むほど新しく、いつも新たな気付きを与えられる名作ばかりです。



どの本でも一貫して主張していることは…

・戦後、日本人の知性は驚くほど劣化し、下がり続けている

・日本人ほど社会主義になじみやすく、不勉強でお上に靡きやすい国民は稀である

・戦後の青少年は学ぶ喜びを知らず、勉強、学問の何たるかを教えられずに社会に出され、気の毒だ

・われわれ日本人はもっと堂々と国家戦略を議論し、歴史や古典と向き合って先人の英知に学ぶべきである

といったことです。



皆、当時の時代の風潮や流行に流されず、立場や地位を気にせず堂々たる論陣を張った気骨あるサムライで、僕はこの方々のような生き方が本当にかっこいいと昔から憧れ、尊敬しています。

そのため、このような方々はどんな勉強をしていたのだろうと調べるようにしているわけですが、そのたびにいつも確認できる事実が、「若い頃に古典を徹底して読んだ」という経験です。

FUNでも、「私も学生時代に古典を読みたい!」と熱望する学生さんが8人ほどおられたので、先週から「古典の会」を開き、毎回3時間、熱く深く語り合っていますが、皆、「深すぎる!」、「人生が変わった!」と一瞬で「本当の自分」を掴めて喜んでいるようです。



古典とは何か。

先週読んだ『古典の讀み方』(岩波文庫/非売品)から、小泉信三さんの古典精読体験を振り返りながら考えてみます。

本書は岩波文庫創刊25周年記念の小冊子で、書店では販売されておらず、したがって入手は不可能なのですが、戦後の各界を代表する学者、作家が「私と古典」といったテーマで古典に接する姿勢を書いた本です。



小泉博士の本は明快で例え話が豊富なのは、読まれた方は皆感じたことでしょうが、博士は本書の中で、こういう趣旨のことを述べています。



「紙に文字が印刷しているものが皆本だとすれば、時刻表の類も本である。どの駅を何時に出れば、どの駅に何時に着くか、まさに右から左に役立つという点では、その効用は疑うべくもない。

しかし、このようなものが読書の効用かと言われれば、誰もそうは思わない。



また、養豚養鶏の方法を述べた実務書も、読んで実施すればたちどころに利益を上げられるという点では、申し分のない効用を持っている。

読んで役立つという点では疑いもなく読書の利益を享受できるわけではあるが、このようなものも読書の効用ではない。

目的の利益が手段によって制約されるような限定性のあるものは、やはり古典とは呼べない。「すぐ役立つ人材は、すぐに役立たなくなる人材だ」と言うように、「すぐ役立つ本は、すぐ役立たなくなる本だ」という言葉は至言である。



しからば古典とは何か。古典とは、後代の人々がそこから発想を行い、思考の出発点として接し、しかして後代の思想を支配する本である。

時刻表、養豚養鶏の実務書のようにすぐに役立つかと聞かれれば、古典がこのような意味では役立たないことは明白であるが、古典を求めないような人生も世の中に役立たないであろう」



だいたいこういった趣旨の内容で、読んだ学生さんも一様に自分の読書履歴、読書経験を振り返って、様々な感慨を抱いたようでした。

「試験があるから、テキストを読む」。

そういう場合のテキストは、「試験のため」という目的が限られており、試験に限っては役立ちますが、終われば何の役にも立ちません。



もちろん、人生は知らないことばかりに出くわすので、場合によってはこれらの実務書を求めることも大切ですが、しかし、実務書ばかり読んでも、人間的成長にはつながらないということです。

それは、読書習慣や学習姿勢、記憶方法の訓練には役立つでしょうが、人生の大方針を決定したり、実務知識をいかに役立てるかという人間的な思いやりを得たりすることには、何ら寄与しないということです。

つまり、「実務書を読んでは捨て、読み終えては忘れる」というような行為は、当人はそれを「勉強」と詐称するかもしれませんが、実は「勉強の真似事」か「勉強ごっこ」でしかないわけです。



現在は試験中で、読者の皆さんの中にも、前期で学んだ内容を復習し、それぞれの熱意を持って試験に取り組んでいる方がおられると思います。

もし、学習内容を振り返って、人格的な成長や視野の拡大が得られていないのであれば、残念ですが、それは「知識の使い捨て」、つまり「学費の廃棄処分」だったというほかありません。

要するに、勉強など、1分もやらなかった、ということです。そういう学生が読んできた数千円の教科書は、「時刻表」か「養豚法」だったわけです。



社会に出て、「大学の勉強なんて、役に立たないよ」としたり顔で話す社会人もいますが、それは本人がどういう人間になりたいか、どういう人生を過ごしたいかを考えることなく、場当たり的に試験のためだけに生きてきたなら、当然のことでしょう。

「勉強が役に立たない」というのは、知的矛盾もいいところで、役に立たないのはその人自身です。「これに役立てよう」という目標のないところで得られる学習行為からは、何ら実効性のある知識や見識は得られません。

現代は「理屈は通用しない」ともっともらしいことを言う人も多い時代ですが、理屈は通用します。あくまで基本にこだわれば、基本は必ず成長を生みます。

ただ、それを忠実に継続する人が少ないだけの話ではないでしょうか。それを「理屈は通用しない時代だ」と言うのはごまかしにほかなりません。



要するに、学ぶ前から「何に役立つか?」、「これに役立てたい」と考えすぎるのは、場合によっては効率化を図る前提にもなりますが、そういう姿勢を人生態度として適用すれば、いつも最新知識にキャッチアップするのが精一杯で、成長できない人間になってしまうということです。

どの知識も、得るとたちどころに陳腐化し、すぐに使えなくなってしまいます。だから、またせっせと新しい知識を習得しないといけない。いわば、「現実との合作」に必死で、何かを創造することなど不可能です。

これを要約すれば、「最新知識とは、最古の知識である」ということができるでしょう。「古い」とは、昔生まれたことではなく、現実への適応性と耐用性を欠くことを言うからです。



ここから、「古典とは、どのような本であるか」を逆説的に定義することができます。



それはつまり、「時間がたっても古くならない作品」だということです。生まれた時期は数百年、数千年も昔かもしれませんが、いつ読んでもそのたびに新たな解釈ができ、人格的な成長や知的な発見をもたらしてくれ、読むほどに新しくなる本、それが古典です。

「古」という字がついているだけに、それだけで古い本だと決め付けて読まない人も多くいますが、実は、最新トレンドなどを追い求めている人たちこそ古臭くて時代遅れの人々なのであって、古典を読む人こそ、真に新しいものを創造できるクリエイティブな人だということです。



さて皆さんは、人生の楽しさを倍増させてくれる「私の古典」を、何冊持っているでしょうか。

生涯にわたって読み返したいと思うような深い感動を与えてくれる本に、学生時代、何冊出会ったでしょうか。

友達と同じく、その本の数が皆さんの学生時代の価値でしょう。自ら本を読まないような学生は、学生証を持ったフリーターに過ぎず、永遠に18歳のままの知識で生きるわけです。



人格的な深みを増し、透徹した洞察力を磨き、人生で何か新しく価値あるものを作りたいと思ったら、そういう時こそ古典を読んでみるのはいかがでしょうか。

時間がたっても古くならない本を読んだ人だけが、時間がたっても古くならない人になることができます。そうやって自分を日々アップデートできる人こそ、真に若い人だということができるでしょう。



「就職に役立つだろうか?」

そのような動機こそ、人生に最も役立たない投機的、衝動的、感情的な動機です。

そういう狭い視野で生きるから、どう生きるべきか、どう働くべきかを考えることができず、自己分析や業界研究といった細々したことで立ち回る器の小さい人間に成り下がってしまうのです。



学生時代は、茫洋たる未確定の未来に思いを馳せ、遠く将来を描き、雄大な自己成長を図るための時間でしょう。そうして、喜ばせたい人、解決したい問題を描き、そこから逆算して仕事を決めればいいのです。

仕事選びのための学生時代は、養豚の本と同じく、何の仕事にも役立たないと知るのが賢明な学生です。

賢く有能で、可能性溢れる学生の皆さん、ぜひ夏は、人生を支える一冊を読みましょう。


今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門229位、就職・アルバイト部門142位です。

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◆今日の一言
No.452(07/7/4)

『日本こそ、ソ連や中国がお手本にすべき社会主義国です』(リクルート創業者・江副浩正)





いきなりですが、ある新聞記事の引用を。

http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070703/wdi070703000.htm

…考えさせられますね。

野村資本市場研究所・関志雄主任研究員の、「10年後に中国の学生がマルクス経済学を勉強しようと思ったら、日本の大学に行くしかない」という言葉は、ジョークとしても一流です。



わが国の義務教育が、社会主義的発想を注入する継続的訓練の性格を持っているということは、本メルマガでも何度か扱ってきましたが、その集大成と言えば、社会人が発するこの言葉に集約されているでしょう。

「給料を払ってくれるのは、会社だ」。

まさに、「洗脳ここに極まれり」と言ってよい、見事な教育の成果です。



思い起こせば、本メルマガ『内定への一言』の第7号では、「給料を払ってくれるのは、会社ではない」という一言を扱いました。

それは、現役の学生の中にも、あまりに共産主義を信奉する若者が多かったからです。この思想的ウイルスに感染したままでは、とてもじゃないがまともな就活なんてできない…と感じたからです。

いえいえ、まともな就活ができないどころではありません。たとえ社会人になったとしても、まともな仕事さえできないのです。



①給料の出所が分からない
②福利厚生を何より重視する
③仕事が好きでもないのに会社に居座りたがる

という日本人サラリーマンの特性を観察して、学生時代に学生新聞の求人広告事業を開始し、わが国最大の就職情報サービス会社を作った人と言えば、リクルート創業者の江副浩正さんです。

江副さんは、『面白すぎる大物たちの頭の使い方』(竹村健一/太陽企画出版)の中で、「日本こそ、ソ連や中国がお手本にすべき社会主義国です」と言っていますが、よく日本の教育の性質を見ていたのだと思います。



「給料を払ってくれるのは会社だ」というのは全くの間違いで、会社は一円たりとも給料を払いません。

給料を払ってくれるのは、お客さんです。会社はただ預かり、受け渡すだけの存在でしかありません。

会社にお金が入ってくるのは、会社が顧客の問題を解決した時だけに限られ、この一次収益がないところに、いかなる給料も存在しません。



それを、「給料を払ってくれるのは、会社だ」と時代錯誤な認識が思考の前提になったら、どうなるでしょう。

学生であれば、初任給や勤務条件を何より大事な判断基準にして、会社を選ぶようになるでしょう。

仕事にはそもそも「やりがい」など存在せず、嫌々ながら働いて給料はできるだけ多めにもらい、喜びはプライベートに求めようと錯覚して、「仕事とプライベートのどちらを優先すべきか?」などと、意味不明な悩みを持つようになるでしょう。



社会人であれば、顧客の問題を解決することではなく、自分の悩みを解決することが昇給の条件であると勘違いします。

そして、どうやって上司に気にいられればよいか、どうやってストレスをなくせばよいか、どうやって昇進路線に食い入ったらいいか、仕事の本義とは何ら関係ない事ばかりにこだわるようになるでしょう。

そして、自分の無能は棚に上げて、「会社が給料上げてくれない」などと、これまた意味不明な弁解や不満をもらすようになります。



僕は若年者の再就職支援を行う時は、その大半を経済教育、会計教育に使います。

それは、「給料は誰が払うのか」を分かっていなければ、とてもじゃないですが、まともな仕事など不可能だからです。

また、「給料は会社が払うもの」という共産主義思想にかぶれた社員を抱えた会社の社長は、社外で顧客を相手にする以前に、社内の「未開人対策」に手間を取られ、膨大な時間、お金、エネルギーのロスに苦しむようになるからです。



会計教育とは、いわば最高のリスクマネジメントで、民間企業が利益の保全のために行う「予防注射」か、人事リスク対策で加入する「人事損害保険」のようなものだというのが、僕の考えです。

この注射を忘れ、保険に入り忘れた会社は、後日、社員が労働組合を結成して経営陣に反旗を翻し、「給料上げろ」などと未開人バリバリの要求を提出してくるリスクを負わねばなりません。

社員の意欲をどう上げるか、どうやって離職を減らすか、どうやって顧客をフォローするか、どうやって次代の幹部社員を育てるか…そういう、砂に水を蒔くような人事対策に膨大なエネルギーを費やさねばなりません。



もし、「給料を払ってくれるのは、お客様だ」というまともな認識が思考の前提になっていれば、社内のコミュニケーションは自動的に修正され、商品企画や営業対策も、仮にミスがあったとしても、自然に理想的なものに集約されていくでしょう。

給料を上げたいという自然な欲求に対しても、労使対立ではなく、労使協調の雰囲気の中、合理的な対策を行うことができるでしょう。

組合との相談は、社員の意欲を引き出し、顧客の利益も守るための労働条件の改善や、昇給額の見直しにつながるでしょう。



社員が「給料はどこから出るか?」を知っているかどうかは、まさに社運を左右するほどの重大なコンセンサス事項だと言えるでしょう。

今では「会社が払ってくれる」などと考える骨董品のような人は減りましたが、こういう社員が侵入社員となった会社は、上司は研修でエネルギーを奪われ、同僚はフォローで時間を奪われ、友達は飲み会で時間とお金を奪われます。

ほんと、社会主義の洗脳って、恐ろしいですね。本人だけならまだしも、他人にまで損害を与え、際限なく負の連鎖を生み出すなんて…。

まさしく、日本は、旧ソ連や共産中国がお手本にすべき、「社会主義国家」だったのです、一時期は。



本メルマガ読者の方には、まさか「給料を払ってくれるのは会社だ」などと考える時代錯誤な若者はいないでしょうが、世の中にはまだ、こういう「Windows55」みたいな発想を行う人がいるので、注意しておきましょう。

国立大学を中心に「経済考古学」を教え込んできた慣れの果てが、今の国家の姿です。



1945~2050年の日本史は、将来の日本人に、「国策と教育が誤った見本」として、貴重な教訓とされる時代になるでしょう。ほんと、英蘭戦争に負けた後のオランダみたいです。こういうお手本になるのは屈辱的ですが、やむをえません。



これからは十八歳人口が減り、大学は二極化して、既に東京の有名私学でも、授業のレベルが「旧制高校」より低いものとなっているように、一部の大学では、「中学校の復習」などを行うことになるでしょう。

やる気のない若者たちは続々と会社を辞め続け、若年者をどう働かせるかは、社会的関心事となっていくはずです。

内定ごときで学びをやめず、生活のためと財産のため、二つの仕事を持ち、着々と将来の安定と成功の基盤を築いていきましょう。



今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門217位、就職・アルバイト部門132位です。

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◆今日の一言
No.451(07/7/1)

『やりたいことを探すより、やっていることを好きになろう』





学生さんのお手伝いを引き受けて以来、今まで数え切れないほど多くの質問を受けてきました。

その中で最も多い種類のものといえば、やはり、何をおいても「やりたいことが分からないけど、どうやって見つけたらいいですか?」というものです。

この質問については、その時その時に相手に合った形で答えてきたのですが、それにしても、なぜ揃いも揃って、学生は皆、全く同じ形式の問題提起を行っているのか、僕はこの群集心理に非常に興味を持ちました。



それはつまり、「やりたいこと」を「見つける」という発想です。

要するに、やりたいことは「見つかる」と思っているということです。

もっといえば、「やりたいこと」とは、最初から「やりたい」と思える形で存在していて、自分はたまたま、運が悪いのかめぐり合っていないのだ、という発想です。



それを見つけるには運か努力が必要で、どうやったら見つかるかはまだ発見されておらず、やりたいことを見つけるのも、一種の「才能」のなせる業だ、と考えている学生さんもいるようです。

「やりたいことを見つける」のは、才能なんでしょうか。

冗談じゃない、と僕は思います。



才能とは、「やっていることを好きになる」ことです。

最初はそれほど面白くなく、得意でも好きでもなかった物事と根気良く向き合い、困難を征服して本質を掴み、小さな改善を施しながら徐々にモノにしていく過程に、その人の才能が発揮されます。

そういう考え方や姿勢で物事に取り組める人は、着手が早く、継続力があり、結果が出るまで投げ出さないので、結果的にはどんなことでも好きになれるし、「やりたい」と思えるようになります。



そういう人は、「やりたいこと」など探す必要はありません。だって、何をやってもやりたいと思えるからで、あとは細かい差で判断すればよいからです。

「やりたいことが見つかったら、頑張ってもいい」と考える人には、そういう努力の対象は見つかりません。発想の順序が根本から間違っているからです。

「頑張ったら、何でもやりたくなってくる」と考えれば、いちいち「やりたいことが云々」とヒマを持て余すこともなくなります。



才能とはつまり、「最初から出来上がった夢を見つける力」ではなく、「物事の本質を見極めて楽しむ力」を言うわけです。

よって、求めるべきは、「やりたいこと」などではなく、「あらゆる仕事や学問の本質を掴んで楽しむ考え方」であるべきでしょう。

3年ほど前、本メルマガで教育のあるべき姿勢について、「魚を与えず、釣り方を教えよ」というロシアのことわざをご紹介しました。



貧乏な人には、決して金を与えてはいけない。代わりに、稼ぎ方を教えよ。

成績が悪い人は、決して甘やかしてはいけない。代わりに、勉強方法を教えよ。

夢が見つからない人に、夢を与えてはいけない。代わりに、賢明な生き方を教えよ。

ということです。



物の道理がよく分からないうちは、人は往々にして最初から手っ取り早く「結果」を求めがちになります。

自分が使いまくったから金がなくなったのに、金そのものを欲しがる人、自分が勉強しなかったから成績が下がったのに、テストのレベルを下げてほしいと望む人などは、物事と向き合う姿勢を根本から間違えているといえるでしょう。

最初から結果を求めて、どうやって得られるというのでしょうか。「原因」が存在しないのに。



「やりたいこと」という成果を求める人も、その維持手段、つまり「楽しみ方」、「育て方」を知らねば、いずれ「やりたいこと」に裏切られるだけです。

大事なのは、いついかなる時でも投げ出さず、苦しい時もぐっとこらえて、困難や失敗すらも正面から受け止める気概を育てることです。

物事が「楽しい」というのは、楽しい側面だけを都合よく味わうことではなく、楽しくなさそうな側面の本質を見極めて、これを根気良く克服し、自分の楽しみに変えていく過程の実感をいいます。



「やりたいことが見つからない」という人は、さしずめ「金がない。金があるところと、金の見つけ方を教えてほしい」という人に似ています。

それで、金そのものをあげるような人がいるでしょうか。いないでしょう。ならば、夢そのものを見つけることができるでしょうか。できないでしょう。

だから、「やりたいこと」という問題提起自体がおかしいのです。そんな得体の知れない流行語に任せて将来を考えるのは、非常に危険です。

「やりたいこと、やりたいこと」と繰り返しているうちに、いずれ思考停止に陥る可能性もあります。



だから、何に取り組んでも楽しみに到達できる忍耐力、集中力、継続力をこそ、身につけましょう。

この力があれば、「やりたいこと」など探す必要はありません。そんな意味不明の言葉を基準に将来を考える必要もありません。

価値があるのは、「やりたいこと」などではなく、「何でもやりたいと思わせてくれる力」です。



あなたは「100万円」と、「100万円稼ぐ力」のどちらがほしいですか?

まさか、「100万円」が欲しいという人はいないでしょう。

では、「かわいい人との出会い」と、「出会った人のかわいさを見つけ、口説く力」のどちらが欲しいですか?

まさか、かわいい人との出会いの方がいいという人はいないでしょう。



どんな状況からでもお金を稼ぐ力の方が価値があるように、誰と出会っても長所を見つけ、好きになる才能の方が数倍優れており、かつ、一生有益です。

だから、「やりたいこと」などという人生の設問は、それ自体奇妙な論理によっています。

そういう尺度は持っているだけ意味がないので、「見つからない」と嘆いているヒマがあったら、見つける必要はないので、今向かい合っていることを根気良く続けてみることです。

続ければ、何でも楽しくなってきます。



学生さんの中には、何事も手っ取り早く済ませるのが一番いいと思っている人も多いようですが、手っ取り早いものを求めてばかりいたら本当の実力がつかず、いつもオドオドしながら過ごさないといけなくなります。

いついかなる時もモノを言う本当の力を身に付けるのに投じてこそ、学生時代は初めて価値がある時間だと言うことができるでしょう。

「今しか役立たないこと」は、今も役立たないことです。



せっかく数百万円の大金を投じて、そういうこせこせした要領や、場当たり的な器の小さい生き方しか身に付かなかったら、金をかけて余計愚かになったようなもので、本当にもったいないですよね。

学生時代は進んで知らないことや難しいことに取り組み、これを克服して、他の人には見出せない深い楽しみを洞察できるセンスを養いましょう。

それこそ、本当に役立ち、価値ある才能です。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門216位、就職・アルバイト部門135位です。

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