◆今日の一言
No.410(07/3/18)

『受身のコミュニケーションを重視しよう』





昨日、自著の出版契約を終え、編集業務が一段落ついたため、今日は久しぶりにPCでメルマガを配信しています。


約3週間の間、ブログに掲載する形式でやってきましたが、「ブログの方が見やすい」という声も多数いただいたため、今後は、新しい号をメルマガ形式で配信した後、順次ブログに掲載していく形にしたいと考えています。


本メルマガもPC形式で配信を開始し、3/15に配信3年を迎えました。3年間で1,000人になればと年明けから期待していましたが、やや足りず、978人でした。しかし、口コミなどでここまで増え、大変有り難く思っています。



昨日のFUNゼミは、先週に引き続き、4年生スピーチでした。

数人の4年生が入れ替わりながらサークルでの経験と後輩へのメッセージを語り、まるで合宿のように涙を流す人も出てきて、しんみりとしながらも力強い一体感が生まれました。

毎年、3月はこのような形で先輩の貢献と達成を称える時間にした方がよさそうですね。見ていて、また、聞いていて、万感の思いに浸りました。



FUNには様々な学生さんが一年中、毎週多様な動機を持って見学に訪れ、入部します。



活発な学生さんや昔からリーダータイプのような学生さんもいますが、中には人付き合いが苦手で、人前で話すことなんて自分には無理だ、と決め付けていた学生さんもいます。

でも、「それじゃいけない」という何らかの決意を実行に移して結果を出すため、その舞台としてFUNを選んだという学生さんもたくさんいるでしょう。



昨日は特に、「受身の自分が変わった」という声を多く聞きました。これは、日頃からサークルの中でもよく耳にする言葉です。

言いたいことも言えず、思いが言葉にならず、せっかく期待を得ても意に反した結果になることが多く、表現したい自分と理解されている自分の間にギャップを感じて苦しんできた方には、「受身」はコンプレックスやストレスの原因だったかもしれません。

しかし、僕は「受身」はそれほど悪いことだとは思っていません。言葉がたどたどしいことや、語彙が貧しいこと、上がって声が裏返ってしまうことなどは、全て経験を重ねるうちに改善されていくものです。



でも、「感受性の強さ」は、よっぽどの覚悟がないと向上しない資質です。

それどころか、発する言葉や伝える思いは、全て感受性によって結果が決まります。

多くの学生さんは「受身」と言うと、発言が少ない、聞き役に回ることが多い、口下手、自信がない…そういう状態と関連付けて考えるようですが、「積極的な受身」も存在するもので、それは素晴らしい資質です。



「受身の自分じゃダメだ!」と思いついたように言う人もいます。

しかし、それは「受け止め方が下手」なだけではないでしょうか。

受身がダメな人は、発信もダメだと決まっています。



青年時代、まともに自分の力の不足を受け止め、今後迎える将来を考えて、一度も暗くならずに済む人はいないでしょう。


もし、現実を無視して明るいだけの人がいたとしても、そんなのはまだ幼稚な子どもであるという証拠で、別に評価されることでもありません。

それよりも、自己の課題を真剣に受け止め、どう生きるべきか、何をなすべきかを悩みながらも考え続け、そこから静かな積極性を維持する方が、どれだけ建設的な態度でしょうか。



受け止めるべきものを延期し、遠ざけ、それで笑顔になっても、それは本当の自信や希望によるものとはいえないでしょう。


反対に、受け止めるべき課題や思いを受け止め、それで涙を流しても、それこそ本当の明るさや強さの証明なのですから、自信を持つべきです。

受身は問答無用で「消極的な人生態度」とされていますが、冗談じゃありません。本当に人生の課題や他人の思いを受け止めることの、なんと難しいことか。

そして、よく受け止められる人にして初めて、よく発信できるものです。



面接塾でも、毎年、「自己PRや自己主張はほどほどでいい。受け止め方、聞き方、問い方で自分を表現しよう」と言い続けています。

なぜなら、いくら口先だけで上手な面接をされても、何も伝わらないばかりか、終わって五分くらいで相手に忘れられるからです。

人が相手の印象を決める要素は、「どれだけ強い思いを伝えてくれたか」ではなく「自分をどれだけ真剣に受け止めてくれたか」ですから、本当は、体を張って相手の思いを受け止める姿勢全てが、自己PRであるわけです。

上がり症でも、口下手でも、言葉がシンプルでも、心からの思いを誠実に表現してくれる人の話は、「立て板に水」のような流暢な会話をする人と比べても、何倍も胸を打つものです。



ですから、今自分を「受身」だと思っている人は、ぜひ受身の姿勢に自信を持ち、どうせやるなら、徹底的に受け止められる自分を目指してはいかがでしょうか。

何事からも目を逸らさず、両足を踏ん張ってしっかりと受け止められるようになれば、そこから不動の積極性を生み出すことができます。


それどころか、人の思いや価値ある未来を受け止めずに行う「前進」は、時間だけ経過して、何も発展しません。若いうちに「身軽な前進」などあるはずがなく、もしあれば、それは知恵と情熱の欠落です。



「何かいいことないかなあ」と考える人よりも、起きたこと全てに良い意味を与えられる人の方が伸びます。なぜなら、このような人には「いいことしか起こらない」からです。

友達関係の中でも、人気と信頼を勝ち得ている人は、しゃべり上手でよく話す人ではなく、よく他人の悲しみや喜びを受け止め、さりげない配慮が自然にできる人でしょう。

世の中の伸びている組織でも、リーダーはほとんど「受身の人」です。リーダーが社員、お客、株主、世間の思いをどれだけ深く真剣に受け止めたかが、「会社の今の姿」です。



ここ数日は、大学の卒業式もたくさん行われているようです。新社会人の方も、あわただしい日々を過ごしていることでしょう。社会でもぜひ、「受身の姿勢」を大事にし、大成されることを願います。

就活生の皆さんも、社会人の皆さんも、「自己主張」よりはまず「受身」を優先し、今一度、日頃の自分の受け止め方を見つめ直し、あるべきコミュニケーションを探ってみてはいかがでしょうか。

人の価値は、発している言葉ではなく、受け止めている思いで決まります。発する言葉や他人への影響力を向上させたければ、受身を積極的に肯定して、習慣化することが大切です。


今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門41位、就職・アルバイト部門22位です。

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■「内定への一言」バックナンバー編


「確かに私は、日本の植民地支配を恨んでいます。

しかし日本の高校生のように、

自分の国の悪口を言って相手にへつらう人間が、一番嫌いです」




最近、自分の年表を作っています。未来ばかり見つめていて、20代のいつ、どこで何をしていたか、このままでは思い出せなくなりそうだと思ったのがきっかけです。



10年前…20歳の春と言えば、僕の韓国旅行記が「諸君!」(文藝春秋)に掲載され、それを見た東京大学教育学部の藤岡信勝教授が、僕のエッセイを「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)で引用して下さった時期でした。



「海外勤務」と言えば、僕の略歴でも一番質問が集中するところで、「どうやって行ったのか?」とよく聞かれます。



そのたびに、「自分の書いた文章がテレビに出た」と答えていますが、どのような文章だったのかを詳しく紹介する時間は、なかなかありませんでした。今日は、そのエピソードをご紹介してみようと思います。



大学1年の夏前、大学の勉強があまりにも楽しくなくて、今の時間を価値ある実力につなげようと、経済学部ながら、英語以外の外国語を片っ端から勉強し始めました。



その中で一番熱中したのは、韓国語でした。日本語と全く同じ文法、読み方の似た漢字、酷似した動詞・形容詞の活用に、「おい、韓国人!マネするな!」と思うほどはまり、1年の夏休みに、一人で釜山を旅しました。



当時、西南大の斜め前には大学付属の教会があり、クリスチャンではない僕も、英語の勉強のために、毎週日曜は「無料英会話」の勉強に行っていました。



2年ほど前まで西南の学院長をされていたL.K.シィート先生が、僕の高校時代の英語の恩師・N先生の学生時代のゼミの先生だったそうで、シィート先生が牧師を務められていたその教会に、僕も遊びに行ったわけです。



最初は、本場の英語がなかなか聞き取れませんでした。英検準1級を取ったばかりなのに、簡単そうな単語の意味が逆に分からなくて、悔しい思いをしました。



どちらかと言えばアメリカ南部の白人が多かったためか、南部特有の言い回しなどがあったそうですが、当時の僕は、アメリカ英語とイギリス英語の区別、標準語と方言の区別すら、分かりませんでした。



それが悔しくて悔しくて、CNNやFENのテープを買い、擦り切れるほど聞きまくりました。



そんな努力の甲斐あってか、8月頃にはようやく、何を言わんとしているのかが分かるようになり、知っている単語を以前以上によく使って、会話ができるようになりました。



しかし、それでもシィート先生の宣教は、聖書独特の言い回しがあるためか、なかなか聞き取れませんでした。



また悔しくなって、隣にいたおじさんに、「今の英語、分かりましたか?」と聞いてみると…。


「英語より、私は日本語の方が分かりません」。



意外な答えを聞き、どちらの方か聞いてみると、その方は釜山から1年間の研修で唐人町の「こども病院」に勤務していた、仁済(インジェ)大学の先生でした。



まだ日本に来て日が浅く、英語よりも日本語の方が分からない…という状態で、病院のような複雑な日本語を使う職場でやっていけるのか?と思いましたが、「韓国語を教えて下さい!」とお願いすると、「いいですよ」との返事。



ここから、今年で10年になる韓国語の勉強が始まったわけです。



黄(ホァン)先生は、唐人町のローソンの横のマンションに住んでいて、僕は毎週、学校帰りに韓国語を習いに行きました。



医学は漢字が多いので、日本語と韓国語がいかに酷似した言語であるか、よく分かりました。



黄先生が本勤務になった後は、忙しくて学べなくなり、僕は福岡に留学している韓国人をつかまえて、続きを習うことになりました。



その間およそ2ヶ月。集中すれば、これほど短期間で語学力の上達を実感できるものか、と我ながら驚いた時期でもありました。



そして、夏に初めての韓国旅行に行き、通じない悔しさと通じた喜びの混ざった複雑な感情で帰国。



通じた喜びの方を信じた僕は、その後も韓国語の学習に力を入れ、1年の冬には、一人で議論できるだけの語学力を身に付けました。



そして、2年が始まる頃の春休みに、ソウルの友人の家に、2週間遊びに行きました。



この時の旅のテーマは「百済を知る」で、階伯将軍ゆかりの扶余(プヨ)や、演歌に出てくる漁村・木浦(モッポ)、学生運動で韓国現代史の舞台となった光州(クァンジュ)などを訪れました。



ちなみに、今「韓国語塾」で使っている歌は、その頃に韓国の友人に「名曲」と薦められて買った曲ばかりです。



僕の友人は当時、ヨン様と同じ成均館大学の学生でしたが、その中に、「イ・ヨンジュン」という、イ・ビョンホンとぺ・ヨンジュンを足して2で割ったような名前で、顔はどちらにも似ていない友人がいました。



イさんは高校で日本語を学んでおり(韓国では高校から第二外国語を学ぶ)、たどたどしい会話ながら、日本語で話そうとする熱意が伝わってくる人でした。



当時は、「Shocking Asia」という韓国の「お国紹介番組」が放送されていて、アジアの様々な国が紹介され、海外旅行が大衆のものになり始めた韓国では、大変な人気を誇っていました。



また、「ムクゲノ花ガ咲キマシタ」(ムクゲ=槿。韓国の国花)という小説が超ベストセラーになっていた時期でもあり、あの時期に韓国を訪問した日本人なら、誰しも「読んだか?どうだった?」と質問を受けたことでしょう。



~20XX年、経済力と軍事力で日本を追い抜いた韓国が、積年の恨みを晴らすため日本と戦争し、日本相手に連戦連勝を重ね、最後は日本の「ハシモト総理」が韓国大統領に泣いてお詫びを乞い…


韓民族全ての恨みと怒りを込めた核爆弾を東京に射ち込むも、「最後の情け」で弾道を外し、核弾頭は東京湾に消えていった…~


という小説です。



韓国人にはスッキリするであろうこの小説を、もちろん僕も当時読みました。そして、若気の至りからか…



「あんたらはいつも、妄想の中だけでは勇敢だな。


日本なら、マトモな出版社はこんな三流小説は扱わない。さしずめ、無名出版社かエロ本専門の出版社が出すフィクションにちょうどいいくらいだ。


韓国の出版文化のレベルの低さが現れていて、それを知るにはちょうどいい小説だ」


と答えました。



もちろん、いい顔をする友人はいませんでしたが、僕は正直な感想を言っただけです。



そして韓国の友人もまた、

「確かに。わが国には、強者に卑屈で弱者に傲慢な弱点があり、何か問題があると、すぐに日本を叩いて不満を逸らそうとする」

と答えてくれました。



韓国が通貨危機でIMFの管理下に入り、国富の4割が消し飛ぶ失態をさらしたのは、その2年後のことでした。



ちなみにその頃、北朝鮮寄りの言動と「裸一貫」のパフォーマンスで、高卒弁護士として活躍し、「挙動不審」、「金正日の手下」と呼ばれていたのが、現在のノ・ムヒョン大統領です。



今ではますます、「朝鮮労働党ソウル支店長」ぶりを発揮していますが。



マレーシアに赴任するまで、韓国には3ヶ月に1度のペースで行きましたが、毎回歴史や文化、経済の話題で白熱した議論ができました。



友人が、途上国の経済を研究するサークルに所属していたため、比較的まじめな韓国人が多かったのも、幸いしました。



その中で、大学2年の春の旅行では、先のイさんから面白い話を聞きました。



イさんは高校の頃、日本に姉妹校がある高校に通っていたそうで、日本から修学旅行で訪れた高校生と交流する際の「団長」を務めたそうです。



その高校というのがまた、日教組(マルクス主義を信奉する教師の労働組合)バリバリの学校だったらしく、イさんたちに会うなり、日本の高校生は…



「日本という国は、力の差も弁えずにアメリカに戦争を仕掛け、こてんぱんにやられた挙句にアジアの国々にも迷惑をかけ、戦後もカネのことしか考えていない、本当に愚かな国なんです。


私はこんな国が大嫌いで恥ずかしい」



と言ったそうです。


日教組による見事な洗脳ぶりを示す言葉ですね。



イさんは通訳の言葉を聞き、唖然としたそうです。



何に?それは、「日本人の卑屈さに」です。



イさんはテコンドーを愛し、身体屈強で男気に富み、「チョー・ヨンピルに似てさえいなければ、芸能人も射程距離だった…」という、才能があったかなかったかはよく分かりませんが、リーダーシップがある人でした。



イさんは、自分の国をバカにする日本の高校生を見て、「我々は、こんなに醜い奴らに植民地にされたのか」と怒りが抑えられなくなり…



「確かに私は、日本の植民地支配を恨んでいます。


しかし日本の高校生のように、自分の国の悪口を言って相手にへつらう人間が、一番嫌いです」


と答えたそうです。



「コジマさん、私はあの時こう言ったんですが、日本人はみんな、あんなふうに卑屈なんですか?


あなたのように強硬でも、韓国の古い歴史をよく学び、日本を愛するとはっきり口にする日本人には初めて会った。


今私は、どちらの日本を信じてよいか分かりません」


というのが、このエピソードを語ってくれたきっかけだったそうです。



僕はその時、とても複雑な気分になりました。



もちろん、自国を愛するあまり、韓国人相手に強硬な姿勢に出ていたのも否めません。



同時に、否定・批判されっぱなしであることにも、耐えられませんでした。


しかし、「韓国の若者の方が、一枚上手だな」と認めざるを得ませんでした。



悔しくも爽快なこの経験を、帰国後に手記にまとめ、高校の恩師に近況報告を兼ねて送ると、「君!これ、もう少し詳しいレポートとしてまとめてくれ!」とお電話があり、「ソウル見聞録」として文章化したら…


雑誌に出て、テレビにも出てしまったわけです。



そして、それを見た岐阜県の建材商社の社長さんが、「面白い意見だ」と興味を持たれ、それを契機に、その会社のマレーシア支社に勤務することになったわけです。



「皆さんは、もっと正当な手段で海外勤務を考えた方がいいですよ」と毎回言うのは、こういう複雑な、自分の力ではどうしようもないプロセスを経て、海外勤務が決まったからです。



日本人がアメリカ人に複雑な感情を持つように、韓国人も日本人に複雑な感情を持ちます。



インド人も、イギリス人に対しては、一言では言えない感情を持っています。



世界中の「隣国」で仲がいいのは、歴史がないアメリカとカナダくらいで、あとは必ず、一度は争った経験があります。



世界の歴史は複雑で、到底「善悪」で割り切れるような単純なものではないということが、当時の僕なりに、少しだけ感じられました。



戦後の比較文化研究の先駆けとなった「アーロン収容所」(会田雄次・中公新書)は、著者のビルマでの捕虜体験を綴った、戦後日本の不朽の名作として有名です。



どれだけ多くのことを考えさせてくれる本なのか、これはもう、読んでもらうしかない内容なのですが、とにかく、「白人は黄色人種を人間と思っていない」という事実を体験的に書いた本です。


・日本人相手には、犬以下の「エサ」を食わせておけばいい、という発想
・イギリス女性が、「家畜同等の日本人」の前で、恥ずかしげもなく平気で裸になり、着替えをした話


などが紹介されています。



その中で、辛く単調な捕虜生活に疲れ、集団サボタージュを始め、プライドを失いつつあった日本兵に、あるイギリス人将校が怒りを込めて呼びかける場面が出てきます。



「お前ら日本人はスレイブ(奴隷)か?


オレたちの仲間は、お前らのようなスレイブと戦って死んだんじゃない!


仲間は日本のサムライと戦って死んだんだ。オレたちはそれを誇りに思っている」と。



この場面は、浅はかな「比較文化」がもてはやされ、歴史をよく勉強せずに「未来志向で国際交流」という風潮に流されつつあった僕に、強烈なショックを与えてくれました。



岡崎久彦さんや渡部昇一さん、山本七平さんの著作を読み始めたのも、本書や韓国旅行での体験がきっかけと言えばきっかけです。


のち、20歳の夏にマレーシアに赴任しても、「日本人としての誇りとは何か?」を考える習慣が付き、今でもそれは、よく考えます。



そしてこれはまた、就職や人生設計においても、当てはまることだと思うのです。



僕のお客さんは、人生に希望を失い、卑屈な愚痴が口ぐせとなり、一番居心地の良かった過去の一時期を現在に再現し、ゲームやカラオケで時間を消費して悔しくない人ばかりです。



初心を忘れ、自分がどれだけ堕落してしまったかを、思い出そうともしない方もたくさんおられます。



誰しも、まともに今の自分を直視すると、悔しいことの一つや二つは、必ずあるでしょう。僕にだって、たくさんあります。



就職にしろ、仕事にしろ、「負けて悔しくない人間」になったら、人生はそこで終わりです。



後は寿命が何年残っていようが、大した意味はありません。



悔しさから他人を傷付け、自己満足に浸るのはもっと最悪ですが、健全な自己反省と課題への集中に導いてくれるなら、それは良いプライドと呼べるでしょう。



選考が思うままに進まない方もおられるでしょう。



ついつい、落ちてしまって、「実は第一志望じゃなかった」とか、「思っていたのと違った」と言って愛想笑いをしながら、心の中では「悔しい…」と耐え切れない気持ちを味わうこともあるでしょう。



その時に悔しいのは、「不採用」よりも、思いと言葉が乖離した「卑屈な自分」のはずです。



周囲に合わせる必要など、一切ありません。



周囲など、いつも気楽で、あなたに対して言ったことの責任などは、絶対に取りません。



遅れているとか、内定がないとか、業界がコロコロ変わるとか、そういうのは自分が気にすれば「基準」になるだけの話で、いずれも「誇りを持てる仕事」とは、全く関係がない条件です。



まだ内定が出ていないなら、もう内定してフラフラしている人が悔しがるくらいの内定を決めてはどうでしょうか。



別に人を悔しがらせるのが良い目標、というわけではありませんが、本気になれば、それだけで中途半端な人はあなたを恐れるでしょう。



「人自ら侮りて、然る後に人、これを侮る」という言葉が「論語」の中にあります。


「自分で自分のことをバカにする人を見て、周囲の人はその人をバカにする」という意味です。



先に周囲が侮るのではありません。人がダメになる時は、必ず「自滅」が先立ちます。



「学生だから甘えられる」とか、「学生だから遊べる」とか、「学生だから中途半端でもいい」などとは、別に世間が決めたことではなく、そう信じたい人が勝手に同意して決めただけの「学生像」に過ぎません。



「学生としての誇り」を今一度取り戻し、元気を振り絞って、未来を信じて立ち向かってみては、いかがでしょうか。


今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門41位、就職・アルバイト部門22位です。

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■「内定への一言」バックナンバー編


「崇高な人間性を批判する寂しい人間になるくらいなら、

私は喜んでその愚かな話を信じたい」

(ゲーテ)


今日はFUNの「卒業式」でした。心配そうな顔をしてFUNの門を叩いた学生さんたちが、早いもので今日は「見送られる立場」に。



一人一人が、どれだけの決意や迷いを経て活動を作り上げてきたかが感じられ、最後列で懐かしく一年を振り返ることができた一日でした。



そんな卒業式ともなれば、創設者の安田君も参加するのが常で、実は、前日から安田君と僕、そして西南のKさん、女子大のKさんと夜通し「つぼ八」とカラオケボックスで語り合い、サークル発足の物語を早朝まで回想しました。

発足当初は…

「学生が夢で自己表現できる学びの場を作ろう!」と言っても、
「学生にしかできないことをやろう!」と呼びかけても、
「自分たちが大学を活性化させる先駆者になろう!」と訴えても…

「なに、あのサークル?ってか、アツくない?あたしらど~せ学生なのに、何ができるってゆ~の?」という視線が投げかけられました。



問い合わせが来てはからかわれ、来ては去り、話しかけては遠慮され、集まっては来なくなり、ちょっと続いたかと思ったらいきなり音信不通になり…FUNは何度も崩壊の危機を迎えました。

そんな中、創設前から安田君とよく語り合っていた話がありました。その物語を知っていたので、何があっても「進むこと」しかできず、がむしゃらに続けてきた結果、FUNは今のようなサークルになったわけです。



その話というのが、今日の卒業式で安田君が4年生に話していた、「六士先生」の物語です。



時間の都合上、安田君も要点しか話しませんでしたが、昨日のつぼ八ではさらに詳しく語っていて、学生の皆さんが知ると勇気が湧く話だと思うので、今日はこの物語を紹介します。


…時は1896年。日清戦争で清国の野望を砕いた日本は、台湾を領有することになりました。台湾は、ポルトガルやオランダの商人が訪れていた明の時代には、「ila formosa(美しき島)」と呼ばれていた島です。



中国人(当時は明)を父に持ち、日本人を母に持つ鄭成功などは、国際的スケールで活躍した大商人として今でも知られていますが、極端な鎖国政策を採った清時代から、台湾は様変わりします。



清国政府は台湾を「化外の地」と切り捨て、犯罪者の流刑地としてのみ存在価値を認め、台湾は何の開発も教育もなされず、台湾は「風土病の宝庫」と疎まれる地方になっていきました。


押し寄せる英仏の帝国主義勢力に対し、何としても国防を急がねばならない明治政府は、この台湾を領有することにしたわけです。



海外領土を持つのは「歴史上初めて」の体験になる日本政府は、西洋諸国の植民地担当官に「統治方法」を尋ねました。



イギリス人は、「分割統治が良い」と答えます。インドを統治する時は、ヒンズー教徒とシーク教徒を対立させれば、イギリス人は「正義の味方」に映る。



ビルマを統治する時は、インド人を雇って行政を任せれば、全ての反発やクレームはインド人にぶつけられる。


このように、自分たちが手を下さずとも、異民族同士をぶつけておけば、「有色人種の愚民」は、目の前の異民族を恨んで白人に協力するようになるから、大変便利だ、と教えたわけです。



日本政府は「わが日本は、そのような政策を採るつもりはない」とイギリス案を拒絶し、フランス人に聞きました。


フランス人は、「招待外交」で現地人の有力者を大金で買収してフランスに留学させ、特権を与えて、フランス人に逆らえないようにして統治するのがよい、と教えます。(分かりやすく言えば、今の中国共産党と同じです)



日本政府は再度、「論外だ」と拒絶し、オランダ人に聞きました。



オランダ人は、「植民地統治を成功させるには、なんといっても愚民化政策に限る。彼らの歴史、言語、記憶を奪い、単純労働と欲に任せる生活を与えておけば、有色人種は自然と堕落し、最後には白人に逆らう気力すら失っていくものだ」と教えました。(まるで日本の学校教育です)



日本政府は再三、断り、白人が黄色人種に対して持っている差別意識を垣間見ます。


総理大臣・伊藤博文は、「西洋の覇道に対するに、東洋の王道をもってす」という信念の持ち主で、威圧・暴力・謀略の覇権主義ではなく、仁愛・誠実・協働の精神が異民族と渡り合うには欠かせない、と考えていました。



その伊藤の命を受けた台湾総督・樺山資紀(かばやま・すけのり)は、「母国に切り捨てられ、教育も医療も受けられず、劣悪な環境で疫病が蔓延する台湾を変えるには、まず教育だ」と、教育改革に目を付けます。



イギリス、フランス、オランダが最も否定した手段である「教育」を、最初に持ってきたわけです。


樺山総督は、この重要な任務を遂行するに当たり、台湾に設置する「学務部」の責任者を想定しました。



堅忍不抜の精神を持ち、知識と知恵を兼ね備え、勇気と愛情を等しく持つ人材…。



意中の人物がいました。東京師範学校の校長だった、伊沢修二です。



伊沢は1875年、25歳で米国留学を命ぜられ、マサチューセッツ州のブリッジウォーター師範学校に入学。そこで西洋音楽を学んだ後、ハーバード大学理学部に進み、優秀な成績で卒業します。


のち大学院に進むも、父の病没により、博士課程を1年残して帰国し、文部省に勤務しました。



その後は東京師範学校、東京音楽学校(現:東京芸大)初代校長などを経て、明治の教育界の先駆者的存在となった人物です。ちなみに、誰もが知るのに、一部の先生は「ホ~ケンテキだ!」との意味不明な理由から歌わせたがらない「仰げば尊し」は、彼の作曲と言われています。


伊沢は樺山総督の打診を受け、その使命を深く理解し、台湾に派遣するための教師を全国から募りました。



その中から選抜されたのが、楫取(かとり)道明、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬の六人です。いずれも若く気力に溢れ、情熱と使命感を持った「好青年」揃い。



彼らは、台北の中心から少し離れた「芝山巖(しざんがん)」という岩山にある「恵済宮」というお宮を借り、そこに学堂を開きます。家賃は月五円だったそうです。

さて、赴任してから見た現地環境の苛酷さは、想像以上でした。



マラリア、デング熱などの熱帯病はもちろん、悪質な水道水、荒れた土地がいっぱい。



住民は「教育」などには何の関心も示さず、ただ「今日食うため」の単純作業ばかりをやっていて、強盗・略奪は当たり前。



中でも、人の首を切り落とす「匪賊」(首狩り族)の存在は、現地でも恐れられていました。六人の先生は、このような状況の中、小さな学校を開いたわけです。


最初の月は、5~6人の生徒が集まりました。その次の月は、10人ほど。物珍しさから人が集まるも、なかなか定着しません。



しかし、不屈の精神で努力を続けるうちに、熱心で優秀な生徒も出てきました。



ところが…。彼が突然、学校に来なくなってしまったのです。何日も欠席が続くので、さすがに先生も心配になり、生徒の家を訪ねました。その生徒の家に着くと、父親はこう言いました。


「あんたたちか?うちの子供に教育とかいうのをやっているのは。


うちは見ての通り、この痩せた土地を精一杯耕しながら、必死で食べているんだ。


やっと農作業ができるようになった息子は、貴重な労働力なんだ。


教育がどんなものだか知らないが、うちは生活がかかっているんだから、学校なんて場所に行かせるわけにはいかないね」。


熱心な彼は、貧しい家庭に生まれ育っていたのでした。



家族の生活を支えるためには、好きな学校も諦めないといけない、というわけだったのです。



それを聞いた先生は、心から同情と理解を示すも、「じゃあ、仕方ありませんね」とは言いませんでした。


先生は、ある行動を始めます。なんと、翌日から、朝5~6時に生徒の家に行き、先生自ら一緒に、農作業を手伝ったのです。



鋤や鍬を扱いながら一緒に汗を流し、勉強を教えながら、しかも、一日たりとも遅刻しなかったのだそうです。



先生のこの姿に、頑固なお父さんもさすがに感動し、「息子を頼みます」と教育を快諾しました。



六人の先生たちは皆、このような熱心な姿で台湾の人々に接し、その熱意と気迫は、着任数ヶ月を経て、台湾の住民に希望を与え始めました。

しかし…。「あの外国人たちは、働かずに教育なんてのをやってるくらいだから、きっとカネを持ってるはずだ」と考えた匪賊たちが、先生を狙う計画を立てていました。



(実際は、台湾人スタッフとともに、五畳の小部屋で八人で寝泊りし、わずかな資金は台湾人に薬を買ってあげたりして、底を尽きかけている状態でした)



匪賊たちは無防備の先生たちを急襲し、全員を惨殺した後、首を切断。小さな学校には、首のない六人の遺体が放置されました。


自分たちを初めて「人間」として扱ってくれ、どんなに苦しくても笑顔を忘れず、時には家の仕事まで手伝ってくれ、楽しく勉強を教えてくれた「六人のサムライ」の死を、台湾の人々は心から悲しみました。



それは、「たった六ヶ月間」の教育でした。



しかし、一日一日が貴重で、温かく、思い出に満ち溢れていた六ヶ月でした。この「六士先生」の死を悼んで、伊藤博文の揮毫による受難碑が建立されましたが、のち、蒋介石の国民党軍が破壊しています。


六士先生の与えた影響がいかに大きかったかは、台湾の前総統・李登輝さんが「最新東洋事情」(深田祐介・文春文庫)の中で母校・京都大学の先生の思い出とともに語っているほか、現総統の陳水偏さんも「六士先生は、台湾人に誇りと生きる意味を教えてくれた大恩人です」と語っています。



台湾第2の財閥・奇美実業の許文龍会長も、「六士先生の教えは、台湾人に胸の中に今も生きています」と語り、日本人を見るたびに、「君たちは六士先生を知っているか?」と尋ねているそうです。

大学2年の時、東京での弁論大会に参加し、「憲法問題」で並み居る全国有名大学の学生を押しのけ、小堀圭一郎・東大名誉教授(ドイツ文学)や竹本忠雄・筑波大名誉教授(フランス文学)の審査を経て「優秀賞」を受賞した安田君は、友達と台湾を訪れた際、台湾の要人との会見に立ち会って、六士先生のさらに身近なエピソードを聞いています。



だから、4年生でFUNを作ると思い立った時は、台湾で「日本の学生さん、ぜひ頑張りなさい」と応援してくれたおじいちゃんたちの声に答えたかった!だから、僕は全力でFUNを作った。…というのが、昨日の「つぼ八」での話でした。

六士先生が亡くなった後、伊沢修二は以下のような述懐を残していますが、これはFUNとも通じる内容です。



「さて、斯く斃(たお)れた人々の為には実に悲しみに堪えませんが、此から後ち台湾に行って、即ち新領土に行って教育をする人は、此の度斃れた人と同じ覚悟を持つて貰わねばならぬと信じて居ります。


如何となれば、若(も)しや教育者と云うものが、他の官吏の如きものであるならば、何の危ない地に踏み込むことがござりませう。城の中に居れば宣(よ)い話である。


然るに教育と云ふものは、人の心の底に這入らねばならぬものですから、決して役所の中で人民を呼び付ける様にして、教育を仕やうと思つて出来るものではない。


故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば、教育の仕事と云ふものは出来ませぬ。


此の如くして、始めて人の心の底に立入る事が出来やうと思います。」


要するに、

「新境地で新たな試みに挑戦する者は、死ぬ気でやれ。


役人のようにやりたければ、部屋の中にいろ。


教育とは人を呼びつけるようなものではなく、ともに心を通わせ、相手の中に入っていくことだ。


そうあってこそ、初めて人の深い気持ちも分かる」

ということです。



僕は、このような情熱をただ語るだけではなく、実践し、絶対に中断しなかった安田君だからこそ、顧問として全力でFUNを応援しようと決意し、六士先生に何億分の一かの貢献しかできないまま、今に到っています。

そんな中、3年間を振り返ってみて、ゲーテのある言葉をよく思い出すのです。



ゲーテの生きた18世紀は、科学が発展し、宗教改革が進み、個人主義思想が開花し始めた時代でした。そんな中、多くのヨーロッパ人を鼓舞し、勇気を与え、幾多の英雄を生み出してきた「昔の物語」を懐疑的に見る人々も増えてきました。

特に槍玉に挙げられたのが、ホメロスの物語です。シーザーからナポレオン、ビスマルク、チャーチルに到るまで、おそらくホメロスを知らない西洋人はいないでしょうが、その物語を否定する人が現れ始めたのです。



ゲーテの知人は、「だいたい、人間にこんなことができるわけがない。神話だから誇張してあるのさ。昔は単純な時代だったから、でかいこともやりやすかっただけだろ」と話します。

この批判は、科学が発達して歴史がより多様に解釈できたから、ではありません。ただ、彼が卑屈だったからです。



自分が怠け者で、無知で、目指す人物になれないという現実を認めたくないばかりに、多くの先人が感動してきた物語を「ウソ」や「愚かな話」と決め付け、その同意をゲーテに求めてきたわけです。



立派な人や努力家を尊敬できない「嫉妬」とは、卑しい感情です。


しかし、法務大臣までも務め、ヨーロッパを代表する劇作家・詩人でもあったゲーテは、知人の言葉を遮って言いました。



「崇高な人間性を批判する寂しい人間になるくらいなら、私は喜んでその愚かな話を信じたい」(「いきいきと生きよ」手塚富雄・講談社現代新書※絶版)。

つまり…

「確かに、事実ではない話もあるかもしれない。創作もあるだろう。


しかし、ホメロスの詩は偉大で誇り高く、美しい人間の姿を描き、多くの英雄たちは、自分もそうありたいと少年時代から読み続けてきた結果、英雄になったのだ。


私は、そんな崇高な人間性を否定するような、寂しい人間にはなりたくない。


そうなるくらいなら、喜んで君が言うところの愚かな話、を信じる」

ということです。


さて、今日の長いメルマガを就活につなげると…。

ホメロスを疑いたいなら、疑えばいいのです。信じられないなら、好きなだけ調査すればいい。


六士先生の話を嘘だと思うなら、嘘として片付けても構いません。



別にエントリーシートに書ける話題でもないし、面接で使うような話でもないでしょう。



しかし、「感動を否定したがる人間」に、一体どんな有益な社会貢献ができるのか、と僕は疑問に思います。

「君も絶対に大人物になれる!」と呼びかけても、自分には関係ないと表情を変えないフリーター。


「まだまだチャンスはあるよ」と説明しても、それは絶対、自分にだけは当てはまらないと信じている学生。


そんな若者に、僕は仕事やFUNを通じて、たくさん会ってきました。僕は別に営業もしないので、断られても腹は立ちません。


しかし、彼らの将来を思って、必ず一言、付け加えます。



「君は明治維新(FUNの活動)を疑っているような口ぶりだけど、実は自分を疑っているんだ。


感動を押し殺し、否定し、他人に聞かないと実感を確認できないとは、言い換えれば…私は誰が何と言おうと、絶対に成長できない!僕にそんなことができるわけない!オレの頭の悪さは並大抵じゃない!と言っているのと同じだ。


君は僕の話を信じていないようなフリをしながら、実は自分を裏切っているだけだ。


実社会の最前線で人間を見極めて、洞察力を鍛え抜いてきた経営者を前にしては、そんな子供だましの態度はすぐにメッキが剥がれるから、それだけは覚えておいてほしい」。


こういう話をすると、どんなに調子のいいことを言って張り切っていた学生も、泣きそうな顔になります。横着で攻撃的だったフリーターも、内心がビクビクして崩れそうになります。



そこで僕が、「本当は、寂しいんでしょ?」と言ったりすると、泣く人もいます。友達といる時は、「たかが就活」とか言って強がってはいますが、本当は成長できない自分が悔しくて、結果が出ない自分がみじめで、本気をバカにしている自分と決別したいのです。



しかし、何かが悔しくて、感動を肯定したくない…。現代の若者の屈折した心理とは、そういうものだと感じます。

しかし、素直に先人の姿に学びましょう。感動とは、後悔より希望が大きい時にしか沸き起こらないものです。感動とは、「あなたはそれにふさわしい人間だ」と人生が教えてくれているサインです。

バレー部のキャプテンという大役を終えてFUNに参加し、後輩を盛り上げてきた西南のK君、卒業4ヶ月前に入部して、一日一日を「今日が最後」の気迫で過ごしてきた九産大のM君、そして他の4年生の姿を見ながら、感動を肯定し、行動に移した学生の姿の、なんと素晴らしいことか、と僕自身も心から感動しました。



僕も初心を貫き、多くの学生さんとともに、日々成長していきます。メルマガを通じ、皆さんも一緒に大人物になっていきましょう。




今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門41位、就職・アルバイト部門22位です。

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