■「内定への一言」バックナンバー編
「崇高な人間性を批判する寂しい人間になるくらいなら、
私は喜んでその愚かな話を信じたい」
(ゲーテ)
今日はFUNの「卒業式」でした。心配そうな顔をしてFUNの門を叩いた学生さんたちが、早いもので今日は「見送られる立場」に。
一人一人が、どれだけの決意や迷いを経て活動を作り上げてきたかが感じられ、最後列で懐かしく一年を振り返ることができた一日でした。
そんな卒業式ともなれば、創設者の安田君も参加するのが常で、実は、前日から安田君と僕、そして西南のKさん、女子大のKさんと夜通し「つぼ八」とカラオケボックスで語り合い、サークル発足の物語を早朝まで回想しました。
発足当初は…
「学生が夢で自己表現できる学びの場を作ろう!」と言っても、
「学生にしかできないことをやろう!」と呼びかけても、
「自分たちが大学を活性化させる先駆者になろう!」と訴えても…
「なに、あのサークル?ってか、アツくない?あたしらど~せ学生なのに、何ができるってゆ~の?」という視線が投げかけられました。
問い合わせが来てはからかわれ、来ては去り、話しかけては遠慮され、集まっては来なくなり、ちょっと続いたかと思ったらいきなり音信不通になり…FUNは何度も崩壊の危機を迎えました。
そんな中、創設前から安田君とよく語り合っていた話がありました。その物語を知っていたので、何があっても「進むこと」しかできず、がむしゃらに続けてきた結果、FUNは今のようなサークルになったわけです。
その話というのが、今日の卒業式で安田君が4年生に話していた、「六士先生」の物語です。
時間の都合上、安田君も要点しか話しませんでしたが、昨日のつぼ八ではさらに詳しく語っていて、学生の皆さんが知ると勇気が湧く話だと思うので、今日はこの物語を紹介します。
…時は1896年。日清戦争で清国の野望を砕いた日本は、台湾を領有することになりました。台湾は、ポルトガルやオランダの商人が訪れていた明の時代には、「ila formosa(美しき島)」と呼ばれていた島です。
中国人(当時は明)を父に持ち、日本人を母に持つ鄭成功などは、国際的スケールで活躍した大商人として今でも知られていますが、極端な鎖国政策を採った清時代から、台湾は様変わりします。
清国政府は台湾を「化外の地」と切り捨て、犯罪者の流刑地としてのみ存在価値を認め、台湾は何の開発も教育もなされず、台湾は「風土病の宝庫」と疎まれる地方になっていきました。
押し寄せる英仏の帝国主義勢力に対し、何としても国防を急がねばならない明治政府は、この台湾を領有することにしたわけです。
海外領土を持つのは「歴史上初めて」の体験になる日本政府は、西洋諸国の植民地担当官に「統治方法」を尋ねました。
イギリス人は、「分割統治が良い」と答えます。インドを統治する時は、ヒンズー教徒とシーク教徒を対立させれば、イギリス人は「正義の味方」に映る。
ビルマを統治する時は、インド人を雇って行政を任せれば、全ての反発やクレームはインド人にぶつけられる。
このように、自分たちが手を下さずとも、異民族同士をぶつけておけば、「有色人種の愚民」は、目の前の異民族を恨んで白人に協力するようになるから、大変便利だ、と教えたわけです。
日本政府は「わが日本は、そのような政策を採るつもりはない」とイギリス案を拒絶し、フランス人に聞きました。
フランス人は、「招待外交」で現地人の有力者を大金で買収してフランスに留学させ、特権を与えて、フランス人に逆らえないようにして統治するのがよい、と教えます。(分かりやすく言えば、今の中国共産党と同じです)
日本政府は再度、「論外だ」と拒絶し、オランダ人に聞きました。
オランダ人は、「植民地統治を成功させるには、なんといっても愚民化政策に限る。彼らの歴史、言語、記憶を奪い、単純労働と欲に任せる生活を与えておけば、有色人種は自然と堕落し、最後には白人に逆らう気力すら失っていくものだ」と教えました。(まるで日本の学校教育です)
日本政府は再三、断り、白人が黄色人種に対して持っている差別意識を垣間見ます。
総理大臣・伊藤博文は、「西洋の覇道に対するに、東洋の王道をもってす」という信念の持ち主で、威圧・暴力・謀略の覇権主義ではなく、仁愛・誠実・協働の精神が異民族と渡り合うには欠かせない、と考えていました。
その伊藤の命を受けた台湾総督・樺山資紀(かばやま・すけのり)は、「母国に切り捨てられ、教育も医療も受けられず、劣悪な環境で疫病が蔓延する台湾を変えるには、まず教育だ」と、教育改革に目を付けます。
イギリス、フランス、オランダが最も否定した手段である「教育」を、最初に持ってきたわけです。
樺山総督は、この重要な任務を遂行するに当たり、台湾に設置する「学務部」の責任者を想定しました。
堅忍不抜の精神を持ち、知識と知恵を兼ね備え、勇気と愛情を等しく持つ人材…。
意中の人物がいました。東京師範学校の校長だった、伊沢修二です。
伊沢は1875年、25歳で米国留学を命ぜられ、マサチューセッツ州のブリッジウォーター師範学校に入学。そこで西洋音楽を学んだ後、ハーバード大学理学部に進み、優秀な成績で卒業します。
のち大学院に進むも、父の病没により、博士課程を1年残して帰国し、文部省に勤務しました。
その後は東京師範学校、東京音楽学校(現:東京芸大)初代校長などを経て、明治の教育界の先駆者的存在となった人物です。ちなみに、誰もが知るのに、一部の先生は「ホ~ケンテキだ!」との意味不明な理由から歌わせたがらない「仰げば尊し」は、彼の作曲と言われています。
伊沢は樺山総督の打診を受け、その使命を深く理解し、台湾に派遣するための教師を全国から募りました。
その中から選抜されたのが、楫取(かとり)道明、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬の六人です。いずれも若く気力に溢れ、情熱と使命感を持った「好青年」揃い。
彼らは、台北の中心から少し離れた「芝山巖(しざんがん)」という岩山にある「恵済宮」というお宮を借り、そこに学堂を開きます。家賃は月五円だったそうです。
さて、赴任してから見た現地環境の苛酷さは、想像以上でした。
マラリア、デング熱などの熱帯病はもちろん、悪質な水道水、荒れた土地がいっぱい。
住民は「教育」などには何の関心も示さず、ただ「今日食うため」の単純作業ばかりをやっていて、強盗・略奪は当たり前。
中でも、人の首を切り落とす「匪賊」(首狩り族)の存在は、現地でも恐れられていました。六人の先生は、このような状況の中、小さな学校を開いたわけです。
最初の月は、5~6人の生徒が集まりました。その次の月は、10人ほど。物珍しさから人が集まるも、なかなか定着しません。
しかし、不屈の精神で努力を続けるうちに、熱心で優秀な生徒も出てきました。
ところが…。彼が突然、学校に来なくなってしまったのです。何日も欠席が続くので、さすがに先生も心配になり、生徒の家を訪ねました。その生徒の家に着くと、父親はこう言いました。
「あんたたちか?うちの子供に教育とかいうのをやっているのは。
うちは見ての通り、この痩せた土地を精一杯耕しながら、必死で食べているんだ。
やっと農作業ができるようになった息子は、貴重な労働力なんだ。
教育がどんなものだか知らないが、うちは生活がかかっているんだから、学校なんて場所に行かせるわけにはいかないね」。
熱心な彼は、貧しい家庭に生まれ育っていたのでした。
家族の生活を支えるためには、好きな学校も諦めないといけない、というわけだったのです。
それを聞いた先生は、心から同情と理解を示すも、「じゃあ、仕方ありませんね」とは言いませんでした。
先生は、ある行動を始めます。なんと、翌日から、朝5~6時に生徒の家に行き、先生自ら一緒に、農作業を手伝ったのです。
鋤や鍬を扱いながら一緒に汗を流し、勉強を教えながら、しかも、一日たりとも遅刻しなかったのだそうです。
先生のこの姿に、頑固なお父さんもさすがに感動し、「息子を頼みます」と教育を快諾しました。
六人の先生たちは皆、このような熱心な姿で台湾の人々に接し、その熱意と気迫は、着任数ヶ月を経て、台湾の住民に希望を与え始めました。
しかし…。「あの外国人たちは、働かずに教育なんてのをやってるくらいだから、きっとカネを持ってるはずだ」と考えた匪賊たちが、先生を狙う計画を立てていました。
(実際は、台湾人スタッフとともに、五畳の小部屋で八人で寝泊りし、わずかな資金は台湾人に薬を買ってあげたりして、底を尽きかけている状態でした)
匪賊たちは無防備の先生たちを急襲し、全員を惨殺した後、首を切断。小さな学校には、首のない六人の遺体が放置されました。
自分たちを初めて「人間」として扱ってくれ、どんなに苦しくても笑顔を忘れず、時には家の仕事まで手伝ってくれ、楽しく勉強を教えてくれた「六人のサムライ」の死を、台湾の人々は心から悲しみました。
それは、「たった六ヶ月間」の教育でした。
しかし、一日一日が貴重で、温かく、思い出に満ち溢れていた六ヶ月でした。この「六士先生」の死を悼んで、伊藤博文の揮毫による受難碑が建立されましたが、のち、蒋介石の国民党軍が破壊しています。
六士先生の与えた影響がいかに大きかったかは、台湾の前総統・李登輝さんが「最新東洋事情」(深田祐介・文春文庫)の中で母校・京都大学の先生の思い出とともに語っているほか、現総統の陳水偏さんも「六士先生は、台湾人に誇りと生きる意味を教えてくれた大恩人です」と語っています。
台湾第2の財閥・奇美実業の許文龍会長も、「六士先生の教えは、台湾人に胸の中に今も生きています」と語り、日本人を見るたびに、「君たちは六士先生を知っているか?」と尋ねているそうです。
大学2年の時、東京での弁論大会に参加し、「憲法問題」で並み居る全国有名大学の学生を押しのけ、小堀圭一郎・東大名誉教授(ドイツ文学)や竹本忠雄・筑波大名誉教授(フランス文学)の審査を経て「優秀賞」を受賞した安田君は、友達と台湾を訪れた際、台湾の要人との会見に立ち会って、六士先生のさらに身近なエピソードを聞いています。
だから、4年生でFUNを作ると思い立った時は、台湾で「日本の学生さん、ぜひ頑張りなさい」と応援してくれたおじいちゃんたちの声に答えたかった!だから、僕は全力でFUNを作った。…というのが、昨日の「つぼ八」での話でした。
六士先生が亡くなった後、伊沢修二は以下のような述懐を残していますが、これはFUNとも通じる内容です。
「さて、斯く斃(たお)れた人々の為には実に悲しみに堪えませんが、此から後ち台湾に行って、即ち新領土に行って教育をする人は、此の度斃れた人と同じ覚悟を持つて貰わねばならぬと信じて居ります。
如何となれば、若(も)しや教育者と云うものが、他の官吏の如きものであるならば、何の危ない地に踏み込むことがござりませう。城の中に居れば宣(よ)い話である。
然るに教育と云ふものは、人の心の底に這入らねばならぬものですから、決して役所の中で人民を呼び付ける様にして、教育を仕やうと思つて出来るものではない。
故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば、教育の仕事と云ふものは出来ませぬ。
此の如くして、始めて人の心の底に立入る事が出来やうと思います。」
要するに、
「新境地で新たな試みに挑戦する者は、死ぬ気でやれ。
役人のようにやりたければ、部屋の中にいろ。
教育とは人を呼びつけるようなものではなく、ともに心を通わせ、相手の中に入っていくことだ。
そうあってこそ、初めて人の深い気持ちも分かる」
ということです。
僕は、このような情熱をただ語るだけではなく、実践し、絶対に中断しなかった安田君だからこそ、顧問として全力でFUNを応援しようと決意し、六士先生に何億分の一かの貢献しかできないまま、今に到っています。
そんな中、3年間を振り返ってみて、ゲーテのある言葉をよく思い出すのです。
ゲーテの生きた18世紀は、科学が発展し、宗教改革が進み、個人主義思想が開花し始めた時代でした。そんな中、多くのヨーロッパ人を鼓舞し、勇気を与え、幾多の英雄を生み出してきた「昔の物語」を懐疑的に見る人々も増えてきました。
特に槍玉に挙げられたのが、ホメロスの物語です。シーザーからナポレオン、ビスマルク、チャーチルに到るまで、おそらくホメロスを知らない西洋人はいないでしょうが、その物語を否定する人が現れ始めたのです。
ゲーテの知人は、「だいたい、人間にこんなことができるわけがない。神話だから誇張してあるのさ。昔は単純な時代だったから、でかいこともやりやすかっただけだろ」と話します。
この批判は、科学が発達して歴史がより多様に解釈できたから、ではありません。ただ、彼が卑屈だったからです。
自分が怠け者で、無知で、目指す人物になれないという現実を認めたくないばかりに、多くの先人が感動してきた物語を「ウソ」や「愚かな話」と決め付け、その同意をゲーテに求めてきたわけです。
立派な人や努力家を尊敬できない「嫉妬」とは、卑しい感情です。
しかし、法務大臣までも務め、ヨーロッパを代表する劇作家・詩人でもあったゲーテは、知人の言葉を遮って言いました。
「崇高な人間性を批判する寂しい人間になるくらいなら、私は喜んでその愚かな話を信じたい」(「いきいきと生きよ」手塚富雄・講談社現代新書※絶版)。
つまり…
「確かに、事実ではない話もあるかもしれない。創作もあるだろう。
しかし、ホメロスの詩は偉大で誇り高く、美しい人間の姿を描き、多くの英雄たちは、自分もそうありたいと少年時代から読み続けてきた結果、英雄になったのだ。
私は、そんな崇高な人間性を否定するような、寂しい人間にはなりたくない。
そうなるくらいなら、喜んで君が言うところの愚かな話、を信じる」
ということです。
さて、今日の長いメルマガを就活につなげると…。
ホメロスを疑いたいなら、疑えばいいのです。信じられないなら、好きなだけ調査すればいい。
六士先生の話を嘘だと思うなら、嘘として片付けても構いません。
別にエントリーシートに書ける話題でもないし、面接で使うような話でもないでしょう。
しかし、「感動を否定したがる人間」に、一体どんな有益な社会貢献ができるのか、と僕は疑問に思います。
「君も絶対に大人物になれる!」と呼びかけても、自分には関係ないと表情を変えないフリーター。
「まだまだチャンスはあるよ」と説明しても、それは絶対、自分にだけは当てはまらないと信じている学生。
そんな若者に、僕は仕事やFUNを通じて、たくさん会ってきました。僕は別に営業もしないので、断られても腹は立ちません。
しかし、彼らの将来を思って、必ず一言、付け加えます。
「君は明治維新(FUNの活動)を疑っているような口ぶりだけど、実は自分を疑っているんだ。
感動を押し殺し、否定し、他人に聞かないと実感を確認できないとは、言い換えれば…私は誰が何と言おうと、絶対に成長できない!僕にそんなことができるわけない!オレの頭の悪さは並大抵じゃない!と言っているのと同じだ。
君は僕の話を信じていないようなフリをしながら、実は自分を裏切っているだけだ。
実社会の最前線で人間を見極めて、洞察力を鍛え抜いてきた経営者を前にしては、そんな子供だましの態度はすぐにメッキが剥がれるから、それだけは覚えておいてほしい」。
こういう話をすると、どんなに調子のいいことを言って張り切っていた学生も、泣きそうな顔になります。横着で攻撃的だったフリーターも、内心がビクビクして崩れそうになります。
そこで僕が、「本当は、寂しいんでしょ?」と言ったりすると、泣く人もいます。友達といる時は、「たかが就活」とか言って強がってはいますが、本当は成長できない自分が悔しくて、結果が出ない自分がみじめで、本気をバカにしている自分と決別したいのです。
しかし、何かが悔しくて、感動を肯定したくない…。現代の若者の屈折した心理とは、そういうものだと感じます。
しかし、素直に先人の姿に学びましょう。感動とは、後悔より希望が大きい時にしか沸き起こらないものです。感動とは、「あなたはそれにふさわしい人間だ」と人生が教えてくれているサインです。
バレー部のキャプテンという大役を終えてFUNに参加し、後輩を盛り上げてきた西南のK君、卒業4ヶ月前に入部して、一日一日を「今日が最後」の気迫で過ごしてきた九産大のM君、そして他の4年生の姿を見ながら、感動を肯定し、行動に移した学生の姿の、なんと素晴らしいことか、と僕自身も心から感動しました。
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