子供の頃、海にプカプカ浮きながら水平線をぼんやりと見てるうちに、ああ、地平とは直線ではなく、丸いのだなあ、と感じたことがある。
水面よりも上から見ると、それは下に向かって湾曲しており、水面下から見ると、そのRは上に向かう。
そして、自分の両サイドをぐるっと一周して、背後で円として閉じてるわけだ。
自分が円の中心にいると、その円は直線となるんだった。
だけどその図形は円ではなく、かといって直線でもない。
ぼくらの習う基礎的な幾何学の作法では説明のつかない、位置による相対的な図形だ。
ものの本によると、それを非ユークリッド幾何学というらしい。
たとえば、三次元の球面上では、「平行線」を引いてもやがて左右の端でつながってしまうし、三角を描いたら内角の和は180度にはならない。
ユークリッド幾何学の定義の範疇を超える幾何学が存在するわけだ。
ギリシャ時代にユークリッドが定義した二次元の幾何学は、ぼくら三次元(というか、二次元より上)の人間にしか認識できない。
同様に、ぼくらの生きる三次元世界における幾何学の振る舞いは、座標系をいっこ増やした四次元上から鳥瞰しないと、実体像がわからない。
そんな三次元の現象を四次元世界からながめて説明しよう、というのが、トポロジー。
そんな本を、今読んでるのだった。
世の中には本物の天才というのがいるもので、いや、天才というかなんというか、「異能のひと」というの?
そういう人物には、四次元の世界が実際に手でこねくり回せるくらいに見えてるらしい(イメージの中で)。
理論上にしか存在しない、空間のゆがんだ(というよりも、座標軸がいっこ多くて、三次元世界ではどうしても絵的に表現でき得ない)奇妙な構造物を、例えば「ナイフでこう切ると、こういう切り口になる」というようなことが直感で理解できる人間がいるというんだな。
その人物は、実際に四次元の世界を生きてるわけだ。
宇宙の根源を煎じ詰めてくと、必ずこの問題、すなわち「次元がいっこ違う世界」の問題に突き当たる。
アインシュタインは時間と空間の原理を相対性理論で統合したけど、量子力学なんかでは「力」のさらなる大統合に向けて、時空を超えたりもどってきたり、ってことが普通に理論化されてる。
どういうことやねん、と思ってたけど、トポロジーの考え方を知って、ほんの少しリアルに理屈が理解できたよ。
物理学と数学と天文学・・・どこまでもつながってて面白いな。

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子供の頃、海にプカプカ浮きながら水平線をぼんやりと見てるうちに、ああ、地平とは直線ではなく、丸いのだなあ、と感じたことがある。
水面よりも上から見ると、それは下に向かって湾曲しており、水面下から見ると、そのRは上に向かう。
そして、ぐるっと両サイドを一周して、自分の背後で円として閉じてるわけだ。
だけどそれは円ではなく、かといって直線でもなく、ぼくらの習う幾何学の作法では説明のつかない、位置による相対的な図形だ。
それを非ユークリッド幾何学というのだそうな。
例えば、三次元の球体上で引かれた「平行線」は、やがて左右の端でつながってしまう。
そんな三次元の現象を四次元世界から見て説明しよう、というのが、トポロジーというのだそうな。
ギリシャ時代にユークリッドが定義した二次元の幾何学は、ぼくら三次元(というか、二次元より上)に住むものにしか認識できない。
同様に、ぼくらの生きる三次元世界における幾何学の振る舞いは、座標系をいっこ増やした四次元上から鳥瞰しないと、実体像がわからない。
ざっくりそんなカンジのやつが、賞金1億円のかかった数学界における未解決の7問のひとつ=「ポアンカレ予想」らしいんだけど、どれだけ読み込んでも、その問題自体がよく理解できなかった。
この本は、この難問を数式で証明したペレルマンという人物のお話。
ふたつ下に書評した「フェルマーの最終定理」は、300年間未解決の数式に挑む苦悩の数学者の自伝的物語だったんだけど、本作は、メインキャラであるペレルマンの周辺から聞き取り調査を行って組み上げられた、いわば状況証拠の集積的ドキュメンタリーの形式。
暗黒時代のソ連に生まれたペレルマンは、子供の頃から数学で天才的能力を発揮するが、ユダヤ人という出自のせいで、様々なハンディを負うことになる。
このひとは、天才というよりは、毎日を数学のことしか考えないで過ごす異能のひと。
そして、「かつて解けなかった問題はない」と言いきる、超越的頭脳の持ち主。
そんな、周囲から見ると変人そのものの人物が、共産主義に束縛された重苦しい環境で、彼の才能を認めるヒトビトに守り抜かれて、ついに大業を達成する、というおはなし、なわけだけど。
話が込み入ってくるのが、このひとがあまりにも奇妙な人物なので、本人に話を聞くこともできないし、100年の未解決問題をどう解いたのか?という点にも謎は残される。
なにしろ論文もなく、最小限に切り詰めた解答の数式を、ネットで唐突に、ポンッと発表するきりなものだから、本当に解けてるのかどうかもわからない。
「はい、解けました」と、教室で手を上げる感覚か。
だけどあまりにも天才なので、彼が解けたと言うのだから解けたのだろう、ということなんだった。
そしてその後に、ミレニアム問題解決のごほうびの1億円を差し上げる、と言われようが、数学界のノーベル賞と言われる「フィールズ賞」をあげる、と言われようが、いらない、と拒否。
そして、「もう、ほっといてよっ、ぷんっ」ってな具合に姿をくらますわけ。
その変人っぷりが見事すぎて、カッコいい、としか言えないんだった。
ソ連ーロシアでの数学界の環境の描写からはじまり、その中でユダヤ人がいかに差別的に扱われてたか、そして数々の幸運と周囲の命がけによっていかに変人の才能が守られたか、のくだりはドキドキだし、最後の「論文を最初に提出した者が問題解決達成者」というシステムの隙を突いて1億円をかすめ取ろうとする意地汚い中国人数学者の出現にはまったくハラハラさせられる(ペレルマンそのひとが、あまりにも栄誉に無頓着なだけに)。
時間を忘れて夢中で読めた、ドラマチックな物語。

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韓国のセウォル号の沈没事故は、気の毒なことで、被害者たちの冥福を祈りたい。
それにしても、メディアの報道の仕方だよ。
あっち(韓国内)の報道もひどいらしいけど、日本の報道も、ナニこれ?
カワイソがってるふりして、韓国の民度をおとしめるようなもんばっかし。
沈痛な表情だけ見せといて、心の中であからさまによろこんでるように見えるんだけど。
日本の民度が、その態度で逆に問われてんじゃないの?
「嫌韓」はものすごく部数が取れるらしいけど、いい加減にしてほしい。
見苦しいったらない。
一方、そのわりに、韓国スターをなんであんなに崇め奉って、チヤホヤしたがるんだろ?
逆に、オレは韓国スターは大嫌い、誰も彼もがホストと芸者に見える。
バランス取れーっ!(あ、オレもか)

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開高健は、ぼくが敬愛してやまない文豪です。
いちばん好きな作家、って域をはるか超えて、尊崇の念まで抱かされてる書き物の大師匠さま。
全集二十二巻ナリも読破したんだけど、尊崇なんて大げさに言っといて、古本屋に売っ払っちゃってすいません、大師匠。
その人物像が、いちばん身近な立場(=谷沢永一による親友視線)から描写されてます。
中学時代にはすでにできあがってたという「表現執念」が、どう形づくられ、つぼみを膨らませて、ついに昇華したのか、って部分が、ふたりの生活っぷりからまざまざと理解できるって趣向になってます。
私小説作家の開高は、自分の経験をモチーフにフィクションを構想するわけですが、その着想と肉付けが手に取るようにわかって興味深いです。
自分を露出癖ともいえるまでに書きまくった開高の、まさにその実際の姿が、客観的な視点からトレースされてるんで、開高作品との二点投射による立体的な見え方も面白い。
開高が終生、絶対の信頼を置いてた谷沢は、文学評論家だけあって、人物と時代背景のデッサンがおそろしく細密です。
才気にあふれた気難しい若者が、幼い文学マニア(著者・谷沢)に見守られ、知らず知らずに援助されながら磨かれて輝いてくさまは、実際にその人物を目の前で見つづけ、「評論家として」解析をしつづけただけあって、説得力があります。
開高の側からも、若い日の生活環境と谷沢との友情は、いろんな形で活字にされてます。
その関係は、まるでお互いを想い合ってるかのごときで、事実、谷沢はこの本の中でも、開高夫人を悪の権化のように扱ってけちょんけちょんに書きのめしてます(実際、悪い女なんだけど、牧羊子)。
追悼と評論、という体裁になってますが、めっぽう面白い読み物に仕上がってます。

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よめはんが、歯の矯正をはじめました。
怪獣みたいな歯並びだったんだけど、まあ可愛げもなくはない大小デコボコラインナップだし、ほっときゃいいと思ってたらしい。
ところが、ここんとこ、せまいアゴスペースで歯がせめぎ合って、肩こりから頭痛までが発生しはじめたんで、大枚をはたく決心を固めたんだと。
そのことを、作業後の工房でくつろぐ新人さんに話したのですよ。
「よめはんが歯の矯正をはじめまして」的な。
するとその新人さんの女子が、あ、どこの歯医者さんですか?と訊いてくる。
どこそこの矯正歯科らしい、と答えると、再び、奥様、どんな方です?と訊いてくる。
のび太くんのようなひとだよ、だけど計算高くて、消費税が上がる前に一気に支払ってしまおうとギリギリで駆け込んだのだ、と答える。
すると、ああ、あのひとかなあ、わたしがその治療をしてるのです、と言う。
新人さんは、歯医者さんだった!という一件でございます、めでたし。
よめはんの歯を、よろしくたのむー。



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オボちゃん、健気で、生真面目で、かしこくて、かわいくて、テレビ的に見栄えのするキャラだなあ。
だけどこの件を「未熟で不勉強で」、つまり「わたしっておっちょこちょいだから」でかわゆく押し切ろうって魂胆はよろしくない。
「ごめんなさい」の意味も、「お騒がせしたから」でなく、「ひきょうなことをしたから」でスタートしないと、このひとの将来はないよ。
どこからどう見たって「捏造」「改ざん」、つまりでっち上げ(論文の作法がね。スタップ現象の存在はさておき)なのは明らかだもの。
それを言葉尻の法解釈論争に持ち込もうって手もよろしくない。
「悪意があったわけじゃない」って、悪意だよ、そのよこしまな操作は。
疑いを晴らしたいって意気はわかったけど、証拠がまるで信頼のできないものばかりだし、結局なにも語らなかったに等しい。
「私を信じてください」と言うなら、信頼できる物証を示さないと。
あったらいいとは思うけどね、スタップ現象。
結局、このひとには決定的に誠意が欠けてるんだと思う。
あるいはこの本気は、「白昼夢を見た。200回ほど」ってことなんじゃないかなあ?
ほんとによくわかんない事件だ。
だからこそ、面白すぎる~。

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えー、毎度バカバカしい素人ピアノでございまして。
どれみー、みれどー、どれみれど~、からはじめて2年と4ヶ月になります。
最近は二週間で新譜2曲を弾けるようになる、ってえ野心的なペースで習熟が進んでおりまして、そのマイルストーンをちょこちょことアップさせていただいてるわけでございますが。
耳ヨゴシは勘弁していただくとしまして、興味のある方はお聴きになってくださいましな。
トトロの挿入歌「さんぽ」という曲をジャジーにアレンジしたもんでございます。
んでは。

「トトロ/さんぽ」
ものを飲み込むときにのどに詰まらせることを、ごえん(誤嚥=ただしくは、異物を誤って気管内に飲み込んでしまうこと)という。
よめはんはこれで死ぬにちがいない。
毎晩、飯どきに「げーほっ、げーほっ」とやっている。
あわてて食べなきゃいいのに。
その独り舞台は、突然にはじまる。
スープを飲んでは、ぶほーっ、と飛ばしてるし、煮え立った鍋からあっつあつの油揚げをお口いっぱいに頬張っては、ぐあっ、と叫んで吐き出してるし、ただ白飯を食べるだけでも、飯つぶを鼻の奥に詰まらせては、ブヒブヒと悶絶してる。
なんでだ?
こないだなどは、塩鮭の切り身を飲み下したかと思ったら、おごごっ、とうめいて、ハシを自分ののど深くに突っ込みはじめる。
なんだなんだ?と見てると、その奥から信じられないほど大きな骨を取り出してる(ツマヨウジほどもあった)。
奇術か。
んなわけで、「ああ、死ぬかと思った」が毎晩つづくので、さほどの出来事ではもうこっちもたいして驚かなくなってるんだった。
ごえんと言えば、結婚前によめはんを両親にはじめて突き合わせたときのこと。
すでに20代も後半だったよめはんだが、「小学校のピアノの発表会で着た」という一張羅でおめかしし、そのわりにはそば屋でカジュアルにお食事、となった。
そのときにおかん(オレの母親)が、そばを息道に詰まらせたんだった。
もう一度言うが、これからめとる将来の妻を両親に紹介しよう、というハレの席での出来事である。
おかんは「ブオーッホ、ブオーッホ」と苦しみだし、「えっくしっ」とくしゃみをした瞬間、その鼻から、長々としたそばを、ぴろろっ、と飛び出させたのだ。
赤塚不二夫のマンガみたいだった。
だけどなによりも、ああ、似てるなあ、と感慨を深くしたもんだった。

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工房の階上にある三部屋のうち、一部屋は「ピアノ演奏ルーム」とは名ばかりの、段ボールが野積み状態の物置き部屋だったわけ。
そこをよめはんから拝領し、書斎として再開発中。
自分(しはん)の一切の私物をここに持ち込み、ひとり暮らしの空間にするのだ。
そんなわけで、よめはんの持ち物(段ボールの中身のほとんど)をこの部屋から追い出し中。
よめはんには、他の二部屋の広大な壁面と、家具&収納すべてを明け渡したんで、いかようにも配置していただける環境になってる。
ところが、このお方の片付けられないようときたらドギモを抜かされるくらいのもので、今や、キッチンリビングと寝室が物置き部屋と化す逆現象が起きてる。
左様、彼女は整理整頓できない&捨てられないという重い病を患ってるんだった。
洗濯物をたたむときなども、自分の衣類、オレの衣類、キッチンもの、バスもの、工房で使用するものがまったくランダムに積み上げられてるんで、たたんで重ねられたものを今一度解体し、選り分けたのちに、各地に移送・収納せねばならない。
それが二度手間であると説明しても、まるで理解できないようなのだ。
要するによめはんは、頭がぽわんとしてるひとなのかもしれない。
が、空間認識ができないのかといえば、そんなわけでもないらしい(当世一流のデザイナー氏なんだからあたりまえだが)。
ある日、外から電話をかけてよこす、いわく「今からおとうとおかあに会うから、お正月に渡しそびれたお年玉を持ってきて」と。
どこにあるのだ?と訊くと、あのチェストの何番めの引き出しの前から5センチほどのところにはさんであるはずだ、と言う。
その引き出しをあけてみると、領収書、DM、銀行の明細ハガキ、どうでもいいお知らせ書類など(どれもオレなら一瞥してゴミ箱に叩き込むシロモノだ)が、ギッシリ高密度かつめちゃくちゃに詰め込まれてる。
こんなとこにお年玉が入っとるわけないやろが、寝言は寝てから言えや、とブツブツ言いつつ、件の手前5センチなる場所を掘り起こしてみれば、ぎょぎょっ、確かに捜してたお宝が眠ってるではないの。
どういう隠し方やねん・・・そして、どういう記憶法?
サヴァン症候群を疑うよりほかない。
またあるときは、オレが「書棚を新しくしたい」とつぶやいたところ、それなら無印のカタログがあるからそれで選べ、と、ひょいと棚に手を伸ばす。
その一角だけは、彼女が愛してやまない「ロッキンオン」と「クロスビート」という音楽誌がきちんと保管されるのだった。
が、その何冊めか(まったく無作為な位置に見えた)から、ひょいと無印良品の家具カタログが出てくるのだ!
なぜ?・・・なぜその一冊だけがその崇高な座に?
しかも10月号と3月号の間・・・
わからない・・・ほんとうにわからない・・・
「かないくん/死んだらどうなるの?」という最近話題の、谷川俊太郎と松本大洋が共著した絵本を買ってきて、いつまででもリビングの床にほっぽり出してあるので、片付けよ、と命じると、はいはい、と書棚に突き入れる。
が、その場所が、今確認したところによると、「エクセル&ワード2010自由自在」と「これなら伝わる!英語術」の間である。
どういうことやねん・・・
そんなわけで、わが家はいつまでたっても荒れ果てる一方なんであった。
ま、いいけど、オレには整然と必要最小限に刈り込まれた書斎があるし。

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