「自由」を信奉してる。
誰にも自分の自由を脅かされたくない。
だからどこにも所属しないし、未来の時間を縛る約束ごとはほとんどしない。
つき合わなくていい人物とは決してつき合わないし、つき合う義理もないんで、気楽。
仕事は完全にひとりきりで判断、展開してるし、誰にも手伝ってもらわないかわりに、誰にも口は出させない。
その代わりに、すべてが自分の責任となる。
そうした大きなリスクを負って、この身は晴れて完全な自由を獲得する。
ひとの自由を侵すことも、極力しない。
自分の自由のために、ひとの自由を奪うのは間違ってる。
ひとの自由に配慮すれば、自分の自由は多少犠牲になるわけだけど、それは自分のほかの自由を担保するためのもの。
自分の自由を無制限と考えるひとは、結局は不自由に生きることになる。
みんな自由になればいい。
ただ、それは重大な責任を負っての自由。
「生きるも死ぬも自分のせい」の部分をクリアした者だけの特権だね、完全なる自由。

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エボラウィルス、怖い・・・
「ウィルス」ってのは、細菌よりもひと桁ふた桁小さいひとで、生きてるんだか死んでるんだか、あるいは宇宙人なんだかもよくわかんない、鉱物に限りなく近いブッシツなんだよ。
からだのつくりも有機的というよりは幾何学的だし、呼吸や栄養摂取や排泄や、つまり一切の代謝をしないんで、福岡ハカセはこの存在を「機械的オブジェ」と呼んでる。
こいつが生物に取りついて、相手の体内にDNAを注入すると、取りつかれた先の細胞(というか、素材)が変異して、自身=ウイルスをコピーしだす。
で、素知らぬふりをして増殖をくり返し、ある瞬間に爆発的なテロリズムにおよぶ。
こうして人類を災厄の淵に追いやるのが、ウィルスってやつの仕事らしい。
なんでこんなやつが存在するんだろうね?なんか得することあんの?
だけど逆に、こういう見方もあるよ。
つまり「人類こそウィルスなんじゃねの?」説。
立場を入れかえて「人類とは?」とかえりみてみると、どうだろう。
地球という一生命体を、利己的な環境操作と、自らの増殖そのものとでおびやかす、って意味では、人類の振る舞いはウィルスと瓜二つに見えてくる。
星いっこ分の肌を根こそぎにはいで、コンクリートでコーティングして、エネルギーをほじくりだしては、燃やしまくり、廃棄物を散らかしっぱなし。
この地球の諸症状って、天体スケールの出血熱じゃないの?
こんな瀕死の天体には、対症療法じゃラチがあかない。
「じゃ、破壊者である人類を掃滅すっか」ってんで、神様が根本治癒をねらって特効薬(=エボラウィルス)を送り込んできたとすれば、スジが通る。
神様はときどき、こうした絶滅剤を人類に向けて服用してくれる(ペストやコレラの流行、エイズが発生したときも、こうした哲学が流布された)。
人類は、こうしたものすごいやつが現れるたびに科学力でもって克服してきたんだけど、テキもどんどん強く、そして賢くなってく。
進化のスピード勝負だね、ウィルスv.s.ウィルス。
そして今、最強のテキが現れたわけだ。
わが人類の肉体に根を張り、動きまわれる感染者には咳やくしゃみでバラまいてもらい、動けなくなった感染者には糞尿や血液、最終的には屍液を垂れ流してもらって移動し、領土を拡大してくテキの戦略は、実に狡猾・・・いや、効果的。
そしてエボラウィルスの獲得した攻撃力(=致死率)ときたら・・・効きすぎのクスリそのもの。
人類を地球上にあまねく浸透させる発生源となったアフリカ大陸から、それを殲滅させようというウィルスが放たれたのは象徴的だ。
「人類よ、ちょっとは反省しろ!」と神様に叱られてるような気がしてならないのは、またオレのいつもの自虐癖だろか?
いや、ほんとにこれは、人類が自分でまいたタネだと思うんだよ。
ちゃんと環境に配慮して、振る舞いに身の程というものをわきまえてれば、自然(神様?)はこうまで本気に怒り狂わなかったんじゃないの?
んなわけで、とりあえずものすごくひろがると思うよ、エボラウィルス。
絶滅の前にはやく知恵を絞れ、人類ウィルス。
多剤耐性の不死身になれ!
・・・だけどそんな開発こそが、さらに地球環境を痛めつけてしまうわけなんだけど。
どの道、際限なく劇的進化をつづけるしかない、ってことか。
ウィルスとしての運命だ。

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脳に問題がある気がするのだ。
こっちのひとと話してると、あっちのひとの言葉が頭に入らない。
このへんはオレの脳みその特殊な事情らしい。
酒場などでも、「隣の席の会話が気になってしょうがない」というひとの気持ちがまるでわからない。
こちら側の会話に完全に集中しきってるので、そもそも「周囲がやかましい」という感覚がない。
ここまでは、まあ、ほめようによってはほめられてもいい点だが。
しかし、オレはテレビCMが頭に入ってこないのだ。
あの広告媒体は、映像と、音楽と、音声言語による情報と、テロップ(文字情報)によって構成されてる。
だけどオレは、音楽に聴き入ると音声情報が理解できず、音声情報を聞いてるとテロップになにが書いてあるのかが頭に入らず、テロップを読んでると映像でなにが起きてるのかを読み解けず、映像に見入るとぼんやりといい気持ちになってしまうんである(特に、美女がくねくねしてたりすると)。
みんな、ちゃんと一時にすべてを読み取ってるのかなあ?
ほんとはよくわかってないんじゃないの?
・・・んなわけはない。
オレの脳内における情報解析は、ひとつの感覚器から入ってきた一部のセレクト済みのものにしか働かないようなのだった。
バカのひとに近い脳構造だけど、逆にこういうのって、天才にも多そうだよね?ね?
とにかく、オレの頭はそういうふうにできてるらしいのだ。

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サッカーの試合中のスタジアム。
「日本人、謝罪しろ」的な旗を掲げてる韓国人、「朝鮮人、帰れ」的な旗を掲げてる日本人、「黒人はサル」的な行動をとってる欧米人。
おまえら、全員同じ。
そんなメッセージは、おまえが伝えたがってる相手に対してダメージなんて与えられない。
ダメージを食らうのは、サッカー界。
おまえたちによって最も迷惑をこうむってるのは、サッカーそのもの。
ま、サッカーを好きでもなんでもないおまえたちに言ってもしょうがないけど。

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「国会論戦」なんつってるけど、あの棒読み祭はなんとかならないものかな?
論もなきゃ、戦もない。
「党首討論」って、台本の読み合わせじゃん、どこが討論?
あいつらバカだから、文章も書けなきゃ、美しく読むこともできない。
ましてや、考えてしゃべる、なんて難しいことは期待しちゃいけないんだろうね。
ちょっと見てたけど、安倍さんは、はなっから野党(と国民)を侮蔑しきってるから、官僚がつくってくれた作文を淡々と読んですますだけ。
内容はスカスカで、質問にまっすぐに答えない、昭和の型そのもの。
江田さんは語尾が鋭くて歯切れがよくて、まあまあ迫力があったな。
ひどいのは海江田さんで、鋭い突っ込みを入れたかと思ったら、最後のセンテンスに「なんであります」的なもやっとした装飾を入れるから、印象をぼんやりさせてしまう。
これは日本式の「あいまい言語技術」なんだけど、こんな作法をケンカのときに使っちゃいけない。
この連中の口語表現のひどさが、結局、外交なんかで国益をそこねる根源になってくる。
バカは政治をしちゃいかんな、と思う。
反面、こういうバカだから政治家になりたいんだろうな、とも思う。

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読めども読めども、未読巻が減らない「ゴルゴ13」。
なにしろ、138冊もあるんだった(最新ではもう少し先まで刊行されてるはず)。
このボリューム感はいかついぜ。
それにしても、面白い!
衝撃だよ。
こんなに夢中になれるなんて、思ってもみなかった、大人買いしてはみたものの。
悪者が理不尽に暴れまくり、最後にゴルゴが現れ、一発の銃弾で倒す、ってシンプルな「勧善懲悪もの」かと思ってたら、とんでもない。
設定、プロットともにすごく練り込まれてて、一話として同じアプローチのストーリーがないし、ネタも表現手段も常に新鮮。
感情の説明を極力排除して、行動と現象の描写だけで心の内をにじみ出させよう、って試みがハードボイルド作法なんだけど、まさにそんな高度な文学表現の粋だ。
なにしろ、「・・・・・」の無言のフキダシは、実にゴルゴのセリフの86%を占めてるらしい。
乾いてるぜ~、乾きすぎて、哲学性を超えて、わびさびまで感じさせる。
その表現形式に加えて、画がまた優れたもの。
映画の画面構成を用いてるうえに、小道具の細部の構造から現象面における物理的論理に至るまで、ディテールに異様な気配りがなされてて、それが「極端な物語」に説得力を与えてる。
文句なしにかっこいい、家宝にしたい一作。
だけど、読み終えても置き場に困る138冊の物量なのだった・・・

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素粒子、ってほんとに粒なのかな?
原子の構造を知れば知るほど、この世はスカスカだ、とわかってくよ。
世界を構成する最小要素のクオークや電子、なんてものは、「物」として実在してるんだろうか?
説明モデルとして物体の形に置き換えられてるけど、そこにはただの現象があるきりで、ほんとはなにもないんじゃないかなあ・・・?
質量があるから、すなわちそれは物だ、と言いきれるもんだろうか?
「波」とか「エネルギー」とかって茫洋としたものがたくさん集まって、高い密度になって、そいつが「ひとの手」という現象との相互作用で、固形化されてるように、つまり物質の体をなしてるように「ひとには」感じられるだけで、実はこの世は何物でも出来てなかったりして。
質量は光速の二乗を掛け合わせてエネルギーに変換できる、って公式は、そのことを言ってんじゃないの?
「ついにこの世界は幻想であった」ってのは、太古の昔からあらゆる哲学者が唱えてる観念だけど、実はそれがリアリズムなのかもしれないよ。
量子論を読み込めば読み込むほど、それが現実だと理解しなきゃ、になってく。

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戦争が近づいてますね。
ウクライナやイスラエル、あるいは中国周辺(わが国含む)もやばいけど、なんつっても中東のシリア方面がシリアスです。
ISISっつの?「イスラム国」?
すごいですね、あんなのがほんとに成立しちゃう世の中についになり果てたのですね。
成熟からの頽廃経路なのか、混沌から構築プロセスへの一過性ストレスなのかわかりませんが、ほんとにこの世界が信じられないくらい「近未来想定」のマンガ舞台になっちゃってます。
国境がなくなることによる作法のすり合わせが、これほどの逆バネを伴うとは。(というよりは、ブッシュ時代のアメリカによる傍若無人の末路、って感が強い。アメリカ、尻拭いをしろ)
なにしろこのイスラム国とやら、ラジカルなイスラムでも、他宗教排他イズムでもない感じが気持ち悪い。
ただただ世界中のネガティブ思想を集結させて、既存の文化をぶっ壊そう、って運動色が強いです。
「イスラム教とか知らねーけど、イスラム国のケンカ度胸、カッケーっす!オレも善人づらの金持ちをぶっ殺してーっす!」って若者が、続々と集結してる雰囲気がありますね。
かくて、悪の結社、暗黒の帝国、成るの巻。
つまり、巨大な武力(と世論)を手に世界征服を目論む、ってマジにマンガ設定を地でいくコミューンが、実際的な力を持って形になっちゃったんですね。
さらい放題にさらって、殺したい放題に殺すって・・・めちゃくちゃ。
思いつくかぎりの悪事を働いて、省みることがありません。
そんな無法もすごいが、勝手に国をつくっちゃった、って無法にもあっけにとられます。
ショッカーがリアリズムを持つとこういう姿になるんだなあ、とつくづく考えさせられます。
あの黒覆面だって、バロムワンのドルゲと瓜二つですもんね、るろろろろ~、ってやつ。
・・・って昔の戦隊ものを思い起こしてるわけですが、そんなのんきに傍観してもいられません。
このネガパワーは飛び火して、絶対に世界中を席巻する強大なものに成長しますよ。
ヘイトスピーチで声を張り上げてるおっちょこちょいたちは、イスラム国エピゴーネンとしてカテゴライズされてさしつかえありますまい。
国境線の解消と、カウンターパワーとしてのナショナリズム(引きこもりズム)。
それらが火花を散らせながら、これから世界はどっちに向かってくんでしょうか?
安倍さんは、「戦争をやらかそう」という考え方じゃなく、「必ず起こるべき戦争に備えよう」って言を弄して強大な軍事力を手にしようとしてるわけですが、「その行為こそが戦争を引き起こす」という順序を理解してません。
危うすぎます。
いや、どの道、戦争はしないわけにはいかないみたいです。
子供たちよ、おまえたちはがんばって安倍さんの戦争を戦うのだ、とりあえず大人たちは逃げきるよ。
・・・が、この考え方もまた、戦争を近づける論拠となってますが。
それにしても、今どきはどこの国も戦争をしたくてしょうがないように感じるのは気のせい?

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NO MUSIC, NO LIFE.
音楽なしじゃ、生きられないね。
このセンテンスのちゃんとした訳は「人生があれば、音楽がある」なんだってさ。
書斎にオーディオを設えたら、テレビをまったく観なくなったよ。
以前は、とにかくなにをやるにもテレビはつけっぱなしだったけど、今では、録画した9時のNHKニュースを深夜の飯どきによめはんと観るだけ。
あとの時間は、ひたすら音楽にひたってる。
オーディオが働いてないのは、ピアノを弾いてる時間だけ。(結局、音楽)
いちばんいい時間は、無印良品で買った「人間をだめにするふわふわクッション」に背骨を沈めて、閉めきった部屋で、結構な音量でピアノ曲を聴いてるとき。
耽溺。
傍らに酒を置いとくんだけど、それに手を伸ばすのすら億劫になる。
ああ、なんてしあわせな時間。
たのしいな、音楽。

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山中千尋さんは、バークリー音楽院を首席で卒業、ってことで、上原ひろみさんとよく比較されるジャズピアニストです。
ぼくはこちらの千尋さんの方が、耳あたりがなじんで、好ましく聴くことができます。
上原さんは奔放で創造的で、イタコと紙一重の神がかり的演奏をするひとですが、過度にチャレンジングなために、聴いてていつも緊張を強いられます。
フリーすぎてくたびれるというか。
千尋さんはタイプがちがって、ジャズの長い歴史と広大な沃野を丹念に歩きたおして、よく勉強してるひとです(想像)。
で、その各所各所を発展させる手法で、自分独自のスタイルをつくってます。
クラシカルな作法をベースにしつつ、少しずつプログレッシブに、自分流によく熟れたところまで弾き込んでるって印象。
アドリブのラインは流暢でよどみがなく、無法な破綻(上原さんみたいな)もなく、つまり几帳面でお行儀がいいわけですが、高度にソフィスティケイトされたアグレッシブさも持ってまして、ところどころでハッとさせる音が魅力的です。
その感性にはドキドキさせられます、かわいいし。
音の選び方と、全体をまとめる力との、バランスの取れたピアニストさん。
つまり上原さんをピアノの大天才とすると、千尋さんは「大秀才」なのです。
アレンジで考えすぎる(わざわざ難しくする)きらいがあるけど、それもアイデンティティに迷う学級委員長のジレンマ。
清潔な音を持ちつつ、だけどもっといい音を探し求めてる、悩める芸術家と見てます。

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