キリスト教、ってなんなんだろうなあ・・・と考える。
恐れずに言うが、福音派、というのか、まったくへんな連中だ。
アメリカのキリスト教の最大会派で、その大部分がトランプさんを支持してるんだって。
トランプさんが、自分のたちの願いを叶えてくれるから、らしい。
エルサレムを大切にしてくれるし(中東でどんな混乱が起ころうとも)、昔の家族生活を守ってくれるし(LGBTは退治だ!)、野蛮人を徹底的に封じ込めてくれるし(異教徒よ、来んな!出てけ!)、ありがたやありがたや・・・
あの横柄な人物を応援すると、神様の近くにいけるんだね。
要するに、トランプさんがどんな品性だろうと、政治的に傍若無人に振る舞おうと、自分たちに恩恵がくるなら、それは瑣末な問題に感じるようだ。
トランプさんは、彼らにとって、神の使いに他ならない。
それとも、彼がうまいものをよこしてくれる以上、よそで行ってる暴虐っぷりには目をつぶろう、というご都合主義か。
見識というものがない。
しかしまあ、これが彼らの考えるキリスト教の教義なんだろう。
こう見てくと、キリスト教ってなんなんだろね?
思えば、歴史上でこれほど多くの善良な人々を殺しまくってきた宗教はない。
「教義に逆らえば、火あぶり」「異教徒は殺し、その土地は奪う」なんて時代が何世紀もつづいた。
今でも、人工中絶を進める医師を「悔い改めさせるために殺す」なんて事件は後を絶たない。
キリスト教が、イスラム教なんかとは桁違いの利己主義であることは間違いない。
そう考えれば、彼らがトランプさんを崇めるのは得心がいく。
これまでのアメリカは、独善的だが、ある意味では牧歌的(能天気)な考えのもとに、世界中で大暴れし、自分たちの信じる秩序を築いてきた。
そこには、少なくともおっちょこちょいな正義はあった。
だけど、トランプさん以降は違う。
自分たちの利益のためのみに秩序(自分たちが勝手につくったやつ)を破壊し、揉め事の種をばら撒き、肥え太ろうとしてる。
そこに知性はなく、力があるのみ。
とにかくでかい声を張り上げて、小さな声の連中に言うことを聞かす。
これって、キリスト教の姿勢なの?
しかし、当該の教徒らはまさにトランプさんのその部分を応援してるわけだから、なかなかの信仰心だ。
そしてそれは、キリスト教がここまでのし上がった方法論でもあろうか。
敬虔な教徒ほど、トランプさんの応援に熱心に声を張り上げてる、ってのも興味深い。
彼らの中にはへんな神様がいるなあ、と思わざるを得ない。
当のイエスさまの意見を聞いてみたいよ。
さぞや迷惑がってることであろう。
なむなむ・・・

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
南米方面からアメリカに向けて、移民キャラバンが長々と隊伍を連ねてるんだって。
「もうくんな!」と言われると、いきたくなるもんなのかもね。
中東からヨーロッパへの難民キャラバンの壮大さにも恐怖を覚えたけど(あの流入はもうおさまったのかな?)、世界中で民族の大移動が開始されてるみたいだ。
つわけで、我が日本をかえりみてみると。
安倍さんは、時限付きのガイジン奴隷だけを欲しがり、「長く住む連中はいらん」とムシのいいことを言ってるわけだが、そんなに都合よくいくはずがない。
そもそも、外国人さんがそれほど日本で働くことに魅力を感じるとも思えない。
インバウンドで外国人さんが日本にきてくださるのは、ただただ旅費が安く上がるからだろう。
昭和の昔、日本人は「あっちは物価が安いんだよ〜」なんつって、タイだのフィリピンだのに出かけたもんだったが、今や、日本がそんな割安な国になってるわけだ。
それは逆に言えば、「日本で働くなんて、給料が安くてやってらんねえよ」ってことでもある。
今や、貧困にあえぐ日本人労働者が、はるかに高い給料を払ってくれる韓国や中国に出稼ぎにいく時代だ。
なのに、「ガイジンよ、奴隷として受け入れてやるぞ、日本語と日本文化をみっちりと勉強してこい!」なんて求人広告を出したとして、今どき応じてくださる外国人さんがいらっしゃるのかどうか?
さて、移民キャラバンの話に戻るが。
あれは、近未来の日本人の姿に見えてしょうがない。
ついこないだ、我々は本当にああなる運命に紙一重だった。
福島の原発がメルトダウンを起こし、たまたまデブリ(炉の内容物=アッチッチの核そのもの)が意味不明に寝静まってくれたからよかったものの、あれが破裂してたら、もう日本全土は住める土地ではなくなってた。
「全土って、大げさな・・・」と思うかもしれないが、全土だ。
まず、福一のデブリが破裂した途端に、半径250キロ圏(東京を含む東日本全域)には足を踏み入れることができなくなる。
すると、福二、東海村、女川あたりの原発にも近づくことができなくなり、このへんも暴走開始。
すると、さらに汚染域はひろがり、エリアの外へ外へと点在する原発にも近寄れなくなり、メルト連鎖・・・と芋づる式。
とにかく、原発いっこの破綻とは、国内全部の破綻(あるいは、隣国の原発へも波及)を意味するんで、日本はついにひとが住めない土地となるんである。
そうでなくても、今この瞬間に大地震、火山の大噴火、スーパー台風の襲来・・・と、大災害には事欠かないこの国のこと。
すわ、どこへ逃げる?
キャラバンをつくって、朝鮮半島に渡って頭を下げるか、中国大陸に散らばるか・・・
とにかく、移民・難民問題を他人ごとだなんて思ってると、手ひどいしっぺ返しを食らうことは間違いない。
ましてや、ガイジンさんを「奴隷として連れてくる」なんて発想は、天にツバするようなもの。
万有引力があるかぎり、ツバは自分の顔に戻ってくる。
我が政府は、未来を想像する、という知的作業を最も不得手としてる(あるいは、わかってておろそかにし、今のみを生きてる)が、この点はよく考えるべきだろう。
今だにこの天災と人災、そして文明災にまみれた国土を「神の国」だなんて考えてるおっちょこちょいなひとは、きちんと思い直したほうがいい。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園


物理学からさまよい込んだ生命科学方面で右往左往してたところ、とある友人が「これを読めば?」と勧めてくれた本です。
著者の今西さんは、生物学者って触れ込みなんだけど、読んでみるとどうもこれは、彼の自然観の集大成たる生命哲学の本ですね。
そしてそれはまた、ぼくがかねてから考えてた宇宙観とピタリ一致するものでもあり。
もやもやと煎じ詰めきれないでいたイメージが、そこには鮮やかに描き出されてました。
自分の不細工なスケッチが、ひとの手によってクリアに磨かれて完成されてた!って感じで、悔しいけど、なかなか悪くない気分です。
彼の(そしてぼくの)描き出す曼荼羅図は、複雑な入れ子細工の構造を取ってます。
細胞はひとつの生命体だ、というところからはじまり、それをミクロ方面に突き進めると量子世界になり、マクロに展開すると宇宙になり、そのステージステージがマトリョーシカのように何層にも組み合わさってるわけです。
そんな層構造なのに、すべてが連続的で境目がなく、ひととは環境であり、宇宙であり、しかも個であり・・・要するに、ワンインオール、オールインワン!という突拍子もない着眼。
だけど、考えてみてほしいのですよ。
ぼくの肉体と命は環境から、そして時間軸から完全に独立してるようではあっても、どこまでもつながってます。
ぼくはどこからきたかというと、お母ちゃんのお腹の中からであり、さらにその発生までをさかのぼると、お父ちゃんから発射されたいっこの生殖細胞であり、さらにさらにずっとずっとさかのぼると、じいちゃんとばあちゃん、さらにはご先祖さま、サル、原始哺乳類、海中生物、原形質の単細胞生物・・・そして海のあぶくにまで行き着きます。
時間軸というタテの流れによって、種は連続的である、ってことがたどれるわけです。
その逆再生をさらに順回転させると、今度はヨコ方向、すなわち広がりへの展開が得られます。
盛大な多様性に枝分かれし、各々がまたそれぞれの独創性を発揮し、海に、陸に、空に、無限に開いていくのです。
流れ流れて今この瞬間、という一座標を切り取っても、各地に繁殖した多種多様な生命体が、これもまた環境を介して連続的。
タテ、ヨコ、すべてが連続的で、一体的で、区別がなく、境目がない。
ぼくは呼吸をし、吸い込んだ空気を体内のすみずみにまで送り、そこでは細胞のひとつひとつが成分を受け取って自己と同化させ、余分を排出する。
排出された成分は、地球環境内の(あるいは宇宙空間にまで及ぶかもしれないが)何者かが受け取り、処理をし、また別の成分を排出し・・・それらはすなわち、総体として大きな生命活動のように循環し、全体で環境をつくっていき、環境は個をつくり、個は環境をつくり・・・結局のところ、すべてが流れの連続の中に一体化してると見なしていい。
細胞と、個としての自分は、どこに区分があるのか?
細胞もまた個なわけだが、そいつは果たしてぼくなのか?
さらに、空気と、個としてのぼくの肉体、そして細胞とは、どこに境界を持つのか?
空気がぼくの一部である以上、環境とぼくとは連続的なんであり、宇宙の中のぼくってのは突き詰めれば、ぼくの中の細胞と同様の存在なんではないか。
・・・みたいなことがですね、非常にくどくどと・・・いや、丁寧な入れ子細工形式で説明されてるのです。
ずっとずっと考えていながら茫洋としてまとまらなかった、思考というよりは思想を、きちんと整頓して引き出しにおさめてくれる、大切な一冊になりました。
それにしても、こんなことを戦時中に考えてたとはなあ・・・

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
いい感じに酔っ払ってまーす。
さてわたくし、酒場で飲んで、ときおりマルエツに寄るわけですが。
レジで会計が終わってさー、店員さんが「ありがとうございます」っつってんのに、完全に無視するお客っているよね(関西方面ではありえない)。
こいつら、クズですわ。
レジ打ちをしたことのない(相手の身になって考えることをしない)、王族なのかもしれないが。
少なくともその手のバイトをしたことのある者なら、つか、人間の心を持つ者なら、「ありがとう」と言われればなんらかの反応を示すはず。
それが常識ってものだからね。
考えてもみてよ、コンビニだろうがなんだろうが、店員さんが「ありがとうございます」って言ってくれてんだよ?
「あ、どうも」でもいいし、「はい」でもいいが、最も得点の出る正解は「こちらこそありがとうございます」だろう。
人間のコミュニケーションってのは、こうして完結するしかないんだから。
無視って!
きみというお客様は神様のつもりですべてを当然のことと思ってるかもしれんが、どっこい、相手はきみのことを神様だなどとは思ってもいない。
両者は対等なのだから。
いや、むしろ、この「無視」という振る舞いによって、きみは人間道徳を知らぬ者として軽んじられる立場に陥った。
無視したきみは、レジ打ちの店員から「クズがっ!」と思われること必定であろう。
あるいはやさしい店員さんなら、「このひと、耳が聞こえないか、コミュニケーション能力がゼロなのだな、かわいそう」と思ってくれるかもしれない。
オレはといえば、「クズがっ」の考え方に反対しない派というか、積極的に賛同する派。
だからとにかく、自分のことをクズに思われないように、ときどきの振る舞いを深慮し・・・というよりも、こんなもん当たり前の反応だと思うんだが、相手に失礼のないように一期一会の作法を完結させる。
バカのように映る他人の振る舞いを、自分はするわけにはいかない、という単純な理屈。
おしっこを便器の前で立ってする男子は、便器を掃除した経験がないわけだが、一度でも掃除をしたことがある者なら、気をつけよう、もはやそんな乱暴なやり方で汚すようなことはするまい、と思うはず。
それを知ってる上で粗相をしでかしなおかつほったらかしにしていくのは、まさしく真実を知らぬ(か、ものが短いか)と言っていいわけ。
とにかく、人類はきちんと、一度は客商売のバイトをしとくべきだろう、と思う。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
ハロウィン・・・また憂鬱な日がやってくる。
別にこっちに実害はないからどうでもいんだけど、またあの画づらを見せられるのかと思うと、うんざりさせられる。
あんな醜悪な集団乱痴気ってあります?
発祥がどういう由来なのかは知らないけど(調べる意欲もない)、結局、ゾンビ祭りでしょ?
アメリカのお盆なの、あれ?
交通事故で死んだ父親がその格好で帰ってきたらしんどいよなあ・・・とか考えないか?
とにかく、年々くだらないものになってくんで、その日は家でこもって過ごすのがいちばんだ。
これを見させられて考えるのが、レインボーパレード(いわゆるLGBTのやつ)だ。
誤解を恐れずに言わせてもらうけど、オカマちゃん、レズビアンさん、ゲイさんたちが練り歩くこっちのパレードも、かつてはひどく醜悪なものだった。
目を背けたくなるほどの見苦しさがあった。
それはなんでかっつーと、彼らがセクシュアル・マイノリティだから、ってこととはまるで関係なく、とにかく下品で低俗で、ここぞとばかりにちんこをもっこりさせ、尻を出して乱痴気騒ぎをするからなんだった。
このパレードのせいで、「逆に」性的少数者は偏見の目にさらされるようになったのでは?と考えたくなるほどだ。
要するにこのゲイパレードは、市井のゲイが他人視したくなるほどに迷惑なものだった。
現在のレインボーパレードは、穏やかで平和的で品性があって、誰もが応援したくなるものだ(と思いたい)けど、かつては、当の本人たちからが自分たちを率先してエロ・グロとしてとらえ、極端な方向にアピールしてしまってた、ってことを省みなきゃいかん。
文化を育てようと思ったら、それなりの自覚を持つべき。
ハロウィンだって、本来は楽しく愉快な子供たちのお祭りなんだろう。
くれぐれも、大の大人が調子に乗って、人様から後ろ指を指されるようなものにしてくれるな、と言いたい。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
ゾゾタウンのなんとかという社長(ネズミ男みたいな)が、月にいくらしい。
このひとは、ネット商売でちょっと考えられないくらいの財産を築いて、かんとかというすごく可愛い若い女優さんを彼女としてはべらした挙句に、周囲のナカヨシな人々を引き連れてロケットで宇宙旅行をするのだという。
くやしいっ!
金さえあればどんな女でも抱ける、って時代は去り、ついに月旅行が口説き文句となるのか。
・・・と、嫉妬気味にののしる感じを振る舞ってみたのだが、この社長のやることなすこと、特に悪いところはない。
好きなだけやってほしい。
こういう人物がこれからの日本を牽引していくんだろう、と考えると、なかなかにたのもしい。
どんどん出てこい、こういうやつ!
確かにこいつら、こざかしい。
やることなすことが最先端で、ねたましくもある。
が、こういう連中が、本当に軽蔑するべき古い世代、えらそうなジジイを駆逐してくれるんだろう。
いつまでも頭の固いことを言ってるジジイはとっとと引退しろ!派のオレは、このチャラ造の肩を持とうと思う。
考えてもみてほしい、日本をつぶすのは、ジジイとチャラ造、どっちだ?
新しい日本をつくるのはどっちだ?
苦渋の選択とも言えるが、とにかく、ジジイたちをとっとと蹴散らさねば、日本の未来はない。
たのむぞ、チャラ造。
月にいけ。
可愛い子を抱いてもよいぞ。
稼げ。
ものすごい頭脳と、技術と、夢をひらかせよ。
成金が金にあかせて・・・?
バカを言うな、やつらはかっこいいではないか。
好きなだけやれ。
ジジイの鼻を明かしてやれ。
・・・と言っても、やつらはもはや、素枯れたジジイどもの影など目の端に入れてもいまいが。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
バカバカしい話なんで、読まなくてもいいんだけど。



ま、この写真のような物語を延々と書くよ。
毎年、秋口によめはんと宮古島にいってるのだった。
20年も前か、最初は沖縄本島から攻め入り、周辺の島々へと領土をひろげ、渡嘉敷島や石垣島と行き先は変遷したけど、宮古島に行き着いてからはずっとこの島。
浮世の楽園にして、第二の故郷、って感じにまでなりつつあり。
ひとも少なく、空気も水もいつもクリアで、頭上には常に晴れ上がった空。
沖縄入城以来、不思議とどの旅でも一日たりとも雨に降られてないから、70〜80連勝って感じの晴れ現象で、ありがたや。
その旅に、はじめておかん(77・以後、カズコ)を連れていった、という一件。
常々と、この楽園に、これまで苦労をかけ心配をかけまくったカズコを一度は連れていってみたいものだ、と考えてたのだ。
カズコは、子供たちを日本各地に送り出したのち、ダンナであるタカオを交通事故で失い、年老いたばあちゃんと二人暮らしという身。
最近では、幼い孫を周囲に散りばめた自由の利かない家族旅行的な催しはあるが、高校時代にインターハイ陸上で最高の栄冠に輝いたという実績を持つ躍動的なこのひとには、もっと跳ねまわれるタイプの旅が必要。
そんなわけで、三年ほど前に「宮古島に一緒にいこう」と企画したわけなのだが。
その直後のこと。
つか、いよいよ、という南国行の直前のこと。
ばあちゃんが倒れてしまったのだった。
ハンドレッド目前というばあちゃんは寝たきりとなり、カズコは以降の自由な環境と、楽しみにしてた旅とを捨てざるを得なくなった。
カズコがキャンセル、といういつも通りの夫婦二人行は、あっけらかんと晴れた最高のコンディションで、かえって無念だけが募った。
きてくれたら、いちばんの親孝行ができたのに・・・
気がつけば、元気なカズコももう70代後半。
宮古島を堪能するにはギリギリのタイミング。
ああ、ぼくらのこの島を見て、感じて、満喫してほしかった・・・
と後悔する前に、なんとしてでも連れ出したかった・・・
んでそこから数年を経たこの度、ばあちゃんが施設に入ったタイミングで、最後のチャンス!とばかりに、カズコを宮古島に引っ張り出したのだった。
間に合った。
出立の前々日に破滅的な台風がカズコの住む岐阜スレスレをかすめ、前日には娘が嫁いだ北海道を震度7が揺さぶり、当日には行き先のまさに頭上に熱帯低気圧が発生するという、あり得ないほどのストレス環境だったが、とにかく、カズコは宮古島に降り立った。
してみると、なんということか、額の上には何事もないかのような青空がひろがり、海はベタ凪ぎ、海底は超クリア、飯はうまいし、酒は甘い。
絵に描いたような愉快な四日間をカズコに過ごさせることができた、というこのしあわせ。
心がけ、というが、誠にこの人物の心根のごときコンディションが眼前にひらいてたのだった。
母親孝行、という、ま、ひとが聞けば鼻白みたくなるような話だろうが、企画したこっちも、やりきった、してやった、の達成感でいっぱい。
本当に、本当に、楽しい楽しい旅だったのだった。


しかし、すごいわ、カズコ。
77歳、まだまだ元気で。


ひまわりのブローチを、77の祝いに。
よめはんには、結婚20周年のネックレスをプレゼント。
な、バカバカしいだろ?
読んで損したって?
だから言ったろ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
ジジイをあしざまにけなして、だいぶひんしゅくを買ってるかな?
ひょっとして、引いてます?
だけど、まだまだこれくらいでは終わらせないよ。
ここからなんだから、話のコアは。
アメフト、レスリング、ボクシング、体操・・・さまざまなアマチュアスポーツ界がジジイババアの支配下にあることが露見するオリンピック寸前のタイミング、ってわけだけど、まだまだ退場してもらわなきゃならないジジイババアがいることは、まさにオリンピックの画づらで明らかだ。
全世界が注目する、まさにその開会式。
ジジイよ、ババアよ、なぜ選手を尻目に、おまえたちが先頭切って入場してくる?
恥ずかしくないのか?
その露出願望はなんなの?
まったく不思議極まる、理解不能の神経だ。
次回の2020でも、橋本聖子あたりが、旗手のすぐ後ろの第一席に陣取って得意満面に入ってくるんだろうが、どけよババア。
なに様なんだ?
脇役様だろうが。
主役様である選手に席を譲って、すっこんでおれ。
この「どけよ」が、この手のジジイババアにはまったく耳に入らないんだな。
どんな補聴器も、この意見をやつらの耳に拾わせることは不可能らしい。
いや、「恥」という概念を、さらばえたお脳が忘却してるにちがいない。
やつらは、飛行機のビンボー席で背中を丸めてエコノミークラス症候群におびえる選手団(一世一代の競技会を前に!)になんの配慮を払うこともなく、フルフラットにシャンパン付きの席でふんぞり返って会場に乗り込んでくる。
正当に座るべき人物たちにゆずりなさいよ、みっともない。
立場が逆だとは思わないのか?
おまえらは遊びにいくだけだろうが!
なんなら、いかなくてもいいくらいのものではないか。
自身の権力を見せつけたいわけか?
こうした貧相な感性が、日々の「選手を教える」という生活において増長されてるのだとしたら、まさに選手たちがかわいそうだ。
とっとと老いぼれは退場しろ。
新しい日本をおまえらがつくる?
笑わしちゃいかん。
それは、若い人間の仕事だ。
むかし活躍したあなたたちを、若い者は素直にリスペクトしたいのだ。
しかしその態度では、敬意など抱きようにない。
少しは考えたほうがいい、老いぼれる前に。
それとも、ついに老いぼれたために、思い至ることもないわけか。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
落合って面白いことをいっこも言わないよなあ・・・
と、テレビを観てひとりごつわけである。
この人物は、野球は上手だが、野球に関して役に立つことを少しも言ってくれないばかりか、素人の我々が想定する「元プロ野球選手による専門知識」をはるかに下回る、つまり当たり前のことしか口にしない。
要するに、しゃべりがとてつもなくつまらない。
と思ってると、隣でよめはんが、「こいつ、ジジイだなあ」と言うではないか。
なるほど、そういうことなのだ。
すごい実績を残したって?
関係ないでしょ、じゃ、今はなにができんの?
野球選手じゃないんでしょ、今は解説者でしょ、解説ができねーなら解説しないでよ、少なくともしゃべりを勉強してよ。
つわけで、きちんとした仕事のできないこの人物のごときジジイは、立場を退かなければならない。
いや、世の中のジジイ全般を悪く呼ばわってるわけではない。
「求められる仕事において水準を下回る偉そうなジジイよ、おまえに偉そうにする資格はない」と言いたいのだ。
みっともない仕事しかできないジジイは、本人の自覚において、若い衆に席を譲るべきだろう。
電車内では若者に「席を譲れ」と言っておきながら、やつらはちっとも職務上の席を譲ろうとしない。
その座への拘泥っぷりは、連日に報道でさらされる連中(スポーツ界、政界、経済界)の振る舞いっぷりを見るだに、目を覆いたくなる。
要するにこの類のジジイは、手にした権力に相応する能力がすでに自分にないことを認めたくないのだ。
それができないために、醜い姿をさらす羽目になり、ついには晩節を汚すことになる。
70のジジイババアが、10代の体操選手を指導?
ぜったい無理だね、素人でもはっきりとわかるよ、誰が考えたって教え方がフィットしない、だって飛んだこともないでしょ、そんな高度な技を。
端的に言えば、ジジイらの「自身の能力を自覚できないという部分の認知能力の失いっぷり」が、一回転して痛々しいわけだ。
昨今のスポーツ界の頂点の人々の見苦しさを見せられると、ああは老いたくないものだ、としみじみ思う。
ジジイよ、とっとと席を譲れ、いつまで出しゃばってるつもりだ。
おとなしく身を引いて、後進にまかせるべし。
でなきゃ、電車内でもおまえに席を譲る気にはなれぬ。
というオレも、そろそろ席を譲っていただけそうな年代に入るわけだが・・・
しかし、オレは譲ろうと思う。
その都度に、いろんな席を。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園