
物理学からさまよい込んだ生命科学方面で右往左往してたところ、とある友人が「これを読めば?」と勧めてくれた本です。
著者の今西さんは、生物学者って触れ込みなんだけど、読んでみるとどうもこれは、彼の自然観の集大成たる生命哲学の本ですね。
そしてそれはまた、ぼくがかねてから考えてた宇宙観とピタリ一致するものでもあり。
もやもやと煎じ詰めきれないでいたイメージが、そこには鮮やかに描き出されてました。
自分の不細工なスケッチが、ひとの手によってクリアに磨かれて完成されてた!って感じで、悔しいけど、なかなか悪くない気分です。
彼の(そしてぼくの)描き出す曼荼羅図は、複雑な入れ子細工の構造を取ってます。
細胞はひとつの生命体だ、というところからはじまり、それをミクロ方面に突き進めると量子世界になり、マクロに展開すると宇宙になり、そのステージステージがマトリョーシカのように何層にも組み合わさってるわけです。
そんな層構造なのに、すべてが連続的で境目がなく、ひととは環境であり、宇宙であり、しかも個であり・・・要するに、ワンインオール、オールインワン!という突拍子もない着眼。
だけど、考えてみてほしいのですよ。
ぼくの肉体と命は環境から、そして時間軸から完全に独立してるようではあっても、どこまでもつながってます。
ぼくはどこからきたかというと、お母ちゃんのお腹の中からであり、さらにその発生までをさかのぼると、お父ちゃんから発射されたいっこの生殖細胞であり、さらにさらにずっとずっとさかのぼると、じいちゃんとばあちゃん、さらにはご先祖さま、サル、原始哺乳類、海中生物、原形質の単細胞生物・・・そして海のあぶくにまで行き着きます。
時間軸というタテの流れによって、種は連続的である、ってことがたどれるわけです。
その逆再生をさらに順回転させると、今度はヨコ方向、すなわち広がりへの展開が得られます。
盛大な多様性に枝分かれし、各々がまたそれぞれの独創性を発揮し、海に、陸に、空に、無限に開いていくのです。
流れ流れて今この瞬間、という一座標を切り取っても、各地に繁殖した多種多様な生命体が、これもまた環境を介して連続的。
タテ、ヨコ、すべてが連続的で、一体的で、区別がなく、境目がない。
ぼくは呼吸をし、吸い込んだ空気を体内のすみずみにまで送り、そこでは細胞のひとつひとつが成分を受け取って自己と同化させ、余分を排出する。
排出された成分は、地球環境内の(あるいは宇宙空間にまで及ぶかもしれないが)何者かが受け取り、処理をし、また別の成分を排出し・・・それらはすなわち、総体として大きな生命活動のように循環し、全体で環境をつくっていき、環境は個をつくり、個は環境をつくり・・・結局のところ、すべてが流れの連続の中に一体化してると見なしていい。
細胞と、個としての自分は、どこに区分があるのか?
細胞もまた個なわけだが、そいつは果たしてぼくなのか?
さらに、空気と、個としてのぼくの肉体、そして細胞とは、どこに境界を持つのか?
空気がぼくの一部である以上、環境とぼくとは連続的なんであり、宇宙の中のぼくってのは突き詰めれば、ぼくの中の細胞と同様の存在なんではないか。
・・・みたいなことがですね、非常にくどくどと・・・いや、丁寧な入れ子細工形式で説明されてるのです。
ずっとずっと考えていながら茫洋としてまとまらなかった、思考というよりは思想を、きちんと整頓して引き出しにおさめてくれる、大切な一冊になりました。
それにしても、こんなことを戦時中に考えてたとはなあ・・・
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園



