東京都で、タバコ規制がはじまりそう。
飲食店でタバコは吸えません、ってもの。
うれしすぎ。
当たり前なんだけどね。
今度こそがっかりさせないでくれ、小池知事!
飲んべのオレは、昔はタバコの煙がモクモクと立ち込める店でうんざりしながら、それでも平気で過ごしてたんだけど、今では無理。
タバコ禁止の店で飲むようになってから、マジでタバコの煙の中で過ごすのが無理になった。
これまで、いかに気分悪く過ごさせられてきたか、思い知らされる。
「こんなに新鮮な空気の中で食事が楽しめるなんて!」って当然のうれしさを、日本のほとんどの飲食店では感じることができない。
あるいは、食事の本当の美味しさと居心地のよさを感じることができない、と言い換えてもいい。
タバコの煙の中で食事を味わうのを強いられることがどれだけ異常極まる事態か、怒りとともに思い返さなきゃ。
この条例が機能しはじめた、おそらくわずか一年後には、「食事の席でタバコ?おまえアタマおかしいの?」という感覚が常識化してるにちがいない。
本当に実現してほしい。
当たり前の環境が。

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やっぱしブラッドさんは、ソロものが最高です。
なんたって、ナルシスト。
リズムのコントロールも、ベースラインも、全部を自分ひとりで奏でて支配しなきゃ気がすみません。
そんななんでも屋なものだから、ソロピアノも、トリオもののようなひろがりのある聴きあたりになります。
なぜなら、このひとのピアノには、旋律が三つあるのです。
三つの音(ふたつのメロディラインに、リズム音)を、けろりと同時に弾いてしまうのです。
オーケストラの演奏を一台ですませるのがピアノという楽器なわけですが、そうした解釈ともまた違います。
ブラッドさんのソロ演奏の映像を観ると、中音域に置いた両手の親指と人差し指に代わる代わるにリズムセクションを担わせ、空いた指で、つまり左手の残り指で低音域のメロディライン(ベースラインでもなく、きちんとした旋律)を、右手の残り指で高音域のリードラインを弾いてます。
その超絶技巧は、まさしく変態。
まったく不思議な音色です。
耳あたりは、直感でまず、ピアノデュオのような音の分厚さがきます。
ところがデュオとは違い、その何種類かの音には、当然ながら完全な意思の疎通(統一)と調和があります。
デュオ演奏においてふたりのピアニストが個性をぶつけ合う面白さは、ある意味、聞き苦しさでもあるわけですが、ソロピアノには、そういった音の破綻、偶発的なトラブルがどこにも存在し得ません。
ふたりのブラッドさんが、気持ちを通わせながら同時に演奏してるようなもの。
どういう脳のつくりなのでしょうか?
さて、本作ではそんなブラッドさんが、バッハの曲を展開してます。
展開というのは、つまり変奏と言っていいものかどうか、とにかくバッハさんの曲を解体して、いろんな現代的テイストを加味しつつ、新しい音につくり変えていく、というものです。
まずは、バッハそのもの(プレリュードやフーガ)の演奏が入ります。
バッハの時代は、ピアノじゃなくチェンバロの演奏が主流で、その楽器では音の強弱が表現できないために・・・というよりはむしろ、演奏よりも、組み立てられた旋律そのものが重要視されたために、バッハ演奏の作法として「楽譜上のすべての音のツブをそろえてのっぺりと弾く」ってのがお約束になってます。
このブラッドさんのアルバムでは、それをいったん作法通りに弾いて見せた後、その原曲を驚くべき解釈でメルドー節に構築し直していきます。
これがもう、本当に驚愕させられるのです。
アレンジが変態的すぎるし、なにより、美しすぎ。
クラシカルな学術論文を、高度な数式に書き換えたような・・・って言い方は分かりづらいでしょうか?
ある曲などは、分解ののちに7拍子に改造された挙句に、左右の音がまったく別々に展開し、さらに途中からリズムが裏返り・・・うむー、この構造をどう表現するべきか・・・
湯船に浸かりながら、防水オーディオではじめてこのくだりを聴いたとき、誇張なしに、どういうわけか抱腹絶倒させられました。
あまりのことに、吹き出してしまったのですよ。
そしてその直後に待ち受けるクライマックスでは、ホカホカの湯の中で鳥肌ぞわぞわに。
鍵盤の全音域を低→高へ一気に指が横断するわけですが、ここの7拍子変換がえげつない。
やっぱしこの変態感が、すき。

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日大のセンス、想像以上ですね!
いやー、おもしろい!
よめはんの肩の落としようと完全に反比例して、ものすごくおもしろいです!
いろんなキャラがふんだんに用意されてて、こんなに豊かな舞台芝居ってありませんよね。
言ってることはスカスカなのに妙に胸を張ってる支配者に、ボキャブラリーが貧困すぎる筋肉脳の取り巻き。
二週間も雲隠れしてたんだから、もう少し策を練っとけよ〜(アメフトの戦略って、バカでもできるんだなあ)。
それに暴虐極まる進行役の配置まで、ほとんど吉本新喜劇かと見まがいます。
そんなひどいありさまの権威側に対比して、ひとりものすごく健気な自己犠牲の勇者。
この図式は、日本人が昔から好む勧善懲悪ものの典型。
報道が食いつくのもわかります。
だけどこれ、また政権による目線の誘導じゃないですよね?
都合の悪いことが出てくるたびに、世間の目を引く大事件が起きる、ってのは不思議。
それにしても、日大はどうなっていくのかな・・・
立ち上がらなきゃ、OB。
・・・だけど、穴があったら入りたいその気持ちもわかる。

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よめはんが日大卒、よめはんの父ちゃんは日大の教授、って日大(芸術学部)一家なんで、みんなで頭を抱えてます。
そういえば、日芸って、日大だったんだなあ。
「反則タックル」って記事が並んでるけど、ありゃ厳密に言えば、タックルじゃないですね。
審判が時計を止めた後の意図的な激突は、どつき倒すのと同じ「暴力」。
相手に怪我を負わせようとしてのその行為なら、犯罪として取り扱う他はありません。
それを指導者が「生徒」に指示してたんだとしたら、そこにはスポーツに対する愛も、教え子に対する愛も、絶無。
人間のクズってことになります。
この洗脳教育は、特攻とそっくり同じ構図。
戦中世代はやはり、教育に関わっちゃダメ。
それにしても立派な会見でしたね、ナントカ選手。
こんな高潔な人物が、まじないひとつで、悪業に手を染めてしまうんだなあ・・・
しかし、その後の清廉な振る舞いで、立場を大逆転させたと言っていいでしょう。
言葉って、誠意ですね。
それに比べて、日大の後処置の陳腐さときたら、目も当てられません。
監督の謝罪がなんであんなに胸を張って威張った感じになるのかもわからないし、忖度極まる広報部の、言い訳で逃げ通そうって態度も理解不能。
バカで、不潔で、どうしようもない。
現在の安倍政権の末期の姿に瓜二つに見えます。
身内がそれをやってんだから、我が家(よめはん家)の気恥ずかしさ、面目のなさがわかってもらえますかね?
だけどまあ、ここまできたら、どこまでも落ちるのがいいでしょうね、日大。
至学館大学同様、上の人間がこうだと、学生から卒業生まで、全員が恥をかかされます。
とっととやめろ。
そういえば、至学館の女学長と、日大アメフト部監督、きょうだいみたいに似てるなあ・・・

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・・・というわけで、思考実験で生命機械をつくってるわけ。
系の独立と、動的平衡の問題は、難しいにしても、古典的な化学の応用でなんとなくクリアできそうな予感はある。
だけど、自己複製に関しては、ハードルがはるかに高い。
生命の仕事として、ただ生きて動ける、ってだけじゃなく、自分が生きて動ける間に、次の世代を・・・すなわち、自分と同様に生きて動ける分身を、つくらなきゃならない。
これが自己複製問題。
地球上における生命体はみんな、DNAってやつを用いて、この難題を解決してる。
が、一体どうして、我々よりもはるかに下等な原始的生物がこんな高度な発想に至ったのか・・・それがまったくわからない。
自分と同じ形状を再現する、ってんなら、現代には3Dプリンターがある。
そこで考えてみる。
3Dプリンターが、自らの機能を使って自己複製をする(新たに3Dプリンターをつくる)とどうなるか?
これは、生命体が自分を複製するのとまるで同じと言える。
なぜなら、生命体が複製した次世代の生命機械はその中に、そのまた次世代の生命機械を複製できる3Dプリンターを組み込まなきゃいけないんだから。
つまり生命体は、自分をもう一個つくる機能を備えたもう一個の自分をつくる必要がある、ってことだ。
そこで、3Dプリンターで3Dプリンターをつくりあげてみる。
複製には、素材もきっちりとそのものが使えると仮定しよう。
ところがこれが、とてつもなく難しい。
形状を・・・つまり一個一個の部品を正確に複製するのは簡単だ。
しかし、こいつを組み立てないと、次世代の・・・つまりもう一台の3Dプリンターをつくり上げたことにはならない。
それをするには、その部品を組み立てる別の機械が必要になってくるので、その機械も3Dプリンターでつくる。
さらには、その機械もまた組み立てる必要があるので・・・こいつは堂々巡りとなる。
その点をクリアしてついに3Dプリンターを組み上げたとしても、今度はそいつを動かすプログラムもまた複製しなきゃならない。
プログラムなんて形のないもの・・・いわば「ものを動かす」という概念を、言語もなしにどう複製するのか?
また、機械が組み上がってプログラミングも終えたとして、その動力源も複製する必要がある。
3Dプリンターで言えば、電気だ。
というわけで、エネルギーを生み出すメカニズムもまた複製しなきゃならない。
まったく、奥底が知れない・・・
複製とは、形の設計図だけの問題じゃなく、その目的という観念自体を伝えていく作業も含まれるので、こいつを「魂」抜きに物質だけで進めようとすると、なんともどこからどう手をつけたらいいのかわからないんだった。
自分向けの備忘録につき、文脈が無茶苦茶、失礼。

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ここ数年も「場の量子論」を勉強してて、ようやくおぼろに理解できてきたぞと感じてたとこなのだ。
だけどそろそろもういいや、って感じになってきたんで、切り替えて、まったく新たに興味を持った「生命の発生」なんてことをこれまた茫洋と追っかけだしたところ。
ところが、それらがなんと実はひとつながりになってて、これまで追っかけてきたやつは完全にこれからやるやつの基礎にすぎなくて、次こそが応用であり本体である、ってことに気づかされて、今さらながらに衝撃を受けてるとこ。
今までやってきたことは全部、これからやることのための準備だった!
まるで、彫刻をやって高校教師をやってマンガ家をやったなんの気なしの前半生が、後半生に見出した「陶芸教室の先生」って天職に全部収れんした、ってあの流れみたいだよ。
自分にとって今や基礎知識に過ぎない存在となった量子力学が、生命科学に組み込まれた化学や生物学の実用面でさんざんに使い倒されてるのを見るにつけ、逆説だけどようやく量子ってものが理解できて、その振る舞いと構造が腑に落ちて、本のページをめくるたびに蒙が啓かれてく気分。
神様を信じるひとの気持ちが少しわかってきたよ。
あの信仰の深さと熱意を、オレは論理と計算の方に向けてるに過ぎない。
そこに真実(自分なりの)を見てる、って点は、まったくおんなじだー。



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えらい情報をつかんだよ。
生体内のコラーゲンと酵素との間で、量子レベルのやり取りが行われてるんだと。
量子力学によれば、素粒子ってのは、粒として一定の場所にじっとしてはいない。
電子が原子核の周囲を周回してるわけじゃなく、一定の距離を置いた範囲に確率として存在してるように、その位置は常に不確定なのだ。
簡単に言えば、素粒子はぴょんぴょんとテレポーテーションみたいに、あっちからこっちへと瞬時に移動できてしまうのだ。
この「トンネル効果」ってやつを利用して、生体内で電子が物質間を移動し、あちこちに反応を起こしては、アミノ酸内の分子の配列なんかを変えてるらしいのだな。
一個の電子がそこにあるかないかによって電荷が書き換えられ、物質の性質がまるで変わってしまうんで、この活動は生命現象のまさに根っこだ。
具体的に言うと、オタマジャクシのしっぽをボディに収納して解体し、リサイクルして四肢をつくる、なんて作業を、素粒子のこんな物理法則が操ってるんだ。
あっちで分子のつながりを切る。
こっちで結ぶ。
別の性質の物質ができる。
そいつをこっちに持ってきて、別の分子と反応させる。
一個の電子の瞬時の移動が、これだけのことをやってる。
誰の意思だかは知れないが、電子をあちこちに飛ばすことで、生体の新陳代謝と動的平衡は実行されてるらしい。
オレがオレだと思ってるこの生命機械は、こんな小さな人々の働きの大きな集合体なんだよ。
そしてそれら小さな意思のひとつひとつが結びつき、代表としてオレというアイデンティティを築いてくれてるんだが、当のオレは、そんなひとたちのことなんかまるで意識することなく、それでもどういうわけか、巨大な意思を形成できるんだった。
まったく不思議なことだ・・・

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ちょっとタイムリーじゃないけど、あの話題ね。
「私の声じゃない」のに「全体を聞いてくれたらわかる」っては、つまり自分が言った、ってことだし、「あんなひどいことは言わない」ってことは、話の内容がひどいと認識してるってことだし、要するに三段論法を用いると、「あんなひどい話を私が言った」ってことなんじゃ?

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新しいものを書き出そうとするとき、その素材について一から勉強しなきゃならない。
相対性理論から場の量子論の件は決着をつけたんで、また新しいことをはじめたとこ。
ここんところ、生命の発生についての考察をしてて、書き進めるとさらに興味深くなってく。
遺伝子のメカニズムのあたりはかなり勉強したつもりだけど、すっかり忘れてるし、その構造よりも、むしろ書きたいのはその発生の物語なんで、化学の知識が必要なことがわかった。
化学式とか、もっかい勉強し直そうかなあ。
あと、生物科学?
ヌクレオチド、RNA、葉緑素・・・勉強し直したい。
勉強するべき分野がどこまでつながってて、果てしなく深くて、際限がなくて・・・そのせいでそそられる。
酒場にいっても、飲みながら、本ばっか読んじゃう。
どうかしてるかも。
やりたかったのは物理学だったはずなのに・・・おかしいな。
知識欲が暴走気味。
勉強できる、って一点で、子供に戻りたい。
一方、インプットの欲を上まわるのが、アウトプット欲の方。
備忘録がわりに、こうしてブログに思いつきを書きつけてるわけだけど、いずれ構成しなおして、「お話」にまとめたい。
どうなることか・・・?

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分裂!
ある瞬間だ。
水の流れの加減でか、なにかがぶつかったからか、彼のからだはまん中からふたつに分かたれてしまった。
ところが、どうした偶然だろう。
膜の一部がくっついたままだ。
あっちはこっちを離そうとせず、こっちはあっちを引き寄せる。
彼に意識はまだ芽生えないが、ふたつに解体されたはずの彼は、あっちも、こっちも、どちらも彼なんだった。
分かたれたようで、それはひとつなのだ。
その証拠に、薄膜を間に介して、相変わらず今まで通りに、片方が外界から得た要素はもう片方にまで拡散し、ふたつの内部は等質にして動的平衡を保ててる。
その上に、分裂したひとつひとつはそれぞれに、すべてが丸くおさまってた今までと同じ大きさにまで膨らむことができる。
これは、実質の成長だ。
大きくなったんだ、彼は。
この作業をくり返せば、彼は延々とからだを大きくしていくことができるぞ。
しかもこの奇妙な形は、各部位に個別の役割を持たせることも可能だ。
ふたつに分かれた上の方の球体部は、水の本流にさらされるので、外界からより多くの要素を取り込む役割が期待できる。
一方、下になった半球体部には、海底にしがみついて態勢を安定させる役を割り振る。
そうすれば、さらにその役割に特化した機能を、各部位が独立で高度に発展させられそうだ。

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