いつも新幹線に乗って帰省する。
東京は始発駅なんで、直近発車号の一本か二本後の列に並べば必ず座れる、ってことになってるんだが、いつも周囲であれやこれやが発生して、興味深い。
要するに、外国人さんだ。
よめはんとふたり席に座ったときは、車両が富士山の前を通過する際に、隣席のラテン系の人々が我々越しに窓外の風景をあまりにもときめきの目で見つめてるので、しばし「よかったら」と撮影場所を提供した。
ああしたときの彼ら、彼女らのチャーミングな反応ときたら、日本人には持ち得ないたまらないものがある。
よき振る舞いをすべきと心に点火あらば、即座にそれはすべきなのだ。
いや、むしろこちらからあれやこれやを探すことこそ必要だと心得たい。
かように、プライベート・パトローラーのオレは、車両内外で油断することなく、善意を施す機会をうかがいつづけるのだった。
オレは在来線のプラットホームに立ってるときでさえ、「今この瞬間にひとが飛び降りたら(落っこちたら)、すぐさま助けにいく」心の準備をおこたることなく、自分も飛び降りる設定で、緊張して過ごしてるのだ。
最近などは、「はやく誰か飛び降りないかな」とうずうずしてるほどだ。
ひとにはあまりおすすめできるものではないが、街の平和を守るパトロールとは、このように大変な仕事なんである。
さて、新幹線だが。
先月の帰省では、三つの仕事をした。
オレは新幹線の車両に乗り込むと、必ず通路側に席を取る。
いつ、なんどき、事件が発生しても、すぐに動けるようにするためだ。
いつ、なんどき、車内販売がやってきてビールが欲しくなるともかぎらないし。
こうしてこのときも、三人席の通路側にまんまと席を獲得したオレだ。
窓側にはもうひとりが座ってて、真ん中の席が空いてる。
そろそろ満席になろうかというそこへ、ヨーロッパ系の男女ふたりが乗り込んできた。
彼らはふたり並んで座りたいのだが、あいにくと空いてるのは、歯抜けのようなひとり席ばかりだ。
さっきから二往復も三往復もしてるので、ヨシ、と声をかける。
オレがどけば、この席は彼らの求めるふたり席に早変わり、という簡単なパズルの解答だ。
呼び止めたふたりに身振りでそれを伝え、自分はすぐ前の空いたひとり席に移動した。
異国の旅先で、愛し合うふたりが分かたれてはなるまい。
いっこの事件を解決したぞ。
ところが、ついに満席となった新横浜で現れたのが、小さな子供を連れた盲目のお母ちゃんだ。
白杖をつきつき、通路を右往左往してる。
こんなときの暗闇の中の戸惑いときたら、察するに余りある。
ずっと座って楽チン旅をつづけたいこちらの心も惑うが、いったん芽生えた心の引っ掛かりに、嘘はつきとおせない。
要するに、この場面をスルーする苦々しい痛恨をずっと(おそらくは生涯)心に留め置く図太い精神がオレにはない。
席をあきらめてついに連結車両に消えたふたりを追い、呼びかける。
母親に、空いた席があることを告げ、手を引いて自席に導きはじめると、車両の空気は見る見る変わった。
彼女の不幸な事情をすでに目撃してた周囲の乗客は唖然とオレの奇特な振る舞いを見上げ、盲目の彼女もまた驚愕の表情をこちらに向けてる。
まじですか?という、こんな奇跡が本当に?という。
訳も分からないままに席に座れる、という状況が飲み込めないでいるのだ。
これは逆に、日本人の心の冷たさの裏返しでもあろう。
とにかく、盲目の母親は無事に席を獲得し、子供をひざに乗せることができた。
手を引いた相手も事情も暗闇の中だが、とにかくパズルが無事にはまってよかったではないか。
オレはというと、連結機の地べたでワープロ仕事をすることにした。
思えば、いつも芝生の上でしてるのと同じ姿勢ではある。
そして目的地に着き、降りてみれば、今度は韓国系の若い母親が、よちよちの子供を連れ、驚くべき分厚さのトランクケースをふたつもコロコロさせながら、これもまた右往左往してる。
少しは自分のキャパシティというものを考えたらどうなんだ。
その巨大でクソ重い荷物をあずかり受け、タクシーの乗り口まで運んで差し上げる。
三つの仕事をこなし、いい桜を見ることができたんだった。
ふう。

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さて、水底で安定したはいいが、この環境はいいことも悪いこともある。
まずいいことは、奇妙な水流に巻き込まれての破損や破裂の心配が少なくなった。
あっちにこっちにと不安定に流されることもなくなったし、これは具合いがいい。
悪いことは、地べたに接地面が取られているために、表面積が減ってしまった。
からだの維持管理に必要な要素があっちからやってきてくれるのを待つのみの身にとっては、その可能性を少しでも削ってしまうのは命に関わる一大事だ(まだ生まれてない命だが)。
かといって、彼にはまだ「自分から出向き」「能動的に獲得する」などという野心はまだない。
そもそも主体的に動けない彼は、あくまでも受け身なのだ。
それでも、できることだけはやるしかない。
彼はいいことを考える。
体表面が減ったのであれば、増やせばいい。
すなわち、大きくなればいいのだ。
ただし、それには問題もある。
やたらと巨大化したとして、彼を取り囲む膜の強度はもつのだろうか?
泡が破れれば、ここまでの努力が水の泡だ。
仮に球体の直径を二倍に増やしたとして、膜の厚みが二倍になってくれるわけではない。
つまり、あぶくには大きさの限界があるのだ。
では、長さ方面に成長してはどうだろうか?
膨らむのではなく、細く長くなるのだ。
これはいい考えに思えるが、それにも表面張力と水圧という問題があって、形状を保つことができない。
一定の体積を持つ柔らかいものは、周囲から一様な圧力を加えられると、表面積が最小である球に限りなく近づこうとするのだ。
ではどうすればいいか?
ふと、素晴らしいひらめきが、彼を打った。

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水中を浮遊する彼もまた、万有引力の法則に従う。
周囲の煮えたぎる水と、彼が抱え込む体液とは同じような濃度だが、体内における実験によってさまざまな機構が配置されたからだは、水よりも軽いとは考えにくい。
その機構の数々は、周囲から集めた要素を化学反応で凝縮させたものと考えられるから、とにかく彼は沈むんである。
あるいは、彼が「浮上しよう」と指向したのだとすれば、体内にガスか空気あたりを取り込んだはずなんだが、ここでは彼はそうしなかったことになってるんである。
とにかく、彼のからだは沈降していく。
海底に着床!
そう、まさに彼はこの世界に生を得ようとしているのだ!(「着床」が、妊娠の開始を意味する子宮世界におけるミクロの現象・・・なんて説明は野暮か)
球体だった彼のフォルムは、底部が扁平になり、落ち着きよろしき形状になった。
その接触面は、海底にたまたま存在した地質学的生成物と引き合うか、噛み合うか、同化するか、どういった作用でか、固定されることとなった。
こうなると、さらにはっきりとした方向性が生まれる。
方向性とは、文字通りの、方向だ。
個体のこの部分が上で、ここが下。
頭がこっちで、尻はあっち。
一定の流れがやってくる側に入り口を設け、反対側に出口を配することができる。
これはまさに、「からだ」というデザインの第一歩だ。

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水中を漂うあぶくになった「彼」なわけだけど、その場から主体的に移動しよう、なんて野心はまだない。
なぜなら彼は、「広さ」という概念を持ってないんだから。
ちょうど、人類が天動説を信じきってたように、自分の周囲がこんなにも広がってるなんて、思いもしないわけだ。
周囲の抵抗物(水)がゆらゆらとうごめく中で、視覚を持たない彼は、自分がただそこに「在る」としか感じることができない。
しかし、自分が移動「させられて」いることは感知しようがなくても、自分の周囲の環境全体が動いていることは理解できそうだ。
ということは、彼が方向という感覚を持つことはあり得る。
彼が身を置く水とは流体であり、外界からの抵抗と刺激は、いつも球体の全面均一にはやってきてはくれない。
取り込むべき要素が接触してくれる箇所にも、偏りがある。
つまり、水が流れてくる方向から、常に欲しいものはやってくる。
その位置に、外界との出入り口を集中させることは可能だ。
彼は、効率という概念を獲得する。
こうして新陳代謝を重ね、彼は体内の平衡を保つわけだが、この作業がこなれてくると、やがて当たり前のアイデアがひらめく。
すなわち、このやり方で、自分の中に自分をつくれるぞ!というわけだ。
この様式を取り入れれば、自分の体内においてもまた同様の小さな化学反応実験室をつくれる理屈だ。
つまり、あぶくの体内に、入れ子構造のようにして相似形のあぶくをつくり、そこでもまた要素の出し入れをすれば、より濃密な小部屋ができる。
こうして、今もって有機物のあぶくであるにすぎない彼は、知性を持つことなしに、構造を複雑化させ、機能の効率をアップさせていく。
あるいはこのとき彼は、周囲から勝手にやってくるエネルギーを取り込むよりも効率的な、自家栽培エネルギーを獲得してしまったかもしれない。

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生命が水中から発生したことには疑いがない。
となると、最原初のその構造は、独自の系を外界から隔てるべく、油膜のような結界を張りめぐらせた、有機物のスープだったわけだ。
そしてその形は、表面張力と、周囲からの圧力による、完全な球体だったことは間違いない。
さて、未だ意志を持たない彼の最初の仕事は、浸透圧による透過現象と、化学反応ということになる。
油膜を間に置いて、外界から系の内側へと必要な要素を取り込み、腹の奥で化学反応を起こし、必要のない要素を排出する。
ここまでは、特別な神様からのいただきもの(知性)がなくてもできそうだ。
その一連の反応を「活動」と書き換えると、次のような表現になる。
「彼」は、油膜の内側にもともとあった有機物と外界からすくい取ったものとを突き合わせてなんらかの実験を行い、作用の報酬に得たなんらかのエネルギーを元手にさらなる実験を可能にする熱量にフィードバックさせ、それにともなって発生した汚物を外に追い出しつつ、入れ替えにまた必要な要素を取り込み、その繰り返しによって、常に内部を等質に保つ。
動的平衡だ。
そしてその連鎖は、まさに「生きる」という活動そのものでもある。
この生命の卵ともいうべき無意識の循環現象の円を閉じ込むあぶくは、自分と同様の構造のものを再び生み出そう・・・すなわち、子孫を残そう、などという着想はまだ持ち得ていない。
つまり彼は、自身の個体を永遠に永らえさせよう、という突拍子もない願望を抱いている。
これが、この世で最初に生じた意志といっていいんじゃなかろうか?

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持続的な生命活動には三つの条件が必要、ってのが生物の発生って問題を考える上でのヒントになるようだ。
すなわち、下の三つ。
1、系の独立性(膜に覆われるかなんかして、アイデンティティを保てる)
2、動的平衡(新陳代謝をしながら、形質を保てる)
3、自己複製(増殖して、子孫を残すことができる)
これらのひとつでも欠けると、生命の維持は不可能、あるいは、一代限りの偶然、ってことになる。
だけど逆に言えば、これらのひとつでも達成できた一代限りの偶然が数多く起きれば、次の条件を満たすための熟成の猶予となりうるな。
だとすれば、最初に起きた偶然は、「膜に覆われる」という現象にちがいない。
そこで、数多くの実験が行われたわけだ。

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敬愛できる店があって、そこは「禁煙」なわけ。
売り上げが落ちようが、損しようが、とにかく店の誇りにかけて禁煙なわけ。
だからこそ敬愛できるんだけど。
そこに、見るからにバカそうなカップルが入ってきてさ。
「タバコ吸えないんですか?」って。
「すいません吸えません」って店主。
そしたらバカども、ものすごいブーたれた顔で出てったわ。
しかしね、考えてごらん、おバカなふたりよ。
ここがひょっとしてタバコが吸える店だったとして、きみたちが吸いはじめたとして。
きみたちは気分がいいだろう。
ところが周囲の客は、ほらきみが今、そうして見せたブーたれた顔で、タバコを吸うきみたちを見るのだ。
きみたちはおめでたいからわかっていないが、これまでもそうだった。
きみたちがタバコを吸うたびに、周囲からその顔をされていたのだ。
きみたちは、煙の量と等量にけむたがられている。
さらにリアルに言えば、きみたちがカウンターでタバコを吸うたびに、きみたちは周囲から「死ね」と思われている。
そんな周囲の顔に、きみたちはいまだに気づけないでいる。
ブーたれてる場合か。
もう一度言う。
断言できるが、飲食店でタバコを吸う人間は、周囲から「死ね」の視線で見つめられている。
タバコを吸わないひとに、ちゃんと聞いてごらん。
間違いなくそうだから。
少なくともうちのよめはんは、その目できみを見つめている。
あのな、タバコが吸える店だからって、タバコが自由に吸えるわけじゃないのだ。
私の前で吸うな、と言われたら、吸うな。
それが常識というものだ、わかったか。

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書きたい病と、読みたい病を発症中。
アウトプットした分だけ、インプットしていく。
今いちばん興味があるのは、生命の誕生。
赤ちゃんがどう生まれるか・・・じゃなくて、生命体が活動を開始した最初を知りたい。
つまり、鉱物しかなかったこの世界で、いかにして無機物の中に「タマシイ」が発生したのか、って点。
その開始点。
物の本を読んでも、「水中から高温の有機物が噴き出し、そこに雷が落ちてシアノバクテリアが生まれ、それがやがて進化した」とか、乱暴な例では「宇宙から降ってくる隕石の中にアミノ酸が含まれてて、それが単細胞生物に進化した」なんてあるけど、すっ飛ばしてんじゃねえ!って話だよ。
こっちは、生物が進化をはじめる、そのさらに前段階を知りたいのよ。
海の底で、あるいは宇宙の奥で、どんな過程を踏むと、うごめくという行為が生まれるのか?ってこと。
要するに、単細胞生物よりももっと原始的な段階で、いかにして「生きよう」なんて奇妙なことが着想されたか。
そいつは天才にちがいない。
単純に想像するに、最も原始的な「活動」らしきものは、化学反応の連鎖による自動的なもの。
つまり、水分を含んだものに塩が触れて収縮、とか、浸透圧の加減で平衡と破綻状態が行き来、とか、あるいは電気が信号として関わったかもしれないし、磁力が介入したかもしれない。
そういったものが、いつの時点でコントロールされるようになったか、ってこと。
そこに、最初の意思が生まれるわけ。
・・・この話は面白いから、アイデアがこぼれたその瞬間に、ここに覚え書きに綴っていこうと思う。

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誕生日だった。
一応、お母ちゃんに感謝の電話。
よくぞこの天才を世に生み落してくだすった。
2月23日。
数年後からは、天皇誕生日になるらしいよ。
それにしても、51かあ・・・
キミマロによると、人間は51までなんだって。
あとは、ごじゆうに、なんだそうな。
うまい。
しかし、至言ではある。
この一年で、全部出しとこうっと。

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辺野古のあんなにきれいな海を、平気で埋め立てることができるんだなあ。
どういう神経なんだろ?
アメリカの振る舞いには、嫌悪感を通り越して、友だちであることを諦めたくなる気分だよ。
嘉手納の面積で満足できないのかなあ、本当に不思議だよ、あの国民の支配癖。
その脱力感以上に、アメリカの言いなりになる日本の態度が気持ち悪い。
この国は、完全に美質を失った。
政府は、貧乏人どもをどう扱えば干せるのかを完全に熟知してて、要するに辺野古は、「反対するものには罰を与える」「でも賛成してくれればものをあげる」方式で命令に従わせようという、あからさまな例だ。
辺野古住民は、悪いことをしてるわけじゃない。
「怖いものをつくらないでくれ」「きれいな海をめちゃくちゃにしないでくれ」と言ってるだけ。
ただそれを口にするだけで、この国では罰せられるんだった。
そして、もらえるべきお金を奪われるんだった。
一方、土下座したものには、お金が振る舞われる。
このやり方で、民意なんてはかれっこない。
東京では、町の公園を一個つぶすだけで、住民の反対運動が起きる。
そこで「反対するなら、おまえの町だけ干し上げる」と言われたら、どう思う?
おそらく、やめるしかないだろう。
ところが、そこにできるのは、うるさくて、危なくて、昼も夜も安全にも安心にもまったく配慮しないタイプの軍人たちが操る航空機が離発着するスタイルの飛行場なんだよ?
それでも沈黙できる?
沖縄の海を見たことがある?
いっこの公園じゃないんだよ?
あの美しい海を、回復不能なまでにコーティングしようってんだよ?
反対せん?
土下座できる?
沖縄県の一部住民は、ついに土下座をした。
その気持ちは痛いほどわかる。
彼らも、生活を守らなきゃならない。
それを利用した政府の、完全な勝利だと思う。
ただ、日本の美質は完全に敗北した、とも思う。

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