卵が先か、ニワトリが先か、という結論の出ない問答がある。
生命体における自己複製とは、突き詰めて言えば、タンパク質を各種合成して適切な箇所に配置する、という作業だ。
ここで問題になるのが、タンパク質が先か、それをつくる機械が先か、という点だ。
機械(生命のメカニズム)は、多種のタンパク質が組み上がってできている。
そのタンパク質は、機械によって生み出されている。
その機械はタンパク質からできており、そのタンパク質は機械からできていて・・・と、一体どちらが先だったのか?
いずれにしても、双方とも「あるときポンと」できるのは難しそうだ。
なんと難しい問題が、この最初の段階で出てくるのだろう。
あまつさえ、最初の生命体である「彼」がつくらなければなないのは、ただのタンパク質の構成体としての自分(の肉体)ではなく、「自分をもう一体つくることのできる自分」でなければならないのだ。
話が理解できているだろうか?
ここで、ある想像上の機械をつくることを考えてみる。
「自立式かつ自己完結式に自己複製ができる機械」を。
・・・よくわかるまいから、思考実験でそいつを実際につくってみよう。
その機械は、外からなんの干渉も受けずに、自ら動いてすべてをやってのける賢いものでなければならない。
その最終目的は、「自分のコピーをつくる」ことだ。
さて、まずは機械にエネルギー機構を取りつけ、自立的に動けるように配線をする(生命の獲得だ)。
そのエネルギーを使って工作活動ができるように、手、足をつけ、自在に動かせるようにする(運動能力の獲得)。
さらに、故障しても、機械自身が壊れた箇所を直せるような自己判断能力と修復機能を取りつける(機械は新陳代謝が可能になった)。
機械が自分を修理するには材料がいるので、それを外界から取り込み、部品として加工する機能も取りつける(補食と消化機能も手に入れたぞ)。
この「新材料獲得機能」は重要だ。
なにせ、機械が自分をもう一体つくる際には、材料がふんだんに必要になるのだから。
さあ、いよいよ機械に、もう一体の自分をつくらせる機能を盛り込まなければならない。
自分を複製するのだから、機械は自身の設計図をつくれなければならない。
この設計図が、やたらと複雑になってくる。
機械は設計図に、自分を構成する部品とその配置という「ハード」面を記した上に、自分に詰め込まれた上記の・・・つまり、運動機能、新陳代謝機能、補食と消化機能などの性能と、その使い方という「ソフト」面をすべて書き込まなければならない。
機械は、われわれがした作業をそっくりそのまま、自分で再現することを要求されるわけだ。
こうして機械は自分の複製をつくるが、もうひとつ、機械にさせるべき仕事で忘れてはならないものがある。
それは、複製にも次の複製をつくらせる、という伝言作業だ。
機械は、われわれがしたことをそっくり真似し、そして次の世代にそっくり真似させなくてはならないのだ。
こうしてはじめて、機械は未来永劫、自分のコピーを増やし続けることができる。
なんという複雑さだろう!
もうおわかりだろうが、機械に例えたこの一連の工程は、驚くべきことに、最初期の生命体が・・・鉱物に毛の生えたような(毛が生えるのはまだまだ先の話だが)原形質のごとき単純な物体が発明し、獲得した、生命として最も基本的な営みなのだ。
これらをコードスクリプト化して伝えていくことこそが、自己複製、つまり生物の増殖のコアの部分なのだが、本当にあの細菌や一個の細胞にも劣る心細い装備しか持ちえなかった原初の生命体が、こんな作業をやり遂げたというのか?
きみはできるだろうか?自分の姿かたちと体内の構造、それをどう使ってどう振る舞い、どう生きていくか、なんてことまでを事細かに言語化してメモに書き起こし、子供に正確に伝える、なんてことが。
ところが、そいつをやり遂げたのだ。
たった一個の、最初のご先祖さまは。

つづく

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あぶくの中で、アミノ酸という一単位が偶然にできたとしても、そいつがいくつかつながり合わなければタンパク質にはならない。
各種アミノ酸が何個も何個もくっついて、タンパク質はようやく構築され、生命のパーツとして有用になる。
そして、生命活動に使えるというだけあって、それは非常に大きく、複雑な構造なのだ。
アミノ酸をピーマンに例えるなら、タンパク質は「チンジャオロースー」みたいなものだ。
まったく偶然に、あぶくの中でそんな生成が起きるものだろうか?
何個かがぶつかりざまにくっつく・・・という程度の合体なら可能かもしれない。
ただ、数知れないそんな偶然が積み重なって、アミノ酸が延々と連なって(タンパク質という)求める形に行き着き、機能をしはじめる・・・なんて確率はそうそうなく、現実的とは思えない。
やはり、タンパク質の生成が自然に起きたと考えるのは難しそうだ。
この世界の掟に「エントロピーの法則」というのがあって、自然界はこれに従わなきゃならない。
ものの本によると、科学界で、原理、法則、理論・・・数あれど、本当に真理と確認されてるのは、このエントロピーの法則ただひとつ!ということらしい。
法則の内容はシンプルで、要約すると「世界は整然とした状態から雑然と散らかる方向へと不可逆的に進む」というものだ。
部屋の中を散らかしたら、自然現象(例えば、重力や磁力)のみで元に戻ることはあり得ない。
家が倒壊したら、ひとりでに(例えば、嵐や竜巻で)元通りに建ち直ることもあり得ない。
例えばそこに人間の意思が介入し、建て直そうという意図と、自発的な運動を加えないことには、再び家が建設されることはない。
別の言い方をすれば、自然に反した秩序をつくり出すのが、生命の意思の働きなんであって、それなしには、自然界は秩序立ったものの破壊のみを行う(素粒子の量子的振る舞いや、圧力、熱、電磁気力などで、天体を形づくったり、鉱物の中に美しい結晶を生むようなことはあっても)。
整ったものを崩していく自然のこの振る舞いの過程を、「エントロピーの増大」と言い、エントロピーが最大値になると、宇宙はまったくなにもない、エネルギーすらゼロという、沈黙の世界に丸められる。
でこぼこが一切ない真っ平らにならされる、というか。
散らかり方も極まると、整頓と清潔の境地に至るわけだ。
だとしたら、生命活動が構築するこのきれいに整った、いやらしい言い方をすれば「人工的」で「作為的」な僕らの世界とは、エントロピーに抵抗しようという試みなのだろうか?
いやいや、エントロピーの法則は絶対的なもののはず。
シュレディンガーが「負のエントロピー」と呼んだ生命活動だけど、その因果応報はエネルギーの保存則に反せず、概念上の根本世界はちゃんと乱雑に荒らされてカオスに向かうため、エントロピーは無事着々と増大していく、ということのようだ。
・・・説明が長くなったが、つまりなにが言いたいのかというと、アミノ酸が集まって、自然にタンパク質ができるものなのか?ということだった。
仮に、驚くべき確率の話だが、各種のタンパク質ができたとして、そいつが偶然にも「われわれが求める機能」に必要な部品としてすべてそろったとして、それが「われわれが求める形」に正確に並んだとして、そいつを自然の現象のみで稼働させることができるものだろうか?
つまり、「生命による意思」抜きで。
素晴らしい奇跡が続きに続き、無事に機械(久しく触れなかったが、自己複製の話をしていることを思い出してほしい)が組み上がったとして、一体誰がスタートボタンを押すというのか?
そこだけは、自然の力ではできそうにないのだ・・・

つづく

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結局、行き着くところ(・・・逆か。出立するところ、と言わねば)は、深海の熱水噴出口のようだ。
ここなら、海ができたての頃に宇宙から受けた隕石の重爆撃や、海面の荒波や干上がりからも逃れることができる。
生命がまだ発生してないむかしむかし、誰もいないそんな原始の海に・・・鉱物と無機質な水しかない海の底に、金属が溶け込んだ熱水が噴出してたわけだ。
地中深くから薄い地殻を破って飛び出した金属の水溶液は、海底に煙突のような塔をつくる。
そこには、細かな洞穴が・・・極微細なくぼみがたくさんできる。
そんな穴のひとつにあぶくがコロリと転がり込み、有機物をはらんだわけだ。
ここで何度も書いてる生命の誕生(赤ちゃんが生まれるってことじゃなく、最初の生きものがこの世に生成された話)について、おさらいをしておく。
生命の定義は、突き詰めればたったみっつで、すなわち・・・
1・閉じた系であること(例えば膜に包まれてる)
2・その姿を維持できること(新陳代謝ができる)
3・自分を複製できること(分裂したり、子供を産んだりしないと、命は一代限りで途切れてしまう)
・・・というもの。
閉じた系は、前にも話したっけ?リン脂質みたいな「片方が親水基(水を好む)で、もう片方が疎水基(水を嫌う)」という棒状の物質がたくさん並んで球体をつくれば、泡という形で実現できる。
このタイプの物質は、水に放り込めば自動的に閉じた系になるので、要するに、水の中で油の玉ができる感じだ。
じゃ、リン脂質なる有機物をどうつくるか?という問題だが、これはむかしむかしに実験したひとがいて、無機物の水溶液を閉じ込めた密封ガラスビンを熱したり通電させたりしてるうちに、有機物の生成が確認できた。
つまり自然界においても、熱せられた無機物に雷が落ちれば化学反応で有機物化する、ということだ。
なかなか勇気がもらえる実験結果ではないか。
しかし、生命を発生させるには、ここからが難しいんだった。
そこで海底の熱水噴出口!というわけなんだけど、まずはあぶくができた。
ここでは、高温の金属水溶液がものすごい速度で飛び出してくるために、電気まで起きるようだ。
だとすると、あぶくの中で無機物を有機物化させることもできる。
以前には、海の浅瀬が「有機物のスープ」のような状態になり、そこに雷が落ちて生命が誕生した、というのが半ば定説化してたわけだが、その状況を海底にもつくることができたぞ。
さて、この有機物のあぶくが、周囲に充満した電気を吸収する。
難しい話になるけど、元素から電子を剥ぎ取ってイオン化させ、その勾配を利用してエネルギーを発生させ、自発的に物質を変換する、という作業は、神がわが世界に与えたもうた化学反応のみでできるようだ。
つまり、「生命による意志」なしでも。
いわば、自然界の全自動新陳代謝システムだ。
親水基と疎水基でできた膜が、外から必要な物質を透過させれば、あぶくは体内にため込んだエネルギーを使って、自らを平衡状態に保つことができる、ということだ。
困難に思えた新陳代謝まで、ぼくらのあぶくは実現させたぞ。
そろそろこのあぶくのことを、親しみを込めて「彼」と呼ぼうではないか。
ところが、彼にとって最も高いハードルが最後に待ち受けてるんである。
自分の複製をつくる!
現存する生物における複製のメカニズムは、例のDNAを用いたもので、要するに前の世代から受け継いだ形質をコードスクリプト(暗号、と言えばいいんだけど、シュレディンガーのこの言葉を使ってみたかった)に書き起こし、それを二枚にコピーする。
このコピーの内容は、その生命体のアイデンティティとも言うべきもので、実質、この情報こそが、彼を彼とする概念・・・つまり、彼そのもの、ということになる。
肉体なんてものは、この情報が集めた物質の一時的なかたまりに過ぎないのだから、逆に言えば、「彼自身」とは肉体などではなく、情報そのものなんである。
さて、二枚のコピー紙を一枚ずつ受け取った彼ともうひとりは、それぞれに補食した物質をアミノ酸レベルまで分解し、それらをコードスクリプトのレシピ通りにタンパク質の形に編み上げ、各所に正確に配置して、アイデンティティーの移植を完了させる。
この設計図の具現化によって、ひとりがふたりになる、というわけだ。
どうやらこの難しい作業の実現が、世界最初の生命発生、すなわち「鉱物に魂が宿った瞬間=生命の誕生」ということになりそうだ。

つづく

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世界がコロナと同居することによって、消費生活が変化するらしいよ。
だけどオレは常々、資本主義社会下における消費活動はどうかしてる、と感じてた者なんで、この災厄を機会に、人間が常識的な振る舞いを取り戻すチャンスを与えられたことを歓迎したい。
資本主義経済ってのは要するに、めちゃくちゃにつくりまくって、宣伝で購買意欲をあおり立て、必要かどうかを考えさせないままに買わせ、型落ちのものは捨てさせ、じゃんじゃんと需給を回していこう、って思想だ。
いるかどうかも関係なしにまずはつくってしまって、つくったから売るしかなくて、売ってるから買うしかなくて、買うから捨てるしかなくて・・・この回転が止まったら、破綻だ。
だけど、こんな社会構造を、閉じた系たる地球環境が許してくれるわけがない。
資源に限りがあることを完全に無視してるし、元素の収支が合わなくて系にストレスをかけることは明らか。
たかが100年なんて短い時期しか生きられない人類は、101年後のことに思いを至すことができなほどのアホ生物だ。
幾何級数計算を理解しながら、その先を見ようとしない。
卑怯な態度だし、それ以前に、緩慢に自殺してることにさえ気づかないんだね。
いや、気づいていながら無頓着なんで、救いがない。
考えてみてよ、これは単純な話なんだよ。
車を3年おきに買い替えましょう、なんてどう考えてもおかしいでしょ。
テレビは新技術が開発されるたびに総取っ替えしなきゃならない(無理やりに買わせるための開発なのだが)。
服だって、流行を追っかけて一ヶ月に3着も5着も新しく必要なわけがない。
どれだけ欲しがるんだ、そしてつくり倒すつもりなんだ。
そこで、今回のコロナだよ。
消費活動を止めてみて、あら、意外と平気だわ、と思ってるひと、多いんじゃないの?
お金なんてそう多くはいらないものね、と。
買うために働かなければならず、働かなければならないために仕事を創出するしかないインチキに、ついに気がついたわけだ。
買うことをやめてみたら、そう働く必要はなく、仕事も賃金もそう多くはいらなかったわけ。
少し頭を冷やして、常識的に考えるべきだ。
・・・と、地球が立ち止まらせたんじゃないかな、コロナの力で。
経済は冷え込んでる、と言うけど、買わなきゃならないものなんて食材くらいのもので、その他に深刻に困窮するものってある?
最小の購買で足りてしまうんじゃないの?
まさしく「足るを知る」的な。
今後の人類の消費活動は、停滞という表現の普通さを取り戻して、適切な経済ボリュームに合わせた新しいパラダイムを構築していくにちがいない。
資本主義はすでにコロナ以前から滅形しかけてたけど(若年層が、格差から生じた乏しい資金力から、欲しいものを厳選して買うしかない、という身の丈の経済活動を強いられたため)、いよいよ世界経済は収縮し始める。
これは当たり前のことだし、愚かな夢から覚めることを意味する。
地球環境を顧みれば、人類にそれ以外の道は残されてなかったわけで、グレタさんあたりはまさにこのことを叫んでたわけだ。
コロナのおかげでそれが実現するのは、神さまの差配と考えていい。
自然界はたびたび、人類を滅ぼそうと、あれやこれやと手の込んだ毒素(細菌、ウイルス)を送り込んでくる。
だけどそれは、昔から賢者が繰り返しに口にするセリフだけど、要するに、「自然環境に最もひどい悪影響を及ぼす人類という凶悪ウイルスに対する善玉ワクチン」なんだった。

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アベノマスクだけど、やっぱ気色悪いから捨てようと思う。
寄付するのもなんだか、相手が気持ち悪がる気がするし、自分が気持ち悪いものを差し上げるってのも気持ち悪いものなあ・・・
まあとにかく、あれを装着して街に出るのには、相当な勇気がいる。

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仕事三昧の毎日を過ごしてきたよめはんが、去年末に会社を早期退職した。
朝から終電まで働き、週末は眠ることしかできない・・・という生活で、仕事を辞めるときは死ぬか狂うかしたときだろうと思ってたんで、無事に健康体のまま離脱できたことはまことによろこばしい。
それからというもの、彼女の自由三昧の日々がはじまった。
大好きなイギリスを二週間めぐり、帰国したと思ったら、友だちと毎夜飲み歩き、映画と音楽三昧。
そうでありながら、これまでダンナまかせだった家事一切を引き受け、しかもちゃんとこなしてくれる。
仕事を辞めてみれば、料理も、片付けも、スケジューリングも、なんでもできるスーパー主婦だったことがわかり、うれしい再発見となった。
これまで見せてきたあのポンコツっぷりはなんだったんだろうなあ・・・?
ダンナの家事モチベーションを引き出すための芝居だったとしか思えない。
朝ドラを見ながら、今まで食べたこともなかった朝食まで支度しはじめ、そのブリティッシュなティー文化は、わが家の食文化を根本から変革するほどのものだ。
なかなか立派な専業主婦・・・というか、有閑な奥様といえる。
思えば彼女は、これまでの25年間、普通の生活というものをしたことがなかったのだなあ・・・
大いに楽しんでるに違いない。
どんよりと曇ってた瞳が生き生きと輝きだし、お肌もつやつやに生気がみなぎって、「ああ、人生ってすばらしい!」感を発散する姿は、まぶしいばかりだ。
夫婦仲も、結婚生活を通して最高テンション。
まるで新婚生活のように豊かで平和でむつまじい毎日で、まさに蜜月期がやってきたんであった。
ああ、なんてたのしい三ヶ月間であることか!
そんな矢先・・・よめはんが、また今月から働きはじめた。
大企業のエース格だった前回とは違い、今度は小さな会社のいちデザイナーさんというポジションのようだ。
だけどそれは、日本の大切な文化を守るという尊い仕事でもある。
大企業からも引きがあったのだが、そっちをソデにしてこっちを選んだ判断は・・・なんというか、実に彼女らしく、まったく楽のできないソンな選択に思えるんだけど・・・困った人々を助け、文化の下支えで汗をかきたいという志は立派というほかない。
自分が納得できるまで、がんばりすぎないように、がんばってみればいい。
まったく、えらいひとだ。
家事一切の作業が手元に戻ってきたダンナは、心からそう思うのだ。

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コロナウィルス、怖いなあ・・・
いや、怖くないけど、気持ち悪い・・・
この災厄は、ただの練習なのだ。
かつて、かかれば必ず死ぬ!みたいなのが、何度も何度も世界を覆い尽くしたことがあったんだなあ。
それに比べたら、この大騒ぎはのんきなものかもしれない。
だけど、その日は必ずくる。
かかったら必ず死ぬ!なんてのが大発生する日は、ほんとにくる。
そのために今、学んどけ、世界よ。
それにしても、人類がこうまで無策とはなあ・・・
大発生したエボラ出血熱が西アフリカで食い止められたのは、ただただあの地が高度な社会から隔絶されてた、ってありがたき理由に尽きるわけだ。
だけど、今回はそうはいかないぜ。
オリンピックはおそらく開けないでしょ。
これからもっともっと大騒ぎになるもの。
だいたい、日本政府発表の数字、低すぎるよ。
よりによって教師や官公庁、医者なんてところからウィルスが検出されてるのは、そのセクションだけが検査を受けさせてもらってるから、ってだけの理由。
無作為抽出したら同じだけの割り合いで罹患が明らかになるわけだから、日本国内にはすでに患者が数十万単位で蔓延していることは間違いない。
そのことを隠すために検査をしないんだとしたら、これはもう人災だよ。
それにしても、ワクチンも治療薬もなんでとっとと開発できないのかなあ・・・?
ゴルゴ13なんて、罹患したその場で血清をつくって自分で治してたよ。
がんばれよ、日本の医療化学〜、すでにその技術も失われたか?政府が金よこさねえからなあこの国ときたら。
取り返しがつかない事態に至るまでは経済最優先!って姿勢は、温暖化対策と構図がまったく一緒だ。
ただただ間抜けだよ、日本政府。

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まず、これをご覧くださいな。
セイコーさんが発売した、クイーンのギタリスト「ブライアン・メイ」モデルのダイバーズウォッチですわ。


なかなかえー話がありまして(写真はブライアン・メイのインスタから拝借、ごめん)、つまりクイーンは世界に認められる前にまず日本で人気が爆発したんで、フレディはじめクイーンメンバーは日本に特別な思いがあるのですな。
んでその世界に羽ばたくきっかけになった初日本公演で購入したセイコーのダイバーズウォッチを、ブライアンは後生大切に使ってるわけなんですと。
それが、本人がしてるこのモデルなわけですが・・・


しはんが中学生時代にばあちゃんに初めて買ってもらって、それきり使い続けてる腕時計とおんなじでしたわ。
ま、それだけなんですが。

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「国民のみなさん、お金を集めまーす」
と、国は言うわけだ。
「ひとりにつき9000円を払ってください。赤ちゃんも、死にかけのじいちゃんばあちゃんも全員、ひとりにつき9000円でーす」
そうアナウンスする菅官房長官には、容赦がない。
「夫婦なら18000円ね。はい、出して」
あ、うちのことか。
うちも支払わねばならんのだなあ。
「家族五人なら45000円。まからないよ、ちゃんと4万と5千円出してね、はいはいー」
弟んちはこれだけの額か、子だくさんな家は大変だ。
ま、出すしかないが、これっぽっちの金で、ちゃんと辺野古に飛行場はつくれるのか?
厳しいひとの試算によれば、この軟弱地盤に100メートルの杭を七万七千本打ち込むのに2兆円かかる、って話もある。
「そうなったらまた徴収しまーす」
と、安倍さんは言うのだろう。
なにしろ、税金を湯水のように使ってくれるひとだ。
あ、いやいや、その頃にはすっかりと政権は変わってるのだろうが。
「総額でひとり2万円は用意しといてくださいね。七人家族なら、14万円ね。大丈夫、全部辺野古に使いますから」
そういうことだなあ。
いやあ、金がかかるもんだなあ、米軍移設とは。

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読んだ本を大事に取っておくなんてもったいない、と思うのだ。
ん?
もう一度言うよ。
読んだ本を捨てないなんてもったいない、と思うのだ。
空間が。
本<空間、の価値観。
本とは、背表紙を書棚にため込むものではなく、内容を頭の中にため込むものだろう。
その本が300円としたところで、その本が占めるスペースにもまた300円分の価値がある。
そこで考える。
自由に使える部屋内の空っぽの容積(300円分の価値を持つ空間)に、300円だった本の体積を占有させるべきか、否か。
本に綴られてた300円分の価値は、すでに自分の脳内に移ったのだ。
だとしたら、その本の抜け殻に、300円の空間を占有させる価値が残ってるだろうか?
ここは考えどころだろうが、オレは空間を大切にしたいんで、本の方を捨てる。
本を大切にしたければ、空間を捨てるのも悪くない。
だけど、「せっかく買った本なんだから念のために(あるいは記念に、別の言い方をすれば自慢のために)取っておく」という考え方は、オロカに思える。
なぜなら、刻々と増えるそれらと相対的に、自分の使える空間がむしばまれていくんだから。
オレは、一度読んだ本は片っ端から捨てていく。
自由空間の方が断然大事!
必ず読み返すにちがいない大好きな本や、資料として価値のあるものだけは残すけど、それも30センチ立方の棚に収まるだけ!と決めてる。
なので、新しく収蔵したい一冊が現れれば、しばらく読むことのなかった一冊とはバイバイとなる。
ベンチ入りメンバーの選抜争いは、熾烈極まる。
かわいそうだが、このタガを外すと、スペースは際限なく侵されることになるのだ。
生活空間を脅かすほどに本を積み上げたとして、それらのおびただしい本をいつ読み返すというのか?
一冊の体積が、わが自由空間の容積300円分を侵すとして、部屋の一面を本が覆ったとしたら、その空間分の損失は数十万から数百万ってところになる。
その逸失利益は半永久的であり、しかも増大しつづけるものと考えるべきだ。
本を捨てないなんて、もったいない。
それは、体を伸ばせる場所を捨ててしまうようなものだ。
どれもこれも、捨ててしまおうではないか。
楽になろうではないか。
と思うのだ、捨てられないよめはんを見てると。
だけど、CDな・・・
これだけは、オレの部屋にも際限なく増えてくんだよなあ・・・
ダウンロードにすればいいと思う?
でもね、やり方が今だにわかんねーんだわ、サムライなんで・・・
そしてオレは、CDと、CDチェンジの時間を愛してるのだあ!
すまんが、これだけは残させてくれ。

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