生物の肉体を入れ物として、その内に宿る「タマシイ」とは、いったいなんなのでしょうか?
ひとは死ぬと、地獄か極楽浄土か天界か冥府か涅槃か(あるいは来世という言い回しの未来時空か)・・・とにかくジ・アザー・サイドに連れていかれ、前世の経験を噛みしめたり思い出にひたったりして次のステージを過ごす、ということに、まあどの宗教でもなっているようです。
が、科学者はそんな根拠のない想定に逃げることなく、率直なリアリズムで解答を導き出そうとします。
脳神経科学では、ひとの経験や思い出は、脳内に張りめぐらされた記憶回路にインプットされるとされます。
「回路」という言い方の通りに、記憶は、脳内の個別の物質に刻まれるわけではなく、神経コネクション、つまり情報を受容する際に脳内を駆けめぐる電気信号と、神経間の接触点で受け渡される化学物質でつながれた「通り道」そのものとして保存されるのです。
心細い一本の通り道は、別ルートを走る情報と結んでひろがりのある面となり、さらに奥行きのある塊へと絡み合って、記憶を多面的なふくらみを持ったイメージへと発展させていきます。
そういう反復作業を、脳は日々、果てしなく繰り返して、重要な情報を堅固に守ったり、あるいはどうでもいい情報を薄めたり、消去したりしているのです。
なんでこんなにめんどくさい方法を取るの?ひとつひとつの記憶を特定の場所に固定すれば楽なのに・・・と感じるかも知れませんが、それはできないのですね。
なぜなら、前述した動的平衡を思い出してほしいのですが、脳内の細胞は、月日がたつとすっかり入れかわってしまうからです。
「ゆく河の流れ」の一地点にインクを一滴落としても、次の瞬間にはすでにその位置にインク染みはなく、つまりそこは「もとの水にあらず」なのです。
「この細胞のこの部位に」と焼き付けておいた記憶が、細胞の短い耐用期間とともに流失してしまうなんて、切ないではないですか。
なので、われわれは記憶を、神経ネットワークを伝う電気と化学物質の「連結」「流れ」として保存しているのでした。
そんな脳は、おびただしい情報伝達の道すじとその絡まり、さらにはアウトプット神経との連動によって、意識の発生と主体的な運動能力!というところにまでたどりつきました。
脳が、生命機械(遺伝子を運ぶ装置としての生物)全体を支配し、操縦するメカニズムが誕生したわけです。
あなたも感じたことがありませんかね?
「わたしを、わたしの頭の中に乗り組んだコビトが動かしてる!」的なやつを。
パイルダー・オン。
ワタシンガーZ、発進!
この考え方が、要するに「タマシイ論」です。
ぼくの正体は、実はぼくの脳の中におさまった乗組員で、ぼくのからだは、ただぼくの言うことを聞いているマシーンなのかもしれません。
そしていくつかの宗教によって、たとえぼくの肉体装置が破壊されても、ぼくの乗組員であるタマシイはしかばねを離れ、あちらサイドの世界に移動する、という話になるわけです。
ところがこの説には、重大な論理欠損があります。
それは、「ぼくの中にいるぼくのタマシイを、だれが操縦してるのか?」、つまり「タマシイには、タマシイがあるか?」という問題です。
ぼくを動かすのにタマシイが必要なのだとすれば、タマシイを動かすにも、その内側に操縦者が必要なわけですよね?
タマシイを動かすのに内なるタマシイが必要ないのだとすれば、ぼくを動かす際にもタマシイの想定は必要なくなりますので。
さて、困りました。
ぼくの肉体をタマシイが操縦し、そのタマシイをまたワンサイズ小さなタマシイが操縦し、そのワンサイズ小さなタマシイをツーサイズ小さなタマシイが操縦し・・・としていくと、果てしないマトリョーシカのような無限後退が発生してしまいます。

つづく

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生物は、あぶくのような無機物が変質し、どういういきさつでか「生気」的なものを胚胎して、自発的に動きはじめた奇妙な閉鎖系です。
けしからんことにこれは、宇宙の大原則であるエントロピーの増大にあらがう存在とも言えます。
生物は、体内で有機物を燃焼し、熱を発生させて、それを仕事に用います。
前の章で論じた通りに、エネルギー(熱の高低差)は仕事を終えると、使用不可能な定常状態に落ち着くはずです。
なのに生物は、いつまでも熱を失わないのです。
物質はエネルギーを失うことにより、時々刻々と滅形していくはずであり、この法則は宇宙開びゃく以来、絶対的と定められたものです。
ところが生物ときたら、絶えず外界からエネルギーを補充し、消失と生成、分解と合成をくり返し、形状の維持どころか、展開、増殖の過程で大進化まで遂げ、エントロピーが散らかすこの世の中を、整頓、構築、大発展させてしまうのです。
えらい学者であるシュレディンガーさんは、この不可思議を「負のエントロピー」と表現しているほどです。
物質である自らの肉体の消散を「意識」というマジカルな主体性によって防ぎ、組織を維持し、あまつさえ無から有をつくり上げ、時間を逆回転させるかのように混沌から秩序を築こうという生命現象は、エントロピーの増大を免れる奇跡なのでしょうか?
いやいや、エントロピーの増大は絶対的かつ不可逆で、その減少はあり得ません。
なにしろ、万有引力、相対性理論、量子物理学などの数々の理論が、未だ「仮説」の立場に置かれているのに対して、唯一「エントロピーの法則」のみは、科学界で「たぶん真理」とのお墨付きをもらっているのです。
生命の営みにも、エントロピーの勘定がぴたりと合うからくりが隠されているのですね。
なんということはない、生物は、エネルギーを使いまくって「自身」という狭く閉じた系におけるエントロピーの増大を事実上食い止めつつ、外界である宇宙のエントロピーを増大させているに過ぎないのでした。
プラマイ計算で赤字なわけです。
ただ、生命現象が、宇宙でも特別に奇天烈なシステムであることは間違いありません。
その営みは、突き詰めれば「食って」「出す」という作業に尽きます。
ところがこれこそが、エントロピーの法則に対抗できる、最善にして唯一的手段なのでした。
福岡ハカセが「動的平衡」で、あるいは古くは鴨長明が「方丈記」で書いているように、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」です。
生命体の本質とは、遺伝情報という「非物質的設計図」のみがそこに在り、それをコードした遺伝子が外界から物質を借り集めて情報護送システムをつくり上げ、後世にまで連綿と伝える存在にすぎません。
ぼくの肉体という「装置」は、一日たっては一部分が剥がれ落ち、二日たってはその部分をつくり直し、「ゆく河の流れ」のように、ひと月もたつ頃には、肉体のほんの一部もひと月前のものではなくなっています。
ぼくは、ぼく自身の血肉を常時入れかえ、入れかえ、入れかえつづけて、昨日のぼく、今日のぼく、明日のぼくという「別人(というか、別もの)」となりながら、ただただ独自の形状を保っているわけです。
肉体の構成物は外界からの一時的な借用品に過ぎないので、ぼくとは?という問いに対してぼくは、「ぼくとは、ぼくの中身のことだ」と言わねばなりません。
今いるぼくは、ひと月前のぼくとは物質的にまったく別もののそっくりさんであるために、ぼくが持ちうる唯一のものは、非物質である遺伝情報のみです。
そこでぼくが言えることはただひとつ、「いわゆるタマシイこそが、ぼくである」となります。

つづく

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死んだらどうなるか・・・?
肉体の消滅後に自分はどこへいくのか・・・?
という問題にですね、科学は現実的な立場から答えを出しているようです。
ぼくもこの点についてはずいぶんと考えているので、今の時点でぼんやりとイメージしているやつをここに書き留めることにします。

さて、ひとの死に考えを及ばせる前に、周辺知識が必要なので、そのへんをさらっと学習しておきます。
「エントロピーの法則」を知っていますか?
これはですね、実はこの宇宙において最も重要な約束ごとなのです。
この法則をかいつまんで言えば、
1、宇宙に存在するエネルギーの量は一定
2、エネルギーは使用可能から使用不可能な方向に一方通行
というものです。
エントロピーとは、ざっくり「乱雑さ」のことで、エントロピーの増大は、整ったものが散らかっていくことを意味しています。
上記2のようにエネルギーが流れると、宇宙のエントロピーは増大します。
エネルギーを使ってなんらかの仕事が行われると、この世は散らかっていくわけです。
ところで、エネルギーってなに?と、改めて疑問に思いますよね。
エネルギーとは、大雑把に言えば「熱」のことで、熱とは「細かい粒子の振動」のことで、要するに「振動」=エネルギー、とでも理解しておけばいいかもしれません。
そして「使用可能なエネルギー」とは、具体的には「熱いものと冷たいものの差」のことを言います。
この差がなくなると、エネルギーは仕事をしませんし、エネルギーの高低差が失われることによって、エントロピーは増大した、となるわけです。
例えば、冷たい水の中に熱いお湯を足し入れると、混ざり合って中間温度のぬるま湯になります。
これは、水分子がお祭り騒ぎのように暴れ回っている状態であるお湯が、静かにブルブルと震えているだけの冷水に突進してぶつかり、結果、お湯は振動を弱めてぬるまり、冷水は振動を強めてあったまり、やがてどちらの水分子も同じくらいの揺れ具合いになって、最終的にはぬるま湯という定常状態に落ち着く、ということを言っているわけです。
これをエネルギーの移動と言いますが、つまりは「強い振動が弱い振動のものに移り」「熱いものが冷たくなっていく」ということです。
このエネルギーの移動は、力に応用することもできます。
鉄球を高いところに持ち上げます。
すると鉄球には、ポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)が蓄えられます。
「やってやる・・・やってやるぜえ・・・!」とホットな状態で武者振るいをしている、待機状態です。
この鉄球が上空から落下するとき、蓄えられた位置エネルギーが運動エネルギーにかわります。
そして、鉄球が床に落ちると、ものすごい熱が炸裂し、床板が壊れます。
運動エネルギーという盛大な振動が床板に伝わり、その放出が破壊的な仕事をしたわけです。
物質同士の摩擦が発生し、接触面はあっちっちになります。
おつりとしてこぼれた衝撃が空気を揺さぶり、音になります。
光も出ます。
これらはすべて、熱エネルギーの散逸の形です。
つまり、エネルギーが高いところから低いところに流れると、具体的な仕事が発生します。
そしてその結果、宇宙のエントロピーは増大します。
エントロピーは、刻一刻とエネルギー世界の高低差をならし、真っ平らな定常状態を目指すのです。
そしてこの宇宙は、エントロピーの増大が不可逆であるために、時間における対称性が失われ、過去から未来へと一方向に進む、とも言えるわけです。

つづく

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夫には、ツマを教育する責任がある。
結婚以来・・・いや、出会って以来、ツマを厳しく指導してきたつもりだ。
つき合いはじめた当初、デートの待ち合わせ場所で、お口をポカーンと空け、まるで郵便ポストのように呆けている彼女に「少し顔に力を入れておいた方がいい」と指摘したのが手はじめだった。
ひとを待っているとは思えないその佇まいもすごかった。
脱力しきって、背を丸め、へそを突き出し、まるで4部休符のような立ち姿なのだ。

これでお口ポカーンでは、いよいよまずい。
ここまで力を抜ききることができるとは、ある種の才能だが、とにかくこの子を人さらいに狙われないようにしつける必要がある。
歩き方もなんだかおかしい。
どんがらがったった〜、と、手ぶらなのに、あたかも小太鼓を叩いてるかのように歩くのだ。
とても見ていられるものではないため、手は肩幅くらいに振りましょうね、足もまっすぐに出すといいよ、と事細かく指導した。
「お口に入れたものは、ちゃんと噛もうね」と指導したのは、彼女がツマとなってずいぶんとたってからのことだ。
そばやうどんなどを丸呑みしては、ゲホゲホとむせ返り、鼻から出すのを不思議に感じたのだった。
どうやら、これらの食品を飲みものと考えていたようだ。
「とろろごはんは飲んでいいんだよね?」「お豆腐は?」「茶碗蒸しは噛むの?」と、本気で聞いてくる。
ツマは、これらの柔らかいもののみならず、肉や魚までまともに噛むことなく飲み下そうとしてしまうので、すぐにのどに詰まらせる。
「うっ」「んがっ」などと言っては、箸をのど深くにねじ込み、食道の奥から信じ難いほど大きな骨や肉片を(自由自在に)取り出してみせたりする。
まるで奇術のようで、それを目の当たりにさせられるこちらはそのたびに「おおっ」と息を呑んでしまう。
が、これではいつか死んでしまうので、お口に入れたものはとりあえず30回噛む、というルールを設けた(ごく最近のことだ)。
料理の指導には困難を極めた。
「おかずを三品つくってみて」という夫のリクエストに応じ、「ニンジン炒め」と「ピーマン炒め」と「ちくわ炒め」を出すようなツマだ(一緒に炒めろやっ!)。
またあるときは、「今夜は豆料理ですよ」と宣言し、茹で枝豆と、茹でそら豆と、茹でえんどう豆を出してきたことがある(一緒に茹でたらええやろがえ〜っ!)。
それでも今では、エビチリとトマトタコ煮込みとニンジンしりしりの三種類をマスターするまでの腕前になってきている。
教育もまんざら無駄ではなかったようだ。
が、「熱いよ」と言ってグラタンを出すと、スプーンいっぱいのやつをやっぱり熱いままお口に放り込んで、皮をベロベロに火傷させる。
「フーフーしてからね」と何度教えてもわからない。
これから先も、ツマをオレ好みの女にするには、相当の歳月が必要なようだ。

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有機体における最初の「入魂」って部分を知りたい!
その作業を経たものが、すなわち生命体となるわけなんだけど、なかなか取っ掛かりが見つからない。
つわけで、ついにわが探求の旅は、脳神経科学方面にまで踏み込んだんだった(この分野では、劇的な相転移ののちの進化展開しか教えてはくれまいが)。
ものの本によれば、原形質的な最初期の有機体は、体外近傍からの刺激に対する機械的な反応をまず覚えた。
酸に触れたら吐き出す、糖に触れたら取り込む、など、自分の構成成分を保持するための、これは意識なしの化学反応と言える。
ところがこの単純な自動的対応(反射)が進化し、ある時期にシンギュラリティを起こすわけだ。
外界のあれやこれやへの正確な対処のために、刺激受容体の感度を発達させたうえに、システムを一元化しはじめたのだ。
装置が緻密になり、大掛かりになり、洗練されると、やがて神経系を束ねた奥に中枢部(単純脳)をつくって、情報を統括するものが現れる。
体の外縁に触れるものの印象情報を総合すれば、周囲の状況や置かれた環境をおぼろにイメージできる。
すると今度は、イメージされた事物に働きかけようという機能が発達する。
神経束は、インプットされた刺激の統合→反射(忌避する、親和する)という原始的対応から、ついに能動的なアウトプット、つまり「活動」(追う、逃げる、戦う)を行うところまでを担いはじめた。
この操縦者こそが、原初の魂なのではあるまいか?
情報の収集と整理のみを行なっていた統括部に、目的という概念が発生し、それにともなう積極的な営みが開始されたわけだ。
原初意識は、ついに意思へと到達する。
さらに重要なのが、光受容装置を発達させた視覚の獲得だ。
受容体に飛び込んでくる光子に科学的に反応して光と影をオンオフで判断していた分子が、磨かれ、集まって画素数を増やし、神経のメカニズムを発展させて、外界の細密な姿を認識しはじめたのだ。
こうなると、周囲の狭いエリアを探るのみだった外意識が、遥か遠距離にまで拡大される。
近接物との直な触れ合いで肉体内のやりくりに終始していた閉鎖世界とは別ものの、「外界の中に位置するわたくし」というひらかれた認識と感覚は、進化のリミッターを完全に取っ払う。
生命は、世界の構造を理解するとともに、自分の立場や社会との関わり合いという難しい概念に到達し、ついに「食う」「食われる」の場における適者生存の競争を本格的に開始するわけだ。
こうして、情報解析と対処に莫大なエネルギーを投資したものが、世界を支配することになる。
・・・と、今んところはこんなまとめ方。
だけど、どの局面で入魂がなされたかは、まだ謎のまま。
つか、最初の時点で、すでに作業はすまされてたような気が・・・
究明にはまだまだ遠い。

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太古の昔、地球の大気中に、酸素はほとんど存在しなかった。
この星は、二酸化炭素に満たされてたんだ。
そこに、葉緑体系の生物が発生した。
つまり、植物が。
植物は、二酸化炭素と水とで炭水化物をつくり、エネルギーとした。
これを化学式にかけると、酸素が余る。
要するに植物は、二酸化炭素を吸い、必要のない酸素を大気中に吐き出しまくった。
酸素は、森を発火させ、土を錆びさせ、細胞を老いさせる、危険な毒だ。
緑が大地を覆い、酸素に満たされた地球上で、最初の破滅的絶滅が起きた。
そこに、そっとミトコンドリア系の生物が誕生した。
つまり、大ざっぱに言って、動物が。
動物は、酸素と炭水化物とでエネルギーを発生させ、二酸化炭素を余らせる。
要するに、酸素を吸って、植物を食べ、二酸化炭素を吐く(ぼくらがしてる行為だ)。
こうして大気中に、今度は二酸化炭素が満ちた。
二酸化炭素を吸って酸素を吐く植物たちは息を吹き返し、するとさらに、酸素を吸って二酸化炭素を吐く動物が繁栄し、奇跡のような円周回がはじまった。
地球上ではこうして、反タイプの生物がお互いを支え合いながら、循環環境を維持しつづける。
考えれば考えるほど、うまくできたパズルだ

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mRNAワクチンのメカニズムの、最も簡潔かつ基本的な知識をここに書き留める。

さて、ワクチンの前にまず、「ウィルス」について理解しておかなきゃならない。
ウィルスは、微生物である細菌などとは違って、呼吸も新陳代謝も自己複製(自発的に子孫をつくること)もしない、生物と無生物の中間にある物体なんだ。
その構造はシンプルかつ無機的で、ほぼDNA(自分のコピーをつくるための設計図)の入ったカプセルと言っていい。
能動的に動けないので、空中を浮遊して移動するしかない(生物というよりも、鉱物に近い)。
ところが、これが生物の体内に入り込むや、寄生先の細胞のDNAに働きかけて自分のコピーをつくらせ、増殖して(させて)いく。
増えに増える。
やがておびただしいウィルスにおかされた寄生先の生物は、せきやくしゃみをさせられる。
あるいはうんちや、さいあく死んで腐って体液を垂れ流すことで、体内のウィルスをさらに世界中にばらまかされることになる。
かくてウィルスは大繁栄する、というわけ。
・・・ふむー、無生物が書いたにしては、うまいプロット(台本)だ。
上記したように、ウィルスは生物とは言えないので、毒では殺せない。
蚊取り線香でも、殺虫剤でも、いわゆる「殺菌作用」のやつでも無理。
生きていないから、死なないのだ。
つまり、壊すしかない。
なので人類は、アルコールで彼らを溶かして、浸透を防御するんだね。
だけど、一度体内に入ってしまったものはどうすることもできないので(お酒を飲んでもだめなようだ)、ワクチンを、というわけなんだった。

RNAの前に、まずはDNAのシステムをおさらいしておこう。
DNAは、四つの文字(塩基)によってその生命体の遺伝情報が書き込まれた二本のひも状分子で、おなじみの二重らせん構造に絡み合っている。
片方のひもに書かれた文字列は、もう片方のひもの対面の文字列と対になっているので、二本をほどき、それぞれに対応する塩基を新しくパズルのように当てはめていけば、文字列を新たに複製することができる。
そうしてコピーをつくることで情報を保存し、自らを収蔵して便利に動きまわれる生命体そのものを組み立て、維持し、子孫(遺伝実体のコピー)にまで情報を連綿と受け継がせていこうというのが、DNAの企てなんだった
生物は、DNAの指令によって行動し、遺伝情報を伝えるために次の世代をつくらされているに過ぎない存在なのだよ、ちょっとこわいね・・・
ま、それはさておき、肝心のRNAだ。
RNAは、DNAの文字情報を「実体」としてつくり上げるために働く、コピペ係と言っていい。
まずこいつは、DNAの二重らせんの一部をほどいて、二本の対となっていた文字列をむき出しにする。
さらにその片側にくっつき、欲しい情報(わりと短文であることが多い)を読み取って、対となる文字起こしをする。
この文字は記号ではなく、塩基という物質でできているので、塩基の配列を新たにつくれば、情報のコピーの持ち出しは可能なのだ。
この短い一重らせんの形をしたコピーこそが、m(メッセンジャー)RNAだ。
mRNAは、得たコピー情報を細胞内のリボソームに持ち込み、読み取ってもらう。
すると、t(トランスファー)RNAというやつがアミノ酸をつないでいき、欲しかったタンパク質の形に編み上げてくれる。
噛み砕いて言えば、人体の仕組みを網羅したファイル(DNA)を元に、必要なパーツの設計図をmRNAがコピーして工場(リボソーム)に渡すと、作業員(tRNA)が材料を集めて組み上げてくれる、というわけなんだった。

さて、いよいよ本題のmRNAワクチンだ。
ここで重要なのが、コロナウィルスが体内に格納しているのは、DNAではなく、RNAだという点だ。
遺伝情報は、必ずしも高度なDNAではなく、RNAの一重らせんの形でも事足りるのだ。
DNAという素晴らしく完璧なアイデアが生まれる前、古代世界に生きる先達はRNAによって情報を後世に伝えていたのだよ。
そんな名残なのか、コロナウィルスは自らの情報をRNAの形で保存しているのだった。
そのゲノムを読み取った人類は、それを逆手に取って、コロナ撃滅の反撃に出たのだな。
日々、報道などで目にするコロナウィルスの姿を思い浮かべてほしい。
ころりと丸いボディに、「スパイク」というトゲトゲが飛び出している。
この突起は、コロナウィルスが生物に取り込まれようとする際に、相手の「レセプター」という受容体と噛み合わせるためのジョイント部だ。
要するに、人類の体内の細胞にコンセントがあり、ウィルスのスパイクは、それにぴったしと合うプラグの役割を果たすわけだ。
このタンパク質製の小パーツ(スパイク)の構造をコピったmRNAこそが、mRNAワクチンなのだった。
さて、「コロナウィルスのスパイクパーツの遺伝情報」を、きみの体内に注射するとどうなるか?
細胞深部に浸透したmRNAは、リボソームに働きかけ、tRNAにアミノ酸をタンパク質の形につながせて、スパイク(つまり、コロナウィルスの無毒な一部)を作成し、体内に解き放つ。
対してきみの体内の免疫機能は、この異物を排除しようと襲いかかる。
スパイク自体にはなんの害もないので、人類は罹患することもなく、この対決(練習試合)にあっさりと勝利できるのだった。

人類の体内に侵入してきた異物を「抗原」といい、特定の抗原に対応する専門の迎撃隊を「抗体」という。
件の模擬戦での勝利によって、きみの体内には、コロナウィルスのスパイクに対応する抗体ができたわけだ。
この一回目の戦闘後、コロナスパイクにぴたりと接合するレセプターを獲得したきみの免疫系は、戦った相手の面構えを知る「記憶細胞」として眠りに就く。
さらにきみは何週間か後、二回目のワクチンを打つわけだが、このときの体内の反応がすごい。
「こないだのあいつがまたきゃーがった!」とばかりに、記憶細胞が一斉に目を覚まし、抗体として爆発的に増殖して迎え撃つのだ。
こうして二度の注射を終えたきみは、コロナウィルスに対するおびただしい防衛部隊をからだ中に展開し、隅々にまで警戒のセンサー網を張り巡らせて、さらなる襲来に備える態勢を整える。
そしてついに、すわ本番!となる。
きみは実際に感染して、いよいよコロナウィルスという本物の害毒が入ってくる。
ところがそのときには準備万端、アリ一匹通さぬ(アリの方がウィルスよりもはるかに大きいが)免疫センサーがウィルスのスパイク部分に反応し、素早く、かつおびただしいキラー細胞たちを前線に差し向けるわけだ。
きみは、二度のワクチンという「罹患の疑似体験」をすることによって、堅固な防衛態勢を敷き得たのだった。
まったく、うまく考えられたもんだよ、mRNAワクチン。

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実際、太古から現代まで生きのびている「メタン生成菌」ってのが、深海の熱水噴出口に酷似したメカニズムを体内に内蔵しているらしい。
意識による誘導なしに、純粋に自然現象のみ(熱力学の法則による粒子の受け渡しと、それにともなう化学変化、その循環)を使ってエネルギー代謝システムが、「大地を離れて」駆動してくれているとは、ちょっと頼もしい話ではないの。
この事実を、次のように言いまわせば、どれほど奇跡的なことが起きているのかが理解してもらえるだろうか。
「鉱物と無機物による地球環境の地質学的物理現象と、生命の体内における生理学的化学現象とが、途切れることなくつながっていた!」
地球環境とは、生命そのものだったんだよ!
要するに、前駆体である深海底のダイナミックなエネルギー循環装置をコンパクトにまとめ、一個体の内部で完結できるポータブルな形にしたものこそが、生命なのだとは言えまいか。

つづく

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開かれた系において、有機物がたまたまぶつかり合ってアミノ酸の構造に結んだり、アミノ酸がたまたま絡み合ってタンパク質を形成したり、という確率は、ほぼないらしい。
それが偶然に起きるには、パズルのピースが多すぎ、構造規模が大きすぎるのだ。
ところが、物質がギュウギュウ詰めに凝集し、そこに高いエネルギーが介入すると、複雑な構造の生成は不可能とは言えなくなるようだ。
「有機物のスープに雷が落ちて生命が誕生」するわけだ(この言い回しはかなり粗雑だが)。
さて、場面は振り出しに戻って、深海の熱水噴出口なのだ。
前述した通り、生命におけるエネルギーは、電子のやり取り・・・最も単純な例では、水素と二酸化炭素間での受け渡し・・・の際に発生するようだ。
こいつが熱水噴出口の周囲で起こってる、という話なんだった。
生命が存在しなかった昔々、大気中や海洋内に酸素はほぼ皆無だった(光合成をしてくれる植物がいないため)。
海の中は、二酸化炭素で満たされてたわけだ。
現代のような酸素たっぷりの海の中に水素が飛び込むと、両者は安定を求めて水(H2O)になるが、地球誕生当時の二酸化炭素の海に飛び込むと、メタン(CH4)になる。
メタンで生命が創造できればいいのだが、その後に誕生したわれわれの肉体は、極めて雑な言い方をして、「メタンになりきる前の中間物質」であるホルムアルデヒドからメタノールあたりの「雰囲気」でできている。
つまり初期生命は、安定した水素と二酸化炭素の壁は化学変化で飛び越えたが、メタンに到達してしまうほどには変化しすぎなかったわけだ。
その中間の不安定な物質に留まって、生命は創造されたのだ。
こんな難しい作業を、魔法で実現させてくれるのが、深海の熱水噴出口の周囲というわけだ。
この穴は、鉄と硫黄でつくられた(要するに、これらの金属まじりの熱水が噴出する)煙突とワンセットになっており、そのスポンジのように多孔質な壁面は、微細な迷路が稠密に入り組んだ構造になっている。
煙突の外には二酸化炭素の海があり、一方で内側からは、水素をたっぷりと含んだ熱水が噴出してくる。
水素の熱水と、二酸化炭素の外海との間が、硬いスポンジの煙突によって隔てられているわけだ。
煙突を形成する素材である鉄と硫黄の化合物は半導体で、電子が都合よく通過できるようになっている。
水素と二酸化炭素が壁なしに混じり合った場合、両者は安定を求めてそのままでいつづけるか、メタンとして一体に組み合うかの二択となるが、この「スポンジ質な半導体の壁で隔てられた環境」は、不安定な物質を化学生成させるのんびり反応に非常に都合がいい。
しかも熱水噴出口では、水素を噴出させる煙突内と、外界である海との間に、前にも言ったプロトン勾配(「陽子=+」と「電子=-」の濃度による電荷の差)がある。
内と外とで陽子(プロトン)の数が違うために、浸透圧により、陽子も電子も多い方から少ない方に流れたがるのだ。
これが勾配(理論上の坂の角度)となり、海底深くから噴出してくる水素まじりの熱水から、二酸化炭素の海に向かって、半導体である煙突の迷路を電子がほとばしる。
エネルギー、すなわち電気の発生だ。
スポンジの中で眠っていた無機物が有機化され、多孔質な煙突の小部屋に、生命の素とも言うべき初期物質(単純なアミノ酸など)が濃縮されてたまっていく。
「開かれた系において」と、この文章の最初に示唆しておいたが、閉じた系においてこうした物質がギュウギュウ詰めにせめぎ合えば、アミノ酸が結びついてタンパク質になってくれたりもするかもしれない。
プロトン勾配による電子や陽子の移動(系への出入り)を経験し、学習した小部屋の壁(リン脂質かそれに近い機能のもの)は、前回に説明したATP生成システムのような構造を発達させるかもしれない。
自分でエネルギーを使いまわせる機構の誕生だ。
こうしてついに、生命のタネができる。
もう一度まとめると、こうだ。
ゴツゴツとした熱水噴出口の周囲に、岩の微細な孔を利用した小部屋ができる。
その中に、有機物の前物質が閉じ込められる。
海底から噴出する金属の作用により、小部屋の内外で電子や陽子の移動が起きて電気が発生し、エネルギーが充填される。
小部屋内で化学反応が起き、有機物が生成され、それらがつながってアミノ酸になる。
稠密に入り組んだ穴の中では、化学反応もゆっくりだ。
せまく暗い迷宮には逃げ場もなく、生成された物質の密度も高くなっていく。
アミノ酸同士が押し合いへし合い状態となり、凝集が起き、ぶつかり合い、つながり合って、タンパク質になる。
こうして、多様なタンパク質が一箇所にそろったとしようではないか。
それらが連動して機能をしはじめ、自発的なエネルギー発生システムが備わった、ともしよう。
岩の穴の中に閉じ込められていたそれら一連の機構だが、ついに脂質によって完全に閉じた、つまり移動可能なマイルームを手に入れる。
活動サイクルが行き届く支配地域を囲む区画壁ごと自分の素材でつくり上げ、代謝活動に組み込んだ「肉体」に丸まったわけだ。
ついにこのあぶくを「彼」と言おう。
彼は、熱水噴出口という外部環境から切り離され、海の中で完全な独立を果たす!

つづく

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化学式は誰もが頭痛とあくびを禁じ得ないシロモノだが、少しだけつき合ってほしい。
こいつは退屈に見えて、中学校を出たひとなら誰にでも理解でき、しかもとても単純で美しいやつだから。
C6H12O6(数字はちっちゃく右下につく)という化合物があって、これは「グルコース」という炭水化物、つまりご飯の中の栄養分(エネルギーの元)だ。
こいつを人間は体内でつくっておいて、酸素を吸う。
すると、
C6H12O6+6O2→6CO2+6H2O+エネルギー(言語訳→炭水化物を食べて酸素・O2を吸うと、二酸化炭素・CO2と、水・H2Oの老廃物が出るのと引きかえに、エネルギーが発生する)
となる。
植物は逆行程で、
6CO2+6H2O+日光→C6H12O6+6O2(二酸化炭素を吸い、根っこから水を取り込んで、葉っぱに日光を浴びると、体内で炭水化物ができる)
だ。
この過程で、分子が解体される際に剥がされた電子が、細胞内の物質間を移動していく。
電子は供与側から放り出され、受容側に渡り、その受容体がさらに強い受容体へ電子を供与し、それが次々とリレーされていく。
その受け渡しの都度、電子はエネルギーを放出する。
そして細胞は、そのエネルギーをため込むと同時に、細胞内から陽子を追い出す、というのだな。
陽子は電子の相方で、要するにプラス・マイナスで結ばれるべき両者が同数いると好ましいのだが、陽子が追い出されたせいで、細胞の内外に不釣り合いが起きる。
つまり、陽子数の勾配が。
そこで、外に追い出された陽子は、浸透圧における透過等圧の原則から細胞内に戻ろうとするわけだが、内外を隔てる細胞膜には巧妙な仕掛けがあって、陽子が中に戻る際に「水車を回す」ようなメカニズムを用意してるのだ。
こいつが陽子の通り抜け際にくるくると回り、エネルギーカプセル(ATP)がコロリと組み上がる。
あぶくの幕をへだてたイオンの出し入れだけで、エネルギーが発生するわけ。
おっと、これって、どこかで耳にした話では・・・?
なんと、このくどくどと長い連載ものの最初の回に出てきた、海底の熱水噴出口の電気発生におけるイオン勾配の話と瓜二つではないの。
あのときすでにあぶくは、このエネルギー獲得の方法を思いついてたのかもね。
このエネルギー生成システムは、数種類のタンパク質と複雑な構造を必要とするとは言え、おそらくは誰もが最初に思いつくような簡潔なメカニズムだ。
川が流れていれば、そこからエネルギーを取り出したいと考える者は、まず水車の構造を思いつくだろう。
それほど普遍的なものなのだ。
細胞のような極小の世界では、前述したように、電子が流れている。
そこに電子の流れがあるのなら、その抵抗と振る舞いから、この構造が立ち上がるのは自明、とまで思える。
それがつまり、深海の熱水噴出口ではじめてつくり上げられた・・・いや、自然に組み上がったんではなかろうか?
電子と陽子の量子的振る舞いと、イオンや浸透圧の勾配さえあれば、この機構は必ず稼働してくれるため、そこに「生命意思」は必要なさそうだ。
つまり、鉱物と無機物が転げ転げて、自然にこうなった、と考えることはできる。
さて、生物群が進化を見た現在、細胞内でエネルギーをつくるという重要な役目を担うのが、動物の体内においてはミトコンドリアで、植物においては葉緑体だ。
ところが実は、このミトコンドリアという小器官は、動物の細胞の中に巣食う「別の生物」なのだ。
なにしろ、動物本体(宿主)とはDNAが違う。
なのに、生まれたときからすでに宿主の細胞内にいるという、えげつないパラサイトなのだ。
同様に葉緑体も、植物の中に居候する別のひと(別だったひと)だ。
おそらくはむかしむかしに、助け合う関係のふたつの生物がいて、あるときどちらかがどちらかに取り込まれ、そのまま一緒に進化してしまったわけだ。
内外でふたつのパーソナリティを持ちながらも、「これは居心地がいいわ」「役割分担すれば一緒に生きていけるね」となったにちがいない。
こうしてやがて、宿主が外界から栄養素を持ち帰り、内側の居候に渡して内職でエネルギーをつくってもらい、それをまた受け取ってパワーを得た宿主が活発な外交活動を展開するという、ウィンウィン物語が成就したわけなんだった。
この「くっつき」「共存」「役割分担」という考え方は、初期生命発生のプロセスにおいても重要なヒントになりそうだ。
すなわち、ミトコンドリアや葉緑素のご先祖さまである初期バクテリア(未生物とする)は、とりあえずこの「エネルギー抽出機構」を身につけたわけだ。
そして、有機物がたまたま大規模に組み上がった構造を持つあぶくに、これまたたまたま飲み込まれた!

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園