ガリレオさんに、ニュートンさんに、アインシュタインさん。
量子力学以前の物理学を「古典物理学」と言いますが、その大まかな骨組みは、ほとんどこの三人で築いちゃいました。
まずガリレオさんですが、例のピサの斜塔から重いやつと軽いやつを落としたひとです。
それ以前は、質量の違うもの(例えば、羽根と鉄)を同時に落下させたら重い方が先に落ちる、という当たり前に思える直感が信じられてきたのですが、彼は思考による論証の上に、実験によって確証を得るという方法論を取り入れたひとです。
「それっておかしくね?じゃさ、じゃさ、重いものと軽いものを結びつけて落としたらどうなるの?重いものが早く落ちようとしても、軽いものがブレーキをかけるわけでしょ。だったら、重いものよりもゆっくり落ちるってことじゃんね?だけど重いものと軽いものを結びつけたら、重いものよりももっと重くなるから、重いものよりももっと早く落ちなきゃなわけでしょ?矛盾してね?おっかしいよ〜」というわけで、ピサの斜塔の実験に至るわけです(実際には斜面に玉を転がすやり方で、どんな質量のものも同じ速度で落ちることを証明しました)。
あと、彼が言い出したもうひとつの有名なやつが「慣性の法則」で、これをかいつまんで言うと、「いったん動きだしたものは、まっすぐに同じ速さで動きつづける」「その動きを変えるのは、よそからのちょっかいだけ」というものです。
こんな当たり前なことが意外と重要だったようで、次の世代のニュートンさんがこの法則をヒントに、「すごく飛ぶ大砲で撃ち出した砲弾は、地球を一周して、ついに自分の後頭部に当たるのでは?」と言い出しました(ガリレオさんもそうですが、物理学者の思考実験は、たいてい空気抵抗を無視します)。
撃ち出された砲弾は、放物線を描いて地上に落ちますよね。
ところがこの放物線というやつを綿密に計算すると、砲弾を強く強く撃ち出せば、地球を一周させて元の位置に戻らせることもできそうなのです。
ガリレオさんが言った通りに、動きだしたものはまっすぐに動きつづける、としてですよ。
そして、動きを変える(砲弾の軌道を下向きに曲げる)のはよそからの、すなわち、地球からの万有引力が働くから、と考えたのです。
そして計算の結果、地球を一周する砲弾の軌道は、なんと地球をめぐる月の動きや、太陽系をめぐる惑星の動きにピタリと符合するとわかったのです。
ニュートンさんの「万有引力の法則」は、リンゴと地球が引っ張り合うという点だけがクローズアップされます。
しかし彼の本当にすごいところは、そこから思考を飛躍させて、地上のリンゴと宇宙空間の星々の振る舞いとを結びつけた点、すなわち「天界は神さまの霊力が司る世界ではなく、地上の引力のルールがそのまま適用されている」という、天地のルールを統一した点なのです。
ここで事実上、神さまの役割は終わり、科学が自然界の創造主として認められはじめました。
そして、いよいよ真打ちであるアインシュタインさんの登場です。
彼は、おそらくガリレオさんのピサの実験に想を得て、「箱の中に入った私」を「上空から落としてみる」という思考実験をしました。
「このとき、人生でいちばんしあわせな瞬間が訪れた」と述懐していますが、上空から箱とまったく同じ速度で自由落下をするアインシュタインさんは、箱の中で無重力体験をするのです(やっぱし空気抵抗を無視しています)。
これは、宇宙空間と完全に等質な条件です。
その箱の外側にロケットエンジンをつけて吹かしますと、地上の条件に戻るわけですね。
というわけで、ようやく前章のつづきです。
無重力の宇宙空間で、上昇加速をつづけるロケットの小部屋の中に、ぼくらはいるのでした。
床が足の裏を上向きに押し込んでくるので、Gというやつがかかって(1Gが地上の重力です)、ぼくらはずっしりと体重を感じ、まるで地上にいるように過ごしています。
そして、片側の壁から向かい側の壁に向けてレーザー光を発射し、光が下向きに曲がることを確認したのでした。
これを相対性理論は、「光が、ゆがんだ空間の二点間の最短距離をまっすぐに進んだ!」とアインシュタインさんは言い張るのです。
では、ロケット内に仮想でつくった「地上とそっくりな小部屋」でのこの実験を、実際に地上で再現してみたらどうでしょうか?
つまり、同じしつらえの小部屋(要するに、ただの掘っ立て小屋)を地上につくり、片側の壁から対面に向けてレーザー光を発射するのです。
光はもちろんまっすぐに進み、対面の壁の的の中心にピタリと当たります。
なにしろ、地上の小部屋は上昇加速などしていませんから、当然です。
・・・と思うでしょ?
ところがそうではなく、このただの掘っ立て小屋の実験でも、光はロケット内と同様に、的の中心からまったく同じだけ下方に外れるのです。
この地上の小部屋でも「光が曲がった!」のです。
地球の重力(質量による時空間のゆがみ)の影響で、光が下向きに引っ張られたわけですね。
信じられないかもしれませんが、これは現実です。
実際に、「質量があるものの周囲の時空間はゆがむ」のです。
ましてや、地球ほどの大質量の天体です(と言っても、光の曲がり幅は観測が不可能なほど微小なものですが)。
これは、日食の際に太陽の裏側に位置する星の光が(太陽の大質量によって)ゆがめられ、計算通りのずれ幅が観測されたことからも立証されています。
こうしてアインシュタインさんは、重力の正体が「質量がゆがめた時空間を果てしなく加速しつづけるやつ」「ゆがみによってずれた位置から本来あるべき位置へと引かれた最短距離の加速移動」と定めたのです。
一般相対性理論・・・理解できました?
つづく
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
前章を読んだあなたは、すでに特殊相対性理論を理解しているので、この章では、それを一般化したアインシュタインさんの最高傑作である「一般相対性理論」にまで進みます。
一般相対論では「加速度」を扱うので、そこのところを頭に叩き込んでおいてください。
加速とは、どんどん速くなっていく、ということです。
前章のお話で出てきた電車は「等速直線運動」という、あるスピードに達したまま維持している状態で、これは静止しているのと同じなのです。
とてつもない(が、一定の)速さで自転している地球上のひとを「静止している」と表現するのと同じです。
前章で出てきた電車が加速をすると、乗っているひとはGを感じてよろめき、天井から床に向かう光は曲線になります。
光が曲がるのは、天井から放たれた光が下に向かうごとに、床は1、2、4、8・・・というような移動をするためです(等速だと、床は1、2、3、4・・・で移動しますが、光も同調して1、2、3、4・・・と空間上をずれていくため、垂直に落ちる理屈になります)。
さて、以上を踏まえてまた思考実験をするわけですが、たった今「光が曲線になる」と書いたのに、アインシュタインさんはまたも無茶な宣言、「光は絶対にまっすぐに進むってことにするね!」「光はこんりんざい曲がらないの!」と言い放ってしまいます。
曲がっているのに、まっすぐに進むとは、どういうことなのでしょうか?
ところが、このへんな約束ごとを決めるだけで、地球上の重力の存在が説明できてしまうのです(この連載のどこかで、筆者もすでにおおむねを説明してしまっていますが)。
さて、今度は電車ではなく、宇宙空間にいるロケット内の小部屋を思い浮かべます。
ロケットは、まだエンジンを吹かしていないので、小部屋の中は無重力状態です。
片側の壁から、的が描かれた反対側の壁に向けてボールを投げると、落ちることなく、まっすぐに的の真ん中に当たります。
では、エンジンを吹かして、上昇加速を開始します。
部屋内で立っているひとに、自身の体重の手応え(足応えか)が発生しました。
上に向けてどんどんと加速してくる床が、足の裏を押してくるので、その感覚がまるで重力のように感じられるのです。
ロケットの小部屋内で、地球上と見分けがつかないほどの状況をつくり出すことができました。
さて、ロケット内のこの小部屋にも、一方の壁から対面に向けて横向きに発射されるレーザー光の装置がついています。
加速上昇中に、光を発射してみます。
アインシュタインさんは「光はまっすぐに進むの!」と言い張っていましたが、光は対面の壁に向かうにつれて大きく下に曲がり、落ちていきます。
発射装置から光の先が1進んで、上向きに1ずれると、ロケットは上に向けて2移動するからです。
光が2進むとロケットは4、光が3進むとロケットは8・・・そうして光の先は、まっすぐな軌道からどんどんとそれていき、対面に至ったとき、的の下に大きく外れてしまうのです。
これは、光はまっすぐに進もうとしているにもかかわらず、ロケットがそのまっすぐなライン上からどんどんと離れつづけるために起きる現象です。
ところがアインシュタインさんのルールは、「光はまっすぐ!」なものですから、彼の意地っ張りにつき合いますと、「加速している系では、空間が曲がる!」「光は絶対に曲がらないので、ゆがんだのは空間の方!」ということになるのです。
つまり、アインシュタインさんの言う直線の定義とは「二定点間の最短距離」であるため、ゆがんだ空間の二つの地点を最短距離で結ぶラインは、曲線に見える直線である、ということになります。
加速度運動をつづけるロケット内の空間は、ゆがんでいるわけです。
さらに、この透明な小部屋の出来事を外から見ているひとは、やはりロケット内の光が伸びている事実を観測します。
つまり、静止している系から相対的に見た加速度系もまた「時間が遅くなり」まして、逆にそっちの幾何を補正しますと、「空間が進行方向に向かって縮む」ことになるのです。
この世界は時空間という四次元で構成されているので、光を間に置いて遅い時間を補正すると、空間サイドがゆがんでぺしゃんこに縮み、空間サイドを通常にすると、時間がゆったりと流れまして、この両者は同じことを表現している、ということになります。
この無茶な約束ごとを理解できた(しかしまあ、このへんはぼんやりと流してくれてもいいです)ひとだけ、次の章にお進みくださいな。
いよいよ重力の説明で、相対性理論の本当の威力が発揮されます。
つづく
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宇宙の果てはどうなってるの?と一度は考えたことがありますよね。
前章で書いた通りに、地球からのぞき見る宇宙の果ては「点」です。
これもまた不思議な話です。
宇宙の遠くを見れば見るほど、時間は巻き戻され、空間は収縮し、最後には138億光年先にあるビッグバンの一点にたどり着きます。
では、どの方角にその点が見えるのかと言いますと、夜空のどこをテキトーに観測してもよろしい。
ビッグバンは必ず、そのはるか先に現れます。
針の先ほどの特異点から全方位に放射拡散して展開し、広大な時空間になった現在の宇宙なので、あなたは頭の上に開いた全天に視野を大放散させていっても、その奥の奥で、視野は一点に収斂(しゅうれん)されるのです。
次元が裏返った、とでも言いたくなる構造です。
では、光の速さで宇宙の外に向かえば、138億年後にはビッグバンにたどり着けるのか?というと、そうでもありません。
そこには、ビッグバンから現在までに経た138億年にさらに138億年を足した276億年後の宇宙があるのみで(相対性理論を無視した、純粋な距離計算です)、その頃になると、宇宙の果てはさらに276億光年先に遠ざかっているために、いつまで飛んでもゴールにはたどり着けない、という「果てしない」ジレンマがつづきます。
そもそもぼくらは、光の速度に近づくほど時空間の伸び縮みが著しくなるという相対性理論に邪魔をされて、宇宙の膨張には決して追いつけないことになっているのです。
スピードと時空間の伸び縮み関係は、実際に起こっている現象で、例えばGPSなども、宇宙空間を飛び交う衛星と地上とのゆがみの誤差を補正しないことには、正しく機能してくれません。
説明した方がいいですよね?そろそろこのあたりの難しいやつを。
つまり、相対性理論を。
アインシュタインさんは、「光の速度は絶対に変わらないってことにするね!」と言いきったひとです。
つまり、光は遅くなったり速くなったりするものなのかもしれないけれど、今後はそれを認めないで、上のルールでやっていくよ!と基準にしちゃったのです。
そうすると、この世界で起きている不思議な現象がシンプルに説明できると気づいたのです。
例えば、天井からレーザー光を床に向けて発射する装置を思い浮かべます。
光が天井から床に達するまでの距離を「1」とします。
この装置を、透明な車両の電車内と、駅のホーム上に取りつけ、光の発射タイミングを同調させます。
さて、電車はすごいスピードで走って(等速直線運動)います。
車両内のひとは、レーザー光が天井から発射されてから床につくまでの間、「1」の時間を過ごしています(慣性の法則により、天井の光はまっすぐ垂直に床に届きます)。
駅のホームにいるひとも、その場に設置されたレーザー光の「1」の時間を過ごしています。
今、両方の装置が同時に働き、二箇所の天井から光が発射されました。
そのとき、駅のホームを、透明な車両の電車が通り過ぎていきます。
ホーム上のひとは、すぐ横に設置された装置で「1」を計測する間に、前をすごいスピードで通りすぎる透明の電車内の光を見ていました。
すると、なんということでしょう。
電車内の光の軌道は、ホーム上から見ると、斜めに引かれていたのです。
つまり、光が車両の天井から発射された時点から、床に届く時点の間に、「電車の床が前方に移動したために」、ホームから電車内の光を見ると、ホームの光よりも長くなっていたわけです。
この光の長さを「2」とします。
ということは、ホームのひとが「1」という時間を過ごす間に、車両内のひとは「2」という時間を過ごしたことになります。
なんたって、「光の速度は絶対に変わらない!」ですから。
観測者に対して高速度運動をするひとは、時間がのびのびに遅くなった空間内で過ごしているのです。
これが相対性です。
ところが、またへんな話になります。
すごいスピードで走っている電車内のひとがホームを見ると、逆に、電車内では「1」を計測している時間が、ホーム上で「2」を計測しているではありませんか(通り過ぎていくホーム上の光が斜めに引かれたわけです)。
これは、電車の車両内という静止系に対して、地上がものすごいスピードで通り過ぎた、と解釈ができます。
これも相対性です。
かくて、静止している観測者の系と、高速度で動いている系とでは、別の時間が流れている、という結論になります。
そしてこれは、事実なのです!
次回、もっと難しくなるので、この思考実験の仕方を覚えてください。
つづく
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ちゃんと読めばご理解いただけるものと思いますが、これはスピリチュアルな問題ではなく、純粋な物理学によって世界の構造を探れるところまで掘り下げよう、という試みです。
不思議なことがいっぱいのこの世界を、オカルトだと思わないで、きちんと真実に向き合いましょ。
さて、この世は波のみでできている、という話を延々としていますが、人類サイドとしましては結局のところ、この波をなんとか検知して、自分たちが扱いやすい「三次元の立体感を持った描像」の形に起こすしか、世界の様態を認識することができないわけです。
そのために、宇宙に向けた望遠鏡やレーダーで、どこかから発せられているなんとか波を拾ったり、かんとか線を集めたりして解析し、宇宙の構造を理解しようと努めているのでした。
いろいろな波を集めると、天体の組成がわかったり、振る舞いがわかったり、そこまでの距離がわかったり、最も単純には、遠い遠い宇宙空間を覗いたりすることができます。
最近、ここに新しい波の観測方が加わりまして、この波を「重力波」と言います。
重力とは、質量が空間をゆがめて起こる現象で、ゆがんだ位置から正規の位置へと向かう最短距離の加速度のことを言い、これもまたアインシュタインさんの一般相対性理論が説明しているものです。
今、さらっと書きましたが、質量がある物体(波のかたまりなのでした)の周囲は、「時空間」がゆがみます。
時空間に関しては、のちに説明しますが、要するに、質量を持った物体があると、その周囲の時間と空間はゆがむのです。
「周囲」とは、それを取り囲む時空間を言いますが、この場合は「近辺」ではなく、「それを取り囲む宇宙全体」を指しています。
質量を持った物体の近くは大きくゆがみ、遠くは小さくゆがみ、このゆがみは延々と遥か彼方にまで伝わります。
海辺の水面に石を投げ込むと、波紋が立ってひろがりますが、それはいつか消えるように見えて、実は海の向こうのアメリカ大陸にまで達しているのです(遠ざかるに従って振動があまりにも小さくなるので、あちらに達したことは視認も感知もできそうにありませんが)。
同様に、質量を持った物体が時空間のをゆがませ、重力波が立つと、それは近辺にひろがり、遠方にひろがり、彼方にひろがり、ついにその影響は全宇宙にまで(ほんのかすかにですが)ひろがるわけです。
世界で初めて重力波を観測したのはアメリカのチーム(もちろんノーベル賞)で、その波は、ブラックホールがふたつ絡み合ってぐるぐるととぐろを巻いている、というおどろおどろしい光景が発しているものでした。
ブラックホールは、以前にちらりと説明しましたが、巨大すぎる質量の天体が重力崩壊を起こして一点に閉じ込められた凶々しい現象なので、これがペアとなりますと、時空間がとてつもないゆがみ方をします。
それが遠く地球上にまで伝わってきて、アメリカ大陸に広々と開かれた十字形の重力波検出装置に引っ掛かった、というわけなのですね。
これでまた、天体や宇宙空間の観測に、新しいツールが加わったわけです。
では、なぜ重力波を捉えるのが重要か、という話です。
先ほど「時空間」の話が出ましたが、この世界はタテヨコ奥行きの三次元でできているわけではありません。
「時間」を足した四次元の時空間構造と(人類にとっては)なっていまして、空間と時間は一体としてつながっており、ともに伸び縮みをしています。
このあたりの難しい話は別の章で語り倒しますが、空間と時間が一体となっていると直感的にわかるシンプルな例では、空の上の太陽と月です。
あなたが今見ているあの月は、現在の月ではなく、1秒前の過去の月です。
月が放った光が地球に届くまでに、それだけの時間がかかるのです。
同様に太陽は、地球上では8分前の姿を見ていることになります。
日食の際にぼくらは、8分前の太陽を、1秒前の月が隠している像を見ているわけです。
一光年先の天体は1年前の姿、十光年先の天体は10年前の姿を、地上では観測しています。
640光年離れたベテルギウスは、まさに今か今かと爆発しそうになっていますが、これもまた「640年前に爆発を起こしていたのなら」、ようやく今夜にでもそれが見られます。
ご理解いただいたように、宇宙の遠くを見るのは、宇宙の昔の姿を見るという行為なのです(空間と時間とは一体化しているので)。
こうして人類は、10億光年先、100億光年先・・・と、どんどんと宇宙の奥深くへ踏み入り、同時に、太古の宇宙を観測してきました。
ところが、ここで障壁にぶつかります。
宇宙開闢(かいびゃく)から38万年間は、ビッグバン由来のとてつもなく強い光が宇宙中に渦巻いていたために、決して見ることができないのです。
「見る」というのは、波を拾うことなのでした。
ビッグバンで放たれた猛烈な波が絡まり、混線しまくっていて、なんとか波もかんとか線もどれもこれも、技術的にも理論的にも、決して検出できません。
ここで満を辞して、じゃじゃ〜ん!重力波の登場というわけです。
ビッグバンは、全宇宙の質量をもともと腹の中に蓄えていた特異点という、桁外れの大質量ポイントなので、ここいらの時空間のゆがみときたらとてつもないのです。
驚くべきオーダーの重力波が検出できるのは、言うまでもありません。
この138億光年先の「世界がはじまった瞬間」を覗くために、重力波の観測が力を発揮するのでした。
つづく
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この世は様々な波でできていて、ぼくらはそうした抽象的な非物質の振る舞いを読み取って、脳の中で勝手解釈をし、理解しやすい形の物質世界の描像に結んでいるのでした。
ヘビは舌で赤外線を感知して周囲の状況を把握しますし、コウモリは音波を出しては跳ね返りを受け取るという「エコーロケーション」で、ものを立体的に可視化(矛盾した言い方ですが)しています。
彼らはそれぞれ、自分の中に築いた世界(人類とは異質な世界)を生きているのです。
X線で見る体内や、電波望遠鏡による天体観測、ミュー粒子という素粒子を打ち込んでピラミッドの中を探ろうという「世界の認識方法」もあります。
同様に人類は、色々な波長の光から、赤外線と紫外線の中間にある「可視光」という必要十分なゾーンだけを感知して、その情報で風景を再構築し、脳の中で「自分にとって理解しやすい世界」をつくり上げています。
それは創作された表現世界と言うべきであって、自分の外界には、自分の見ている世界がそのままひろがっているわけではないのでした。
ところで、世界が波でできているのは結果であって、その原因は出自にあります。
われわれの住むこの宇宙は、ビッグバンという大爆発から生まれました。
それ以前には、この世界にはなにもなかったのですよ。
物質どころか、空間も、時間も、なーんにもなかったのです。
ところがどうしたいきさつでか、ある瞬間に特異点が発生し・・・これは「点」の定義そのままに、位置だけがあって大きさを持たない、という無茶なしろものですが・・・その一点に、以降に開く世界のすべてが押し詰められたのです。
そして、大爆発を起こします。
その瞬間に、空間が開き、時間が開始されたのでした。
同時に、とてつもない!・・・という言い回しではとても追いつかないほどの、猛烈な光と熱が放出されました。
つまり、最初の最初から、この世界には波しかなかったのです。
それ以来、宇宙空間は今に至るまでひろがりつづけています。
ひろがりつづける、というのは、光が薄まりつづけ、熱も冷めつづける、ということを意味しています。
光もまた、量子という名の「運動量だけがあるので質量は計算できても、実体はおぼろ」という素粒子なので、宇宙が大きく育てば育つほど、当初に固まっていた密度が散り散りに拡散していきます(波がだらしなく伸びていく、と解釈もできます)。
その光は現在どうなってるの?と言いますと、猛烈な波長だった光は細切れにされて宇宙全体に一様にひろがり、「宇宙マイクロ波背景放射」という、つまり宇宙空間のどこを切り取っても、まったく均質に弱まった波がみっしりと詰まった状態になっています。
ビッグバンで発生した光は一定量なので、せまくて高密度→広くて低密度、となっていくわけです。
逆に言えば、この背景放射全部を集めれば、ビッグバンがつくり直せる、ということです。
ところが、ここでまたエントロピーの話になりますが、散らかったものは散らかりつづけますし、熱は高いところから低いところにしか流れません。
ここに仕事を加えると、エントロピーの値が増えるので、要するに「エントロピーの増大は不可逆」となります。
これは、背景放射を全部集めるには、ビッグバン以上のエネルギーが必要となる、とも言いかえられます(結果、エントロピーは増大します)。
このビッグバンのだだ流れとエントロピーの法則ゆえに、宇宙の時間は対称性を持たず、一方向にしか流れることができない、となるのでした。
さて、宇宙は膨張をつづけ、光は空間に拡散しつづけ、熱もまた下がりつづけます。
熱とは、波の振動そのものなので、これが伸び伸びになりますと、つまり冷めていくわけです。
宇宙空間がひろがりにひろがったために、熱も冷めに冷めまして、現在の宇宙温度は−270度なんてことになっています。
では、どこまで冷めるのか?というところですが、温度というものには下限がありまして、−273,15度が絶対零度と定められています。
定めたのは人類ではなく、自然でありまして、要するにこれは絶対の定数です。
この温度になると、あらゆる波の動きが完全に静止してしまうのです。
逆に言えば、閉じた系のあらゆる波が静止すると、−273,15度に達します。
エントロピーは最終的に、「一切の波の静止状態」に向かって増大しつづけるわけです。
ご臨終の際に、心音の波が「ぴーーーーーーーーー」とまっすぐになりますよね。
あれのようなもので、宇宙空間の温度が−273,15度になった時点で、この世界は「おしまい」となります。
「世界の死」こそがエントロピーの最大値というやつで、平たく言えば、固く固く結んでいたビッグバンが、ひらきにひらき、ついに散らかりきった状態です。
つづく
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この物質世界は、素「粒子」とは名ばかりの波動関数の計算式と、電磁気力・重力・強い力(クォーク同士に働く核力)・弱い力(ベータ崩壊を引き起こす力)という四つの力の相互作用のみでできている・・・というか、これのみで十全に説明がつくようです。
その世界像には、どこにも肝心な「実体」がありません。
これが現実なのでした。
しかしあなたは、「いやいや、あるやんここに、目の前に見えてるやん」と言うでしょう。
それは虚像ですよ、と言ったら怒ります?
ええ、あなたの見ているその像はすべて、あなたがつくり出したまぼろしなのです。
自分が世界だと思っているものは、世界そのものではなく、自分が脳の中に築いた内的世界なのであり、その創作の通りの実相があなたの外界にひらいているという保証はどこにもない・・・という話を、何章か前に狂ったふりをして書きました。
単純な例で言えば、においです。
これもまた、生物の機能による創作なのですよ。
世の中には心地よいにおいと、不愉快なにおいがあります。
鼻は、危険の中に真っ先に突っ込んでいかなければならない前衛なので、生命体の最前線に立たされています。
その鼻が、命に関わる危険な物質を「いいにおいだ、ぽわわ〜ん」と感じたら、ヤバいでしょう。
なので、ある種の生物は(確実なところでは、人類は)進化の過程で、近づいたり、口にしたらよろしくなさそうな化学物質に、嫌悪感を伴うにおいを「感じよう」と発案したのです。
つまり、元々いいにおいなるものが世界に漂っていたわけではなく、任意の化学物質に対していいにおいかいやなにおいかを決めたのは生命体側の恣意なのであって、危険から逃れるための防衛センサーのメカニズムを生理的な形に落とし込むアイデアなのでした(それを利用して、嗅がせる側も共進化したのです)。
世界が元々そうだったわけではなく、生命サイドがいちから「いいにおいといやなにおいのする世界」をつくったわけです、脳の中に。
味覚も同様に、体内に取り込むべきもの、生きるために必要なもの、この瞬間に不足している栄養素を「心地よく感じよう」と、味という概念と舌の機能を結びつけ、「おいしい」の概念を創出したのです。
逆に、毒や、傷み・腐敗が進んだものは「まずく感じよう」と。
これらの例は、完全にこっちサイドの意図的かつ技術的な問題なのであって、こうした感覚は脳の中の創作です。
ついでに言えば、子孫作成行為の快感と、死の耐えがたい苦痛も、必要に迫られての発明です。
性行為が気持ちよければ、どんどんはげもうと考えますし、死が苦しみを伴うのなら、それを回避してがんばって生きようと考えます。
また話がそれていますが、視覚の問題を論じているのでした。
あなたは「世界は見た通りのもの」と自分の目を信じていますが、目が物質そのものを映し出していると言いきれますか?
誰もが(たぶん)外世界として認識しているモデルは、科学界最高の頭脳と最先端技術がとてつもない精度で導き出した世界像と、相容れないものです(このどちらを「モデル」と呼ぶべきなのでしょうか?)。
あなたの目は、スッカスカ構造である「物質と呼ばれるもの」から発される光を網膜に張りめぐらせた視神経で受容し、電気信号にコード化して、脳内の神経系においてしかるべき形で保存します。
その過程で、あなたが理解しやすいように情報を取捨選択し、生命維持と快適な営みのために便利な解釈が行われているのです。
あなたの目の前にあるリンゴは、スッカスカの構造体に電磁気力を張り詰めさせるという、手の込んだからくりの波に過ぎないのに、まだまだわれわれはそれを脳内に明晰に再構築させる手法を知りません。
なのであなたは、データ量の上限がある頭の中で、自分が理解できるように解釈をし直す必要があるのです。
リンゴに光が当たり、いろいろな波長のスペクトルが弾かれたり吸収されたりして残った「赤色とあなたが勝手に割り振った」波長を脳内で赤色と理解し、さらにリンゴの素材感や外構造、重量感などのクオリア(頭の中であなたがつくり上げた概念)と絡み合わせて、結果あなたは「あなたがつくり上げたリンゴ像」を脳に経験させているのでした。
それは「解釈」であり「抽象描写」なのであって、リンゴの実相を「表現」しきったものとは言えません。
あなたが脳内に構築したその描像が、昆虫のものとも、ヘビのものとも、コウモリのものとも違っていることは、直感的にわかるでしょう。
誰も彼もが、まったく違う世界像を自分の中に構築しているのです。
そしてあなたもまた、世界が自分にわかりやすく見えるように、独自の神経インフラを整えたのでした。
世界は空中に化学物質を混在して漂わせていたので、人類はそれを選り分ける嗅覚機能を発達させました。
世界は空気を震わせていたので、その質と発信源を選り分ける聴覚機能を発達させました。
世界は素粒子の集合体を偏在させていたので、それが発する電荷を感知する触覚機能を発達させました。
世界は光を乱反射させていたので、その波長を選り分ける視覚機能を発達させました。
それらの感覚器が受容する「波」情報を総合させ、解釈し、脳内に描像として結び、あなたのオリジナルな内的世界は築かれます。
それは、あなたの自己都合の世界像なのであって、世界の本当の姿・・・世界そのものである、とは言えません。
あなた、あなた、とこの章では買いていますが、あなたの存在も、ぼくの創作でしかありません。
あなたが実際にこの世界に存在するかどうかは、ぼくには知りようがなく、ただぼくは自分の世界像の中にあなたを設定するしかないのでした。
ぼくの感覚器があなたの情報を噛み砕き、独自に解釈するままに。
つづく
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原子の中身はスッカスカ(甲子園球場もの中抜け空間の中央に、パチンコ玉いっこ)、と理解してもらえたでしょうか。
この「ほとんどなにもない」中空のシャボン玉のような素材が、百個集まろうが、一千億個集まろうが、そのまた一千億倍集まろうが、それによって構築されたユニットの密度が上がるわけではないこともわかります。
その上に、原子や原子核自体もエネルギーを持ち、熱によって振動をして、周囲の原子同士でぶつかり合っているわけで、それによって組み上げられた物質の密度は、ますますスカスカのすっからかん、みたいなことになっています。
ちなみに、この密度は上げることもできます。
頭上の太陽などがそうなのですが、スカスカの水素原子があまりにもおびただしく集まってできています。
その巨大質量のために、太陽は自重によって内側に潰れつつあるのです。
すると天体の中心部の高密度は極まり、水素原子核同士が押し潰し合って、核融合を起こします。
その結果、水素原子はくっつき合って、(多少複雑なプロセスを踏みますが)ヘリウム原子核になります。
その際に放出された熱が、太陽の外側にまで猛烈に染み出し、わが地球をも温めてくれているわけです。
ちなみに、もっともっと超巨大質量の天体は、半端ない自重でやがて重力崩壊を起こして超高密度に収縮し、「特異点」という一点に丸め込まれて「ブラックホール」になります。
ところで、太陽の中心部で核融合反応が起こると、ニュートリノという素粒子も盛大に放出されます。
地球上に光速で降り注ぐ、質量があるんだかないんだかわからないこのオバケ素粒子(梶田先生が質量を検出してノーベル賞をもらいました)は、人間のからだ1平方センチあたりに、毎秒数百億個も突き刺さっています。
が、ニュートリノには電荷がないので、人間の体内の原子核(+)にも電子(−)にも引っ掛からず、そのまますり抜けていきます。
中身の詰まっていない甲子園球場内(人間の体内がこの密度)に、けし粒を何個か投げ入れてみても、中央のパチンコ玉にはなかなか当たらない、という確率の問題です。
だったら、とデパートくらいの巨大な水槽をつくって水を満たし、その中にニュートリノを突っ込ませて検出してやろう、としたのが小柴先生で、彼もこのカミオカンデ計画で実際にニュートリノのシッポをつかみ、ノーベル賞をもらいました。
話はどんどんずれますが、なにが言いたいのかというと、これほどまでにわれわれ人間の肉体内には中身が詰まっていない、ということなのでした。
ではなぜ、われわれは自身にみっしりとした実体感を得られているのか?そこにものがあると触覚できるているのか?という問題になります。
これは、われわれが電磁気力のかたまりであって、それが相互作用するからに他ならないのです。
両手に一本ずつ握った磁石の同極同士を近づけると、反発し合って、その間になにか柔かい物体があるように感触した経験があるでしょう?
物質の触感とは、要するにあれなのです。
中身がスカスカのまぼろしがそこにあり、そいつが電磁気力を放っているために、同じく電磁気力を放つ指で接すると、まるでそこになにかが実在しているように感じてしまう、というのが触覚の正体です。
そういうふうに感じ取れるように、ご先祖さまが神経を配置してくれたのです。
つまりは、まぼろしを具体的な実体として解釈(誤認識と言っていい)できるように、ぼくらは進化の過程で、触覚という「電磁気力検知器」の機能をつくり上げ、洗練させたのでした。
いやいやいや・・・ちょとまちいな、あるて、ちゃんとそこにあるて、だって見えてるやん・・・と思うでしょ?
その視覚も、まぼろしを見させられているのかもしれませんよ。
つづく
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
ぼくらの肉体を組織しているのは、細胞です。
細胞の内部構造は複雑で、これ自体が宇宙のようなものですが、突き詰めればこれらの物質は原子からできています。
原子にも内部構造がありまして、これは中央に位置する原子核と、その外側を周回する電子とでできています。
原子核にも内部構造がありまして、ざっくり言って、陽子と中性子が何個かずつぺたぺたとくっつき合ってできています。
陽子と中性子(このふたつを核子という)にも内部構造がありまして、どちらもクォークが三つずつくっつき合ってできています。
クォークは素粒子と言いまして、人類が今のところ解明しているところでは、「ミクロのオーダーにおける行き止まり」となります(電子も素粒子)。
これより先の小さな内部構造は、今のところ見当たらないというわけです。
この判明している限りの最小単位であるところの素粒子というのが、実に奇妙なしろものなのですね。
量子力学という科学ジャンルが、この不思議な世界の説明を試みていますが、まだまだまったくもって不十分です。
素粒子の振る舞いにおいて、最も奇妙なのが、「物質であったり、波であったりする」という点です。
例えば、特別な銃で、素粒子一個をポンッと撃ち出すと、それは実体のない「波」の姿をしているのです。
電波とか、音波とか、水面に石を投げ込んだときに立つ、あの波です。
ところが、例えばあなたがこの波を検出しようと観測を試みた瞬間に、なんと一点に集まって(収縮して)、一個のつぶつぶの物質に、すなわち言葉通りの「粒子」になるのですよ。
これは例えでもなんでもなく、上の文面の通りに、空間にひろがった波が「誰かに見つかった瞬間に」物質に変身します。
まったく解せない現象ではないですか。
この極限ミクロの学問を、「素粒子力学」ではなく、わざわざ「量子力学」と銘打っているのは、実際の素粒子には手応えのある実体も定まった形もなく、「量のみを持っている」オバケのような存在であるためです。
ところで、原子モデルである「原子核の周囲を電子がめぐる」図の、本当のスケールバランスを知っていますか?
ものの本の図説を見ると、土星と土星の輪、みたいなことになっていますが、とんでもない誤りです。
いちばんシンプルな水素原子(原子核に陽子が一個、それをめぐる電子も一個)のバランス差で例えれば、原子核をパチンコ玉に見立てると、ケシ粒ほどの電子が、甲子園球場の外周もの軌道でめぐっている、というほどの距離感があります。
原子の内側とは、これほどまでにスッカスカなのです。
しかも、光速で周回する電子が、粒子の形を取っていません。
スピードという名のエネルギー量だけがある、実体のない波として振る舞っているのです。
アインシュタインさんのE=mc2(エネルギーは質量と等価)によって、電子が質量を持つことは計算上ではっきりしているのですが、つぶつぶの姿でおとなしくしていてくれないので、捕まえることもできません。
さて、以上のマクロな外観情報を踏まえまして、いよいよ原子の構造の本当に不思議な点を、ミクロな視点から説明します。
原子核は、陽子と中性子からできている、と前述しました。
これらの核子は、クォーク三つずつでできている、とも。
素粒子であるクォーク同士は、事実上クォークにしか働かない引力である「核力(強い力、とも言う)」によって、強烈に引きつけ合っています。
核力は、超短距離にしか力が及ばないけれど、とてつもなく強い引力です。
このメカニズムを、とりあえずは覚えておいてください。
さて、その核力でゴリゴリに固められたクォーク三つから陽子はできていて、これが水素原子核です。
この原子核は+の電荷を持っていまして、-電荷の電子と引っ張り合っています。
ではなぜ電子は原子核にくっつかないで、その周りを周回できるのかというと、電子が常に光速という超スピードで飛んでいるからなのですね。
要するに電子は、原子核に電磁気力で引っ張られながら、同時に、原子核の元から飛び去ろうとしているわけです。
この引き合う力と遠心力のバランスは、よくハンマー投げの投てき者とハンマーに例えられます。
ヒモの張力(電磁気力)と、回転するハンマーの遠心力がぴたりと釣り合っているので、電子は原子核からちょうどいい距離を周回している、というわけなのでした。
この説明から、スカスカ空っぽ構造である原子(甲子園球場ほどの巨大なシャボン玉の中央にパチンコ玉がぽつねん)の中身が、電磁気力がビリビリと効いている状態であることが理解してもらえたでしょうか?
さて、その原子を二つ並べ、無理矢理に近づけていくと、どうなると思います?
賢いひとは「分子になる」と知っているでしょうが、それをさらにむぎゅむぎゅと押しつけて、ひとつにまとめてしまおう、というくらいに圧力を掛けつづけたら。
原子は、原子核と電子の電荷を相殺し合って、全体で中性の体を保っていますが、今まさに近づきつつある二つの原子の原子核は+同士なので、激しく反発し合います。
それでも無理矢理に近づけていきますと、ついに原子核同士が触れ合ってしまいます。
すると、どうなるか?
ここで、あのクォークにしか効かない核力・・・極端に短い距離でしか働かないという強烈無比な引力が、お隣の原子核同志に向けて発動してしまうわけです。
するとすると、どうなるか?
反発し合っていた二つの原子核は、逆に猛烈に引き合い、ついにはひとつにくっつきます。
ええ、それは「融け合う」というほどに。
これが「核融合」です。
原子核同士が核融合を起こしますと、前にもこんなことを話しましたっけか、相対性理論のE=mc2が予測したところの「質量欠損によるエネルギーの放出」が起きます。
つまり、質量がエネルギーに変換され、大爆発に至るわけです。
これが水爆の理屈です。
ちなみに、原爆・原子力発電の方は、これとは逆の核分裂(原子核内の陽子や中性子が、核力の猛烈な引力を振り切って分かれる)の方です。
これらの例では、質量がエネルギーに変わりますが、エネルギーが質量に変わる例としては、前述した「波が観測によって収縮する」などがあります。
まったく、量子の世界では不思議なことが起きるものです。
が、こんなのは序の口で、もっと不思議なことがぼくらの肉体で起きているのです。
つづく
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
この一連の記事は、世界の根本構造を知りたがっているひとりの物理学マニアが、得た知見(というよりは、勝手解釈)をひとつの概論にまとめようとはじめたものですが、定まったプロットはなく、その場の思いつきを書き留めるだけの取り止めのない走り書き形式なので、もしも本気で読んでくださっている方がいらっしゃるのなら、「これは推敲前のラフデッサンなのだ」と覚悟して、その上でお楽しみいただけたら助かります。
さて、夢というのは不思議な現象です。
非物質で構築された世界に、非物質である自分が、まるで物質世界にいるかのように振る舞います。
現実にはあり得ないことが起きますし、不思議がるヒマも与えられないままに不条理な展開を受け入れるしかなく、その場その場で、経験したことのない反応を求められます。
これは、眠っている「現実世界の自分」の脳内を走る電気や化学物質が、酔っぱらったようにアンコントロールになった状態と言えましょう。
それでも、眠った肉体の脳波(意識)が「夢の中の自分」に飛んでいて、操縦桿を持たせてもらえるところが愉快です。
物質的な肉体を持たないキャラクターが、自由な可塑性を持った世界を舞台に、人類を超越した力で活躍したり・・・あるいはひどい目に遭ったりするわけですね。
このキャラクターは、非物質であるにも関わらず、考えたり行動したりするのが可能です。
この遠隔操作感は、論じたところのタマシイの概念にちょっと似ている、とは直感的に感じられるでしょう。
夢の中のキャラクターは、五感の神経系が利かないので、新しい情報をキャッチすることはできそうにありません。
夢の中で上手に走れないのは、布団の中で寝ている現実世界の自分の足元に、地面が感覚できないからでしょうか。
眠っている自分は、脳内に元々保存されていた経験を引っ張り出し、それを再構築して、夢の中でつくり上げたキャラクターに見せ、触れさせ、まぼろしをこねまわさせます。
ぼくは夢の中で、手の平に石ころを握ったことがありますし、食べものの味さえも感じたことがあります。
ただこれは、眠っている自分の脳がつくり出す幻想です(ツマのいたずらでなければ)。
かつて経験した主観的な感覚質は、脳の中にコレクションされ、いつでも取り出せるようになっていて、この概念を「クオリア」というようです。
スイカにかぶりつく歯応え、なめし革の素材感、水の滑らかさ、バラの花の赤や、ネコの生温かさ・・・匂いや味、音の質感・・・これらのクオリアは、外界から受容した感覚をヒントに脳の中で「つくり上げられ」、しかも経験をくり返すことで、より強固な実体感を得ます。
思い出そうと思えば、今すぐに「トマトソース」の味を舌の上に再現できそうでしょ(できそうでできませんが)。
それは、自分の舌がかつて受容したトマトソースの味覚が、自分の脳の創作だからです。
突き詰めて言えば、ぼくの見ているこの世界は、ぼくによって創作されたものなのです。
脳が発達した人類は、自分の見ている通りの世界が、実際にそのまま自分の外界にひろがっていると考えますが、実はそうではありません。
本当の世界の姿は、決して知ることはできません。
ぼくが「見た」時点で、入ってきた世界の情報は、ぼくの感覚器による独自の解釈であるためです。
ぼくが見ているこの世界は、実際の外界とは別ものの、ぼくの内世界として再構築された「ぼく的解釈世界」なのです。
逆説すれば、世界の姿は、ぼくの脳の中にのみあるのです。
ぼくの目が受像し、手が感触し、聞き、嗅ぎ、味わい、その情報の解釈の集合こそがぼくにとっての世界なのであって、「ぼくの外の世界」が実際にそんなふうにできているとは限らない、ということです。
そして、ぼくの世界の姿は、あなたのそれとは違っています。
外界に存在する(かもしれない)あなたすら、ぼくの創作かもしれないのです。
デカルトさんが言っているように、「我思う、故に我あり」です。
夢もまた現実ですし、現実もまた夢なのかもしれません。
ふ・・・ふはは、ふはははは・・・
おっと・・・気持ち悪いですか?ぼく。
なぜこんなふうに狂っちゃったようなようなことを言い出したのかというと、要するに、エントロピーと脳神経科学の話題(疲れたでしょ)から、強引に量子力学の話しに持っていきたいからです。
あなたは知っていますか?
石ころを刻んで、細かく細かくして、目に見えないほどのつぶにして、それをなおも細かく細かく刻んでいって、その行き着く先の最小単位・・・「もうこれ以上は分割できない」という行き止まり的なものが、実は「粒子」なんかじゃないということを。
ええ、この世界を構成する最小のつぶは、素粒子という、粒子とは名ばかりの、形を持たないまぼろしのような「量子」なのです。
人類による最新の解釈によれば、ですが。
つづく
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タマシイ論には、まだ問題があります。
その内部構造における「情報管理システム」の謎です。
言われているところのタマシイは霊的な存在で、非物質であるわけですが、それがどんな素材を用いたいかなる機構で思い出を保存し、思考し、自発的な運動を可能にするのか?という点です。
見てきたように人類は、脳内におけるタンパク質間での電気と化学物質のやり取りによって情報を管理しており、これらのシステムは当然、物質から組み上げられています。
ところが、肉体を抜け出たタマシイは非物質であるために、この方法論を採用することができません。
エネルギー供給の問題も生じます。
システムを動かすには、それを駆動させるための熱量が必要なのです。
「霊的なエネルギー」という概念まで想定してしまうのもよろしいが、この茫漠とした考え方に関しては、のちに論じましょう。
ここではひとまず、タマシイの乗組員の無限後退という矛盾と、上に見たような情報管理システム構築の困難さから、「ぼくの中身(タマシイ)は、ぼくの肉体と不可分のものである」と仮定します。
これはつまり、肉体が滅んだ以上は、脳内に蓄積された情報がそこから独立して離脱することは許されない、ということを意味します。
となると、ぼくは死ぬとどうなるか?
ようやく、最初に提示した問題にたどり着いたわけです。
まず、機能を完全に喪失した肉体は、動かぬ物質と化し、エントロピーの法則に素直に従いはじめます。
ぼくのしかばねが土の上に横たわっているのなら、微生物による分解が開始され、肉体の構成物は有機物となって自然界に還元されます。
そして、主として動植物の栄養分になり、他物質と結びついて燃焼され、霧散していきます。
ほぐされた有機物となったぼくは、体内にたっぷりのエネルギーを蓄えていて、周囲に対して優位なポテンシャル差を持っているのです。
その「高低差」がならされることで、ぼくは使用可能なエネルギーを余さず宇宙にお返しし、土となるわけですね。
あるいは、ぼくのしかばねが火葬場で焼かれるのなら、ぼくを構成していた物質(主に炭素)は酸素と結びつき、熱を放出し、光となり、音となって(おつりとして二酸化炭素を出し)、地球環境へと放たれます。
どちらの例を取っても、ぼくを構成していた物質は熱(と残骸)になり、エネルギーとして仕事をして、エントロピー値を押し上げます。
ところで、アインシュタインさんがひねり出した「E=mc2」(エネルギーは、質量×光速の2乗に等しい)は、このことを言っているように見えて少々違うので、注意が必要です。
ぼくの燃えかすと発生したガスとを足した質量は、燃える前のぼくのしかばねとまったく等しく、相対性理論が言うところの「質量欠損によるエネルギーの発生」とは別ものなのです(別の章で語ると思います)。
話はそれましたが、いずれにしても、物質であるぼくのタマシイもまた、分子レベルにまで解体されるわけです。
なにも残らないわけですね。
だけどこれだと悲しすぎるので、仮に霊的なものも想定し、ぼくの死にともなってタマシイが肉体を抜け出る、の線も考えてみましょう。
ぼくから抜け出たタマシイは、定番通りにぼくの動かぬ肉体を上空から見下ろし、生前の経験を反芻し、思い出に耽るわけです。
こうなりますと、どうしても、このタマシイの内部における情報管理がどんな形態を取っているのか、を考える必要が生じます。
非物質であるタマシイとて、「古い記憶ファイルを引き出して読み込み」「新たな感覚情報を生ぜしめ、新規に書き込む」という作業をする以上は、構造を持った装置のはず。
生きている間のぼくの肉体のそれは、純粋に物理的な現象を使ったものでした。
では、物質で構成されていないタマシイは、どこからどのエネルギーの供給を受け、どの機構を働かせ、いかなるメカニズムで情報をこねまわすのでしょうか?
まず、Wi-Fiの着想があります。
しかばねとなったぼくの肉体には構造が残っているため、そこから上空のタマシイへ向けてなんらかの目に見えない波が飛んでいれば、情報出し入れの遠隔操作ができそうです。
眠っている間に見る「夢」は、その内的世界を構成するすべてのものが非物質ですし、睡眠中のぼくは、そこにいる登場人物に乗り移って操作をすることも可能でした。
そこでは、自分の振る舞いを第三者的な立ち位置から見ることさえできます。
タマシイを、夢の中に出てくる自分の化身と考えれば、両者の質は類似しているように思えます。
ところが残念なことに、この夢さえも、物質による仕事の産物なのです。
ひとは、寝ている間(レム睡眠中)にも脳内の神経コネクションを活発に働かせており、電気信号と化学物質のやり取りをし合って、夢をつくり出しているのでした。
脳が永遠に活動を停止した今、脳からのWi-Fiが空間を飛ぶことはあり得ないと考えた方がよさそうです。
この点で痛恨なのが、情報の物質固定化概念です。
記憶が脳細胞内の一部位に「物理的な形で」刻まれて固定されていたのなら、一物体となった脳からでもそれを引き出す、なんらかの手段もなくはなかったかもしれません。
ところが見てきたように、情報の一切は、神経系ネットワークにおけるその場限りの化学反応の相互作用であったために、記憶媒体(「記憶場所」ではなく)につながる方法がまったく見当たらないのでした。
スマホが壊れて、ネットに書き込んだ情報を引き出せない状態です(スマホ機の裏面にマジックでメモっておけば、情報は残ったはずでした)。
肉体が機能を失い、脳が一切の化学反応を停止した時点で、情報は永遠に失われるのでしょうか?
ぼくの記憶も、経験も、思い出も、再現不可能なのですか?
では、ぼくのアイデンティティはどこへいくのでしょうか?
つづく
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園