最近、ずっと家に引きこもりがちだった。
気付けばここんとこ一週間、北はマルエツから、南はダイソーまでしか移動してない。
そこで、「旅にでも出てみっか」と極端なことを考えてみた。
折りもよく、工房も三連休(成人の日・火・水の定休)。
何も考えず、行き当たりばったりに、西へと向かう新幹線の自由席に尻をのっけましたよ。
駅弁とビールをやっつけてるうちに、ともかくも大阪に着く。
「丹波か信楽でも歩いてみるか」と考えてたんだけど、なんという軟弱か、この時点ですでにクツずれができている。
最近はいてたズックを年末に全部捨てちまったんで(このへんも極端)、クツ箱の奥から出てきたごわごわのブリティッシュをはいてきたのがよろしくなかった。
痛いし、つらいし、歩くの、もういや。
結局「東横イン」に引きこもり、酒盛り。
一夜を過ごしてしまった。
これではいかん!二日めこそは!と心入れかえ、翌朝を迎える。
ところがカーテンを開けると、窓の外は雪!
驚いて天気予報を見ると、巨大な寒波に征服された日本列島に、雪ダルマのマークがばらまかれている。
そこで、ハタ、と思いつく。
「なら、いっそ」大雪の街を目指してみることに。
特急「あさま」に乗り込み、転進、一路北へ(東、か?)。
車内では、バンドエイドをかかとに貼りつつ、ビールをかっ食らう。
日の高い時間に流し込むビールの味こそが、休日の醍醐味。
舞い散る雪が、旅人を夢心地にさせてくれる。
うつらうつらしてるうちに、車窓の外は深い雪景色にかわってたのだった。

つづきます

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

職業訓練校時代の同期生・Sくんから年賀状が届きました。
久しぶりの便りです。
30代半ばの彼は、一緒に山に通い詰めて登り窯をつくったり、同じ師匠の元で茶陶を学んだり、もちろん訓練校の実技でもウデを競い合ったりした、かなり近い仲間。
だけど卒業時、ぼくは工房を立ち上げて世に身を投げ、彼は「もう少し学びたい」ということで、別の二年制の陶芸学校に行ったのでした。
しかし二年が過ぎても、彼は「もっと学びたい」ということで、また別の二年制の陶芸学校に行き、そしてようやく今冬卒業予定。
年賀状には、「まだ学校に行ってんの?とか言われますが、圧倒的力量の差を見せつけてやろうと思います」とあります。
ところでぼくは以前から、「いずれプロ野球に入ろうという意思があるのに大学にいっちゃうドラフト候補生」の行動が理解できませんでした。
はやくプロで活躍したほうがいいに決まってるのに。
彼らは、将来の生活を安定させるため、大学入学に利を求めてるわけですが、全然あまいですよ。
ハンカチ某氏とかね。
そんなセコい了見で、ちゃんとプロで活躍できるのかしらん・・・と、軽んじてみたくなります。
だいたい利を求めるなら、大学の4年分プロにいられないことの方がよほどのロスでしょう。
野球で最高のパフォーマンスができるのは、生涯の間に20年そこそこ。
その最も重要な時期をむざむざ捨てるなんてのは、国家的損失です。
それにプロ4年分の給料といったら、大変なもんですよ。
しかもこの4年分は、ルーキーイヤーからの4年間にもらえる年俸でなく、現役最後の4年分が影響してくるのです。
現役最後の年には、ハンカチ某氏なら10億程度はもらってるでしょう。
とすると、彼が生涯稼ぐ額は40億円(!)程度目減りすることになるのです。
ちゃんとわかってんのかな、そのへんのトコ。
というわけで、件の同期生・Sくんは、これから世間に自分の価値を問うていこうというわけですが、大変な間抜けをしでかしている、と言わざるを得ないのです。
そもそも、すでに世に出て一生懸命その道で糧を得てる陶芸家と、設備、環境、時間、すべてが備わった学校でぬくぬくと制作をつづけてきた者とを同列に並べるのは、あまりに無邪気な考え方。
あますぎ!
きみの同期生たちは、みんな本物の苦労を積み重ねて成長し、はるか高みからきみを見下ろしているのだよ。
松坂が、後からプロに入ってきた「松坂世代」に対して、「ぼくはプロで、彼らはアマチュア。ライバルとは思わない。はやく追いついてきて」と言いきってましたが、そんな気分です。
とにかく、ま、がんばってちょうだい。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

資本主義が進みすぎるとこうなるのかー・・・
アメリカの政策はいわば実験で、それが大失敗した、とこういうことなのでした。
成長と頽廃があって、まん中の成熟というプロセスがすっぽり抜け落ちてるのがアメリカだ、とはよく言われてる言葉ですが、極端ですね、この国は。
勝ちすぎて、「謙虚」という姿勢を忘れてしまった結果でしょう。
思えば、長い冷戦の末に共産主義に打ち勝ったのが、もう17年も前ですよ。
そこから大変な自由競争がはじまり、勝ち組が勝ちつづけ、負け組は際限なく負けつづける社会が出現したのでした。
東西の分けへだてがなくなり、グローバル社会だとかで、資源や食料は長大な距離を移動し、大金持ちのところにだけ集中するようになりました。
さすがにここまで片寄ってくると、世界経済はひずみ、シリアスな状況が生まれます。
カウンターバランスが利いて、ここにきて社会主義というか統制経済というのか、アメリカが赤っぽくなっていくのは少々皮肉。
結局、日本的社会主義が人類を救うことになるんじゃないですかね。
日本は日本で、それが進みすぎて官僚が力を持っちゃって、崩壊寸前の共産主義国家みたいになってますけど。
やっぱし、やりすぎはよくないね。
今、世界は大きな変革の過渡期にあるのです。
不景気はその産物。
がんばってここを乗り切って、新しい思想を生み出しましょう。
大量消費、大量廃棄・・・こんなで地球がもつわけがない。
身の丈の消費と、精神生活。
サムライのやせ我慢がどれだけかっこいいか、世界も理解しなきゃいけないね。
↑日本人は特に思い出してほしい思想です。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
池波正太郎の「剣客商売」を読んでるんですが。
いやー、面白いです。
時代小説、ってものには手を付けたことがなかったんだけど、いや実に。
中身は、剣に生きる親子の話でして、真剣勝負の臨場感というか、緊張感みなぎる空気の描写がすごい。
その中に、果たし合いで刃を向け合ったまま何時間も相手と対峙しつづける、というシーンが幾度もでてきます。
剣道なんかで、相手の竹刀の先をちょんちょん小突き合う作業があるけど、あれは相手とのレンジをはかりつつ、剣の切っ先を、正対する相手と自分のからだの芯との正中線に置くためのせめぎ合いなのね(たぶん)。
刃先の置きどころが少しでも乱れてると、剣の軌道がよれて、相手の急所に打ち込むことができないわけ。
渾身の一撃は、周到な準備によってはじめて可能なのです。
だからこの小突き合いは、殊に試合(死合い)の際には、非常に重要になってきます。
そんなシーンを読んでて、ぼくはいつかNHKスペシャルで観た剣道の試合を思い出したので、そいつをユーチューブで探してみました。
そしたら、ありました。
これは何年か前の、剣道の世界選手権・決勝の模様です。
記憶を頼りに説明すると、この前年まで世界選手権を連覇しつづけてきた日本は、新鋭諸国の台頭でいよいよその立場がやばい、となりはじめたこの年、新強国の筆頭である韓国との団体戦決勝、という状況。
でまた、先鋒、次鋒、中堅、副将と、倒し倒され、まったく互角で迎えた大将戦、という最高の舞台立て。
いわば、日韓の代理戦争を任された最高峰のふたりです。
敵方大将の「キム」という選手は、実力では世界一と言われる大男で、日本人相手の勝負にめっぽう強い。
相対するわが方の大将は、「栄花(えいが)」という、なんとも美しい名前を持つ小さな剣士です。
このひとが伝説になるわけ。
さて試合ですが、むき身でボコボコに打ち込み合う派手な展開も面白いけど、この勝負は息も詰まりそうな静かなもの。
先に言った、竹刀の先をちょんちょんとつつき合う時間が延々とつづきます。
見てる方はつまんなくても(ほんとは瞬きもできないんだけど)、本人たちの集中力たるや、とてつもないものです。
咳を払うのもはばかられる、会場はピンと張りつめた雰囲気に包まれます。
10分もの間、彼らはにらみ合いをつづけます。
が、キムの方がちょっと息をつきたくなったのか、少しだけ雑に竹刀を払う。
すると瞬後です。
栄花は鬼の集中力で、相手の呼吸をはかってたのです。
相手の剣の脇をすり抜けて、ふところに飛び込む。
面でも、胴でも、小手でもなく、それはもう度肝を抜かれるような大技。
電光石火の「突き」。
つまり、竹刀の先をまっすぐに走らせて、切っ先を相手のノドに突き込んだわけ。
針穴を射抜くような、乾坤一擲の打ち込み。
どんな修行を積んだら、こんなえげつない神経を・・・じゃねえや、動かない心を会得することができるんでしょうか?
ここでわかったわけ。
韓国人は試合をしてたけど、日本人は勝負をしてました。
「負けたら腹を切る」くらいの覚悟でいたはず。
でなきゃ、あんな結末って・・・
その後、伝説となった剣士・栄花になんの関係もない西洋の剣士たちが号泣しながら握手を求めにくるシーンも、そしてそれに応じる栄花のおだやかな人柄も、ちょっとした感動もの。
なんだか話がよく分かんなくなっちゃったけど、時代小説を地でいく剣士がこの世の中にもいるってことを思い出したんで、書いてみたのでした。
オレもあんなサムライになりたいなあ・・・

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

ひっさしぶりに「篤姫」を観たけど、おっもしろいねー。
脚本の力がすごいですよ、このドラマは。
セリフのいっこいっこが練られてて、深くて、格調高くて、じつに見入らせられます。
「新選組!」は、ディテールの奇抜さだけで勝負する脚本家が本筋もリアリズムも忘れた状態に落ち入って空回りしてる感があったし、前作のなんだっけ、武田の軍師のやつは、芝居もセリフ回しも大仰でケレン味たっぷりで、ちょっと力みすぎてる感がありました。(どちらもまともに観てないが)
その点、「篤姫」の演者さんたちはみんなナチュラルで、のびのびと言葉を操ってる風情がさわやかでよろしい。
宮崎あおいさんは、表情がふたつ(笑顔かそうでないか)しかないのが気になるけど、声音で雰囲気を使い分けることができるテクニカルな女優さんです。
若い頃のはじけた芝居と、年を重ねて落ち着いたたたずまいの使い分けは、見事なプロフェッショナルの仕事。(じつを言えば、そここそが好きになれないんだけど)
瑛太は、自然だし丁寧だけど、芝居が少々青い。
そんな中、やっぱしこのドラマでいちばん感心するのは、言葉の強さです。
書き物にしても映像媒体にしても、たったひとつの言葉を聞かせるために、長大な物語は構築されてます。
チャンドラーの書いた「長いお別れ」は、フィリップ・マーロウが「ギムレットには早すぎるね」と言った瞬間にすべてのエピソードのカギが開いて、読者はもうそのセリフにただただ鳥肌を立てるしかないわけです。
この一点だけが言いたかったの。
そんなツボを、「篤姫」のタブチなにがしという脚本家は完全に心得てて、まったく脱帽させられます。
何度かしか観てない中でぼくが覚えてんのはね、最初期の頃のこんな場面です。
篤姫と名乗る以前の少女時代のお姫様が、不遇をかこつ人物(大久保利通のお母ちゃんかな?)にほどこしを与えようとして、相手にこうたしなめられます。
「わたくしにも誇りがございます」だかなんだか、と。
お姫様はへこみ、お家に帰って母親に相談する。
「誇りとはなんでしょう?」
樋口可南子演ずる母親は答えます。
「そのひとが、そのひとであるべき芯のようなものです」
で、
姫「わたくしは、あるひとの誇りを傷つけてしまいました」
母「いいえ、その方の誇りは傷ついてなどいません」
姫「?」
母「傷つけたなどと思うのは、おまえのおごりです」
・・・このやり取りは、登場人物たちの性格づけと、お互いの相関関係の説明を担ってまして、その作業は完全に成功してます。
ぼくはたまたまこの部分だけを垣間見たんだけど、この脚本家はただ者ではない、と感じましたっけ。
今日も観たけど、やっぱしすごかった。
すごい集中力で描かれてます。
来週はもう最終回なのか・・・
あー、最初っから全部観てみたいなー。
このドラマはおもしろいにちがいない。
いや、ちがいなかった、か。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

岡本太郎さんの巨大壁画が渋谷で公開されてます。
ぼくはこのひとの作品を「よい」と思ったことがありません。
秩序もない、洗練もない、強さもない、そもそも美しさがない。
かといって秩序を崩しきってなにか新しい世界を創造するでもなく、洗練を超越して頽廃に向かうわけでもなく、美しさ自体を否定して思想を構築するでもなく、そもそも器用じゃないから、彼が影響を受けた芸術運動の表面的な模倣ですら稚拙なものになってしまうのです。
彼自身はとてもおもしろい人物で、その存在そのものが芸術(この部分ですら、ぼくは「エンターテイナー」か「人気者」と呼びたい)なんだけど、愛すべきキャラはそれはそれとして、作品という点ではまるでいいものを残せてないという事実はちゃんと直視しなきゃいけません。
大阪の万博会場にそそり立つ「太陽の塔」は、その巨大さで見るものを圧倒するものの、その大きさ以外にほめたたえる部分があるか?ということです。
その大きさを実現したところまでは芸術的行為だったはずですが、残念ながら作品そのものが美しくないので、言えば、巨大風車を見上げてる方がはるかに心動かされます。
ところでぼくは常々、日本のブルースというのは、なぜアメリカ南部のブルースとまったく別物に仕上がってしまうんだろう?と思ってました。
和ブルース(森進一や和田アキ子あたり)と演歌、この境界線がわからない。
それは日本人の「血」ってものですが、岡本太郎さんを筆頭とした和製西洋美術にも同じものを感じます。
芸術が演歌くさいの。
ただ、和ブルースは完全にオリジナルな、というかパーソナルな普遍性にまで昇華したのに対して、和製西洋美術はついに筆の動きの模倣にとどまってしまいました。
思想までは移植できなかった。
岡本太郎さんがマネしようとしたシュールリアリストたちは本物の狂人で、例えばダリなんてひとはかなりコマーシャルなひとだったけど、自分の天才っぷりを完全にコントロールするセンセーショナルな狂気を持ってました。
また、彼があこがれたメキシコ壁画の巨匠たちも、完全にいっちゃってる上に(トロツキーの暗殺を実行した人物までいる)、シャレ無しに「死ぬか生きるか」というまでのリアルな熱情を持ってました。
作品の前に立つだけで、誰もが言葉を失い、目に涙がにじみ、拳を握りしめてしめてることも忘れてしまう・・・そんな魂の叫びを持ってたわけ。
それに比べてね、岡本太郎さんはまだまだ壊れっぷりが甘いというか、マネに終わってるというか、狂いきれてないし、作品が「デザイン」に見えてしまいます。
デザインをバカにするわけじゃなく、デザインってのは合理性のたまものだからね。
そういった意味で、岡本太郎というひとは、実は「かしこくてヘタなひと」なのではないか、と怪しんでるぼくです。
画を観た感想でした。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
定額給付金について、朝日新聞が知識人100人にアンケートをとってます。
「もらってうれしいか?」の問いに、63人のひとが「いいえ」と答えてます。
知識人ってくらいだから、みんな国からのお駄賃が必要なほど暮らしに困ってるわけではないに違いないし、大喜びするほどの大金がいただけるわけでもない。
ってのもあるんだろうけど、それを差っ引いても、63%は大きな数字です。
中身を読んでみると、「高飛車で下品だ」とか、「貯金を取り崩させて無理やりに使わせるようなものだ」とか、「やるなら自腹を切ってやれ」とか、「自分で自分に小遣いを与えたところで効果があるか」とか、知識人ならではの論法が結構おもしろい。
そこでぼくなりに、なんでこの政策は人気がないのか、を考えてみたのです。
それはなんつってもね、「金をやる」という麻生さんの態度そのものが不愉快だからです。
ひとはね、投げ銭・放り銭は自尊心に懸けても拾わないものですよ。
くれてやらあ、と言われたら、いらねえやそんなはした金、と返すのが江戸前の常識というもの。
そういう、いわば「生理的反射」が国民全体に起こってますね。
深く考える必要もなく、ただ感覚的に気持ちの悪いお金に嫌悪感を感じてるわけです。
そのあたりの感受性は、「恥の文化」(罪の論理でなく、誇り高いかどうかで行動の善し悪しを判断する文化)を尊ぶわが国民は優れたもの。
人々はこの政策を「いやしいもの」と嗅ぎ取ってるわけです。
あっぱれ、国民。
・・・ただ、まあ、もらうんだけどね、全員。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
「こんな話ってありかよ?」という痛々しい実話をフリー区的に放映するのが、深夜のドキュメンタリー。
ありゃなんだろうね?なるべく人目につかないように、って配慮(というより政治力)が働いてるとしか思えません。
身体障害者とか知的障害者とか、ドラマでは好んで素材にするくせに、本物はこの時間帯に隔離かよ、と言いたいです。
ま実際、見なくていいものなら見たくないというのが視聴者の本音かもしれません。
だけどね、あの制作者サイドの着眼、手法、そして熱意たるや、すごいもんですよ。
こういう社会のマイナー要素から目をそらしてるから、現代人は心がくもってくんじゃないかな。
今まで観たドキュメンタリーの中でいちばん心に残ってるのがね、知的障害をかかえる女の子が新体操で世界大会に出るお話。
また内容ばらしちゃうね、知ってほしいから。
その子は内気で、物事の判断ができなくて、物覚えも悪いんだけど、熱血コーチのもとで猛特訓して、ついに新体操のパラリンピック(かな?)に出場することになるのです。
ヨーロッパのどこかの国で行われたその本番の会場でですよ、さて彼女が踊るわけです。
とてつもなく大きな室内競技場に、立錐の余地もない満場の観衆。
そのすり鉢の底に、訳もわからずひとりぽつんと立たされる幼い少女。
いよいよ音楽が鳴りだし、演技スタートです。
おいおい、どうなるんだよ、大丈夫かよ~・・・と、親心にも似た感情で見守ってしまいます。
ところが彼女は、今この場の状況が理解できず、床の中央でおびえてしまって、どうすることもできないわけ。
コーチが「さあ、はじめて、さあ」と声をかけても、立ちすくんで泣くばかり。
ぐあー、観てるのしんどいー、チャンネルかえたいー・・・と、思ったそのときですよ、彼女が踊りはじめたのは。
音楽はすっかり鳴り終わり、演技時間も終了してるはずのそのとき、やっと何事かを思い出したらしく、手足を動かしはじめたのです、わーい。
それはラジオ体操みたいなぎくしゃくした新体操なんだけど、彼女は一生懸命。
会場は水を打ったように静まり返り、大観衆は息を呑んでその演技を見つめるわけ。
何千という視線を一身に浴びつつ、かっこいいポーズをキメて、ついに演技終了。
その瞬間、地響きのような万雷の拍手がわき起こるのです。
オリンピックで世界最高記録が出たときにも、Wカップ決勝でミラクルシュートが決まったときにも聞けないような、すさまじい拍手。
その子もコーチに抱きしめられて涙をこぼすが、会場にいる誰も彼もが涙、涙、ただただ涙・・・
小さな生涯でいちばんの勇気を振り絞った彼女の姿に、動かされない者はいません。
んでですね、次のシーンですよ。
彼女は、なんと表彰台の上にいたのです!
銀メダルをもらったのですよ。
いやー、主催者側もえらい。
ありえます?こんなドラマ。
いやー、おもしろい!
みんなも観なよ、ドキュメンタリー。
真実の力ってのはすごいもんですよ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
深夜にチャンネル回しててドキュメンタリーなんかにぶつかると、つい観てしまいます。
オレは、新聞とドキュメンタリーが好きなのです。
新聞は「現在進行中の歴史」、ドキュメンタリーは「確定した歴史」。
生の人間を理解したい、という気持ちなのかも。
昨夜やってたのは、ベトナムで枯れ葉剤の被害に遭って片足奇形で生まれてきた児童の話。
プロデューサーはこんな深刻な素材を、まるで青春映画みたいに明るく軽快に描き出してて、やっぱNHKはどんなに批判されても底力があるなー、とついつい見入らされました。
で、話はね、片足の男の子(10歳くらい)が、自立するためにパソコンを学びたい、というもの。
それを聞いたおかーちゃんは、ボロボロ原付の荷台に我が子をのっけて、いそいそと遠くの村のパソコン教室に連れていくのです。
おかーちゃんの満面の笑みと、日差しを浴びて農道を疾駆するカブの颯爽とした光景が、実にまた美しい。
着いた教室は、野っぱらのまん中の掘っ建て小屋。
そこには、これまた両手を枯れ葉剤で奇形にされた先生がいて(失礼な言い方だが、カニの足のようになっている)、ヒジでキーボードを操り、スクリーンに文字を打ち込む。
「ようこそ。同じ障害を持つもの同士、がんばろう」とかなんとか。
仏頂面なのに、熱くていい先生なのよ。
さて少年は、片道27キロの道のりをチャリで通おうと決意するのだが(片足なのに!)、チャリが壊れてるので、その部品を買うため、まずアルバイトをはじめる。
これがまたなんの仕事なんだか、つべたい水の中に腰まで浸かってザルで何物かを濾し取るという過酷なもの。
そこで半日働いて200円もらえるのだが、部品は一週間働かないと買えない。
がんばってやっと部品を手に入れて、チャリを修理して、ついにパソコン教室に向かって走りだす。
ところがこれがまた過酷・・・
片足でチャリを漕ぐしかないもんだから、ちょっと走るだけでもうへとへと。
猛暑の中、休み休みに走りつづけること、片道二時間半。
ようやく到着すると、カニ先生が、不自由な手でハシを操り、弁当を分けてくれる。
「先生、ぼくがやりますよ」
「いや、ぼくがハシを使うところを見ててほしいんだ」
少年は尊敬のまなざし、先生は誇らしげ。
ついに男の子はパソコンに向かい、初めて文字を打ち込む。
時間をかけていっこいっこキーをさがし、間違い間違い、書きつ消しつ、たどたどしい文字列をつづる。
やっと打ち終え、文章を見てもらうために先生を呼ぶ。
じんとくるようなセリフが、そこには書かれてます。
最後はキャッチボールのシーン。
手の不自由な先生は足で、足の不自由な少年は手で、ボールを相手に投げよこす。
こんなお話、どんな創作もかないませんよ。
深夜にため息ついてしまいましたわ。
まあなんというか・・・そんな今日この頃でした。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
大麻で、バカ学生がまた捕まってますが。
しかしですね、まったく素直に感想を述べさせてもらえるなら、「彼らはそれほどの罪悪を犯したのか?」ということになります。
麻薬を吸引して肉体を精神を滅形させるのは自分自身に他ならないのですから、外部の人間にとってはどうでもいいことなのでは?と。
歯ぐきがやせてツバがだらだらと止まらなくなり、幻覚に悩まされておしっこ・うんこを垂れ流すようになり、ヤク切れした後の次の一撃が欲しくて欲しくて欲しくてたまらなくて親の金に手を出してどやしつけられて、血肉・骨まで蝕まれて人間性崩壊の一途をたどるとしても、ですよ、それは自己責任として処理すればいいのではないか?と考えるのです。
ひとりのバカの所行に、国家の司法が介入する必要性にも、マスコミュニケーションが総移動する必要性にも、ぼくは納得することができません。
彼らは、自分を滅ぼしてるだけなのであって、それは「自由」に属すること。
バカはほっとけ、の一言で片付けたいところであります。
時間の無駄。
比較して言うのもあれなんですけど、ぼくは「タバコを道端に捨てる人間」の方を、大麻吸引者よりも十倍深く軽蔑してます。
のどかな(言いかえれば愚昧な)心で大麻を吸う人々と違い、タバコを平気でポイ捨てする彼らは完全な確信犯であって、その行為は悪意に満ちてます。
ぼくが、タバコの吸い殻をひろう人間であり、大麻を吸わない人間であるという事実が、この論を強く推してるわけでありますが、言いかえれば↓こういうことです。
すなわち、ひとに迷惑をかける人間は「罰せられるべきひと」、自分に迷惑をかける人間は「罰するにすら値しないひと」、と。
でもまあ、大麻を吸うような人間は、道端にタバコも捨てんだろうなあ、とも思いますが。
はあ・・・

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園