命・・・ってなんなんでしょうね?

いつもこんなことばっか考えてます。

いや、情緒的な意味でも、文学的、哲学的でもなくて、純粋サイエンスで。

どこからが生命なのか・・・?

どこまでが生物なのか・・・?

どこで区切られて「個」なのか・・・?

よくわかんないですよね。

草や木まではギリギリ生命って感じがしますが、竹林は根っこでひとつながりになっちゃってますし、木も森にまで展開しちゃうと、地上に自然発生した自律的な環境システムって感じになってきて、タマシイ論に立ち入るべきなのか?って話になっちゃいます。

カビは森の縮小版ですが、個はどこで隔てられてるのか?ってのも気になります。

それに、主体性の問題ね。

細菌は他者に働きかける活動をしますが、ウィルスとなると、姿かたちが幾何学的な上に、アクションが全自動的すぎて、もはや生きもの感なし。

それでありながら、個々が独立した系であり、オリジナルで発展式の遺伝子も持ち、増殖までしてみせます。

生命としてカテゴライズできない理由はありません。

さらに、人間は個としての生物に見えるけど、だったらそれを構成する細胞は?

たくさん集まって脈打ち、蠢き、自律的に活動し、目的を持って共同生活を営むそのひとつひとつを、生物個体ではない、と言いきってしまっていいものなのか?

その細胞の中で働く、例えば個々に分裂する核はただのパーツ?知性まで感じさせる転写・翻訳装置(RNA機構)は?もはや職人と言っていい腕前と正確さでコードを読み取ってタンパク質を編み上げていく工場(リボソーム)は?

個々別々に仕事をまかされて従事するこの子たちは、個人事業主です?それとも人間としての私が本当にそれを私自身の仕事として統括してます?

エネルギー製造装置であるミトコンドリアは、むかし生物だったものが細胞に飲み込まれた名残らしいです。

そんなミトコンドリアに住まうタンパク質や酵素もまた、生命活動のような働きをしてるし、ひょっとしてこのひとたちは、細胞に飲み込まれる前のミトコンドリアに飲み込まれた?

生命とは、どこまでも別人同士が入り組んだ入れ小細工なんじゃないですかね?

考えてみたら、単細胞生物が複数個くっついたときに多細胞生物が生まれたわけで、この時点で生命はひとつになったんでしょうか?それとも複合ユニットは複数個のタマシイを持ってる?

究極的には、「精子は生物なの?」問題があります。

いつ、どのタイミングでタマシイが入ったの?

それとも、受精前のこの子には「個」は入ってないの?

卵子には?

受精卵にはタマシイがふたつ同居してる?

・・・なんて不思議極まることをね、今後は書いていきたいと思ってます。

したいようにすれば?って感じ?

はーい。

 

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世界のつくりを探求することに夢中ですわ。
大人になってから勉強するのが、こんなに楽しいなんてね。
寝ても覚めても、素粒子の振る舞いを追ってるし。
宇宙の果てと時間のゆがみを想像してるし。
細胞の脈打ちと自分のアイデンティティとの統合性を腹の底に探してるし。
本当にいつもいつもそんなことをしてて、病気かな?と思うほどだよ。

お日さまの下で芝生に座るでしょ。
すると、目の前の広場にひとが立ってるじゃない。
さらにその向こうに樹が生えてるじゃない。
ぼくと、あのひとと、あの樹は、同じ時間に存在して「ない」んだよ。
ぼくに見えてるあのひとは(光速度に限界があることから)コンマ数秒前のひとで、その向こうの樹はさらにコンマ数秒前の樹で、その上空の雲はもっと前のやつで、太陽にいたっては数分前のやつで・・・
その像はぼくのオリジナル世界を構築してて、だけど実際のそれらの現在は、ぼくが見る姿からとっくに様相を変えてるんだ。

広場に立つあのひとを取り巻く景色は、ぼくが見るものとは別の時間軸にある。
あのひとはぼくとは違う雲を見てるし、あのひとの太陽も少しだけぼくのとは別のやつだ。
ただ、ぼくと樹との中間に位置するあのひとには、ぼくと樹が同じ時間に存在してる(ぼくとあのひとーあのひとと樹、とが等距離だとして)。
・・・そうだ、それでふと思い出した。

ぼくがいる地球から一光年離れた惑星にAくんがいて、そこからさらに一光年離れた惑星にBちゃんがいるとする。
地球から望遠鏡で見るAくんは1年前の彼で、Bちゃんは2年前の彼女、ってことはわかるよね?
だけど(AくんがぼくとBちゃんの中間地点にいることから)Aくんから見るぼくは1年前のぼくだけど、彼から見るBちゃんも1年前の彼女だ。
ってことは、ぼくとBちゃんとは、Aくんから見ると反対側に位置するものの、同じ時間の系にいるってことになる。
なのに、Bちゃんから見るAくんは1年前の彼で、ぼくは2年前のぼくだ。
ってことは、Bちゃん(ぼくからは2年前の彼女)が「今まさにBちゃんを見るぼく」を見るには、4年の歳月が必要だ。

すでによくわかんなくなってきてるけど、さらにわかんなくする。
そんなBちゃんが、光速度で飛ぶロケットを使ってぼくに会いにくるんだ。
すると、どうなると思う?
さらに、待ち合わせ場所をふたりの中間地点であるAくんの惑星に設定して、ぼくも光速ロケットを使ってそこに向かうんだ。
すると、三人の時間軸はどうなるだろう・・・?
このロジックをうまく使えば、未来が見えるんだ。

・・・ってなことを考え詰めて、ぼくは23歳の頃に、どこにもぬかりなく思える完璧なタイムマシーン理論をまとめ上げた(はるか前のブログにこの説と論証を詳細に記述してあるから、気になるひとは探してみて)。
光の行き来を利用すれば、タイムマシーンは実際にできるのです!
ただ、あのときはまだ、相対性理論とそれによる光の制約を知らなかったんだよなあ・・・
アインシュタインさえいなきゃ、ぼくはノーベル賞をもらえるはずだったんだ。
・・・という取り留めのない一件でございます。

さいきん流行りの(?)量子力学ですが、「これ以上はやさしく説明できん」と考えて書いた前回のものが「全然わからない」と言われたので、さらに噛み砕いてみます。
この考え方を念頭に置くと、世界の見方が変わってきますよ。
まず、目の前に見えてる景色を忘れて、心の目で現象を理解してみましょ。
あなたが視覚経由で脳内にとらえてる光景はすべて、人類の感覚器サイドによるパーソナル解釈な描像です。
目の前に立ち現れる光景(とあなたが信じてるもの)は、神経系のタンパク質が通電することで生じる夢に過ぎないのです。
その奥にある世界の実相を数学的に矛盾なく説明する試みが、果てしなくノーベル賞を獲りつづける最新サイエンス・量子力学です。
今回は、あなたの目の先、指の先に、実はなにがあるんか?というお話を「科学的に(宗教じゃなく!)」します。

この世界のベースは、いろんな種類のエネルギーが混じり合う真空・・・すなわち実質の「無」だと思ってください。
その各種エネルギーの波が干渉し合い、密度の高いところ同士が相互作用し合って、素粒子という現象が生じます。
ただ、ここで言う素粒子とは、つぶじゃなく、ただのエネルギーが圧縮された「点」です。
位置は持ってるけど、ひろがりも実体もありません。
この「点」が、他エネルギーの修飾によって、電磁気力を持ったり、重力に反応したりします。
ちなみにこの世界に働く力は、事実上、この電磁気力と重力のふたつがあるのみです。
世界とは、「素粒子という数学上の『点』があり」「電磁気力と重力が働く」・・・それきりなのです。(※力にはあと二種類があるけど、人類にはほぼ関係ありません)
だけど、これらが絡み合うと気体が生まれ、たくさん集まるとガスになり、雲になり、さらに凝集して石ころのような物質の様相を呈します。
なんでこんなことが起こるのかというと、素粒子は重力で引き合い、電磁気力で結び合えるからです。
と言いつつ、世界に石ころは実在しません。
それは人類サイドによる幻影です。
その石ころに見えるものは、素粒子(という数学上の解)と電磁気力と重力のエネルギーが相互作用しただけの「無の集合」ですから。
なのに、このエネルギー現象を、人類は「石ころ」と解釈する感覚器を持ってます。
幻影を実体として描写し、理解する能力を、人類(生物)は進化の過程で獲得したわけです。
あなたの指もまた、素粒子と電磁気力でできてます。
あなたの指は石ころをつまむ・・・ように見えますが、実はつまんではいません。
なぜなら、あなたの指も石ころも、「無」のエネルギー塊ですので。
だけどなぜそれがそれをつまんだように「感じる」のかというと、石ころの持つ電磁気力と指のプラスマイナスとが反発し合い、あたかもそこになにかが実在してるような「感覚」をあなたに与えるからです。
あなたの目は、指につまんだ(と思える)無のエネルギー現象を「石ころ」と視認しますが、それはエネルギー塊に差し込む光の交錯の様相を視神経が拾って解釈し、オリジナルな描像を立ち上げてるだけで、その中身は(「実」は!)空っぽなのです。
最高精度の顕微鏡で見てみると、石ころの中身は実際に空っぽです。
石ころ内の素粒子の密度たるや、拡大すると、ゴマ粒とゴマ粒が街のワンブロックほども離れてるほどスッカスカ。
肝心のゴマ粒にしても実体のない(位置のみを持つ)エネルギーですし、それらの間にひろがる果てしないすき間に存在するのは、電磁気の反発力だけ。
まさしくこの世界は真空で、感覚器の解釈が立ち上げる物質界という描像は、実際的な意味で「マボロシ」なのです。


さて、あなたの目に映る世界と、この数学的な世界・・・どちらがリアリズムなんでしょうね?
もう一度言いますが、これは最新サイエンス(宗教じゃない!)が導き出す、最高精度の世界構造です。

「素粒子は粒のような姿かたちを持たない」
「それはエネルギー量だけを与えられた、空疎な数学的存在(量子)」
・・・って話を、前回にしたところなんでした。
ここから先、さらに込み入った「量子場」の話をしていいですか?
いえ、します。

われわれの四次元時空世界は、のたうつエネルギーの層が束ねられた「場」というものでできてるんです。
そのエネルギーの波同士のぶつかり合いで、いろんな基本現象が起きます。
・・・訳わからんすね、でも聞いて。
例えば、クォーク場ってのがあります。
クォークについては何度も説明してますが、物質を原子の先まで刻んでいって、これ以上は刻めなくなった終点にある最小パーツ、すなわち「素粒子」です。
そのクォークひとつひとつが、場においては波の状態になって散開してるのです。
この波の密度(存在確率)が高いところで、点状の粒クォークがぴょんと発生します。
さて、このクォーク場にはグルーオン場ってのが重なってまして、グルーってのは接着剤のことなんですが、ぴょんと現れ出た粒クォークに、グルーオン(の波の高いところ)がぶつかります。
するとクォーク三つが接着されて、晴れて陽子が形づくられます。
その場にはまたヒッグス場ってのが重なってまして、組み上がった陽子にヒッグス粒子(の高波)がぶつかると、質量が実装されます。
その場にはさらに電子場がかぶってまして、波の高いところに電子がポンと生み出されます。
陽子がその電子と反応すると、水素原子という、ついに物質が発現します。
結局、物質とは、場の相互作用による現象そのものなんですね。
例えるなら、何枚かのエネルギーのシートのミルフィーユがありまして、その波打つシートのピーク同士がたまたま重なり合うことでぼくらの世界が構成される、というからくりになってます。
さて、そんなわけで水素原子ができたんでした。
さらにそこには光子場が重なってまして、場で生まれた光が水素原子にぶつかり、電磁気力が実装されます(順序には矛盾がありますが、そこは気にしないで)。
こうして電荷を持った水素は、他元素との引力と斥力とで化学反応を起こして、さまざまな分子(水とかね)をつくりはじめます。
だけど運悪くウイークボソン場の高波に飲まれると、放射性崩壊を起こしたりもします。
こうした場の波の高いところで生成されるキャラ(ボソン、グルーオン、光子などなど)すべてが、現代では素粒子と呼ばれます。
電磁気力や、クォークをまとめたり原子核の崩壊を促したりする核力、それに質量に重力、さらには物質を構成する素材まで・・・それらは形なきエネルギーの波の高いところで一点に収縮した塊、すなわち量子というわけです。
実際はもう少し複雑で、物質は反物質と同時に生成されたり消滅したりして世界を形づくる環境の勘定を合わせるわけですが、そんな話はまだ今度。

 

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相対性理論にたどり着いたら、その先の量子力学まで知りたくなりますよね、ね。
物理の最新にして最細というこの根本理論は、もはや抽象表現、いわば哲学の領域。
だけど今のところ、世界を最も精密に説明する構造論だから、一応知っとくといいかもよ。

「量子」は「素粒子」の言い換えです。
これ以上は分割できない、物質の最小パーツなわけです。
その最小パーツを、ただの数字(量)として扱おうではないか、ってことにしたのです。
なんでそんなことをするのかっつーと、ミクロ世界に素粒子なんてものはついに実在しなかったからなのです。
昔のひとは、素粒子を実体のある粒だと思ってましたが、調べてみますと、そこには影も形も、なんにもありませんでした。
素粒子の実相は、エネルギーのひと塊、つまり一定の「数量」に過ぎなかったのです。
量は計れるのに実像がない、という。
とすれば、素粒子は「ただの数字でしかない」ってことになりますよね。
だけどそんな形のないエネルギーが、たくさん集まると実体に見えてくるから不思議なものです。
じゃ、その数字ってのはなんなの?っつーと、エネルギー最小の一個一個の量です。
これが、どれを取ってもピタリとひとつの定められた数値になってるのですね。
考えてみりゃ、これって不思議なことですよ。
エネルギーなんて、そこここにかすみみたいに散らかった茫洋としたものであって、手にもつかめず、ひと塊になんてできるものじゃありませんから。
だけどこいつを積み重ねますと(つまりエネルギー量を上げますと)、まるで整数のように数直線上で飛び飛びの値になるのです。
小数点以下がなくて、要するに途切れ途切れで、存在形が連続してないわけです。
すると形のないこいつでも、一個、二個・・・と数えることができるようになりますよね。
だから素粒子は、粒のように見えるのです。

例えば光は、むかしむかし、光子という粒(素粒子)だと考えられてました。
光が分割できることに気づいて、粒子説を決定づけたのはニュートンさんです。
ちなみにニュートンさんは、この発想を得た年に、ついでに微分積分を発明し、さらには万有引力の法則を発見するという、奇跡の一年間を送りました。
ところがその後の実験で、どうやら光は波の性質を持ってるようだぞ、となってきたのです。
粒じゃなく、かすみみたいにひろがって、手に触れようにないものだ、と。
こうしてしばらくは、光って粒なの?波なの?どっちなの?・・・という議論がつづきました。
そして時代が進みまして、アインシュタインさんが現れます。
彼はなんと「どっちも!」と大胆なことを言い、この問題に決着をつけました。

だけど、本当にそうでした。
「光は粒みたいに見える波、すなわち量子!」と、ついに人類は突き止めたのです。
この「量子力学誕生!」の論文でもって、アインシュタインさんはノーベル賞を受賞しました。
ちなみにこの人物もまた、量子の発想を得た年に、物質の最小単位を史上はじめて特定し(量子という概念に対して逆説的ですが、素粒子は存在するのだと証明し)、さらには特殊相対性理論を世に出すという、奇跡の一年間を送りました。

古典物理学ってのは、だいたいこのニュートンさんとアインシュタインさん、それにガリレオさんとの三人で全部が構成できちゃってる感じですね。
閑話休題になっちゃいましたが、量子論のつづきはまた次に。

相対論的重力理論をつづける。
ここからは思考実験だ。

われわれは地球を遠く離れ、無重力の宇宙空間を航行中だ。
あなたは上昇加速するロケット内の一室に立っている。
ロケットの床面があなたを上向きに押し込み、あなたは足の裏で自重を感じている(つまり地上とまったく同じ感覚だ)。
この部屋の壁に、水平に光線を発射する銃が取りつけられていて、向かい側の壁の同じ高さにある的に照準を合わせている。
発射!
水平まっすぐに光線が走る。
・・・かと思いきや、この光の航跡はなんと、下向きに曲がる。
光が水平方向に進む間に、ロケットは垂直方向に加速し、向かい側の壁が上にずれてしまうために、光は的より下に当たるわけだ。
これを「光はまっすぐに進む」と決めたアインシュタインは、「いや、曲がってないね。高速運動する物体が空間をねじ曲げただけだもんね」と言い張る。
まあ、相対的にはそうともこじつけられる。
 

が、本当に驚くのはここからだ。
宇宙から母なる地球に戻ったあなたは、地上に着陸・静止したロケットの一室に立っている。
地球の重力があなたを下向きに押し込み、あなたは足の裏で自重を感じている(いつもの感覚だ)。
ここで再び、壁に取り付けた光線銃の出番だ。
光線をさっきと同様に、向かい側の的に向けて発射する。
今度こそ光は水平方向にまっすぐに進み、的の中心に当たる。
・・・かと思いきや、またしても違う。
なんと、やはり光は下向きに曲がり、的の下側に当たるんだ。
アインシュタインは言う。
「なっ」と。
「(地球の)質量が時空間をねじ曲げたんじゃ」と。
 

ここでもう一度繰り返さなきゃならない。
光はどこまでもまっすぐに進むんだった。
ゆがんだ時空間上の測地線・・・すなわち、定点間の最短経路を。
光は決して曲がらない。
だとしたら、曲がるのは相対的に、時空間の方とするしかない(ただ、地球程度の質量の天体では、この曲率は無視できるくらいにわずかだ)。
質量は時空間をゆがませ、ゆがんだ時空間は加速度を発生させ、加速度はあなたに質量を感じさせる。
それこそが重力の正体だ!とアインシュタインの一般相対性理論は結論づけている。

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「万有引力の法則」を「重力論」へと更新した、アインシュタインさんの説明です。

 

あなたは地上に立っている。

あなたの質量は地表面を下向きに押し込み、あなたは足の裏で自重を感じる。

これがG(グラビティ=重力)だ。

今度は、あなたは宇宙空間を旅するロケット内にいる。

ここには重力がない。

だけどロケットは上昇加速中で、あなたはその一室に立っている。

ロケットの床面があなたを上向きに押し込み、あなたは足の裏で自重を感じる。

これもGだ。

この双方の環境は、まったく同じ感覚をあなたの足の裏に与える。

ニュートンが万有引力の法則で定義した物理定数(とあなたと天体の質量の相互作用)によって、Gは・・・言い換えれば、あなたの体重は求められる。

あなたの肉体は常に、空間上に質量を持って存在している。

が、無重力空間にいるとき、それはあなたに感知されない。

Gが発生するのは、あなたが別の力によって動かされたとき・・・つまり加速系の中にいるときだけだ。

等速直線運動の系(静止系)にいても、それは意識されない。

体重は、Gがつくり出すあなたの幻影と言える。

 

エレベーターの上昇では、体重が普段よりも重く感じられる。

だけどそれは上昇加速中だけで、その後に速度が安定すると+α分のGは感じられなくなる(というか、Gは純粋な地球重力の1になる)。

電車に乗っているときも、発車後の加速中にあなたは進行方向からの圧を感じてよろめくが、速度がキープされると、地上の静止時と同じ安定を取り戻す。

あなたの質量をあなたはいつも持ち歩いているが、無重力空間の静止系では、それは存在しないものとできる。

逆に言えば、あなたが重力空間にいるか加速しているときにのみ(つまりGを感じたときにのみ)、あなたは自分の質量を意識できる。

・・・とすればわかりやすかったんだけど、相対性を絶対視する(矛盾ですね)あの科学者が、へそ曲がりなことに「いや逆だ。質量こそが加速度を生むのだ」と言い出したんだった。

質量が存在するために時空間はゆがみ、その底に向かってあなたは加速しつづけているのだ、と。

 

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ニュートン説を更新するアインシュタインの「説明」もまた、最新の量子力学的パラダイムの前では「記述」とされてしまうわけだけど、ひとまず彼は万有引力の構図を時空間の振る舞いとして矛盾なく説明し、その相互作用現象を「重力」と言い換えた。
そんな彼の、相対論的重力論を解説する。

まず彼は、特殊相対性理論で「質量とエネルギーは同じものだ(ご存じのE=mc2)」とした。
両者は形が違うだけで、光速の二乗を介して変換可能なのだ、と。
光速の二乗、ってところが引っ掛かるけど、速度ってのは要するに、空間距離と時間の流れをひとまとめにしたツールであるとだけ考えればいい。
つまりこの式は、質量とエネルギーのやり取りに時空間(タテヨコ奥行きの三次元+時間)が絡んでくる、と言ってるわけだ。
さらにその後に発表する一般相対性理論で、アインシュタインは慣性の等速運動系を加速系にまで拡張(一般化)する。
そして、「重力とは質量(エネルギーの集中)がゆがませる時空間上の加速度である」としたんである、なんと全部入りであることよ。

相対性理論は基本的に、光を絶対的な基準として中心に据え、もろもろの現象を相対的に説明してしまおう、という論法だ。
アインシュタインは、光はまっすぐに進む!しかもいちばん速く!と決めた(勝手に)。
光がいちばん速いかどうかはわからないし、まっすぐに進むわけでもないんだけど、とにかく相対性の主体を光の側に置いたのだ。
光が曲がって観測される場合があるのは、道の方が曲がってるせいであって、光は曲面の二地点間を最短距離に進んでるんだからまっすぐと言ってよい、というむちゃな理屈だ。
それを踏まえて、アインシュタインは「時空間は質量によってゆがむ」ものとした。
光との相対性に鑑みれば、光が曲がって見える定常の時空間は、光がまっすぐに進むぐにゃぐにゃの時空間、と言い換えることができるからだ。
張り詰めたゴムマットに鉄球を置いてたわませ、小球を転がす実験を見たことあるでしょ、あれあれ。
そして、ニュートンが「質量を持つもの同士は引き合う」とした「引く」との表現を、「加速する」と更新した。
加速ったって、どこからどこに向かって?
それは、本来あるべき座標から→質量がゆがませる時空間上のずれた座標へ、だ。
ただの机上計算だけど、皆既日食時の天体観測で、実際にこの考え方はニュートン式よりも精密であることが証明されることになる。
かくて彼は、質量から導き出される時空間のゆがみの曲率(光の道すじ)こそが重力の正体なのだ、と結論づけた。
物質同士は、引き合うのではなく、お互いがつくり出す時空間のゆがみの中を加速し合ってるんである、と。

・・・わかる?


ちょっと難しかったけど、本当に難解になっていくのはここからだ。
んなわけで、量子重力理論編につづく・・・かどうかは考え中(たぶんつづかない)。

 

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科学が現象を明らかにする際に用いる、「記述」と「説明」という言い回しがある。
ケプラーは天体の振る舞いを数式に落とし込んだわけだけど、それは運動のデッサンに過ぎず、根底にある原動力を組み込めていないため、「記述した」と言う。
一方でニュートンは、ケプラーの法則に「なぜ」を加えて運動の意味とメカニズムを明らかにし、すなわち「説明」をした。

ニュートンは、天体の軌道が楕円を描く他に、ところどころで不規則に振れるのが気になっていた。
そこで、その点までを網羅した根本理論を築こうと、まず慣性の法則を念頭に置いた。
ガリレオの、例の「動きはじめた物体はまっすぐに動きつづける」「ただし他から力を加えられないかぎり」というやつだ。
天体は、天上界を動きつづけているが、まっすぐにではなく、ゆがんだ軌道を巡っている。
そこで彼は、天体の運動には目に見えない力が干渉している、と考えたわけだ。
それは地上ではおなじみの、地球の中心方向への垂直ベクトルだとひらめいたが、ニュートンはもう一歩、思考実験を進めた。
地上で、大砲をあまりにも強く(つまり速く)水平方向に撃ち込めば、弾は慣性に従い、発射地点から見る水平方向を差したまま、宇宙空間へと飛び出していくだろう。
が、実際には弾の軌道は目に見えない力で地面方向に曲げられ、地球の丸みに沿って飛びつづける。
そしてついには地球を一周し、大砲の射手を後方から撃ち抜くにちがいない。

だったら、月も同様に「何者かが巨大な大砲で撃ち込んだ球体にすぎない」と仮定すれば?
月の直線運動(になるはずのもの)もまた、地球の中心に向かうなんらかの力、言わば「地球引力」から干渉を受け、地球をぐるぐると巡ることになるはずだ。

今、まさに空で起きている現象のように。
しかしこれだけでは、天体の不規則軌道という事実にフィットしない。
ニュートンがたどり着いた結論は、「万有引力」だ。
つまり、地球もまた「月引力」からの干渉を受け、月に向かって落ちている、という。
ただ地球があまりに大きいため、小さな月が地球を巡って見えるのだ。
その正円とは言えない回転軌道の軸は、なんてことはない、地球の中心ではなく、地球と月とを結んだ間にあったのだ。
さらにその運動は、太陽や他の惑星の引力からも干渉を受けている。
これでついに、天体の不規則軌道に「説明」がつく。
天体同士は、お互いに引っ張り合っていたのだ。
一件落着だ!

・・・ところが、のちに現れるアインシュタインのせいで、ニュートンのこの説明もまた「記述」に格落ちしてしまう。
なぜなら、ニュートンは「なぜ天体同士が引っ張り合うのか」についての説明をしていないからだ。
なんてことだ、相対性理論編にさらにつづくなんて。

 

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前回までのあらすじ


神が創りたもうた天上世界の惑星軌道が楕円にゆがんでいることで、プトレマイオスの天動説は破綻した。


その世界観を更新したコペルニクスの地動説も、やはり楕円軌道の解釈に腐心する。


なぜ太陽を中心に、惑星はまんまるの道すじを描いてくれないのか?


それが問題だ・・・

 



そこで、黎明期を迎えていた中世科学の出番だ。


精密な観測データを元に、ケプラーは惑星の楕円軌道に法則性を見出した。


彼の数式は、天体の運動(一定時間における進行距離と速度と回転芯との関係)を正確に描写しており、惑星が正円軌道を取らないことに、もはや疑いの余地はなくなった。


そしてついに、大砲の弾道研究から微積分法をつくってしまった天才、ニュートンが登場する。

 



さて、ニュートンにはハレーという知り合いがおり、数十年に一度だけ観測されるほうき星の研究をしていた。


「ニュートンさん、星の軌道って、まるいんすか?」
「いや、楕円だ。今、計算が終わった」


その数式に、ハレーが集めた観測記録を導入してみると、次回にほうき星が現れる日時と方角が正確に割り出された。


この天体、すなわちハレー彗星は、太陽を軸として長く偏った楕円軌道を描き、76年おきに地球に最接近するのだ、とその数式は示している。



この構図を見て、ニュートンには思い当たる節があった。


「大砲のタマを頭上高くに撃ち上げたら・・・」


タマは天高くのぼり、やがて失速して曲線を描きはじめ、最高点で進行方向を変えると、今度は地上に向かって加速する。


その放物線は、ケプラーの楕円軌道の法則にぴたりと合致する。


「・・・天体も落下してる?」



要するに、ハレー彗星は高くのぼり(つまりこちらから遠ざかり)、なんらかの力で引き戻され、落ちてくる(こちらに接近する)わけだ。


ただ、落ちる先に地面がないのだ。


落下点を与えられない天体は、永遠に落ちつづけるしかない。


ぐるぐると、ふたつのUターンのピークをつくって。


楕円軌道とはすなわち、落下と上昇の放物線をなめらかにつないだものに過ぎない。


「だとしたら、月なんてりんごと一緒やん!天上世界を落ちてんねやんか!」


 

・・・結論が近そうだが、長くなったのでさらにつづく。