(第8回)高過ぎし柵
僕はボクシング観戦が大好きである。
という話を行き付けの焼き鳥屋で話していたら、そこのマスターが知り合いのプロボクサーを紹介してくれた。それが京都出身の寺地永(てらじひさし)選手である。東洋大平洋(OPBF)ライトヘビー級のチャンピオンであった彼の、3度目の防衛戦を観に行ってから仲良くなり、いろいろ仕事の手伝いなどもさせて頂いている。
2000年9月、日本人対決となったOPBF4度目の防衛戦、寺地選手は敵地東京の後楽園ホールに乗り込んだ。ダビデのように鍛え上げられた肉体、そして重量級とは思えないスピードとテクニック。動けば雷電の如く、発すれば風雨の如しで、彼は相手選手を圧倒した。
スポットライトに照らされ、勝利の雄叫びをあげる寺地選手を見て、関西から応援に駆け付けた僕らも、本当に鼻が高かった。まさに京都の星であった。世界ランク上位にも位置付けされ、さぁ次は世界戦!という勢いであった。
しかし、次の試合はなかった。
かつて、ある有名な世界チャンピオンがいった。
「ボクサーにとって一番難しいのは、リングに上がるまでである」
と。それは、トレーニングや減量の苦しさ、あるいは怪我の心配などをいった言葉であるが、実際には、業界の柵(しがらみ)や興行的な問題等が、リングへの道を阻む事も多い。
深くは語るまいが、体力気力とも充実していた寺地選手が試合を行えなかったのは、後者の理由による。
そして、試合から遠ざかること一年。寺地選手は三七歳という、日本ボクシング協会が定めた定年年令を迎えた。三七歳になってタイトルを保持しないボクサーは、自動的に引退を余儀無くされるのだ。OPBFタイトルを持つ寺地選手は、もちろん引退する必要はなかったのだが、それもこれも、試合を行うことができた場合の話である。
団体からはタイトル剥奪の再三の警告。興行のめどが立たなかった寺地選手は、やむなくチャンピオンベルトを返上、事実上の引退となった。
おもしろきこともなき世をおもしろく。そうやって、スポーツに限らず、人は様々なことに挑戦し、戦う。しかし、寺地選手を見ていてふと思う。彼が立つべきリングは、高く複雑な柵(さく)に阻まれていた。
柵をこじ開けようと奮闘する彼の前から、リングは遠ざかっていった。その悔しさは知る由もない。たとえ勝とうが負けようが、グローブをはめてリングに立てた者は、幸せなのである。
周りの者は、ぜひともそれまでの経験を生かして、後進の指導にあたってほしいと思うのだが、当の本人は、所属団体を変えてでも、アメリカに行ってでも、チャンスがあればまだやりたい、といっている。
彼が再び輝けるリングに立てるかどうかは疑問だが、とりあえず、グローブはまだ壁にかかっていないようである。
2002年3月1日号掲載

高杉晋作
江戸末期、長州藩の勤王家。松下村塾に学び、奇兵隊を組織。
藩論を討幕に統一し幕府軍を破った。
| 追記・・・高過ぎし柵 = たかすぎしさく = 高杉晋作…。勝とうが負けようが、戦いの場に立てた者は幸せなんだと思います。実際にはそこにたどり着くまでに、ものすごい障害があるんですよね…。ちなみに寺地さんは現在ボクシングスポーツジムを経営、市会議員もされています。(2008/7月現在) |
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