(第13回)起きた壮死
先日の日記より。
夕方四時過ぎ銭湯に行くと、ちょうど同じタイミングで、泥酔した五十くらいのおじさんが入って来た。息子みたいな人と奥さんみたいな人も一緒にいたが、
「五時まで時間あるから」
と、入り口でそのおじさんにいって、自分達はどこか他の所に行った。
彼は、湯舟の脇で二十分くらい大の字になっていびきをかいていたが、ようやく起きて立ったかと思うと、滑って転んで角で後頭部をぶつけて、また大の字になった。
血が白いタイルに円形に広がり、彼は瞬き一つせず宙を見ていた。僕は番台に走って行こうとしたが、慌てて滑りかけたので、気を落ち着かせて歩いた。
番台のおばちゃんに救急車を呼ぶようにいったが、その後は何をしていいか分からず、ただ、おじさんに
「もうすぐ救急車来るから」
と同じことをくり返していった。
彼の血はドロッと直系1メートルくらいに広がり、僕を見る目はうつろ。
この人は死ぬ、と思った。
黒い猫と「菊」の一文字が僕の頭をよぎる。が、どうしていいのか分からない。頭を強く打っているので動かすのは危険だ、と自分にいいわけ。何かして、事態が悪化するのが恐かった。
番台のおっちゃんとおばちゃんは、パニックになってオロオロしている。初めて来た客らしい。おそらく近所で法事か何かの集まりがあり、昼間から酒を飲んだと推測する。
死体のように横たわるおじさんを遠巻きにして、男風呂の他の客がせっせと体を泡に包む光景はいびつだった。無関心というわけではあるまい。素っ裸の状態で血みどろの惨状を目撃しても、人間何かをできるものではない。機械的に本来の目的を遂行しつつも、頭の中は泡のように真っ白だったに違いない。
呼んでから七、八分後、ようやく救急隊員が来て、おじさんの頭に包帯を巻き、救急車に連れて行った。僕が出来たことは、運び出す際風呂場のドアを押さえてやることと、倒れた時間を報告することだけだった。
酔いが抜けるだろうと、彼を一人銭湯に置き去りにした妻と息子(推測)が憎い。
酔って寝ていた時点で、何らかの対応をしてやれなかった自分が憎い。番台にいって警察を呼ぶようにいう、というのがベストだった気がする。
日も暮れぬうちに酔っ払いの相手をさせられる警官は、嫌な顔をしただろう。警察を呼ぶなんてたいそうな、と番台さんは顔をしかめただろう。気分よく酔って寝ているのになんで警官が来るのだと、おじさんはうめいただろう。でも、人ひとり死ぬよりはましだ。何かが起こってからでは遅いのだ。
幸い救急隊員の話では、おじさんの傷は僕が思ったほど致命的ではなく、自分で名前や年令もいったそうである。よかった…。
救急車が去ってから、急に先ほどの惨劇について、あることないことペチャクチャ喋り始めた客の姿は滑稽だった。
銭湯を出た後、僕は予定を変更して実家に帰ったが、父は碁で十時過ぎまで帰って来なかった。が、無事顔を見られたので、なんとなくホッとした。
2002年5月16日号掲載

沖田総司
江戸末期の新撰組隊士。剣法にすぐれ池田屋事件で活躍したが肺病により没。
| 追記・・・人間、予期せぬことがいきなり起こると、本当にパニックになるもんです。経験と予期…これが大事ですね…。ちなみに副題ダジャレの沖田総司が所持していた刀の銘が『菊一文字』、最期は幻の黒猫を切ろうとして死んだ…という伝説に基づき、関連ネタを挿入しました。 |
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