(第21回)昨日つらつら記
皆もすなる、日記といふものを、僕もしてみむとて、するなり、と日記を書き始めてみても、今までいつも三日坊主で終わっていた。ところが今の僕の日記は、もう八ケ月ほど続いている。日記を自分のホームページで公開するようになったので、その責任感から、うまい具合に続いているのだと思う。
だいたい次の日に、昨日のことを思い出して、つらつらと記す。出来事のみではなく、考えたことも書く。未来の自分が読むための、とても個人的な内容であるが、一応他人も見るという前提で、それなりに文章構成も考えたりしている。
基本的には日記の世界は何を書いても自由なので、ストレスのはけ口にもなり、よい。また、日記をHPに載せることで、海外にいる妹達や大阪の実家、友人知人にも自動的に近況報告ができるという、メリットもある。風邪をひいたことを日記に書くと、会ったこともないメル友が、「大丈夫?」などとメールをくれたりして、孤独が紛れたりもする。
もちろん、毎日日記を書くことは、文章を書くための修練にもなるはずである。たかが日記といえども侮るべからず。平安時代の歌仙の日記は、日本文学にまで登りつめたとさ。文学とまでは行かないまでも、僕も「粋」な日記が書けるようになりたいな。
さて最近、その毎日の日記がとても長くなって来た。長い時は、一日の日記に二時間ほど費やし、原稿用紙換算で十枚分近くも書いたりする。そんな時ふと思う。日記などにこんなに時間をかけるのは、無駄なのではないか。大切な時間を浪費しているのではないか、と…。
ところが、長い日記を連日書いて、一週間ほど経ってからはっと気づくことがある。一週間がとても長く感じるのである。時間がゆっくりと流れた感覚になるのだ。
当然といえば当然かもしれない。
例えば一日の日記が、「◯月◯日 曇り 今日もいつもと同じ一日だった…」のように、ほんの一行ほどだったとしよう。一週間で、たったの七行。それを読み返した時、なんて一週間は早く過ぎるのだろう…と思えても当然である。
一方長い日記は、一週間で数百行になる。書くにも読むにも時間がかかるが、その一週間はとても長く、密度の濃いものに感じられる。時間が浪費されたようでいて、実は時間に密度を与えているのが、長い日記なのである。
光陰矢の如し、といって、「時間」は速く流れるものだと思い込んでいる人もいるだろうが、密度のあるものはゆっくり流れると、僕は考えている。充実した一日を過ごすことももちろん大切であろうが、時の流れとともに忘れてしまっては、何の意味もない。
忘れてしまって密度の薄くなった「時間」は、あっという間に過ぎ去っていく。それを防ぐのが、長い日記であると考える。
自分の過去に流れる「時間」がゆっくりとしたものになれば、今真横を通りすぎる「時間」も、これからやって来る「時間」も、ゆっくりと流れるのではないだろうか…。
2002年9月16日号掲載

紀貫之
平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。著「土佐日記」「貫之集」など。
| 追記・・・「平安時代の歌仙の日記は、日本文学にまで登りつめたとさ。」…この文でぱっと『土佐日記』を連想できた人は、かなりの文学通だと思います。では僕は文学通なのかというと、そうでもなく、ただいろいろ調べてこのような言い回しを作るのが好きなだけなのです。 |
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