(第31回)放念
道を歩いていると、ふと百円玉が落ちているのに気付いた。一瞬ラッキーと思い拾おうと思ったが、止めた。
「こいつは最近、踏んだり蹴ったりでついていないから、百円ぐらい恵んでやろう」
と、神様がよこした小さな幸運。こんなものを貰ったくらいで僕は喜ばないぞ。缶コーヒーも買えないじゃないか。僕の望みはもっと大きい。小さな幸せをこつこつ溜めるつもりはない。僕はさっそうと、百円玉を見送った。
その後バスに乗った。降りる時、微妙に小銭が足りないのに気付いた。一万円をくずすのに手間取り、恥をかいた。神様の善意を無駄にして、バチが当たった。南無阿弥陀仏。
しかしそれ以来、落ちている金は一円でも拾おうと決心した。だいたい金持ちと貧乏人の差は、一円の差から始まるという。一円を大事にする人と、一円くらいと思う人と…。
金に無頓着というのは、良く言えば「欲の無い正直者」ということになるが、悪く言えば「社会常識に欠ける馬鹿者」であり、僕は完全に馬鹿者の部類である。
しかしさすがに三十も半ばに掛かって来ると、先行き不安になる。ので、絶対に落ちている金を見逃すまいぞと、下ばかり見て歩くようになった。(また努力の方向を間違っている。)
そうして下ばかり見て歩くと、今度は天から降って来る災いに気付かない。具体的にはカラスの糞など。
カラスというのは賢い奴で、いろんな遊びも知っている。「人間の頭に糞を当てるゲーム」など、彼らの間では昔から流行している。電線の上を微妙に横移動し、人の歩く早さを計算に入れて、タイミングよくストーンと落としてくる。
下ばかり気にしていると、カラスの射程に入ったことに気付かない。人間社会の馬鹿者は、カラスに糞を直撃されて「アホー」呼ばわり…。
「憤慨」によりストレスを溜めるのはよくないので、別に泣きそうなわけではないが、今度は上を向いて歩くことにした。小銭を拾うチャンスは無くなるが、カラスの的には絶対ならんぞ!
きっかけはさておき、上を向いて歩く癖がつくと、胸を張った姿勢もあり、なんとなく大らかになる。大空を見て歩くのは気持ちがいい。冬の夜などは星座も綺麗に見えるし、たとえ一万円札を拾い損ねたとしても、僕はオリオンの瞬きを見つめている方が幸せだ…などと考えていられるのも、犬の糞を踏むまで…。
何でこんな所にのうのうと転がっておるのだね、君は?。再び憤慨の末、踏んだ靴まで憎くなる始末。まだまだ僕は小者だ。器が小さい。
いつの日か僕も、糞を踏んで尚且つ頭に脱糞されても、些細なことを放念し悠々と空を眺めていられるような、悟りの領域に達することが出来るのだろうか?
決してそれが、理想の「姿」というわけではないけれど…。
2003年2月16日号掲載

法然
平安末期の浄土宗の僧。比叡山で天台宗などを学び、のちに浄土宗を開いた。
| 追記・・・あぁ、大きな器の人間になりたい…と思うのですが、どうすればそうなれるのか?を書いてる時点で器が小さいですよね…やっぱり大局で物事を掴んで世界を達観できるようになるにはまだまだ修行がいりそうです…。(2008/8月) |
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