男と女の絆は、分かり合って築くものじゃなくて思い合って築くものではないか、と最近思ったりする。

自分以外の人を理解するのはなかなか難しい。たとえ熱烈に愛し合う恋人同士でも、長年連れ添った夫婦でも、お互いを完璧に理解し合っているかというと、必ずしもそうではない。

だから『あんな人だとは思わなかった』という台詞が出て来るし、『もうやっていけない』と別れを考えたりする。

しかし…相手に対する『思い』が少しでも残っていると、やっぱりもう少し一緒にいよう、と考え直す。男と女を繋げる絆は、『理解』ではなく『思い』なのだ。『理解できないけど、好きだから一緒にいたい』

『思い』を頼みに連れ添って、最後まで分かり合えなかったとしたら…それは、果たして幸福なことか、不幸なことか。『思い』をベースにした絆は、強いのか脆いのか。人の気持ちは意外と変わりやすいものだ。




 うっかり忘れていたのだが、4月11日で私がブログを始めてから、ちょうど3周年だった。早いものだ。


 3年前のアメブロは、ペタもプチメもアメンバーもリクエスチョンも無く、実にシンプルだった。右も左も分からず始めた当初は、写真を載せることもリンクを貼ることもできず、小さな文字でひたすら書きたいことだけを好き勝手に書き綴っていた気がする。


 ありがたいことに最初から一定量のコメントが付き、(私がけっこうあちこちのブログに出没していたので)、嬉々としてコメレスを書いていた。たまに荒らしが出ることもあったが、今では懐かしい思い出だ。当時は今のようにコメントを下さる人のほとんどがブログを持っている訳では無くて、純粋読者もけっこう多かった。そういう人たちとはコメント欄だけの付き合いなのだが、やりとりが長くなるとその人の「人となり」が見えて来たりして、いつしか旧知の仲のような親近感を抱くこともあった。その内の何人かはその後ブログを開設されたりして、ブロガー仲間になったりしたが、その他の方は一体今頃どうしているんだろうか。


 最近の機能満載のアメブロには、正直ついて行けてない私である。プチメ、ペタまでは良かったが、アメンバー、リクエスチョンなど、その必要性がどうしても理解できず、一度も機能を使わないまま現在に至る。そうこうしている内に、最近新しく「ピグ」なるものが出てきた。自分のアバターを作って仮想世界に遊ぶという機能だ。セカンドライフみたいなやつ。果たしてブログに必要な機能なのか。ただ自分に似せてアバターを作ることができ、それをプロフィール画像にできるので、それはけっこう気に入っている。他のブロガーさんもプグでプロフィールを作っている人が最近増えて来た。ピグともを増やして互いの家を訪問し合ったりして、楽しんでいる様子が羨ましい。ピグに関しては私も追い追いマスターしようかと思う。


 正直最近はテンションが下がり気味で、前ほど更新頻度が高くなくなった。巡回もほとんど携帯から行っているので、コメントもあまりつけなくなった気がする。だが、それでもブログは大切な趣味の一つなので、これからも細々ながら続けて行こうと思う。


 というわけで皆様、これからも夏ばこと「雑想三昧。」をよろしくお願いします。


 

 かなり前の話になるが、夫の会社で社員研修があり、その一環として「幸福は金で買えるか否か」というディベートをやった。その時は「買えない」と主張したチームが勝ったらしい。(勝負に勝ったという意味で、正しいと判断された訳ではない)ジャッジの決め手は「例えば山登りをしたとして、頂上を征服した喜びは高価な登山靴とか登山用品のせいではなく、一重に己の体力と気力の賜物である。だから幸福は金で買えない」という意見だったという。なんか、ざっくりし過ぎてないか。


 もし私がそのディベートに参加したなら、「買える」という方につくな。その方が論理が立て易いから。そもそも幸福とは「これだ」と一言で定義できるものではなく、人それぞれの感性や価値観による。ある人が「幸福だ」と思うことでも別の人にはそうでないかもしれない。正に幸福とは千差万別十人十色、よく言われることだが「幸福の形は一つじゃない」のだ。


 だったら、金で買える幸福があったっていい。どうしても欲しかったブランドのバッグを、お金を貯めて買った時、人は幸福を感じるだろう。或いは気に入ったキャバ嬢に会うために給料の殆どをキャバクラに費やすとか。例えその幸福が刹那的なものであっても幸福は幸福。幸福とは正しくは「幸福感」とでも言うべきで、脳内で作り出される感情だから、それのきっかけになるものを金銭で贖っても、一向に構わないのである。


 もちろん全ての幸福が金で買えると言うつもりはないし、金で買えない種類の幸福もあるだろう。しかし、金で買えない幸福は金で買える幸福よりも高級だとか、金で買える幸福は所詮薄っぺらい幸福だとか、そんな比較や定義は無意味だと思う。どんな幸福でも幸福は幸福だ。


 だから前述のディベートのジャッジは、私に言わせればかなり適当だ。むしろ予め、「幸福は金で買えるなんて結論、なんか汚い感じがする」という極めて情緒的なバイアスがかかっているような気がしてならない。双方の主張をきちんと論理的に精査して、公平にジャッジして導いた結論とは思えない。


 実際のところどうなのだろう。「幸福は金で買えない」と信じている人って、どれくらいいるのだろう。果たしてそれが真理かどうかはひとまず置いといて、「金で買える幸福もある」と思えば、人生かなり生き易くなると思うのだが。

 ちょっとした用事で車で出かけた帰り道。T字路の信号のない交差点で、私は右折しようとしていた。隣には、左折しようとしている車がいた。カーブミラーを見て、直進の車が来ないのを確認して、さぁ行こうと思ったら、一瞬早く私の隣のワンボックスが左折をした。ややタイミングがずれたが、その直後私も右折をした。カーブミラーはワンボックスの車体にさえぎられてよく見えなかったが、まぁいいだろうと思って曲がった。


 ・・・これがいけなかったらしい。何と、直進の車が来ていたのだ。あやうく衝突しそうになり、派手にクラクションを鳴らされた。ひやりとしたが結果的にぶつからなかったので、やれやれと胸を撫で下ろした。(きゃーごめんなさい(。>0<。)失礼しましたっ でもお互い事故らなくてよかったですね!)心の中で謝りながら走っていると、後ろの方でパッシングしている車がいる。見ると、さっきぶつかりそうになった車である。追いかけてきたのだ。


 どうやら私にイチャモンをつけたいらしい。気持ちは分からなくもないが、結果的にどちらも無事だったのだから、そんなに執念深くなることもないと思う。とりあえず私は逃げた。しかし、逃げても逃げても追って来る。意外にしつこい。車はトヨタの高級車である。もしかしてヤ○ザかヤンキー?もしそうなら面倒なことになる。私は怖くなった。


 運悪く赤信号に捕まってしまった。左折レーンで停止していると、私を追ってきた車がすぐ後ろに止まり、運転席から男が降りて来た。さすがに緊張して、とりあえずドアを全ロックした。「おいコラ!謝れ!謝れコノヤロー!」男は窓ガラスをばんばん叩きながら、叫んでいる(と思う。窓が閉まっているので)見るとヤクザではなく、50半ばくらいの普通のオヤジだった。私はちょっと安心した。「降りろ!降りて謝れ!」尚もしつこく叫ぶので、頭を下げた。

すると今度は「角を曲がったところで車を停めて降りろ!」と言っている(ようだ。)冗談じゃない。車を停めさせて、一体何をする気なのか。


 やっと信号が青になったので、私はすぐさま左折した。男は、更にしつこく追いかけて来る。これはちょっと変な人かも知れないなと思い、もしこれからもずっと追いかけて来るようなら、警察署に駆け込もうと、警察署方面の道路を目指すことにした。もちろん、言われた通り停車するつもりなど毛頭無かった。果たして、男は間もなく追跡を諦め、他の道へ入って行った。私は心から安堵した。


 ぶつかりそうになったのは確かに私の前方不注意のせいである。しかし、男の車もややスピードを出し過ぎていたように思う。一瞬前にはカーブミラーに写ってもいなかったのだから。男はあまりにびっくりして、思わずキレてしまったのだろう。腹が立つ気持ちは分かる。しかし、男の取った行動に正義などない。何故なら、もし私がいかにも女の運転していそうな普通車でなく、高級車や外車、或いはトラックに乗っていたら、あそこまで執念深く追いかけて来なかったと思うからだ。


 恐らく間違いなく女と見て、それで恫喝して気分を晴らそうと思ったのだろう。相手が女なら強く出られるからだ。自分が外車や高級車に乗っているからと言って、それだけで偉くなったように錯覚し、前の車を煽ったり、横柄な運転をしてはばからない輩がいるが、きっとあの男もそういう類だろう。一言で言って最低のヤツだ。


 私の住む地域には、こんな感じの悪い中高年が本当に多い。以前にも嫌な思いをしたことが何度もある。高い車に乗って、それだけで威張っていられるのだから、大した土地柄だと思う。


 しかし・・・怖かった~・・・洒落にならんかった!(((( ;°Д°))))

 

 久し振りに胸に迫る映画を観た。


 木村多江、リリー・フランキー主演の映画「ぐるりのこと。」は、ある平凡な夫婦の10年を描いた物語である。木村多江演じる妻が、子供を流産したことをきっかけに、次第に心を病んで行き、夫リリー・フランキーが、それを見守る様子を描いて行く。派手な演出も無ければ大事件も起こらない(流産の様子は描写されていない)が、じわじわと胸に迫り、後半に行くに連れて心にドスンと来る映画である。


 木村多江はこの映画で、日本アカデミー主演女優賞を受賞したらしいが、なるほどと思える圧巻の演技だ。鬱を発症し、徐々に壊れていく姿を実に自然に、美しく演じている。今まであまり主役にならなかった女優さんだが、地味な顔立ちにも関わらず、ものすごく光っていた。


 私も2度流産を経験しているので、映画のシーンのいくつかは、つい自分のケースに重ね合わせて観てしまった。私は鬱病にこそならなかったが、最初の流産は本当に辛かった。単純に落ち込むとかいうのではなく、心が暗い淵の底に沈んでしまったようで、そこから何年も這い上がれなかった。死にたい、と初めて思った。ブログを始めたきっかけの一つは、実は混乱した心の整理である。ブログのおかげで何とか立ち直れたが、ブログに出会ってなかったら、私も鬱になっていたかも知れない。


 映画の後半で、ヒロインが泣きじゃくりながら、「あたし、子供ダメにした。あたしは何もうまくできない。うまくやれない」と悲痛に叫ぶシーンがあるのだが、本当に共感する。流産してしまった女の気持ちとは、ああいうものではないかと思う。「うまくやれない」というセリフ。妊娠し、出産し、子育てをするという極めて自然な一連の流れを全うできないはがゆさ。他の女はみんなやれているのにという思いから来る劣等感。流産してしまったのは自分のせいではないかという自責。自分はもう母親になれないのではないか、妊娠してもまた流産してしまうのではないかという絶望感。それらの感情が絶え間なく湧いてきて、パニックを起こしてしまう、そんな心の激震が「うまくやれない」という言葉に集約されている。私自身経験したことだからよく分かる。


 ヒロインは流産直後、無理をして明るく振舞い、けれど心がそれに耐えられなくて徐々に壊れ、およそ10年かけて立ち直った。そして夫は、徐々に壊れて行く妻の傍らにありながら、特に何か働きかけをする訳ではなく、淡々とした風で妻に接する。妻がパニックを起こしていても、一緒に泣く訳でなく、ただ抱きしめて側にいる。「好きやから、一緒におるんや」と言いながら。


 現実は、恐らくそんな感じだ。周囲の人間の言動は、大して助けにならないのだ。肉親、夫と言えども、実際体内に子供を宿し、それを突然失った人間と同じ感覚を持てるわけもない。映画の中でも、母親や義姉が、(悪気はないのだが)心無い言葉を浴びせている。流産という「事件」は、周囲の人間にとってはすぐに過去の話になる。当事者だけがいつまでも苦しみの中にある。限りなく孤独だ。


 ヒロインが立ち直ったきっかけは、結局年月だろう。それと、「立ち直りたい」という意志か。底なし沼のような絶望感から這い上がれるか否かは、本人次第ということだろう。立ち直るに連れ、ヒロインの表情がどんどん明るくなって行く。どんなことがあったって、人は立ち直れるのだなぁという気がして来る。「うまくやる」必要などなく、ただ日々を大事に生きるだけで、人生は価値のあるものだと思えて来る。


 余談だが、リリー・フランキー演じる夫の助平っぷりが見事である。全身から「エロオヤジオーラ」が漂っている。地で演ってるんだろうか。

愚痴は嫌い。言うのも聞くのも。

愚痴っぽい人は、男も女も大したことない。

だって、潔くないもの。

愚痴は、聞く側の気力も体力も奪う。

愚痴ばかりこぼしている人は、そのことに気づいていないんだろう。相手を疲れさせていることに。
愚痴っぽい人を、私は憎む。

狭量な人間だろうか?
『オーラの泉』に哀川翔が出てた。




哀川翔って、普段から『哀川翔』だったんだなぁ……
今朝のズームインスーパーで、『節ブロ主婦』を特集していた。『節ブロ』とは『節約ブログ』の略で、最近自ら実践する節約術についてのブログを書く主婦が、増えているらしい。

カメラはあるカリスマ節ブロ主婦の自宅に取材に入った。『家族4人で1ヶ月食費2万円』というブログを書く主婦だ。この主婦の節約術は少し変わっている。毎日夫の為に弁当を作るのだが、それを夫に売っているのだ。値段交渉は毎朝行うらしい。その朝は600円の値段が付いた。大体毎日そんなもんらしい。しかし原価は100円以外だ。ものすごい利益率(笑)節約って言うのか、それ?夫が出した弁当代は貯めておき、家族旅行などの費用にするらしい。結局夫の小遣いで旅行に行くのだろう。夫は、搾取されている(笑)

その外にも、子供の昼食の材料費が30円だったり、掃除をする時の電気代が60銭程度だったり、徹底的に家計費を節約している。節約が楽しいので、ストレスはたまらないと言う。お金がなくてする節約と、目的があって貯金のためにする節約と2パターンあるが、この家は後者だろう。

うちは2人家族だが、食費は3万円ほどだ。家計簿をつけていないのではっきり分からないが、4万円になることは多分無いと思う。節約してる方かなぁ。よく分からないけど…。

節約はたまにやると楽しいけど、ずっとやり続けるのはしんどいだろうなぁ…ブログに載せることで、励みにしてるのかも知れない。

私も節約レシピ、アップしようかなぁ。

 酒井順子のエッセイに書いてあったエピソード。ある時酒井順子が電車に乗っていたら、高齢のおばあさんが乗ってきた。すかさず酒井順子が席を譲ろうとすると、そのおばあさんは「でも、あの子が座りたそうにしてるから」と、少し離れた所に母親と一緒に立っていた5歳ぐらいの男の子を指差し、辞退した。酒井順子が「どういう意味だろう?」と戸惑っていると、例の男の子が走って来て、酒井順子がおばあさんのために空けた席に座った。男の子の母親は「すいませんねぇ」とニコニコしている・・・。酒井順子は、これはどう考えても理不尽だ、間違っていると思い、男の子と母親に強い憤りを感じたと言う。


 私も全く同意見である。以前、似たような体験をしたことがある。地下鉄に乗っていて、車内は比較的混んでいた。私は運よく座っていたが、立っている人も多かった。ある駅で、70歳以上とおぼしきおばあさんが乗って来たので、私はすかさず席を立った。おばあさんに向かって「どうぞ」と言おうとしたその瞬間、どこからともなく9歳ぐらいの男の子がダダダと走って来て、私が立って空けたスペースにどっかと腰を下ろした。私はあっけに取られ、とっさに言葉が出なかった。おばあさんは自分が席を譲られたことに気づいていない。だから私が何となく席を立ったその場所に、「早いもん勝ち」とばかりにその男の子が座ってしまったことが、傍からは不自然に見えなかったかも知れない。しかし、私は後悔している。その男の子を叱りつけ、「そこはあなたの席じゃない。私はこちらのご婦人に席を譲ったのだ」とはっきり言わなかったことに。


 本当に嘆かわしいことだが、最近は孫を座らせて自分が立っているおじいさん、おばあさんをよく見かける。だから子供が勘違いしてしまうのだろう。「自分たちは電車の中で真っ先に席を譲られるべき存在なのだ」と。そんな誤った「常識」に、平気で乗っかってしまう母親父親もいるから始末が悪い。親子揃って高齢者に甘えている様は、まったく醜悪だ。子供を座らせてしまう祖父母もいけない。まるで両親祖父母一緒がこぞって、「子供甘やかし合戦」をしているようだ。そうやって甘やかされた子供が、一体どんな大人に育つのだろう。高齢者を殴りつけて、無理やり席を奪い取るような大人に育ったりはしないか。(極論だが)少なくとも、高齢者や妊婦、体に障害のある人など、肉体的に弱い人たちをいたわる気持ちは育たないだろう。


 基本的な考え方として、元気の有り余っている子供は電車で座るべきではない。電車の座席は、仕事をして疲れている大人、足腰の弱い高齢者、妊婦、乳幼児(2歳未満)連れの母親、病人とけが人、障害を持つ人たちのためのものだ。大体子供は運賃が無料あるいは半額なのだから、自ずと座る権利は限定されて来るはずだ。「小さい子供は落ち着きが無くて車内をうろうろと歩き回って危ないから、座らせた方が良い」と屁理屈を言う人もいるが、落ち着いて立っていられない子供が落ち着いて座っていられる訳が無い。座席の上で寝転んだりしたら邪魔だし、靴のまま座席に立ったりしたら大迷惑だ。まだ立っていた方が良い。それに「落ち着いて立たせておく」のは親の責任だ。


 また、高齢の方で席を譲られて辞退する方もいらっしゃるが、できれば好意は快く受けていただきたいと思う。「自分はまだ若いのだから席を譲られるなんて、年寄り扱いされているようで侮辱」と思われるかも知れない。しかし、敬老精神とは労わりだけではなく尊敬の意味もある。「労わられた」のではなく「敬われた」と解釈すれば、自尊心も傷つかないと思うのだが、どうだろう。あくまで座る座らないはご本人の自由だが。席を譲った方は辞退されたからと言って憤慨してはいけない。ましてや、一度立った席に再び座るなど、みっともない。