言葉に出来ない
買い物帰り、自分の前をちょっと骨太だけど、綺麗な後姿の、金髪にしている髪の長い女性が歩いていた。歩き方も綺麗。
その人が何か思い出したのか、足を止め後ろを振り返った。
オ ッ サ ン だ っ た。
ロングブーツ(ヒール)、女性が着るような黒のコート、やわらかウェーブの長い髪……でも
オ ッ サ ン だ っ た。
顔が男っぽいとかじゃなくてもう……
あぁ、言葉にならない。
先を越された
忘れていたわけじゃないのですが、魚の煮付けを作るタイミングがなかなか出来ずに時間が流れておりました。
そして今日、秋刀魚があったのでいい加減作ろうと思ってたのです。
そんな時に電話。
伯母「結婚式して1周年たったねー。たまにはご飯一緒しましょ」
親戚付き合いを無碍にするのもいかがなものか、ということで言って来ました。
帰ってきて、レシピの確認をして、ついでにここ数日していなかったブログ巡回をしたら
先 を 越 さ れ て い た。
…………悔しくなんてないんだからねっ!
さて、何の魚に切り替えようか。
努力の考案?
ぇー、最初に言います。今日の日記はグダグダです。しかも長い。
少し前の話、旦那と「努力」についてちょっと話してました。話してたというか、喧嘩の延長戦でそういう話になったのだけど。
某小説の影響もあるのですが、僕の中では努力は、ある程度自己完結できるものだと思ってます。
例えば二人の中学生が、受験に向けて毎日問題集に取り組んでます。
A君は毎日3ページやって「頑張っている」と言い、B君は毎日10ページやって「受験生だから普通の事」と言います。
この場合、ぱっと見て二人は努力してるのかと聞かれると、大抵の人は十中八九、B君だけを評価すると思うのです。
じゃあA君は努力してないのか? してるんですよね、彼の中では。
毎日続ける努力、少なくても自分の決めたページ数をこなす努力。学ぼうとする努力。
これがA君の中の考えです。
そしてB君のほうは、自分の中では努力してないと思うのです。
毎日やるのは当然、受験が近いんだから勉強するのは普通、学生なんだから学ぶのが仕事。
これがB君の中の考えです。
「そういったって、A君が努力してるようには思えない」と思う人も居るでしょう。
それってたぶん、横にいるB君の考えが、A君より立派だからではないかと
B君が当然と考える基準が、A君の努力の基準値を上回ってるからではないかと
B君が毎日勉強せず、問題集も1ページするのが珍しいような子だったら、たぶんB君のお母さんはこういうでしょう
「A君を見習いなさい、毎日勉強して、努力してるのよ」って。
子供がしている努力を、親が認めないのは、親から見て子供が「努力してない」ように見えるからなんだと思います。
そりゃ、口先だけの努力な人のたくさん居ますけどね、なので大まかに見て
「本当は努力をしていない」パターンと「努力の基準値が、評価を下す人の基準値より下」パターン
があると思うのです。
もっと多く細かくありそうですが、僕の頭じゃそこまで考案できないので、今回はこの二つで。
そして「本当は努力してない」は論外なので置いておいて。
「努力の基準値が、評価を下す人の基準値より下」の場合、どんなに頑張っても頑張る努力の基準値が、そもそも評価を下す人より下なのだから、自分の中でどんなに頑張っても評価されません。じゃあ、評価をする人から見て、どこまでやれば努力した事になるか尋ねると、大抵こう返ってきます。
「それぐらい、自分で考えなさい」
こうやって書くと、理不尽にも見えます。自分の中で頑張っても認められないから尋ねたのに、考えろよわかるだろ?と、言われてるのです。でも、評価を下す人の発言が理不尽なのかといわれれば、実はそうでもない。
なぜかというと、その人の中では、自分の努力の最低基準値が評価の基準であり、目の前の相手の基準値がそれより下だとは思わないから。
良い言い方をすると、ある種の期待ですね。自分の中の努力の最低基準値よりも上の事を、相手は出来ると思っているから、相手に合わせて基準を下げようとしないのです。
そして、自分の基準に届かない相手を「努力してない」と切り捨てます。でもこれは努力してない事を看破したのではなく、「自分の中の努力の最低基準地に到達していないので、努力をしてないと見る」という評価なんだと思ってます。
評価する人から見れば「努力してない」ように見えるだけで、努力はしてるのです、基準が低いだけ。
そして、努力をする側の場合、基準は基本動かないのですが、これが評価側に回った瞬間あっさり変動します。しかも上に。
どういう時に上がるか……評価をする人間の努力基準よりも、普段の基準が高い人が傍にいるとき……上の例えの時のような場合、評価側の努力基準値が上がると思ってます。しかもこれ、親に多い。
「○○さんの家の××君は親孝行もして勉強も頑張って、ゲームやマンガなんて殆どやらないし読まないんだって、偉いわねー」
体験談が混ざりますが、ぶっちゃけこういう対比評価が一番困る。しかも7割は嫌味ですからっ!
まったくやってないとか、やらなきゃいけないのにやろうとしないとか、まぁそういう場合は嫌味ぐらい言われとけなんですがね。
でもこれ、逆を子供が言うと「うちはうち、他所は他所!」と返す親が多いかと。こういうのが理不尽という。
話がずれたので戻します。努力の考案。今までは行動の努力で話してたのですが、努力をするのは必ず理由があります。基本その理由は「結果」なのですが、努力に反して結果が比例するとは限らないのが面白いところ。いや、面白がるところじゃないんですが。
そしてこの結果が悪いと、どんなに努力してても認められません。評価する人の過去に、努力したけど結果が悪かったことがあったとしても、結構認めてもらえません。そして評価する人が、努力していた物事に離れていれば離れているほど、評価は辛辣になります。
離れている=疎いので、努力の評価もうまく出来ません。そこに悪い結果が来たらなおさら評価は悪くなります。そこに見えるのは努力の経緯よりも、出てきた『悪い』と名のつく結果なので。
これは野球とかスポーツに多い評価かもしれません、特に高校野球。どこだって甲子園に出るために頑張ってるのです。でも甲子園に出られるのは限られた数だけ。出られない学校が大半です。努力に結果が比例しないのです。
ここまでグダグダ書いたのですが、努力は人それぞれ、自分の中で「努力している」と思えば、努力してる事になるんだと思います。本当にそれを認めて欲しいのであれば、第3者がそれを評価できるように頑張らなきゃいけないわけで。いやな言い方をすると、評価する人が、どこを頑張れば評価するのかをわかっていれば、評価を貰う努力は何もかも頑張るよりは楽ですよね。
まぁ、世の中「努力の評価」3割「結果」7割で判定されると思っているので、結果が出せなきゃ意味がない。