今日アップする古墳は宮内庁から檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)として、天武天皇と持統天皇の陵に治定されています。考古学的には「野口王墓」と呼ばれていますが、宮内庁治定が(被葬者が)信頼できる珍しい古墳です
↑国土地理院地図より(赤い文字はふっき~が加筆)
欽明天皇陵・鬼の雪隠・野口王墓が同じ丘陵上に築かれていることがわかります
↑野口王墓(天武天皇・持統天皇陵)、南側より
丘陵の先端部という目立つ位置に築かれたことがわかります
(畑の残土で築いたから、古墳は平野部にしかないって言う珍説を唱える人には、実際の古墳をマジで見て欲しいな)
↑野口王墓(天武天皇・持統天皇陵)の拝所
↑天武・持統天皇陵の解説板
壬申の乱(672年)に勝利し、律令制の基礎を築いて天武天皇と、その皇后で次に即位し、天皇としてはじめて火葬された持統天皇が合葬されていえる御陵(檜隈大内陵)である。墳丘は現在東西約58メートル、南北径45メートル、高さ約9メートルの円墳状をなしている。鎌倉時代(1235年)に盗掘され、その際の記録である『阿不幾及山陵記』に墳丘・前室・墓室内の様子の記載がある。墳形は八角形で五段築成、周囲に石段をめぐらすという。切石積の石室は2室からなり、天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん、漆を塗り重ねた棺)と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められている。
↑野口王墓(天武天皇・持統天皇陵)からの風景
↑北東側から覗くことができました。
しっかりとした墳丘が残っています
藤原定家の『明月記』に盗掘を受けたことが記載されいます。その際に副葬品の奪われたほか、天武天皇の棺が暴かれて、遺骨と白髪が散乱していたという別の記録も残っています。
※平安時代の途中まで、陵墓については墓守(はかもり)にあたる陵戸が3~5戸あてられていました。天武・持統天皇陵には5戸の陵戸。
律令制の崩壊から平安時代後半~鎌倉時代に陵墓の大部分が盗掘を受けてしまいます。
↑野口王墓(天武天皇・持統天皇陵)、西側より