昨日(9月28日)、川越市の山王(さんのう)塚古墳に行ってきました住所の「大塚」、西武線の「南大塚駅」も、名前の由来はこの山王塚古墳から。
古墳巡りをするようになってすぐの頃に訪れていますたった2年しか経過していませんが、古墳についての知識とか、膨大に増えたような気がします
↑山王塚古墳、南西側より
日本にわずか6基しか見つかっていない上円下方墳ですそのうち1基は東京都府中市にある熊野神社古墳。
↑山王社となっています。
今回訪れた理由は「現地見学会」があったので
ふっき~は土日が仕事のことが多く、なかなか「現地説明会」に参加できないのですが、今回は珍しく休みが取れたので行ってきました。現地説明会に参加するのは、かなり久しぶりです。
↑「現地説明会」配布資料を一部抜粋、左に書いてある「山王塚西古墳」は大正時代に消滅しています。
山王塚古墳は上円部の直径37メートル、下方部の一辺69メートル、周濠の幅は10~15メートル、高さは約5メートルです。
↑「下方」部上面の端、ビニールひもで表現されていたのでわかりやすかったです
↑ちょっとカメラをずらして・・・・中央が「下方」部ということです。
↑さらにカメラをずらして・・・・手前が「下方」部、奥の木々がある場所から「上円」部となります。
↑現地説明会スタート、参加者は30名弱でしょうか。年配の方が多い印象です(笑)
↑「下方」部辺縁部、土手状の盛土がされている・・・・と説明を受けてから移動中に撮影墳丘の東側です。墳丘の北側は土手状の盛土がハッキリとわかりました
↑墳頂での説明、やたらに人がいっぱいいるので、先にこの場所で周濠に架けられていた土橋の説明を受けました
個人的に「面白いなー」と思うのは、古墳築造当時、墳丘南側から土橋を渡ってお参りしていたのでしょうし、1400年くらいたった今も、同じルートで山王社にお参りするんですよ1400年間も同じ道を使うって、ちょっと神秘かも(笑)
↑墳頂の祠
↑墳頂から南側へ
ビニールひもは石室の位置を示しています。石室の一番奥、玄室は祠の直下になるため、調査はしていません。
奥が角閃石安山岩、榛名山二ツ岳の火山噴出物が由来。羨道の側壁に使われました。
手前の石が緑泥片岩、門柱石や未発見(おそらく盗掘を受けて現存していない)の天井石に使われてました。緑色片岩は小川町や長瀞町産出のもの。
↑川原石は羨道や前庭部の床に敷き詰められていたもの。川原石については多摩川流域のものと荒川流域のもの、両方あるようです。
今回はトレンチの解説等はありませんでした。おそらく山王塚古墳での「現地説明会」は今回で最後。今後、国指定の史跡を目指していくと、教育委員会の方がお話をされていました。
↑ケースに入った石の説明が終わったのち、質問受付になってから「古墳って墓なんですか?」とか、「南大塚古墳群って北斗七星のような星の配置をもとに古墳が作られたことはないんですか?」とか、「被葬者って誰なんですか?」とか「隣にあった山王塚西古墳の被葬者と、この山王塚古墳被葬者の関係性は?」とか、そんな質問が続き出したので「説明する人も大変だー」と思いながら、破片はないかな?とキョロキョロしていたら、緑泥片岩を1つ見つけました(笑)
皆さんが質問している時に、ふっき~が石の写真を撮っていたので、他の人たち、やたらに気になったのでしょう最後の方で、ふっき~が撮ってた↑この石のことを質問していました(笑)もちろん石室石材の一部です
↑約1時間の「現地説明会」でした