前回の続きです
「将門町」という名前は、平将門の父である平良将(よしまさ)の領地があった・・という由来に基づいているそうですが、「史料」はありません。
「史料」と言えば「古墳」についても、ほとんど「史料」・・いわゆる文字の記録がないので、色んな説・考えが出てきます。
ただ、そこに古墳があります目の前にある古墳を調べるだけで、色んなことがわかるんですよ
ネットを見ていると「古墳残土説」がやたらにチヤホヤされて、アチラコチラで見かけますが、目の前にある古墳を見るだけで「残土」はないなって気が付きます。
なにせ、畑や水路を作る際に出た残土だけで固めて墳丘を作ったら、100年もしないうちに風雨で崩れますよたった15日間の土俵を作るだけでも、わざわざ遠くから、やや粘土質の土を運んでくるくらいです。
以前も書いたことがありますが、古墳は基本「版築」と言われる工法で築造されています。その「土」は「1種類」じゃないのです←ここがポイント基本2種類から3種類の「土」、詳しい調査がされた古墳だと数十キロも離れた「土」を用いて、その「土」を固めては別の「土」を重ねて、また固める・・そんな作業を繰り返していきます。「土」の中には強度を増すために、小石(礫)を混ぜていくケースも多いんですね。
実際に調査されている古墳の現場や、崩れかかっている古墳を見ると、墳丘がいくつもの「層」になっているのが素人目にもわかります。
地域の「農民」が「版築」を用いて、大きな墳丘を築き、しかも古墳って2段築成とか3段築成って、かなり複雑な構造もしています。
埴輪は多いものだと何千という数・・その膨大な数の埴輪を作っては設置し・・、想像するだけで大変そうです
「残土」を主張する人は色んな古墳を見て下さいね
おっと・・かなり話題が逸脱しましたが、「実際に」訪れた古墳の話題
↑将門2号墳 私有地なのか?ロープが張られており、近寄れません
↑将門2号墳
道路からズームしてみました
タケノコも気になりますが、「墳丘」があることに気が付きます。墳長約16メートルの前方後円墳。
↑続いては鬼塚古墳 左側手前が「後円」部、右手奥が「前方」部
佐倉市と酒々井(しすい)町の境界線、鬼塚古墳の場所は酒々井町になります。
隣の会館の駐車場に停めさせてもらって、ゆっくりと古墳を堪能
↑西側より 「後円」部
↑南東側より 右手前が「前方」、左奥が「後円」
↑北西側より 右手前が「後円」、左奥が「前方」
墳長約30メートル、高さ約3メートルの前方後円墳。
↑久しぶり!に埴輪の破片を発見 墳丘西側です
う~ん埴輪の破片っていいものです