foo-d 風土 -68ページ目

foo-d 風土

自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

染と織の万葉慕情 12

  麻の枕詞

   1982/6/25 吉田たすく

 

麻の話の続きですが、麻の名をお持ちの王(おおぎみ)がありました。またこの王は、因幡の国(いなばのくに)に流されていますので、私たちにはちょっと興味があります。(注1)

 

「麻続王」(をみのおほぎみ)というお方です。(注2)

 日本書紀に「天武天皇四年四月十八日に、三位麻続王は罪有って因幡の国に流された」とあります。万葉集には、後世の人が歌のことばから誤解して、麻続王、伊勢国の伊良ごの島となっていますが、その島に流された時、人々が気の毒に思って作った歌があります

 

 

打珠 (うちぞ) を

  麻続王 (をみのおほぎみ)

    海人 (あま)なれや

   伊良ごの島の

    玉藻刈ります

 

打ってやわらかくした麻の事で、麻続王にかかる枕詞です。

麻続王は海人 (あま)ですか?

もちろん王ですから海人ではないのですが、 伊良ごの島の海草を刈っていらっしゃるといって嘆くのです。麻続王はこれを聞き、悲しんでこたえて歌われた歌。

 

 うつせみの

  命を惜しみ

    波に濡れ

   伊良ごの島の

     玉藻刈り食む

 

 はかないこの世の命をおしんで、波に濡れて、伊良ごの島の玉藻を刈って食べていることだ。

 

 麻は当時の衣類で生活の一部でもあったので、物のたとえに麻を使い、枕詞にも用いられています。

 麻の茎を水にひたし、蒸して、荒皮を取り、白い繊維を指でさき、結びつないで長い長い糸に作りました。 それで「長い」意味とか、麻をつなぎ経(う)む作業の「ウ」の字から「海」の枕詞に、また糸を作るので「イ」の字から「命」の詞にかけました。

 

 夏麻(なつぞ)ひく

  海上潟(うながみがた)の

    沖つ洲に

   烏はすだけど

    君は音(おと)もせず

 

夏畑のあぜから麻を引き取る、海にかかる枕詞です。あがたの洲に鳥は集まって騒いでいるのに、あなたは少しも訪れてくれないなあ。

 

 夏麻引く

  海上潟の

   沖つすに

  船はとどめむ

   さ夜更けにけり

 

沖の洲に船を泊めよう、夜は更けてしまった。

 

また長歌の一部

 …緑 (よし)の無ければ

   夏麻引く

  命かたまけ

    刈ごもの

   心もしのに

    人知れず…

 

命の枕詞に使われています。

 

まだまだ、麻の歌は続きます。

 

          (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

 …………………………

(注1)鳥取県は因幡国(いなばのくに)と伯耆国(ほうきのくに)の二国で出来ており、吉田たすくは鳥取県倉吉市在住。

(注2)麻続王 麻績王(おみのおう、生没年不詳)は、7世紀末の皇族。麻積王とも称される。

 

出自をめぐって大友皇子(天智天皇の太子)、美努王(橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。

『日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、鳥取県鳥取市国府町岡益にある梶山古墳は麻績王の古墳であるともいわれてる。また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島に流罪されたとある。

壬申の乱で、大友皇子側についた事が原因で流罪に処されたとする説もある。

 

 麻続・麻績・麻績(おみ)とは機織りに使う苧環(おだまき)のことで、糸を巻いて玉状または環状にしたものです。

「麻続王」(をみのおほぎみ)と言う名を持たれているという事は、母君が織物を扱う倭文部(しとりべ)や、織物に関する氏族出身だったのかもしれません。

 因みに、伯耆国(鳥取県西半分の倉吉市・米子市・境港市)の一宮は、織物の神様を祀る 倭文神社(しとりじんじゃ)であり、国府の置かれた倉吉近郊は古代より特に織物が盛んだったようです。この織物のDNAは江戸時代には倉吉絣として絵絣で大きく花開き、また、この倉吉絣の研究から父の「吉田たすく手織工房」へと続いております。

 

倭文神社の倭文は「しとり」と読み、日本最古の「倭文織(しづおり)」という織物のことを指します。

 倭文織は、梶木(かじのき)、藤、楮、栲などの木の皮の繊維を糸にして、これを織った織物類で、後に麻も加わりました。荒妙(あらたえ)ともいいます。 平安朝で麻や絹織物も含めて織物を扱う集団を倭文部(しとりべ)と言い、全国にありました。

 

倭文織は私も様々資料を探していますが、古墳や正倉院から数点しかそれらしいものが見つかっておらず、古代布の研究項目としてどの様な織り方でどんな布なのかまだ解明されていない部分があり、とても魅力的なロマンがあります。

 

 伯耆一宮 倭文神社社伝によれば大国主命の娘の下照姫命が出雲から海路御着船、従者と共に現社地に住居を定め、当地で死去されるまで、安産の指導に努力され、農業開発、医薬の普及にも尽くされたといわれています。創立当時、当地方の主産業が倭文(しづおり)の織物であったので、倭文部(しとりべ)の祖神 建葉槌命(たけはづちのみこと)に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたものです。

倭文神社へは何度か行ったことがありますが、とても静かな厳かなところです。

古代は入り江であった東郷湖の傍の丘にあり、古墳時代はこの入り江から沢山の倭文織を舟で出雲王朝へ運んだのでしょう。

 尚、全国の倭文神社や倭文部の分布は山陰地方と東海地方に特に多く、海や河川、湖沼に近い高台にあり、そうすると「倭文部」は「海人部」と関係深い部民であったこと、製織技術の面から秦氏との関係も考えられます。 ここにもとても魅力的なロマンがありますね。

 

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苧環(おだまき)については、語源にもなっていたり、様々な続き談がありますから、別途次回にアップしたいと思います。

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(新聞の番号は一つ進んでいます。ミスか9だから避けたのかどうかわかりませんが、 ⑧から⑩に飛んで付蹴られていて、後日気がついたのか96が2ツあり、トータル100ページとなっております。)

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 尚このシリーズのバックナンバーは私のAmebaブログ 「food 風土」の中のカテゴリー『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

 …………………………

 

吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

生活感漂う麻衣  11

   1982/6/18 吉田たすく

 

 先週は「藤衣」でしたが、きょうは麻衣の歌をとりあげてみます。

以前に麻の宴の女、真間の手児名のお話をしましたが、麻のロングスカートをはいた美しい乙女が入水してしまう挽歌でした。麻の衣は、藤衣や葛布などよりはましな衣料ですが、上等でなく、まあ当時としては普通に庶民に親しまれた衣料でしょう。自家用に栽培して、刈り取り、皮の繊維を爪でさいて、結びつないで績()み、糸を作ります。この糸を倭機 (しづはた)=日本古来の原始機=にかけて、粗末な布に職りあげて、衣類にしたものです。家内の者の衣類はもちろんのこと、背の君の衣も心をこめて織ってさしあげもしました。

 

 

 また、調布として、今の税金のように年に何反かを国に納めるのも、麻衣が多かったのです。

地名で調布という所があちこちにあるのも、この事の名残でしょう。

 

 麻衣(あさごろも)

   着ればなつかし

          紀伊国(きのくに)の

   山に 麻蒔く

    我が妹(いもこ)

 

麻の衣を着ると、吾妹子がなつかしいよ、紀の国の山に麻を蒔いていた吾が妹子が、というのです。

麻を栽培する女の仕事を歌っています。

 

 庭に立つ

  麻手刈り手し

    布さらす

  東女を

   わすれたまふな

 

 麻を刈って干し、布に織って、

出来た布を水にさらしてしあげをする。庭に立っている東国の卑しい女を、どうぞおわすれなく、と京へ上る大夫へ贈る歌です。

 

 小垣内 (おかきつ) 

  麻を引き干し

    妹なねが

   作り着せけむ

    白拷(しらたへ)

     紐()も解かず……

 

挽歌の長歌の一部ですが、ここにも麻の糸を引き干し、着物を作って着せるという女の織(はた)仕事が歌われています。

 

 桜麻(さくらを)

  麻原(おふ)の下草

   早く生ひば 

  妹が下紐

   解かざらましを

 

 さくら麻の麻畑の下草が早く

のびるように (気づかぬうちに)、誰かが私より早くあなたに言いよっていたならば、私はあなたの腰紐を解くような事はしなかったろうに。大変にセクシな歌なのです。

同じような歌で

 

桜麻の

 苧原(をふ)の下草

  露しあれば 

  明して行け 

   母は知るとも

 

さくら麻の畑の下草には露があります。夜が明けてからおかえりなさい。ないしょでおいでのあなたを母が知ってしまうかもしれないけれど、というなかなか実感のこもった歌です。そのような恋の歌を装飾する上の句に麻を使っているところを見ると、麻は当時の人たちにとって生活の一部であったのでしょう。小垣の内や家の近くの畑に麻がつくられていたのです。

 

           (新匠工芸会会員、織物作家)

 

染と織の万葉慕情10

  庶民の「藤衣」

   1982/6/11 吉田たすく

 

 藤の花は、草花の中でも特に華麗で艶やかな花ですから、古くから歌に詠まれて来ております。またその反対に、貧しくお粗末な藤づるの繊維で織った布の藤衣(ふじごろも)の歌もあります。この藤にまつわる二組の歌を取り上げます。

 

 

恋しけば

 形見にせむと

         わがやどに

       植えし藤波

    咲きにけり

 

 

 

形見にしなさいと植えた藤が咲いた。あの人は今ここに居ない。

 藤の花が山裾に波うつごとく咲き乱れるさまを“藤波”というのでしょう。

 

 藤波の

  散らまく惜しみ

     ほととぎす

   今城の岳を

    鳴きて越ゆなり 

 

 藤波は

  咲きて散りにき

   卯の花は

  今ぞ盛りと

   あしびきの

   山にも野にも

    ほととぎす

     鳴きし響(とよ)めば

 

藤波の

 咲きゆく見れば

    ほととぎす

  鳴くべき 時に

   近づきにけり

 

 藤の花が過ぎると、ほととぎすが鳴く初夏になり、卯の花の盛りになるー 季節の移り変わりを詠っております。

 

春の野の

  藤は散りにて

   何をかも

  御狩の人の

   折りて挿(かざ)さむ

 

御狩の人は何の花を手折って、頭にさすでしょうか。 もう藤の花は散ってしまったのに、という惜春の情を詠っています。

 

 ほととぎすの鳴く夏が近くなって来ました。

 

 藤衣(ふじころも)の歌

 

須磨の海人(あま)の

  塩焼衣(しおやきごろも)の

      藤衣(ふじころも)

  間遠にしあれば

     いまだ着なれず

 

海水を焼いて塩をつくるときに海人の着る藤衣の目の粗い布のように、間が遠いので、まだあの人になれそっていない。

 

 大君の

  塩焼く海人の

   藤衣

 なれはすれども

  いやめづらしも

 

海人の藤衣のようによく着なれている。そのように馴れているあなたは、ますます逢いたい人ですよ

 

 当時の庶民の衣類は「藤衣」「葛布(くづふ)」「こうぞの布」など、身近に手に入りやすい天然繊維を使って織ったものでした。麻など栽培して作るものは高級品です。もちろん木綿はまだなかったのです。

 

 藤のかづらをはぎ 指で糸にさき、むすんで積(う)み 藤糸を作り はたにかけて 粗い藤布が出来るのです。暖かさのない、がさがさした粗い布でした。貧しい海人は、この藤衣くらいしか着ることが出来なかったのです。

 

 また、高貴な人が喪に服するときに、藤衣を着たようです。喪にふくすときは、平素の着物より一段ひくい質の着物を着るのが、大陸から伝わったしきたりであったのでしょう。

 今でも韓国の喪服は粗い麻布を着ると聞きましたが、これと同じ意味をもつのでしょう。

 この粗い粗末な藤布にくらべ、藤波の花は女性の美しさにたとえられ、また頭にかざし、舟を飾ったりしましたが、美貌とその身の幸いとは別ものなのでしょうか。

 

  (新匠工芸会会員、織物作家)

 

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(新聞の番号が⑧から⑩に飛んで付蹴られています。どうかわかりませんが、後日96が2ツあり、トータル100ページとなっております。)

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 尚このシリーズのバックナンバーは私のブログ 「foo-d 風土」の中のカテゴリー『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

 

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染と織の万葉慕情 ⑻

  春しのぶツバキ

   1982/6/4 吉田たすく

 

 

 先週は椿市の歌でツバキの灰を染色に使う話でした 。それではあの真っ赤なツパキの花で染める事は出来ないのでしょうか。

小学生のころ、アサガオの花をすりつけて布染した人があると思いますが、どうでしょう。ツバキの花をもんで布に推 (す)りつけると、せっけんのように白い泡を立ててほんの薄いピンク色がつきます。日がたつにしたがって、それは茶色に変わります。落ちツバキが茶色に枯れていくあの色です。赤色には染まってくれません。万葉歌に摺り染の歌十数首ありますが、ツバキの花は擦り染は一首もありません。ツバキの花で染まらない事がわかっていたのでしょう。

 染織に関係はないのですが、ツバキの歌をお目にかけます。

 

 我が門(かど)の

  片山椿

   まこと汝(なれ)

 我が手触れなな

   地に落ちもかも

 

我が家の向かいの傾面の山椿(相手の女)、自分の留守に我が手にも触れないで他人の手にわたり、地に落ちるようにだいなしになってしまいはしないでしょうか。

 ツバキの落花のさまを見てうたっています。

 

 また持統天島が紀伊に行幸されるときの歌

 

巨勢山の

 つらつら椿

  つらつらに

 見つつ偲ばな

  巨勢の春野を

 

河の上

 つらつら椿

  つらつらに

 見れども飽かず

   巨勢の春野は

 

兵部大丞大原の真人の歌

 

 あしびきの

  八峰の春の

   つらつらに

  見とも飽かめや

   植ゑてける君

 

見ても飽かないツバキで春をしのぶ歌でずが、なかなか口調のよい歌です。

 花が点々とつらなって咲くとか、薬っぱがてらてら輝いて美しいなどと、”つらつら”という言楽が使われていますが、それよりも、つくづく見る感じを

より音楽的なリズムにした表現と見たいです。

 意味のない言葉に価値があるのです。つまりむだな言葉ですが、これが大切です。人の生活にもこのむだか必要です。

 

 あしびきの

  山椿咲く

   八つ峰越え

   鹿待つ君が

   斎ひ妻かも

 

あしびきは山の枕詞です。八つ峰(二上山ともいわれまたつらなる山ともいわれます)

 山椿の咲く峰を越え、鹿を待ちうける猟師の無事を祈る妻なのか。

 

大伴の宿禰池主に贈る長歌

 

 … 八つ峰には霞たなびき

   谷辺には椿の花咲き うら悲し

  春し過ぐれば ほとぎす

いや鳴きぬ…

 

峰には霞たなびき、椿の春も過ぎて行く、やがてホトトギスの鳴く初夏でず。今は春と初夏との背中あわせです。

     (新匠工芸会会員、織物作家)

 

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

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染と織の万葉慕情 ⑺

  つばき市

   1982/5/28 吉田たすく

 

倉吉打吹公園に椿の平(なる)という台地があります。いま博物館のある所で、ツバキの大木が群生している平らな台地ですからそういわれるのです。桜が満開の頃と前後して、濃い緑の葉と対比して真っ赤な花が咲いており、下の地面は落ちた花でうめつくします。児たちが小笹に通して、首飾りにしたりする春風の昼下がりの風景を見ます。

 

 

 

椿の平のように、地名にツバキの名のあるところがたまにあるものです。

 

 きょうはツバキの名のついた歌を取りあげてみます。この歌は「つばき市」という奈良の昔の地名をうたったものです。

 

 紫は

  灰さすものぞ

   つば 市の

 八十(やそ)のちまたに

    逢へる児や誰

 

 つば市の八十のちまた〜 といいますから、ツバキの木のたくさんある道の交籍したにぎやかな街の事で、その街であったあの美しい女の児はどこの児だろうか、という歌なのです。

 

 そのつばき市を飾る前の詞“紫は灰さすものぞ”にツバキに対する別の意味が含まれているのです。

 紫染色には灰さして染める、紫草で紫色を発色させ、定着させるためには灰の汁 (あく)を使うのです。この事を私たちは媒染(ばいせん)といっていますが、紫草を媒染して染色ずるにはツバキの灰が適しているのです。化学的にいえば、ツバキの灰にはアルミニウムが多く含まれているので、にごらない明るい美しい紫に発色するのです。

花をしぼった汁で摺り染をしていた原始染色の万葉時代に、すでにこのような大変進んだ染色で、化学変化による色があった事がわかります。

 紫はツバキの灰で染める。そのツバキの名前のつばき市で逢った「あの人に染まりたい(身も心も)、あの人はどこの人なのだろうか、ああ」 と歌うのでしょう。

 

 また横道にずれますが、平安時代の藤原兼家の妻の「かげろう日記」の中に。“初瀬詣”のくだりがありますが、主人の足が遠のき もののあわれを感じていたおり、願い事などあるので奈良の長谷寺にお参りします。お供をつれ牛車で出かけますが、途中で万葉に出てきたつばき市に一泊いたします。

 足くびを布切れで巻いている旅の人たちが、騒いでにぎやかに通っているつばき市の宿で認戸((しとみど)=つっかい棒で戸を軒に押しあげる原始的な戸)をあけて街をのぞくと、いろいろな格好をした人たちが往き来している。この人たちも私のように思い悩むこともあろうか、などといった日記文です。

 

 万葉にうたわれた頃から、この日記の書かれた平安中頃までつばき市は繁華街であったのかもしれません。

 

 私は植物染色をしている時、この古の歌のつばき市の乙女やかげろう日記の事などが頭をよぎります。古代染色のような深く清らかな発色を願いながら。

 今も色々な木の灰で媒染していますが、万葉染色と比べちっとも進歩していないのであります。

    (新匠工芸会会員、織物作家)

             (カットも筆者)

 

 …………………………

 

 海石榴市(つばいち)は奈良県桜井市金屋あたりにあった古代で最も大きな市場です。桜井市金屋は桜井駅から1.2kmほど北側にあり、現在は静かな住宅地ですが、万葉の時代には国内有数の交易の中心地でした。大阪から大和川をさかのぼってくる川船の終着点で、当時の幹線道路である山の辺の道・初瀬街道・磐余の道・竹ノ内街道が交錯する交通の要衝だったのです。市の立つ日はにぎわいを見せ、若い男女が集まって互いに歌を詠み交わす「歌垣」も行われたようです。海石榴市(つばいち)には、椿の木が多く植えられていたようです。

 「衢(ちまた)」とは分かれ道や交差点のことで、道がいくつにも分かれている所は「八衢(やちまた)」と呼ばれていたのですが、海石榴市は四方八方からの主要な街道が交差している場所なので、「八十(やそ)の衢(ちまた)」と表現されました。

 

 都で一番の繁華街の椿の木が多い交差点でナンパして振られ、その美しい女性に未練を残している歌ですから、今ならさしずめ渋谷のスクランブル交差点であまりにも美しい女性をナンパしようとして未練が残るという失恋の歌ですね。 この当時は和歌が上手でなければ他が良くてもモテませんから男も大変ですね。

 

 …………………………

 

『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 尚このシリーズのバックナンバーは私のブログ 「foo-d 風土」の中のカテゴリー『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

 代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

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 染と織の万葉慕情 ⑹

    麻織の裳の女

   1982/5/21 吉田たすく

先週までの赤装(あかも)のロングスカートは、“あかね染”か“すおう染”の絹の高級品で、貴族の女性の表現にうたわれたが、 今回はそまつな麻織の裳の女の歌をとりあげてみます。

 

 

 「鶏が鳴く東(あづま)の国のかつしかの

 真間の手児名(ままのててな)が麻衣に青衿着(あ

おくびつけ)てひたさ麻(を)を裳に織り着て…」というはじまりの長歌です。

 

 髪もすかず、靴もはかないが顔は満月のようで、笑うと花が美しく咲いたようにやさしく、美しい衣服を着た女性にも勝っていたので、村里の人はもとより隣国の人まで言いよって恋したため、手児名は思いつめて入江に入水してしまった物語の歌です。

 

 染織とは関係ないのですが、これによく似た物語があります。

 

 菟原処女(うなひおとめ)に千沼壮士 (ちぬおと)と菟原壮士 (うなひおとこ)が共に求婚して相争うので、「黄泉(よみ)」で待とうといって入水します。ちぬおとこは、その夜あとを追って行き、先きをこされたうなひおとこは叫びわめいて剣を取ってあとを追い、帰らぬ人となったという話がうたわれています。

 

 このような万葉の歌から引用した物語が江戸時代にあります。

 

 上田秋成の怪説小説「雨月物語」の中「浅茅が宿」(あさじがやど)」がそれです。下総国名飾郡真間の郷(しもふさのくにかつしかごうりままのさと)の勝四郎という男、美しい妻を葛飾において長い旅に出ました。い

ろいろあって京で七年もすぎ、ようやく帰って来ました。草深いあばら屋でふけこんだ妻にむかえられて、旅の話をし、また妻は留守番のつらい話などして一夜寝ました。朝おきてみると、家の屋根はなく妻もいません。

 近所の古老を訪ねますと、妻にたくさんの男が言いよったが、貞節をつくして五年前に死んだとのこと、昔々、この地、葛飾に真間の手児名という貧しくも美しい乙女がいたそうだが、ちょうどその人と同じようであったと話した。

 また、私たちになじみのあるもので夏目激石の小説「草枕」の中の一場面で、主人公の画学生が那古井温泉へ峠を越えて行くのですが、茶店の婆さんの話にこんなのがあります。「昔この村に長良の乙女という美しい長

者の娘がござりました」「ところがその娘に二人の男が一度に懸想(けそう)して」「ささだ男になびこうか、ささべ男になびこうかと、あけくれ思いわずらっ.て、とうとう淵川へ身を投げて果てました」「道端に五輪塔がござんす、ついでに長良の乙女の墓を見てお行きなされ」

 

 万葉の裳の歌が、こんな話まで横道にそれてあいすみませ

(でもあまりにもよく似ているものですから)

 

 染織の道から万葉に興味を持ち、万葉から他の文学へとあそばしていただける事は有難いことです。裳の歌は三十数首あります。

 

 当時の女性を表現する衣服として一番歌になり、絵になった材料であったのでしょう。また出るかもしれませんが、裳の歌はこれで終わります。

 (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 …………………………

 

『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 尚このシリーズのバックナンバーは私のブログ 「foo-d 風土」のカテゴリー『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

 …………………………

 

吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい『紬と絣の技法入門』として刊行する。東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

 

染めと織の万葉慕情

 (5) 裳が濡れる

   1982/5/14 吉田たすく

 

 先週は春の喜びを赤い裳(も)をはいた女性の姿で表した歌を扱いました。もう一度、裳の歌をあげてみます。

 

 

 裳を扱った歌のしぐさには、必ずと言っていいほど裳の裾を引くのです。そしてその裾が水に濡れたり、泥にしみたりするのです。

 ロングスカートだからといって、濡れたり泥をつけたりしなくてもよいように思いますけれども。

 

 

霞たつ

  天の河原に

    君待つと  

  い行き帰るに

    裳の裾濡れぬ

 

 七夕が君を待っていて、落ち着かなく行ききして、裳裾が濡れてしまう歌です。

 

 君がため

  山田の沢に

   えぐ摘むと

 

 雪消しの水に

   裳の裾ぬれぬ

 

 山田の沢でクログワイをとっていると、雪解け水に裳の裾が濡れてしまった。

 

 朝戸出て

  君が足結(あゆい)を

   濡らす 露原

     早く起き

  出(い)でつつ我れも

   裳裾濡らさな 

 

女(わたし)の家を出て行く君が、足結(ズボンの裾を結ぶ事で因幡白兎と会う大黒さんのはいているズボンを想像してください)を原の露で濡らしながら勤めへ出かける。私も早く出て別れを惜しんで途中まで見送って一緒に裳の裾を濡らしましょう。彼氏を思う心です。

 

 我妹子(わぎもこ)が

  赤裳の裾の

   ひづつらむ

 今日の小雨に

   我さへ濡れな

 

吾が妻が赤裳のすそをひづつらむ(泥に濡らして行く可愛そうに)私も、今日降る小雨に濡れよう。

 これは彼女に思いをはせている歌です。さきの歌と対照的でおもしろいです。

 

 はしきやし

  逢わぬ児故に

   いたづらに

  宇治川の瀬に

   裳の裾濡らしつつ

 

 はしきやし

  逢わぬ君故

   いたづらに

  この川瀬に

   玉藻濡らしつ

 

右の二首は同じ情景をうたっています。(はしきやし)とは愛惜する気持ちを表す感動の詞です。

 あー、可愛い人なのに会えないばっかりに、いたずらに川瀬を行ききして、美しい裳が濡れてしまった。

 

 秋風に

  にほへるわが裳

   濡れぬとも

  君が御船の

   綱し取りてば

 

 春に秋の歌でもありませんが、萩色に染めた または染まったワインレッドのスカートが入江の潮に濡れてしまっても、あなたのおいでのお舟の綱をとっておむかえしましょう。

 

 このように美しい裳が濡れる情景をうたっているのは、濡れるという布に水や泥が染みていく過程を表しているのかもしれない。また、裳の他の歌で“衣手濡れる” “袖通り濡れ” “袖さえ濡れて”など衣類が濡れる歌がかなりあります。これらは皆濡れるまた濡れていく過程を通して、思う人に対するこまやかな感情を表現しています。ですから裳の場合も、女性のうるわしさを美しい裳で表現しながら、それを濡れる、泥がつくという麗しさをけがしていくことにより、より一層その美しさを表わそうとしているのです。

 以前にも書きましたが、万葉の歌は絵画的な表現だと言いましたが、その上に時間の流れを感じさせてより感情を細かく表現していく四次元の世界へと導きます。

  (新匠工芸会会員、織物作家)

 

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい『紬と絣の技法入門』として刊行する。東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

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春を告げるもの

   1982/5/7 吉田たすく

 

 春を告げる食物は「歯ワサビ」でした。塩もみして二杯酢か、三杯酢につけて食べると、鼻から目につんとぬける辛味と香りは春の来るさきがけの味です。

 ところが、葉わさびをビニールハウスで栽培するニュースを聞きました。とうとう葉わさびまで、季節を失う食物になってしまいます。

 葉わさびのほか、早春のご馳走に生の岩のりがあります。毎年いただく方から先日もいただきました。

 それは黒に近い深緑色の小さなのりです。早春の岩場から採集されてすぐ食卓にのるのですから、日本海の磯の香をそのまま味わうことができるのです。生醤油(きじょうゆ)をかけるだけで、酒の肴(さかな)には最高です。

 酒のすすまない方なら、熱々ご飯にかけていただければほのぼのと春を味わえます。海から春がやってくる想いです。

 情景は少々ちがいますが、岩のりを口にすると次の歌が浮かんできます。

 

ますらをは

 み狩に立たし

  未通女(おとめ)らは

 

 赤裳(あかも)の裾(すそ)引く

  清き浜辺を

 

 山部赤人がうたった歌です。

大変口調の良いリズミカルなうたい方ですし、また素晴らしく絵画的な表現です。「未通女」はおとめの意です。当時は夜、男が女の家へ通う習わしでしたから、男性がいまだ通ってこない女性を表します。乙女なのです。「赤裳の裾引く」は赤いスカートの事で、先年発見された高松塚古墳の天平美人の壁画に表れた大陸風俗のロングスカートです。これを引きずり、海草取りをしています。

おだやかな春の入江を思わせます。

 

 大伴家持の長歌の一節ですが …… 春の野の繁み飛びくく 鶯の 聲だに… 少女らが晴菜摘ますと 紅の赤裳の裾の 春雨に にほひ埿(ひつ)ちて 通ふらむ 時の盛りを…(注)

 この歌は、少女らが赤裳の裾を春雨に濡らし、春菜を摘んで行く姿をよんでいます。この春菜は葉わさびではないでしょう。セリ、ナズナなどの春の七草を摘んでいるのでしょう。春の七草はみな食用なのです。(秋の七草は花をながめる草ですが)

 ところで、赤裳のロングスカートをはく女性は高貴な身分の女(ひと)たちですから、海草や春菜を摘まなくてもよいでしょうし、また、たとえ摘むとしても赤裳の正装でなくても良いはずです。暖房のなかった古代の冬は厳しかったでしょう。春を迎える喜びは、今の私たちとは大変な違いがあると思います。

 暖かい春をおだやかな海や、若芽もえたつ野面(のづら)をステージに、美しく着飾った乙女を点在させることによって、絵画的場面を言葉に置き換えて表現したものといえます。

赤裳という衣料を使って、ういういしい乙女の姿と、目にしみる赤色の美しさで春を表しています。

       (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

 …………………………

 

裳(も)

 

古墳時代以来、上流階級や僧侶(そうりょ)に用いられた腰部につける衣服。裙とも書かれる。古墳時代の女子人物埴輪(はにわ)に表された上下二部式衣服の腰衣が裳にあたると思われる。飛鳥(あすか)時代初期における女子の裳と男女の褶(ひらみ)については、中宮寺の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)にそのあらましが認められる。後期の裳は高松塚古墳壁画女子像が示唆してくれる。これは3、4色の立縞(たてじま)文で裾(すそ)に飾襞(かざりひだ)がつけられている。養老(ようろう)の「衣服令(りょう)」では、文官の礼服(らいふく)における白袴(しろきはかま)の上に褶を着けるとし、女子の礼服には褶を着け、その下に纈裙(ゆはたのも)(裳)をはくと定めている。この裙の色は蘇芳(すおう)、深浅紫、緑である。女子の朝服には褶を省き、六位以下の者は緑・縹(はなだ)の纈紕裙(ゆはたのそえのも)としている。紕裙は、色絹を縦に細くはぎ合わせた裳である。官人の制服には緑か縹か紺の纈、または紅裙(くれないのも)を用いるとある。当時の形式は、薬師寺伝来「吉祥天(きちじょうてん)画像」、正倉院宝物「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」そのほか、および実物遺品にうかがえる。『延喜式(えんぎしき)』縫殿(ぬいどの)寮の巻、中宮の年中御服の項に、上裙・下裙の別、平絹や羅(ら)などの材質、色彩と必要量をあげていて、奈良時代から平安時代初期の裳を知る手掛りとなっている。

 平安時代中期以後、衣服の和様化、長大化によって女子は裳をはかなくなり、正装である女房装束(十二単(ひとえ))において裳の腰とよばれる紐(ひも)を後ろから前に回して結んで着けるか、裾を後方に長く引く形式的で装飾的な構成具の一つとなった。

 

大伴家持

万葉集3969番長歌より 抜粋

 

春の野の 茂み飛びくく 鴬の 声だに聞かず 娘子らが 春菜摘ますと 紅の 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛りを いたづらに 過ぐし遣りつれ 偲はせる 君が心を うるはしみ この夜すがらに 寐も寝ずに 今日もしめらに 恋ひつつぞ居る

(口語訳)

 春の野には木の茂みをくぐり抜けて鳴くウグイスがいるだろうにその声も聞かずにいる。また娘子(おとめ)たちが春の菜をつもうと、くれないの赤裳の裾を春雨に美しく濡らして通うだろう。そんな春の盛りなのに、いたずらに時を過ごしています。ただ貴君のことが思い出され、うるわしくありがたく、夜もすがら眠ることが出来ず、今日もしんみりと貴君を恋い続けています)

 

 …………………………

 父吉田たすくは料理も名人級で偶に作る料理は簡単にぱぱっと作るのに飛び抜けて美味しかった。こういうものを見てきた私は手先が器用で工作でも料理でもなんでもやらされなんでもやりたがりでしたから小学生低学年の頃から料理はよくやっていました。

そんなわけで、葉わさびが手に入ると何故かいつも子供の私がやらされました。

揉めば揉む程 辛味が出て美味しくなるのですが、しかし、葉わさびを塩揉みすると揉めばもむほど辛味が出て目に来る鼻にくる 涙とくしゃみで大変な作業でした。 瓶詰めにして数日置いた物は 蓋を開けると強い辛味がフワーっと広がり涙とくしゃみが出て ほんのひとつまみでもとても辛く本当に美味しかったです。

 

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 尚このシリーズのバックナンバーは私のブログ 「foo-d 風土」のカテゴリー『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい『紬と絣の技法入門』として刊行する。東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

 

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  もう40年も昔のことですが、新聞に掲載された父のこの切り抜きの紙コピーを兄から送ってもらい、本棚に仕舞っていたものです。

 数年前にふと思い出して、パソコンに文字変換して残そうと思い立ちましたが、中々出来ず、ようやく取り掛かりました。

 新聞のコピーで薄かったり、やや読み辛い所もあり、また、専門用語や方言などもあり、一般の方にはあまりなじみのない言葉もすこしありますので、補足説明や想いを加えながら少しづつこの100話を読み進めていきたいと思います。

           (2021/09/24 周之介)

 

 #染織 #手織物 #手染め #機織 #万葉集 #吉田たすく #染と織の万葉慕情

染めと織の万葉慕情(3) 桃の園
 

  1982/4/30 吉田たすく

 

今月27日は旧の桃の節句です。倉吉の打吹(うつぶき)山嶺に神坂(かんざか)という所があります。

そこは、天女と二人の打吹童子(うつぶきどうじ)(注1)が住んでいた伝説の地でした。

 

その坂を登りつめると視界いっぱいに桃畑が開け、子供の頃よく見に行った記憶があります。打吹公園の桜は見事ですが、それ以上に神坂の桃畑は華やかな春でした。今回は桃の歌を取り上げます。

 

桃花染(つきそ)めの

  浅らの衣

    浅らかに

 思ひて妹(いも)に

   逢わむものかも

 

 

 

桃の花で染めた薄いピンクの衣のように、浅く薄い思いで、あなたに合うでしょうか、いやいや深く愛していますよ。

 

万葉集には、花や木の液を衣に摺(す)りつけて染めた摺染衣の歌が、たくさん残っています。

この歌もそのように、桃の花で摺染めしたのでしょう。花の液で染めた衣は、まもなく退色してしまう原始的な染色でした。退色をしても、なお衣に摺染めをして身を飾ろうと言う気持ちは、男と女がいたからなのでしょうか。異性にアピールしたい気持ちの表現として衣服を飾ると言う技は、古代も今もこれからも変わらないのですね。

 

 

春の苑(その)

 紅(くれない)にほう

   桃花(もものはな)

 

 下照る道に

   出で立つ少女

 

 この歌は大伴家持が越中の国の春を詠んだ歌です。桃の花の下に、春の陽をあびてあらわれた乙女の姿は、あい染の衣に赤裳(あかも)=スカート=をはいたあでやかな美少女でしょうか。

 

 正倉院に残る樹下美人図があります。下膨れの顔を美しく化粧した乙女が、樹の下に立っている図です。唐の国で流行した構図で、西域やインドに淵源(えんげん)を持つ図と言われて、シルクロードを通って日本へ伝えられた美人図です。

 家持はこの構図をそのまま、桃の樹の下に出て立つ一人の乙女をすえたのです。都から伴った人でなく、土地の乙女でもなく、春の風情を桃源郷の美女を幻想して詠んだのだろうと思います。

 また、巻十の譬喩(ひゆ)歌に次の歌があります。

 

わが屋前(やど)の

 毛桃の下に

  月夜(つくよ)さし

 

 下心良し

  うたてこのごろ

 

「毛桃(けもも)」とは、薄い毛のはえた女性の形に似ていることを表して、娘の初潮の始まりを表したものと訳されています。

「下心良し」は、心のそこでいい気持ちだ、「うたてこのごろ」とは、このごろしきりにと言うのだそうです。

このように官能の表現を「毛桃の下に月がさし」などと美しく詠み上げているのです。

 こうしてみますと、万葉の桃は風景の場面も春、心も肉体も春らんまん、家持の歌にしてもこの歌にしても、後の世の私たちの心を桃源の世界へと導いてくれます。

 (新匠工芸会会員、織物作家 当時60歳)

 

 …………………………

 

くらしよし町 鳥取県倉吉の街に入って行くとこんもりと茂った、形の良い山が見えてきます。この美しい山は倉吉の象徴「打吹山」です。頂上の打吹城の城址の麓にひらけた古い城下町が倉吉です。

 旧国名 伯耆国(ほうきのくに) 久米郡(くめごおり)倉吉は、かつて伯耆国の国府と国分寺が置かれ、古代の伯耆国の政治、宗教の拠点でした。

 

打吹童子とは鳥取県倉吉市に伝わる天女j伝説の童子です。

 

 

天女の羽衣伝説

昔むかし、舎人(とねり)という狩人が

水浴びをしている天女の羽衣を見つけ、

その美しい天女を妻にしようと羽衣を隠してしまいました。

 

天女は、浅津(あそづ)という名前を付けられ

泣く泣く舎人の妻となり、やがて月日が流れ

二人の可愛い娘『お倉とお吉』ができました。

天女はどうしても天の事が忘れられません。

とうとう娘達から羽衣の隠し場所を聞き出し、天女は空高く天へと帰ってしまいました。

残されたお倉とお吉は、くる日もくる日も母を呼び戻そうと近くの山へ登り

笛や太鼓を鳴らしましたが、ついに母を呼び戻す事はできませんでした。

 

この事から、その地名を二人の名前の

『倉吉(くらよし)』

「太鼓を打つ・笛を吹く」から、近くの山を

『打吹山(うつぶきやま)』

と呼ぶようになりました。

 

また、天女が羽衣を置いた場所も羽衣石(うえし)という地名で残っています。

打吹公園は全国桜百選にも入っている桜の名所で、毎年桜祭りも実施され、私も子供の頃倉吉市の剣道大会の日には毎年ばあちゃんや母と一緒に桜を見ながらお弁当を食べました。

 

毛桃

①桃の一品種。日本在来のもので、果実は小さくてピンポン玉くらいの大きさ。 堅く、毛深い。実は小さく酸味があり、熟してもやや堅いが、いい感じに熟したものは甘くておいしい。

 沖縄では毛深い人の事を方言で「キーマー」とか「ケーマー」とか言いますが、毛がいっぱいはえている桃だから、キーモモ又はキームム(毛深い桃)と呼ばれる。

② 女陰をいう俗語 桃は女性を表したり、女性の臀部などを表現するときに使われたりするが、毛桃は毛深いところから女陰、小さいところから大人になる頃の少女について使われる俗語。

 

額入りの板画「打吹童子」は鳥取県倉吉市で、 河井寛次郎に師事し棟方志功との交友で志功に薦められて版画家になり、日本版画院展審査委員長 日本版画院名誉会員の、故長谷川富三郎。 

長谷川先生は私の両親の媒酌人でもあり、私も子供の頃から時々お邪魔していた方です。

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染と織の万葉慕情2

 

  春の相聞歌 1982/4/23

      吉田たすく

 

ふとしたことで万葉集の本を手にすることになりました。

 パラパラと20ページもめくったところでした。

 

 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 

    の歌を見つけたのです。

 

以前に聞いたことのある歌なのですが、それには「あかね」「紫」「袖」などの言葉が読まれているのです。それから頁をめくるごとに「麻」「白たえ」「衣」などと次々に現れてきました。その嬉しさにだんだんと万葉につかれていくようでした。

 「あかね」は根が赤く、その根が赤の染料なのです。私は倉吉の陸上競技場の上の谷を上ったところで採集したことがあります。「あかね」は太陽や赤色紫色に係る枕詞です。この歌では紫野のむらさきにかかります。

 「あかね」も「むらさき」も古代の高貴な染料です。その紫草を植えた畑に縄をはり一般の者の立ち入りさせない園が標野(しめの)なのです。

 

 「紫の御料地をゆききして、野守が見はしませんか、そんなに袖をお振りになって」

 

天智天皇の后である額田王(ぬかだのおおきみ)が天皇の弟にあたる皇太子(後の天武天皇)に向かって詠んだ歌です。

以前は皇太子の恋人であった人ですからなつかしく思われたのでしょう。

 

皇太子がこれに答えられた歌

 紫草(むらさき)のにおえる妹(いも)を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋めやも

 

 紫の色のようにうるわしのあなたはもう人妻、どうして恋をいたしましょう。いや恋焦がれていますよ。

春の野にさく華麗な情景です。

 

 私は今、倉吉市から由良の大栄中学へ通っています。毎日「不入岡(ふにゅうか)」という岡を通ります。南向きの明るいなだらかな丘が連なり、その向こうに昔の伯耆の国の国庁の岡、国分寺、国分尼寺の岡が続き、そのまた向こうに大山の鈴嶺がきらきら輝いています。

 その岡、不入岡、入れない岡、ひょっとするとこの岡は伯耆国庁の標野であったのではないだろうかと考えたりもします。

 この岡のあちこちに梅が今満開でその下に菜の花の黄が目にしみます。かつてこの岡のあたりが国庁の役人や赤裳(あかも)、赤いスカートの裾(すそ)をひく乙女らが行ききした姿がうかんできます。

 額田王が現れなくとも春の相聞歌(恋の歌)のやり取りの声のさんざめきが聞こえてくるようです。

 

 万葉は遠い古(いにしへ)の歌でなく、今そこに私と共にあるのです。

 

 (新匠工芸会会員、織物作家)

 

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標野(しめの)

しめをはって一般の者の立ち入りを禁じた野。令制以前において王朝、貴族などの料地で、一般の立入りを禁じた園

 

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい『紬と絣の技法入門』として刊行する。東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいます。

 

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  もう40年も昔のことですが、新聞に掲載された父のこの切り抜きの紙コピーを兄から送ってもらっていて、本棚に仕舞っていたものです。

 数年前にふと思い出して、パソコンに文字変換して残そうと思い立ちましたが、中々出来ず、ようやく取り掛かりました。

 新聞のコピーで薄かったりしてやや読み辛い所もあり、また、専門用語や方言などもあり、一般の方にはあまりなじみのない言葉もすこしありますので、修正と補足説明を加えながら空いた時間を見つけて少しづつこの100話を読み進めていきたいと思います。

           (2021/09/24 周之介)