山下清の命日 7月12日 | foo-d 風土

foo-d 風土

自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

7月12日は「裸の大将」山下清の命日でした。

 今も天空の鉄道線路を裸で歩きながら絵を描いていることでしょう。

 

 

 

山下清(1922年3月10日ー1971年7月12日)

 生きていれば103歳でした。

 私の子供の頃、実家の玄関の正面に、子供が作ったような、でも、大人が作ったような、でもすっごく細かく丁寧に作った不思議な花火の貼り絵が掛けてありました。

 それは「日本のゴッホ」とも言われた山下清の花火の絵です。

 玄関正面で毎日見える 何故ここに飾られていたのかわからなかったのですが、山下清をとても身近に感じました。

我が家に山下清の絵があるのも、民芸運動草創期のメンバーであった吉田翔也さんの影の力でした。

 民芸運動草創期からの主要メンバーは、柳宗悦・富本憲吉・バーナード リーチ・河井寛次郎・濱田庄司・芹沢銈介・式場隆三郎・吉田璋也の8名ですが、

 吉田璋也は、柳たちの作った「民藝」を未来へと続く運動 民芸運動とした人物です。吉田璋也がいなければ民藝は過去の一時代を風靡した社会現象で終わり、現代まで多くの国民の身近に存在し続けることはなかったことでしょう。

 多くの工人が、民が用いる道具として連綿と続く歴史の中で作ってきた陶器や織物・家具などを、日本初のプロデューサとなり、今に生きるデザインや素材開発などを自ら考案し職人に指導して時代と共に生きる新作民芸品となる道をひらいた吉田璋也は、河井寛次郎から「民芸の母」とも呼ばれています。

 また職人の作った新作民芸品を販売する場として、民芸店の元祖となる「たくみ工芸店」を鳥取と東京西銀座に開き、民芸品と食の融合を図った「たくみ割烹店」を作りますが、これらは日本中に広まった民芸店、民藝割烹の原点となっっています。日本の民芸館として3番目に「鳥取民芸美術館」もひらいて、トータルで民藝を楽しむ場所づくりも行い全国に民藝を広めました。

 吉田璋也の医学校時代からの親友、式場隆三郎は、民芸の機関誌編集や数多くの文筆・出版を行います。精神科医として多くの患者を診る中で、山下清の才能を発見し、指導して育てます。

 式場隆三郎と吉田璋也は新潟医専(今の新潟大学医学部)の同級生であり、その頃から二人とも早くから雑誌「ホトトギス」などを愛読し、文芸の世界に憧れ「白樺派」の作家たちや柳宗悦、バーナード・リーチと知り合い民芸運動を共にした推進者でした。

 「裸の大将」「日本のゴッホ」と言われ、時の人となった山下清は、清の才能を見出し指導し育てた式場隆三郎に連れられ 34歳の昭和31年(1956年)8月21日に、吉田璋也の招きで鳥取へきて、鳥取大丸で山下清作品展を開きますが、その後で牛ノ戸焼を訪問します。

吉田璋也は新民藝運動の最初の記念碑的作品の牛ノ戸焼も式場隆三郎に見せたかったのでしょう。

 そのあと、昭和31年8月22日鳥取県倉吉市にある皆成学園(かいせいがくえん・知的障害児施設)への訪問を依頼され快諾し、 児童の作品展の見学をしますが、この訪問は大勢の人たちや生徒に大歓迎されたそうです。

 皆成学園は児童教育の一環で陶芸に力を入れていて、一度におよそ700もの作品を焼くことのできる大きな登り窯を作りますが、これを皆成学園の教員とともに、陶芸指導などを手助けしたのが、中学の美術教諭をしていた染織家の吉田たすく(私の父)や、たすくの親友で、倉吉の隣町出身の河井寛次郎の弟子の陶芸家 生田和孝です。また、皆成学園の学校医は民芸運動推進者であり吉田璋也と懇意であった彫刻家の伊藤宝城(本名伊藤博 吉田たすくの兄で私の伯父)でした。

吉田璋也は、皆成学園の子の焼く陶器作品の 一心焼に障がいのある子どもたちが生み出す自然な美しさを見いだし、作品の普及や頒布を支援しました

 『民芸・医者・皆成学院』

この繋がりで考えると山下清の皆成学園行きの提案を吉田璋也にしたのは、伊藤宝城であり、そして兄の伊藤宝城へこの相談を一緒にしたのは弟の吉田たすくではなかったかと思われます。倉吉の版画家で民藝運動家の長谷川富三郎先生(後に日本版画院名誉会員)も参加されてていたことでしょう。

 皆成学園を訪問した後、山下清は倉吉で芸術家のサロンのようになっていた伊藤宝城宅を訪問しますが、そこで作品を作っている写真があります。この写真の場所が、伊藤病院の外科入院患者の付き添いの方が泊まる部屋でした。

(山下清と一緒に写っているのが伊藤宝城です。)

 この部屋は広い庭に面して広縁がある3部屋続きの明るい部屋で、私が子供の頃、誰もいない日の雨の日に時々遊んだ部屋でもあります。

私の実家の玄関に花火が飾られたのはその頃ですね。

奇しくも山下清の命日にからんで、

岐阜県現代陶芸美術館で

 吉田璋也のデザイン 新作民藝運動がめざした未来

2026年7月11日(土)~9月27日(日)

始まりました。

これは民藝が民芸運動としてどの様に広がっていったかを知ることのできる素晴らしい展覧会です。

 展覧会には、吉田璋也と式場隆三郎と山下清が鳥取砂丘や牛ノ戸焼へ行ったという写真や作品がありますが、その翌日の行動がここで私の書いた部分となります。 また、一心焼は多くが散逸していて、残されていた3点が会場に陳列されています。私も一心焼の皿を一枚持っていますが、なかなか味のある良い作品です。

 これらも頭の片隅にもって「吉田璋也のデザイン 新作民藝運動がめざした未来」展もご覧いただけたら幸いです。

…………………………………………

⚫︎式場隆三郎(しきばりゅうざぶろう1898年7月2日 - 1965年11月21日)は新潟県出身の精神科医。

新潟医専(今の新潟大学医学部)で鳥取県吉田璋也と同級生であり、二人とも早くから雑誌「ホトトギス」などを愛読し、文芸の世界に憧れ「白樺派」の作家たちや柳宗悦、民藝運動にかかわる人たち、バーナード・リーチなどと親交を持った民芸運動推進者です。精神科医としてはゴッホに関心を寄せその方面での著作も多く、山下清の才能に注目し、その生活、活動を物心両面から支え、彼を世間に広く紹介したことは障害児教育に多大な影響を及ぼしました。

「日本のゴッホ」とも言われた山下清は、式場隆三郎のおかげだと思われます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/式場隆三郎

⚫︎吉田 璋也(よしだ しょうや、1898年1月17日 - 1972年9月13日)は、民藝運動家。医師。鳥取県鳥取市出身。

柳宗悦の民藝運動に共感して活動。柳宗悦の見出した民藝の美を、実生活の中に取り入れる新たな民藝品を生み出す「新作民藝運動」をはじめます。民藝の美を現代の日常の衣食住の生活に取り入れるためのデザインや企画提案を生産者におこない、「民藝のプロデューサー」を自認し、それを売る場として「たくみ工芸店」(鳥取・東京)を開き、その作品を生かした料理店(たくみ割烹店)までつくり、民藝の普及に大きな業績を残しました。

河井寛次郎に民藝を育て生んでいく「民藝の母」と呼ばれました。

 医師、デザイナー、教育者、著述家、プロモーターなどいくつもの顔を持ち、陶芸、木工、染織、和紙など幅広いジャンルの職人を指導することで、新作民芸運動を展開。日本初のインダストリアルデザイナーと言える方です。

http://shoyayoshida.jp/history/

⚫︎伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6月28日- 1961年12月27日)は、日本の医師、詩人、版画家、彫刻家。 俳号は鉄庵。別名:ジョージ・ウーラン。戦後日本の抽象彫刻の先駆者の一人である。二科会展やその他で受賞する傍、1951年には沖縄戦跡公園のひめゆりの塔の彫刻を寄贈しています。

伊藤家は地方の文化人の集まるサロンの様になっており、地元はもとより日本各地から有名芸術家多く訪れていました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤宝城

⚫︎吉田たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は染織家・絣紬研究家。

廃れていた「組織織」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい『紬と絣の技法入門』として刊行する。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士。

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

⚫︎山下 清(やました きよし、1922年(大正11年)3月10日 - 1971年(昭和46年)7月12日)は、日本の画家。代表作に、「花火」、「桜島」、「東海道五十三次」など「日本のゴッホ」とも言われますが、彼を指導した式場隆三郎がゴッホの研究者であり、このおかげだと思われます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/山下清

鳥取県立皆成学園は、児童福祉法に基づく福祉型障害児入所施設です。住所 〒682-0854 鳥取県倉吉市みどり町3564-1

 登窯のある周辺の山は実家の吉田家が、皆成学園に寄付したもので、

「一心焼」は終戦直後、倉吉市皆成学園(知的障害児施設)で始まった焼き物で、一度におよそ700もの作品を焼くことのできる大きな登り窯で作られてきた。入所する児童・生徒たちが地元で取れた土をこねて、思い思いに作陶し、その一方で地元住民たちが窯に使う大量の薪を提供してくれたり、窯の火入れや火力の管理などの重労働を手伝うようになって、共に焼き物も作り、交流が生まれました。