きさらぎ 十五日 | foo-d 風土

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立春になったとはいえ雪が積もり本当に寒い真冬の二月

 

 神代の時代から日本家屋は夏を想定した建物で、

平安の都の神殿造り屋敷は大きな御簾で仕切られてはいました壁というものがなく、風がよく通り、冬は それはそれは寒かったことでしょう。

 綿が流通するのは江戸時代からですから、厳しい寒さを凌ぐには麻等の薄い衣を 着て更に重ねて着るしかありません。

 ここから「衣(き)更(さら)着」というので二月は、「きさらぎ」とつけられたそうです。

そして、

春に向けて草木が生えはじめるから「生更木(きさらぎ)」ともいわれます。

 如月の漢字は、中国最古の辞書『爾雅(じが)』に「二月を如となす」とあり、厳しい冬が終わり春に向かって万物が動き出す時季という意味が込められているそうです。

 

 さて、

如月を詠み込んだ和歌といえばご存知の方も多いでしょうが、紹介しましょう。

作者は、平安時代から鎌倉時代にかけて歌聖として日本各地を歩き活躍した、 僧侶で歌人でもあった西行法師です。

 願はくは

  花の下にて

    春死なむ

   その如月の

     望月の頃 

 (ねがわくは はなのしたにて はるしなん そのきさらぎの もちづきのころ)

「願いが叶うならば、花が咲く春に、その木の下で死にたいものだ。、如月の満月の頃に・・・という歌です。」

如月の満月の頃とは、 お釈迦様が亡くなられた2月15日を意味しているそうで、「自分もそのようにありたい」という、 西行法師の想いが伝わってきます。

 多くの学者の文献を読みましたが、どの有名な文筆家の方も、学者の方も、この春の花は申し合わせたように桜の花と訳されています。

花といえば「桜」と誰しも思い込んでいるのです。

 しかし、私は首を傾げます。

平安から鎌倉時代、桜といえば山桜のことで、和歌にも多く読まれています。

単純なことですが、如月2月15日は、2024年は3月24日です。

如月の2月15日にヤマザクラは咲きません。

ソメイヨシノが終わった頃からヤマザクラは咲き始めます。 

 現代では異常気象で3月24日はソメイヨシノなどの桜も咲いているところも多く、3月の卒業式にはもう満開になっていたりします。50年前は4月の入学式の頃に満開でした。

ソメイヨシノは江戸時代末期に生まれた新種ですし、平安時代に好まれた桜は山桜です。和歌で桜と歌われているのは、全て山桜です。

 山桜はソメイヨシノが散る頃から咲きますので、早くても4月になってから。西行が生きていた平安時代末期では、もっと遅かったであろうと思います。

 梅の開花時期

梅は1月下旬〜4月下旬にかけてが開花時期ですので、西行が詠んだ「花」はどう考えても梅としか考えられません。

桜も梅も共に日本の春を象徴する花で、どちらも素敵でどちらも好きですが、

 華やかな桜の花 淡くきれいで綿雪の様に咲き誇り、散り際の見事さは筆舌に尽くし難いですが、香りがありません。

 お淑やかな梅の花 早春に雪の中でも一番早く春を知らせ、微かな酸味のある芳しい香りをただよわせ香りでも春を感じさせてくれますね。

どちらも素晴らしい花ですが西行が歌った花は梅ですね。

 西行法師は歌で願った通り、桜の花が咲く如月の釈迦入滅の翌日、如月の16日に、この世を旅立ちました。

と各種文献におしなべて「桜と」載っていますが、私は梅の花の芳しい香りを愛でながら波乱の生涯を閉じたと思います。

自然を愛し、歌を愛した、 香り高い生涯だったのではないでしょうか。

 願はくは

  花の下にて

    春死なむ

   その如月の

     望月の頃 

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  西行(さいぎょう)

 元永元年〈1118年〉 - 文治6年2月16日〈1190年3月23日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。

 西行法師と呼ばれ、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。西行は号。

和歌は約2,300首も伝わる。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と注目される事もある。

 伊勢国に数年住まった後、河内国石川郡弘川(現在の大阪府南河内郡にある弘川寺に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂します。享年73歳

 かつて「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。

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 恵那市長島町永田に西行が庵(いおり)を結んだとされる史跡梅露庵公園があります。

私が愛犬の散歩でよく行くところですが、地元住民の方々が整備に尽力し、水戸偕楽園の梅、京都祇園円山公園の枝垂れ桜の"子孫"などがあり、約200本が開花します。

 「桜切る馬鹿 梅きらぬ馬鹿」という位梅の木は剪定がとても重要ですが、市はあまり管理していない様で、どうも近所の方達任せですね。草刈りなどはよくできていますが、中々手入れの行き届いた梅の木はなく、風情のある梅の木はありません。 手入れは大変でしょうが梅園を市民の心癒す場所として、また、インバウンドや国内観光客誘致の為にももっと魅力ある公園づくりに市は積極的取り組んでいただけたらとおもいます。