染めと織の万葉慕情68
巻きて寝し 妹が手本を
1983/07/29 吉田たすく
今日は“妹が手本(たもと)に”詠われている歌を取りあげてみます。
死にし妻を悲しび傷む歌一首
「作主詳(さくしゅつまびらか)ならず」と前おきしてはじまります。
天地の
神は無かれや
愛 (うつく)しき
わが妻離(さか)る
光る神
鳴波多少女(なるはたをとめ)
たづさへて
共にあらむと
思ひしに
情違(こころたが)ひぬ
言はむすべ
せぶすべ知らに
木綿襷(ゆうだすき)
肩に取り掛け
倭文幣(しづぬさ)を
手に取り持ちて
なさけそと
われは祈れど
巻きて寝し
妹が“手本”は
雲にたなびく
天地に神様は無いはずはないのに可愛いいわが妻は遠く死の国へ行ってしまった。 「光る神」は枕詞で鳴波多にかかり、波多少女の“はた"は地名であろうとも言う本もあり、ある本では解釈に疑問があるともいわれている。そこで私は“はた織りの乙女"と思っています。(まちがいかもしれま
せんが)
そのはた乙女(妻)と手に手をとって共に暮らそうと思っていたのに、予期に全く反してしまった。何とも、言うすべもするすべも分らず。 木綿襷(ゆうだすき)。
木綿と書いてありますが、万葉時代には今でいう木綿(コットン)は日
本に有りませんでした。麻とか楮(こうぞ)の事で、これらの繊維でつくった“たすき"を肩に掛けて、倭文幣(しづぬさ)
倭文は(大陸から織物技術が移入する以前の日本古来の織物の事で) 古来織の神前にまつる“ぬさ”を手に持って、妻を離さないでと祈るのだけれど。
巻いて共寝をした妻の"手本”の布は雲にたなびいてしまってもう帰っては来ない。
この歌に反歌一首がついています。
現(うつつ)にと
思ひてしかも
夢のみに
”手本”巻き寝と
みるはすべ無し
現実に妻と寝たいが今はなく、夢にだけ妻の手本を巻いて寝るのを見るのは、全く何ともたえがたい事ですね。
妻とのうま寝を思い出し夢にみる妻の手本に泣くのです。
「右の歌の二首。伝誦するは遊行女婦蒲生(あそびめかまふ)これなり」とあります。 はじめに書いたように作者は不明ですが、この歌二首を口伝えしていたのは、“あそびめ”の蒲生(かまふ)という女であったと書かれています。
なき妻を思ふ歌をどうして、あそびめが伝えていたのでしょうか。 そのゆかりはわかりませんが当時のあそびめの情と教養がしのばれます。
(新匠工芸会会員、職物作家)
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倭文(しおり、しとり、しず)
「倭」名が使われている様に、天孫降臨以前からあった日本最古、日本人が造った最古の織物です。倭文織(しとり、しずおり)
まだ、絹や綿、麻などのもたらされない時代で、コウゾやカジノキ、シナ、藤など野山の植物で織られた幻の布です。
古くから神様の服(神御衣)として『延喜式祝詞』に記載された祭りの中で登場しています。
その布を織る専門の織工集団は大和朝廷の重臣要職八色姓の第三位で『倭文部(しとりべ』と呼ばれ、首長は宿弥(すくね)の位でした。
その氏族の祭る神社を『倭文神社(しとりじんじゃ)』と言い日本各地にありますが、その中で一番社格が高いのが伯耆国一ノ宮(鳥取県湯梨浜町の 東郷湖沿い)の倭文神社であり、倭文部として最大のものであったと考えられます。
また、伯耆一宮の倭文部=織物集団は、古代入江であった東郷池の浅津(あそず)(「津」とは港のこと)から西の出雲へ船で農産物を出荷していたとみられ、大和王朝系ではなく、元々は出雲王朝系と思われます。
静御前が源頼朝の前で義経を偲んで「しずやしず しずのおだまき」と今様で歌った「しず」は、この倭文織から来ており、この今様の本歌の平安時代、在原業平の伊勢物語を最後に倭文織の文献は出てきていませんから、倭文織は平安時代末期には消えていった幻の布となります。
どこかに痕跡や資料が残っていないか探していますし、最近研究者も少し出てきていますが、現存するものが無く、幻だと言われていたのですが、1996年3月、天理市下池山古墳(古墳時代初期)から、大形の和製鏡に付着した珍しい縞織物の小さな切れ端が発見され、これがもしかしたら倭文織ではないかと言われています。

