早雲の
守りし城は
紫陽花の城
花に誘われ
小田原評定
江の浦測候所を見学しようと小田原へ行きました。
小田原へ来たからには小田原城も観なければと思いサッと観て終える予定でした。
しかし、やはり小田原城は、上杉謙信も武田信玄も攻略できなかったように簡単には攻略できません。
その広大な敷地に2800株の満開の紫陽花で守り、紫陽花に惑わされ散策し長時間小田原城に滞留してしまいました。
風雲児、伊勢新九郎の拓いた城は、流石いい所にありました。
茜さす
昼はこちたし
あぢさゐの
花のよひらに
逢ひ見てしがな
(古今和歌六帖 読み人知らず)
「こちたし」は言痛しとも書き、噂がうるさくて嫌だ、といった意味です。「あぢさゐの花のよひら」は、要するに「よひ(宵)」を言いたいために使っています。
茜のさすようなお昼は噂がうるさいから紫陽花の花の四ひらの様に宵にお逢いしたいでものです
宵になってから、あじさいの花の陰でのひっそりとしっぽりと逢瀬を楽しみましょう
あじさいの歌は万葉集に二首ありますが、古今から新古今には一首もなくて。のちに編纂された古今和歌六帖(970年から984年の間)に1首あるのみです。梅雨の季節に欠かせない風物詩と思える紫陽花ですが、古典和歌にこれほど不人気なのも、不思議ですね。
当時の紫陽花は今の様に大きな派手なものではなくて、日本古来のガクアジサイ。派手さがないのであまり取り上げられなかったのでしょうが、
しかし私は、
派手に大きく
咲く紫陽花よりも
楚々と静かに
咲くガクアジサイの花
紫陽花の真の美しさはガクアジサイにこそあると思います。
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北条 早雲 / 伊勢 宗瑞(ほうじょう そううん / いせ そうずい、康正2年〈1456年〉? - 永正16年8月15日〈1519年9月8日〉)
室町時代中後期(戦国時代初期)の武将。戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。「北条早雲」の名で知られているが、実際は存命中には北条早雲と名乗ったことはなく、生前の文の署名も伊勢新九郎や伊勢宗瑞などであり、死後2、3代の頃から呼ばれる様になった。
司馬遼太郎の『箱根の坂』や、多くの作家が書いている様に、一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が通説とされてきましたが、備中(岡山県西部)の田舎 伊勢氏の出自で、それからの紆余曲折による出世で、新天地に行き大きく領土拡大した最初の風雲児 戦国大名です。


















