上り調子(銚子)本調子(本銚子) 【銚子電気鉄道100周年】 | てっちゃんのまったり通信

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大正12年7月5日、房総半島の東の端に

小さな鉄道会社が生まれた。

西暦で言うと1923年。丁度100年前。

2023から単純に100を引いて導き出した1923年という数字の響きより

年号を冠すると同じ意味であるはずの数字が何かしらの意味を持ってくる。

それは、年号というものには、その時代時代の文化の匂いが沁みついているからなのだろう。

大正12年

国中が、まだ着慣れない西洋文化を着こみ、新しい風を生活の中で教授し始めた大正時代。

和洋折衷の空気、憧れは、いつしか大正浪漫と呼ばれた。

それは歴史の向こう側にある風景。

そんな遠い、遠い過去にこの鉄道会社は走り始めた。

車内に吊るされた開業当時のモノクロの写真達。

誰もいない雨のホームでじっとこちらを見ている少女の写真があった。

あちら側から何かを言いたげにしているようにも見える。

これが、SFか何かの物語であれば、私が向こうに吸い寄せられるか、

あの少女がこちらへ訪れるかするのかもしれない。

どちらでもいい。

あの写真の少女に大正浪漫と言われた開業当時の話を聞いてみたいものだ。



車両を降りると開業当時からと言われる駅舎。

木造の年輪に沁みこんだ時代の重み。

ハイカラな大正時代から、激動の昭和、平成を越えて

人々が無関心を装う令和へと。

表情も、着るものも変わった今の様子をこの駅舎はどう思っているのだろうか。

世が世なら、小さな日の丸の旗をそれぞれの人が打ち振りながら

100周年を祝ったような風景が想起される。

しかし、今は、そう言う時代ではない。

モノクロームの妄想だけが古写真、木造駅舎を見ながら

果てしなく頭の中をよぎった。

「そして、次の100年へ」

こんなコピーを飾った記念列車。

100年後の人々は今の銚子電鉄をどんな思いで振り返るのだろう。



「売れないと銚子電鉄が廃線になってしまうんです!買ってください!」

ある時、ホームページで訴えられた文言。

列車の安全性について諮問されたあの頃。

あの小さな鉄道会社ももう限界だろう。

誰もがそう思った。

売れないと困るとネット上で訴えた商品は

「銚電のぬれ煎餅」

一体だれが歯ごたえ重視の煎餅をしんなりと濡らすことを考えたのだろう。

銚子と言えば醤油工場。

その醤油誰でたっぷりと濡らせた煎餅。

しかし、これが、爆発的に売れる。

コペルニクス的転回。

そんなぬれせんべいの発想が、この小さな鉄道会社の息を吹き返させた。

今や社長をして

「うちは食品会社ですから」

と自虐ネタにするほどで、今はこの会社の屋台骨である。

さらに、出現した「まずい棒」

これは製法の発想ではなく、某スナック菓子の類似商品を頂戴し

ネーミングを変化させたもの。

「そんなぁ、まずいと分かっているもの食べないよ。」

と、まずは思う。しかし、まずいのは味ではない。

「経営がまずい」

苦境を駄洒落で笑い飛ばす明るさに人々は集まった。

ちょっとはにかんだような社長の人柄も乗じてあの小さな鉄道会社を

何とかしなければ。という空気が生まれる。

「電車屋なのに自転車操業」

そんな自虐ネタを飛ばしながら、ついにおととし黒字転換。

昨年も黒字決算となり2年連続の黒字を達成した。



笠上黒生の駅、上り線ホームへと急ぐ女生徒。

その向こう側には100周年記念のヘッドマーク付きの

上り銚子行の列車がまさにホームに入らんとしている。

ヘッドマークの文字が少女の口から出た吹き出しのようにも見える。

「ありがとう」

あの古写真で傘をさしながらこちらを見つめていた少女。

そして令和の今、ホームへと急ぐ少女。

100年の時を経て「ありがとう」の思いが繋がっていればと思う。

「銚子電鉄は、電気で動いているのではありません。

皆様の思いが電車を動かしているのです。」

そう挨拶した社長の言葉が印象的だ。

銚子から三つ目の本銚子駅。

ここの上り銚子行の切符が縁起切符になっている。

「上り調子(銚子行)、本調子(本銚子)」

今や、この鉄道会社の売り文句にもなっている。

笠上黒生の駅を出た記念列車は上り銚子行。

次の駅は本銚子だ。



撮影日:2023年7月9日
撮影場所:銚子電気鉄道 笠上黒生駅周辺