楠木正成の首塚 恵光山徳蔵寺 大阪市東淀川区東中島1-5-5 | yet another 舞鶴電脳工作室

yet another 舞鶴電脳工作室

 京都府舞鶴市で、舞鶴電脳工作室(cyber Work Shop in Maizuru)と言う、プラモデル/ラジコン/鉄道模型/電子部品/街角工作室そしてプログラミング教室の店をやっています。いろいろ雑多な絵日記風のブログですが、よろしくお願いします。

2018/8/29(水)の朝の散歩で、受託研究(請負)先のエフエー電子本社のすぐ近くに、楠木正成(大楠公)の首塚を見かけました。楠木正成と言えば、鎌倉時代の最後、南朝側の後醍醐天皇方の強力な武将というイメージで、勤皇の先駆けという認識ではないでしょうか?
 
 
 
湊川の戦いの合戦図
--- Wiki より ---
楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。
後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。
... 湊川の合戦の最後...
  6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行い、楠木軍は次第に数を減らし、ついに73騎になっていた。疲弊した彼らは湊川の東にある村の民家に駆け込んだ。正成は自害しようと鎧を脱ぎ捨てると、その体には合戦での切り傷が11か所にも及んでおり、ほか72人もみな同様に切り傷を負っていた。正季が「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」と述べると、正成も自分もそう思うと同意し、皆に「さらばだ」と別れを告げた。正成は正季と刺し違えて自害し果て、橋本正員、宇佐美正安、神宮寺正師、和田正隆ら一族16人、家人50余人もまた自害し、皆炎の中に倒れ込んだ。
 
恵光山(えこうざん)徳蔵寺
恵光山(えこうざん)徳蔵寺は遠く慧信僧都の開創と伝えられ、当時は天台宗でした。
天文3年(室町時代)、本願寺第10代証如上人(しょうにょしょうにん)のお導きをうけて浄土真宗本願寺派となって今に至っています。現在の寺田崇憲住職で21代目です。
戦前は伽藍配置も良く整い、「啓蒙館」という寺子屋もあって教化活動も熱心であったそうです。昭和20年6月7日の太平洋戦争、大阪空襲のときに本堂・庫裏ともに全焼しました。
ご本尊は先に疎開していたため焼失を免れ、過去帳も境内の池に沈められてかろうじて助かりました。戦後、焼失をまぬがれたのは鐘楼(鐘つき堂;当時、鐘は軍隊にもっていかれておりお堂だけ残っていました。)だけでした。第20世寺田崇観住職はまず仮堂をつくりそこから立ち直りを始めました。昭和37年には檀信徒の総力を結集し本堂を再建しました。
昭和47年新大阪駅周辺区画整理事業が始まり、本堂の移転を余儀なくされ、再度本堂の建立をいたし現在に到ります。本堂の一部は真宗大谷派正念寺(滋賀県甲賀郡甲西町)に移りました。
 
大阪市東淀川区東中島1-5-5
TEL 06(6322)0550
 
 
 
 
 
 
 
 
ーーーー
朝の散歩の目的は、会社の駐車場に停めてある公用車に荷物を置きに行くことでした。
 
昨日、日本橋で買ったUSBコンセント付きシガーソケット増設器を取り付けました。
これでスマホの充電もできます。
 
 
キーエンスの本社、のっぽやなあ。すごくよいランドマークっす。
 
 
遠くに見えているあのノッポのビルは何やろう?
 
ええなあ。飲めんけど。
 
大阪のマンホール
 
CD125T、このビジネスバイクは、あきれるほど静かです。ええなあ。