「我、人と逢うなり」

 

我逢人(がほうじん)とは、出逢いの尊さを三文字で表した禅語(短い言葉で禅の教えを説いたもの)

 

独りで考えてもわからない事がある。しかし人と会う事で、知識が増え、可能性が広がる。全ては出会いから始まる。

人間は、人との繋がり無くして、生きていけない。これまでの楽しい思い出には、必ず自分以外の人も存在していたはず。

あの人と出逢っていなければ、今の自分はこうなっていなかった。など、誰にもあるだろう。

出逢いに必要なのは一歩を踏み出すこと。そうしたら次の一歩も踏み出せる。
 

 


 

 〇 「表情」に性格がでる

 〇 「体つき」に習慣がでる

 〇 「服装」に意識がでる

 〇 「持ち物」に価値観がでる

 〇 「目」に真実がでる

 〇 「仕草」に気持ちがでる

 〇 「細部」に美意識がでる

 〇 「姿勢」に自信がでる

 〇 「歩き方」に生き方がでる

 〇 「言葉」に気遣いがでる

 〇 「話し方」に性格がでる

 〇 「雰囲気」に人生がでる

 

★★★

あたらずしも、遠からずかな・・。

細部に美意識がでるは、納得。

 

 

 

 

祈りと瞑想について何も考えない人がいる。

そういう人達は、大きな流れの中に漂い、周囲の状況がそのうち自分の都合のいいように変わってくれることを当てにして暮らしている。

 

一方、彼らとは対照的に、よりよい生き方を探求している人々もいる。このような人達は、人生を照らす「光」を求め、その光の下で、人生に現れる様々な出来事の真の意味を理解しようと努め、自分の生き方を常に点検し生きる希望を新たにしようとする。

 

瞑想は、白昼夢を見る事ではない。内なる自己から来る祈りである。肉体としての人間の内的な働きであると同時に「霊」によって覚醒された魂の働きである。

 

祈りの中で私たちは神に語りかけ、瞑想の中では、神が私たちに語りかける。

 

★★★

私は瞑想をしながら、祈りもしている。

確かに、自分が考えもしないような答えが返ってくることもある。

 

 

 

 

 

相手の話をする時に正論で返す人がいるが、

 

  悲しいむ人に大切なのは、共感
  落ち込んでいる人に大事なのは、肯定
  努力している人への敬意は、ねぎらい
  悩んでいる人に必要なのは、よく聞いてあげること
  困っている人に役立つのは、戦略

 

アドバイスが必要な時に正論を説く人がいるが、他者の正しさなど誰も必要としていない。正しさが必要なのは何かを議論するときだけ。

落ち込んでいる人に、こうしろああしろ、とアドバイスしたり、悲しんでいる人に肯定の言葉をかけたり、ちょっとずれている。
特に正義とか道徳でアドバイスしている人は、ほとんどの事に対してズレている。
 

記事参照元:

 

 

ある男性が、サドグルに「なぜ宇宙が創造されたのか?」と質問する。サドグルは冗談のような答えを返し、「私はあなたに真実を話すかもしれないが、あなたの経験の中では、ただの話にすぎないだろう」と続ける。

あなたは人生の何かが負担になっているから創造について聞いてしまうのだ。
まず人生の経験を書き換えよう。そうすれば正しい質問ができるようになる。

質問自体が間違った視点から来ている。
あなたは、この質問の深みを正しく感じ取れておらず、とてもたやすく表現している。


あなたは「私の存在の基本や本質は何なのか?」と聞くが、無知の苦しみを知らないから簡単に聞くのだ。あなたは、まだ自分の無知を楽しい、無知が至福であると信じていて、無知の苦しみに引き裂かれていない。
もしそうであれば、私は異なった答え方をするだろう。あなたが質問について考えただけで涙が出そうになるなら、私は口頭でなく完全に異なった方法で答える。あっさりと質問をしているうちは、あなたはまだ自分の質問の深さを知らないのだ。

 

★★★

私が、もしサドグルに質問できたら、きっと似たような質問をしただろう。

これは、質問の質の問題でなく、男性からの質問の深さや視点に対して疑問を投げかけている。無知の苦しみを超えるために、知識の追求、学習、物事への洞察力を増やしていきたい。