BLOOD ALONE (1)

- 著者: 高野 真之
- タイトル: BLOOD ALONE 1 (1)
血液に感染力がある吸血鬼モノであるとか、その吸血鬼を少女にしてみるとか、周りには物分かりのいい大人を揃えてみるとか、情景のコマだけで説明していくとか、すべてのカットがイラストのような構図であるとか、コマの枠線を無くした絵の連続がオシャレであるとか、そんなことはどうでも良いんです。
黒髪ストレートと八重歯が愛くるしい幼い少女に「ちゅーを…しろ」と云われて、おまえはするのか、しないのか! するに決まってんだろうが!「バキ特別編SAGA」並にな!
するやつは人間、しないやつは人間以外の何か、そんな強烈な問いを投げかけてくる漫画、「BLOOD ALONE」でありました。
(Amazonに画像がないことがこんなに残念だったことはありません…)
GO
- 著者: 金城 一紀
- タイトル: GO
神保町で50円でした。街で見かけるような新古書店には普段から行かないのですが、神保町だとガツガツ買ってしまう、意味無いっ。芥川賞への落胆と同時に直木賞も別にいいかって感じになってましたが、本著は疾走感が凄く良かったですねえ。50円でしたが50$ぐらいの価値はあったかと。
コリアン・ジャパニーズである18歳の少年の青春の日々。在日朝鮮人、在日韓国人の被差別そのものは物語とはそれほどシンクロしない印象です。健康な肉体、いつも息子を見つめている両親、そしてあり得ないくらいの魅力を備えた恋人がいながらの状況で、国籍の差別がそれほど浮き立ってはいないんですよね。
確かにコリアンであるということで世間からの差別はもとより国家としての差別がいかに苛烈であるかを、少年を通して終始示されてはいます。けれどそれは日本における朝鮮、韓国に対するものと云うよりは、マイノリティは常に理論が肥大し尖鋭化していくという、一般的なことでした。
イジメの当事者になったことがある方なら判ると思うのですが、強烈な自己否定を食らい具体的な行動も意味がないと知ったとき、理論を蓄え、それで自分を守り、相手を攻撃し、ギリギリのところで相対化していくことが唯一自分を保てる道になります。主人公の杉原も理論を蓄えています。何故?何故?と繰り返しながら、この謂われのない仕打ちに対する答えを探し求めます。答えなんか見つかるはずもないのですが、差別を一般的なことにすることによって、杉原をコリアン・ジャパニーズから一人の人間に変えるのです。問題の先送りなんかではなく、少年が傷つき成長し、再び少女に出会う。それで良いじゃないかという、そういう物語なのだと受け止めました。
まあ、何はともあれ、ヒロインである桜井さん、美人で利発で活発で知的探求心に溢れ常に大事なものを見つけてくれる、それでいてちょっとエッチな雰囲気……こんな娘いねえって!いねえって!(2回云った)
カミヤドリ (3)
- 著者: 三部 けい
- タイトル: カミヤドリ(3)
発症すると化け物に変わり死ぬ、病名「カミヤドリ」。カミヤドリの感染を防ぐための特殊部隊「右腕(ライトアームズ)」。その一人である「左利き(レフティ)」ジルとその「小道具(ガジェット)」ヴィヴィは、カミヤドリを撃ち殺すために奔走していく。
膨大な設定の何の説明もなく物語はどんどん進み、初登場の人物が出てきては、その会話の隅々で少しずつ世界設定を明かしていきます。そういった構成がとても上手いですし、動き、背景などの画力もとても高いので没頭して読めましたねえ。かといってキザったらしいところもなく、真摯に描こうとしているので好感が持てたり。
3巻になって、設定がしっかりし過ぎているために、キャラクタ達がそれに縛られてセルフパロディ気味になっているのがちょっと心配かも。そうなると大体がグダグダになってしまいますからね…。まあ、杞憂だと思いますけど、物語はしっかり進んでいるようですし。
ああ、三部けいって、瓦敬助でしたかー。昔持ってた。。
村上かつら短編集
- 著者: 村上 かつら
- タイトル: 村上かつら短編集 2 (2)
ビッグコミックスピリッツでのデビューからの短編をまとめたもので、1、2巻と出ています。この頃は伝えたいストーリーが完全に先行していて、その表現媒体としてマンガが選ばれている、という印象ですね。全てがイメージの連続になっていて、作品全体が一つの雰囲気のようです。仕草一つ一つも格好良く決まってはいるのですが、読み終えた時には包まれてしまっている、そんな感じです。
シチュエーションはあり得ない設定でありながら、登場人物達はその中をとてもリアルな感情を持って行動する。あり得ないシチュエーションとはいわゆるマンガであり、リアルな感情とは独自の作家性であるのですね。そのバランスの良さが、読後に私が吐いた何とも云えない溜め息に繋がっているのかも知れません。
大体がハタチ前後のモラトリアムの中での青春劇なのですが、普段は気付かないような、ちょっとした大切なことを丁寧に拾っていって繋いでいきます。村上かつらはこの辺の気付き方がとても上手く、キャラクター達に上手く乗せていくことが出来るんですよね。暴走も停滞も出来ないもどかしさが伝わってきて、嬉しさや切なさが混じった溜め息になるのかも。
私にとっては、もう取り戻せないんだなあ、と云う悲しみが大きくなるような物語達でした。。
暗黒童話
- 著者: 乙一
- タイトル: 暗黒童話
ふとした事故で左の眼球を失ってしまった高校生の菜深(ナミ)は、同時に記憶も失ってしまう。とある死者の眼球を移植されることにより視力は取り戻すのだが、その眼球は死者の記憶を菜深に見せるようになっていく。記憶の断片の中に誘拐された少女が居ることを知った菜深は犯人を捜し出そうとするが、そこには狂った世界が待ち構えていた…。
もしも眼球に記憶が宿るという設定に真実味を持たせたいのだとしたら、それ以外の現実、例えば記憶を失った菜深に対する級友や親達の態度、街の描写などを現実に即して理解を得られる表現にしなくてはいけません。ですが、それらもどこかズレた感覚で描かれていくので、、読んでいて入り込むことが出来ず、全てが嘘臭くなってきてしまいました。
これが、前半を読み終えた時の感想です。
後半に犯人を捜すため、田舎のある街に菜深は向かうのですが、そこでこの小説の雰囲気がガラッと変わります。地の文は主人公・菜深の一人称なのですが、前半は記憶を持たない傍観者として距離を取って表しているのに対し、後半ではいろいろな人と出会い、彼らの過去の悲しさに触れるに付け、どんどん感情を持っていくのです。それに伴って地の文も明確に人や街を写しだし、主体性を持っていくのですね。菜深という一旦は全てを失ってしまった人間がその人間性を回復していく過程を、全体の雰囲気を通して伝えていくという、なかなか手の凝った面白い方法でありました。
にいなさん の記事にトラックバックさせて頂きました。記憶の有無と人間性について言及なされていますが、明確な答えはないのかも知れませんね。最終部において、記憶を失った菜深の優しさ、記憶を持っていた菜深の社会性、その両方を肯定していたのがこの小説のテーマであり暖かさであるのでしょう。
記憶が視力としか繋がっていかない、というのはちょっと安直に感じたのですが、その辺の描ききれなかった部分が、「暗いところで待ち合わせ」 に続いていっているのかも。基本的に乙一は人間の感覚を信じていてそれを描き出す作家であるんですよね。若干の迷走も見受けつつも、奇抜なアイデアと悲しい登場人物達が絡み合う物語でした。