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ワールドエンブリオ (1)





森山 大輔
ワールドエンブリオ 1 (1)

 「クロノクルセイド」では、決められた死に向かってキャラクタたちが全力で燃焼していく物語でしたが、この「ワールドエンブリオ」は死が日常に蔓延していく物語でして、キャラクタの頑張りなんかは同じながら、より苛烈な設定にはなっているでしょうか。

 私が事前に思っていたよりも、断然にハードだったのでのっけからちょっとビビり気味に。その後は、のんびりした日常、そして再び非日常が混ざり合っていく展開で、読者も徐々に慣れて盛り上がっていく仕掛けに。きっちりと描ききっていく画力と伴って、また抜群の冒険が始まりそうな予感です。
 ただ、あとがきでキャラクタと作者をお喋りさせちゃうなど、この作者はキャラクタとは距離感を常に保っていて、ストーリーも冷静に配置していけるんですね。絵柄にクセが無いことなんかも、私的にはちょっと物足りなく、もっと作者の暴走があった方がハマれるのになあ、とはいずれの作品でも思います。でも、こんな要求は一流の総合力を持っているからかな、もしくは商業誌を考えていない私のわがままか…。

 ところで、余談ですが、「ワールドエンブリオ」と同じように、日常に死が溢れていて、それには感染性があって、感染すると異形に変化してしまい、それを取り締まる特務組織がある、という共通性を持った作品として、「カミヤドリ」はとても似ていますね。こちらも負けず劣らず面白い作品だったのですが、この5巻で思いっきり打ち切りっぽいんですけど。。あーあ、めった好きだったのに…。



三部 けい
カミヤドリ (5)

最後の制服 (1)




袴田 めら
最後の制服 1 (1)

 女子校の寮を舞台に、それぞれ同室の子同士が心揺らめきあう日常の物語。
 友情と愛情の違いもよく分からないまま、自分の感情にとても素直に従っていく登場人物たちに惹きつけられます。
 イメージをそのまま描いていく絵がそんな素直な感情にはとても合っていて、作品からは凄みすら伝わってきます。

 ただ、読んでいるとどんどん変な気分になってくるんですよね。丁寧な物語のはずなのに、妄信的な感情のせいなのか、狂った世界をのぞき見ているような感じに陥るんです。
 もう読んでいると怖くなってくる、私にとっては恐怖漫画にも近かったですよ。怪作って感じでしょうか、やさしさが怖くなってくる作品でした。

花の名前 (2)




斉藤 けん
花の名前 2 (2)

1巻の感想はこちら

 ぐあっ、胸が痛いー。1巻では京と蝶子の完結した世界だったのに対して、蝶子が大学のサークルに入ったことによって案の定というか蝶子を好きになる男の子の登場で、私は嫉妬の炎がメラメラですよ。

 私は「紅の豚」が大嫌いなのですが、ヒロインに対して選択肢があの豚しかいないというところに作者のじめっとした厭らしさを感じて、「妄想も大概にせーよ、このロリコン」などと偉そうに毒づいていたのですが、どうやら私も同類だったようです…。

 まあ、そんな嫉妬なんかはもちろん作品を楽しむ上での最高のスパイスなのですが、明らかに作者はその辺の展開に途中で飽き、もとから大好きだった京の内面に移行していってしまうんですね。
 ああ、私の蝶子は大丈夫そうだ、と安心できると同時に物語の展開としては少し物足りなさも感じました。
 
 とにかく! 何も変わることなく強さだけを身につける女性として、蝶子の可愛さはこの2巻でも異常事態でした。
 あとサイドスペースでの、作者のお母様の作品分析が鋭すぎるのがビビる。

お伽草紙






太宰 治
お伽草紙

 太宰治、というか津島修治君がもしも現代、特にこのインターネットの時代に誕生していたらどうなっていたのかなと云うのはとても興味があります。
 たとえば芥川龍之介でしたら、きっといつの時代だろうが文学に取り憑かれ、ずば抜けた短編を残し、そして再び漠然とした不安のなか死んでいってしまうのかなあと想像するのですが、津島修治はそこは怪しいと思うんですね。

 太宰の自己愛から発生する強烈な自己憐憫はきっとインターネットと結びついてどんどんクローズドしていくはず。やがてそこから彼の露出狂、露悪的な一面が覗きだして、気狂いとも云われかねない過激な文学的アプローチをしていくのではないかなと私は感じます。そして、共通する部分としては、読者のシンパシーの獲得には相当躍起になるというところでしょうか。

 ひょっとしたら、インターネットによる情報のフィルタリングで精錬された結果、「人間失格」や「斜陽」といった駄作が減って、「女生徒」や「お伽草紙」といった痺れるような作品がもっと数多く読めた可能性もあるのかも。。
 なーんかひどいことばっかり書いているような。結局は太宰治は文学を捨てるということはないだろうというのは、彼の作品の凄みをして納得できるところではあるのですが…。

 好きと嫌いが混ざり合って、恥ずべきような嫉妬の対象になってしまったのが、私の太宰治。今年は久しぶりに桜桃忌に行こうかな。

漂流物






車谷 長吉
漂流物

 本当に客観的なんてものがあり得るのかどうか、それもこうやって言葉で考え出している時点ですでに主観的になってしまっていて。「絶対なんて絶対にない」っていうのにちょっと似てる。
 1+1が2になるのも客観的に正しいのかは疑わしい。分数なんか想像だ。リンゴを二つ並べない限りどうやっても確認できないし、半分に割ったって片割れは一個と数えるし。

 でも、ステージが上がっていくと主観なんて云っていられない。社会では主観のぶつかり合いであるコミュニケーションなのに、出された結果は客観的なものと見なしてしまうし、いろんなツラいものを抱えて大人になってしまった人なんかは、完全に主観を押さえ込んじゃっていて。

 なのに、車谷長吉はその短編集「漂流物」では落伍者たる自分を自覚しながらも、その様子を主観で綴っていく。主観が捨てられなくて、仕方なく私小説になったという感じだ。傷つきながらも主観を捨てられないのだ。
 主観なのだから常に描写はどこか不安定で、町並みは揺らぎ揺らめいていく。そんな描写は私を包みこみ、そしていつしか私を心地良く揺らぎ溶かしていく。主観も客観も溶けて流れ出す。