左翼をバカにしたがる諸君に共通しているのは、左翼運動にのめり込むなど主体性のない没個性だと、まるで信仰のような無思想性だと思いたがる蔑視にある。それは、とりもなおさず、自らは知的優位に立っていると言いたいからだ。
ところが、実際に議論をしてみれば歴然とするのだが、そんなふうに馬鹿にされる左翼ほども勉強などしていないのが唯我独尊リベラルだ。大体の場合、議論から逃げ出すのが常だ。
なぜか。
ひとつは、「自分は自分」という、執念のような自己保身だ。俺は俺を捨てたくない、と、こだわる俺とは何様なのかと思うのだが、唯一の存在としての自我こそが何より大事なのだ。昔のライプニッツの言葉で言えば「モナド(単体)」論。
さて、こういう前提の下で、左翼をバカにしたがる例の一つに、こういうのがあった。ツッコミどころは満載の、左翼から見ればとても惨めな偏見の一人ではある。

https://twitter.com/herobridge/status/740842635229855744
日本の左翼ってのは、あまりも(ママ)人間の欲望を軽視しすぎる ⇒バカバカしい。ジャンジャン家族を作って子供を産んでるだろう。現実のどこを見て、こういうことを言うのだろうか。
日本でも世界でも、左翼が人間の欲望を軽視したことなどないと思うのは、マルクスが家政婦に手を出しちゃった話から、大日本帝国時代でも岡田嘉子のロシア逃避行のような駆け落ちとか、唯物論研究会の頂点に立って獄死した哲学者・戸坂潤の不倫など、奔放な性の逸話なら枚挙にいとまがない。
そういう事例を知りながら、男女の性について考えを巡らせ、個々の生き方を選んできたことは、たぶん、俗っぽく言えば、誰よりも進んでいるとさえ思う。例えば、家族の在り方について歴史性を意識しているのは左翼だろう。結婚という形態自体が歴史的な性格を帯びていて、この形態はいずれ崩壊する必然性を帯びていると考えるのは左翼だけかもしれない。
理想を掲げるのも人間 ⇒それは、そうだろう。その最も典型的な例が空想的社会主義者の運動だった。サン・シモン、フーリエ、ロバート・オーウェンに対して敬意をこめて、その努力を湛えたのはエンゲルスの『空想から科学へ(の社会主義の発展)』だった。
だが、いまの左翼が科学的社会主義と自称するのは、彼らの努力を踏まえながら、もっと先へ進んでいるからだ。それがレーニンの『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』を承認しつつ、これでは足りないというのが今の日本共産党がいう四つ目の柱としての「革命論」(革命を進める道筋の探求)だ。
世界観、経済学、科学的社会主義の三つに革命論を加えた四つの柱。これらを貫くのは科学方法論だ。これらの方法論のどこにも、実は、「理想を掲げる」などという主観的願望はない。あくまでも、どこまでも、「事実をありのままに捉える」リアリズムという方法論だ。むろん、「教条」とは無縁なのだ。
まともに勉強をしたことがない者が左翼をくさすのが「理想主義」だの「教条」といった信仰の類いだが、それは、実は、そういう彼ら自身が信仰に依拠していることを表すことを示していることに他ならない。無理解という以前の偏見に他ならない。
さて、ここまでの話は、要は、左翼蔑視というのは、左翼の何も知らないものの戯れ言だ、ということ。
次は、そんな水準の人物の「現実的な卑俗さを取り込む」哀れ、という議論に移ろう。
萌えキャラを恥ずかしげもなく使う保守 ⇒こういう勢力に左翼は負けているのだそうだ。本人にしてみれば「恥ずかしげもなく」と皮肉を込めているつもりかもしれないが、論旨に違いはない。保守の方がうまくやっているのだ、というわけだ。
だが、左翼のリアリズムは、女性差別という現実を直視している。同じ人間なのになぜ女は安く扱われるのか、なぜ、女であることが商品化されるのか。こういう現実に向き合うことで、憤りを抱かないとすれば、おかしいだろう、と。
世界の左翼が一様に抱いているのが女性差別への憤りだ。男も女もスケベなのは隠す必要もない。だが、社会的には女が一身に不利な扱いを受ける仕組みに憤りを感じないなら、たぶん、女を愛する男としては軽蔑の対象にもなるだろう。
その感性を抱いているのは誰なのか、よく考えてみたらいい。そういう感覚が身についていないのは誰なのか、よく考えてみたらいい。
左翼がブルジョア・イデオロギーに染まらないのは、当たり前の話だ。それへの抗議の意識が動機の一つになっているのだから。むしろ、これに迎合するような連中など、軽蔑の対象でしかない。
例え今は、少数派だろうと、歴史の必然を見通す科学の立場に立てば、何も怯むことはない、僻むこともない。今は支持が少ないからとバカにする諸君をこそ、バカにするだけの話だ。(以上)