kyottides的 喜怒哀楽 -3ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

独仏の初の連帯 ⇒独仏戦争での敗北を機にパリで労働者政府コミューンが立ち上がったが、ブルジョア政府軍に弾圧された。 戦争勃発前から、国際労働者協会は独仏労働者の反戦の連帯を呼び掛けていた。 敗走するコミューン兵たちの逃げ道を開けたのはパリを包囲していたプロイセン軍兵士たちだった。

おそらく、反戦平和の闘いは、この当時が初めてだったと思う。以来、世界では、平和の希求は常に労働者階級あるいは被抑圧民族の闘いだった。なぜなら、戦争は支配階級の利害の争奪戦であって、犠牲を強いられるのは抑圧された者たちだったのだから。 平和のための闘いは、常に勝ち取るものだった。

権力の側が「平和」を語る時、それは、いつも欺瞞に満ちたものだった。「平和」の名のもとに戦争を仕掛ける罠(わな)だった。 彼ら権力の仕掛ける罠は、いつも、仮想敵を描き出し扇動することだ。 騙されるな。それが、国際労働者協会の呼びかけでもあった。 騙されるな。それが今もスローガンだ。

保守とか右翼が「平和ボケ」などと攻撃する発言を見るたびに反吐が出る。ボケているのは、お前らだろう、と。 今、沖縄で起きていることのすべては、自民党政権が作り出した本土の「平和ボケ」のツケだろう。ひとり沖縄に過剰な軍事基地を押し付けておいて、何の開き直りだと言いたい。

いま、無差別テロに晒される時代になって、正規軍の存在価値はほとんど失われ始めている。国家権力が対峙する正規軍の対立・対決は、ほとんど意味をなさなくなっている。 にも拘らず、日米同盟は正規軍の網を世界にかぶせ、乗り出そうという時代錯誤だ。やればやるほど、ゲリラ戦、テロリズムを招く。

因みに、中国との戦闘など、双方にとって自滅に向かう消耗でしかない。戦争もまた経済行為であることを考えれば、どちらにとっても何のメリットもない。そんなイロハも知らずに中国が攻めてくるなどという話は、滑稽にもほどがある。真に受ける者など、輪をかけて噴飯ものという水準だ。

今、多くの人たちが危惧するのが、そういう妄想家どもが政権の中枢と政権与党の国会議員に広がり始めていることだ。 これを狂気だと気づいている人たちだからこそ、反戦平和の闘いのために結束を強めているのだ。野党共闘が進んでいるのだ。 改めて思うのは、平和とは、働く者が勝ち取る大義なのだ。

朝まで生テレビ ⇒たまたま、目が覚めた時に田原総一郎が「共産党ってのはワケが分からない」云々。宮本徹議員が綱領路線を語ろうとするも、発言中に畳みかけて「旧・ソ連や中国、今じゃベトナムも原発推進」「自衛隊解消」等々の挙句「んじゃ、ユートピアなんだな、ユートピア」と曲解。悪質だねぇ。

田原総一郎にとっては、共産党は気に入らない政党だということは、今に始まったことではないけれど、だから、この番組でも不当な扱いの連続だけど、意図的に曲解した話をまき散らすのはジャーナリストとしては最低な人物だと言える。

自衛隊については他党による共産党攻撃の材料にもなっているが、実は、当の自衛隊の中に共産党支持者が案外いる現実を物語っているだろう。
去年の安保法制審議の際の内部資料の連発などいい例だ。また、自衛隊出身の共産党市議なども生まれている。現役では言えないことをOBが「赤旗」に代弁も。

現実問題として、自衛隊員とその家族が最も心配している事柄について最も熱心に政府方針を質し、改めさせようとしているのが共産党だ。南スーダン派遣の危険性の問題にしても、共産党くらいしか政府を追及していないだろう。
共産党に対する攻撃というのは、この取り組みへの攻撃に他ならない。

海外で自衛隊に武力行使させてはならない。だから、安保法制廃止という一致点で闘えるのが今の野党共闘だ。これ、立派な大義の一つだろう。
さて、その大義の共闘を壊したい諸党の共産党攻撃だが、「憲法違反と言っておきながら、災害救助では働け、というのは自衛隊に対して失礼」らしい。

だとすれば、日本の法学の専門家の多くが「自衛隊に対して失礼」なことになる。稲田朋美などはテレビ討論の度に「憲法学者の6割から7割が自衛隊違憲と言っている」と憤慨しているくらいだ。ついでに、集団的自衛権が違憲となれば憲法学者の9割以上だという話も付け加えておこう。

解釈改憲で違憲状態を既成事実化してきたのは自民党政権だし、その応援団だ。これ自体が、国民と世界に向かっての欺瞞・騙しの歴史だ。自衛隊が「国民を守る」と騙されているのが現実の世論だろう。(実際には、どこの国でも警察組織よりも軍事組織の方が国民を守らず「国体」を守る組織だ。)

だからこそ、共産党の立場に立てば、自衛隊の在り方については、世論を踏まえながら、変えていく立場なのだ。言い換えれば、世論を変えていくことが政党としての政治目標だ。
違憲な存在が支持されているのが現実だから、世論を変えていくために努力する。これ自体のどこに矛盾や欺瞞があるだろう。

むしろ、矛盾のはざまに立たされている自衛隊員と家族に対して、最も、親身な立場に立って、国会で問題を取り上げているのは、どの政党なのかと言いたい。

共産党に対する自衛隊問題のもう一点が、「じゃあ、どうやって国を守るのか」だ。自衛隊の装備にしても日米安保にしても、安全のための担保じゃないのか、という疑問の人もいれば、意図的な攻撃の勢力もいる。
共産党が掲げるのは、北東アジア平和協力構想だ。手本は東南アジアの努力。

一朝一夕に実現できる話だとは思わない。様々な挑発行為がある中で日本を取り囲む現状の緊張関係が緩んでいるとは思わない。
これにどう対処するのかが、問題なのだが、武力対武力の緊張関係を高めるのか、武力に頼らない外交努力の共存関係を作るのか、その方向性の違いが日本でも世界でも明白だ。

軍事同盟からの離脱、どんな国際紛争も外交的解決、こういう方向が世界で強まっている。東南アジアにしても、中南米にしても、また、非同盟諸国会議が世界の多数派になっていることも、日米同盟機軸論では見えてこない世界の動きだ。

外交努力というのは、相互の敬意が前提だ。お互いを理解しようとするうえで、日本が抱えるアキレス腱が侵略戦争と植民地支配に対する総括と反省の態度だ。
だから、一朝一夕にはいかないことは、分かっているうえで、日本を含む北東アジア全体の緊張関係から相互理解、ひいては平和協力の道なのだ。

共産党が掲げる自衛隊論、平和論は、だから、じっくりと環境づくりを進めながら、そういう実績の積み重ねをもとにしながら、日本と海外の世論を変えていく路線なのであって、政権が変わったら強引に進める、というような短絡的なものではない。

実は、そこには、政党の思惑だけで動かせるわけではない、という考えが埋め込まれている。社会を変え、前に進めるのは、主権者なのだ、という民主主義の感覚が底流にある。
裏を返せば、主権者国民の要求の高まり、運動の高まりを伴ってこそ社会は変えられる、ということ。市民が闘ってこそ、なのだ。

他の表現をするとすれば、政治的問題に覚醒した市民が多数派になる社会、一人ひとりに政治的意見もあれば運動も起きる、その中で多数者を目指す、というのが共産党の運動だ。
今は少数派だろうと、この路線が現実に対するもっとも現実的な展望だというのは、その科学方法論に依拠している。(おわり)

もう少し中身のある人間かと思っていたが、あまりの軽薄さに呆れ返った。つまらない話だった。 「これはひどいモノの言いようだ」と思うツイートを批判したのがことの発端だったが、何を焦ったのか「人の意見を全否定して自分の考えを押し付ける独善」だと思い切り短絡的な反応が返ってきた。

「惨めな奴だなぁ」の一言が罵倒だとまで思う傷つきやすさは、独りよがりの思い込みの人物に相応しい態度。だから、人の態度に難癖をつけることにばかり汲々とし、当の批判の対象の文言には一切触れようとはしなかった。その内容自体が最も痛い弱点だから、絶対に話題にはしない決意だったのだ。

似たようなことは、いくらでも繰り返された。自分が人に投げつけた言葉に対して説明を求めると、それには一切答えず、次から次へと別の言葉を投げつけてくる始末だから、言ってみれば、うろたえぶりの激しさを物語る態度でもあった。

例えば、「馬鹿」、「知性に欠ける」、「極左」の「典型例」、「狭い世界に凝り固まっている」「独善」と「浅薄」、「ガラクタのような知識」、「礼儀知らず」、「被害妄想」、「耐性のなさ」、挙句には「共産党支持を減らす迷惑」「パヨク」などなど、どれもこれも、人の発言の何を以て指摘しているのか根拠が全くない罵詈雑言の連続だった。

人に投げつける言葉の大半は、実は、普段の意識の中にある言葉であって、自らの態度についての問題意識の反映でもある。だから、よく言われるように「ブーメラン」な言葉も多くなるのだ。人に投げつける言葉が増えれば増えるほど、その人の人格が滲み出てくる。

さて、当の批判の対象の発言については絶対に触れまいとするものだから、どんな泥仕合にでも持ち込む方が得策ということで、礼儀がどうのこうのから始まって、揚げ足取りにも励む始末となって、ついには、人の発言を曲解するにまで至った。

笑えるのは、その曲解ぶりを指摘された途端、一切反応は返ってこなくなった。あまりに興奮しすぎたせいだろう、素性の一端が露呈したからだろう、みっともない結末。 「せっかく逃がしてやったのに」無謀な反撃を試みて、最後は「突然死」。

さて、だが、この言い争う姿の中から浮かぶ問題には興味深い話題もあった。 一つは「左翼」に関する思い込みの浅さ。件の批判について言えば、左翼というのは「理想を掲げる」「教条的」な人間らしい。この出発点自体が無知を曝け出すものに他ならない。

もう一つは、この論争の中でDMをくれた人の中に「性差別の指摘には考えるところがあった」という感想があったが、今のイデオロギー(社会的意識形態)のもとでの差別に対する感性の問題だ。

「卑俗さを取りこむ」のか、差別の痛みに共感・同感するのか、そのテーマ自体は、議論の価値のある話だと考えている。「大衆」が動くのは何によるのかという論点に関わる話でもある。

さて、この人物とのやり取りの中で流れた一つの感想が「センセ勉強不足、生徒達がカワイソウ」だったことで、この話は終わりにしようと思う。むしろ、「左翼」観の思い込みの源泉を探ること、現代イデオロギーと性差別というテーマをもらったことを収穫として、問題意識を掘り下げてみたいと思う。

左翼をバカにしたがる諸君に共通しているのは、左翼運動にのめり込むなど主体性のない没個性だと、まるで信仰のような無思想性だと思いたがる蔑視にある。それは、とりもなおさず、自らは知的優位に立っていると言いたいからだ。

ところが、実際に議論をしてみれば歴然とするのだが、そんなふうに馬鹿にされる左翼ほども勉強などしていないのが唯我独尊リベラルだ。大体の場合、議論から逃げ出すのが常だ。
なぜか。

ひとつは、「自分は自分」という、執念のような自己保身だ。俺は俺を捨てたくない、と、こだわる俺とは何様なのかと思うのだが、唯一の存在としての自我こそが何より大事なのだ。昔のライプニッツの言葉で言えば「モナド(単体)」論。

さて、こういう前提の下で、左翼をバカにしたがる例の一つに、こういうのがあった。ツッコミどころは満載の、左翼から見ればとても惨めな偏見の一人ではある。


https://twitter.com/herobridge/status/740842635229855744

日本の左翼ってのは、あまりも(ママ)人間の欲望を軽視しすぎる ⇒バカバカしい。ジャンジャン家族を作って子供を産んでるだろう。現実のどこを見て、こういうことを言うのだろうか。

日本でも世界でも、左翼が人間の欲望を軽視したことなどないと思うのは、マルクスが家政婦に手を出しちゃった話から、大日本帝国時代でも岡田嘉子のロシア逃避行のような駆け落ちとか、唯物論研究会の頂点に立って獄死した哲学者・戸坂潤の不倫など、奔放な性の逸話なら枚挙にいとまがない。

そういう事例を知りながら、男女の性について考えを巡らせ、個々の生き方を選んできたことは、たぶん、俗っぽく言えば、誰よりも進んでいるとさえ思う。例えば、家族の在り方について歴史性を意識しているのは左翼だろう。結婚という形態自体が歴史的な性格を帯びていて、この形態はいずれ崩壊する必然性を帯びていると考えるのは左翼だけかもしれない。

理想を掲げるのも人間 ⇒それは、そうだろう。その最も典型的な例が空想的社会主義者の運動だった。サン・シモン、フーリエ、ロバート・オーウェンに対して敬意をこめて、その努力を湛えたのはエンゲルスの『空想から科学へ(の社会主義の発展)』だった。

だが、いまの左翼が科学的社会主義と自称するのは、彼らの努力を踏まえながら、もっと先へ進んでいるからだ。それがレーニンの『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』を承認しつつ、これでは足りないというのが今の日本共産党がいう四つ目の柱としての「革命論」(革命を進める道筋の探求)だ。

世界観、経済学、科学的社会主義の三つに革命論を加えた四つの柱。これらを貫くのは科学方法論だ。これらの方法論のどこにも、実は、「理想を掲げる」などという主観的願望はない。あくまでも、どこまでも、「事実をありのままに捉える」リアリズムという方法論だ。むろん、「教条」とは無縁なのだ。

まともに勉強をしたことがない者が左翼をくさすのが「理想主義」だの「教条」といった信仰の類いだが、それは、実は、そういう彼ら自身が信仰に依拠していることを表すことを示していることに他ならない。無理解という以前の偏見に他ならない。

さて、ここまでの話は、要は、左翼蔑視というのは、左翼の何も知らないものの戯れ言だ、ということ。
次は、そんな水準の人物の「現実的な卑俗さを取り込む」哀れ、という議論に移ろう。

萌えキャラを恥ずかしげもなく使う保守 ⇒こういう勢力に左翼は負けているのだそうだ。本人にしてみれば「恥ずかしげもなく」と皮肉を込めているつもりかもしれないが、論旨に違いはない。保守の方がうまくやっているのだ、というわけだ。

だが、左翼のリアリズムは、女性差別という現実を直視している。同じ人間なのになぜ女は安く扱われるのか、なぜ、女であることが商品化されるのか。こういう現実に向き合うことで、憤りを抱かないとすれば、おかしいだろう、と。

世界の左翼が一様に抱いているのが女性差別への憤りだ。男も女もスケベなのは隠す必要もない。だが、社会的には女が一身に不利な扱いを受ける仕組みに憤りを感じないなら、たぶん、女を愛する男としては軽蔑の対象にもなるだろう。

その感性を抱いているのは誰なのか、よく考えてみたらいい。そういう感覚が身についていないのは誰なのか、よく考えてみたらいい。

左翼がブルジョア・イデオロギーに染まらないのは、当たり前の話だ。それへの抗議の意識が動機の一つになっているのだから。むしろ、これに迎合するような連中など、軽蔑の対象でしかない。
例え今は、少数派だろうと、歴史の必然を見通す科学の立場に立てば、何も怯むことはない、僻むこともない。今は支持が少ないからとバカにする諸君をこそ、バカにするだけの話だ。(以上)

お笑いをひとつ ⇒オレは、スターリンも読んでるぞ、だから、レーニンのことだって誰よりも知ってるぞ、と、威張った奴が嫌がらせに来たのだけれど、たった一つのことを知らずに、黙り込んだ。

彼は、マルエンは国民文庫で一生懸命読んだらしい。で、人に罵詈雑言を浴びせるついでに『ド・イデ』(ドイツ・イデオロギー)を持ち出して「溺れる犬」の一句を投げつけた。「お前、古典なんか読んでないだろう」と勝ち誇ったように。

その後も延々としつこいので、「売れないミルク屋」と、投げ返してあげたのだが、そこから予期しないことが起こった。今でも思い出し笑いをするほどの喜劇だったのだ。

彼、「ミルク屋」とは、誰のことかは知らなかったのだ。おまけに、シュティルナーのことだと教えてあげても、彼の独り言は、シュティルナーすらも知らないことを曝け出していた。

『ドイツ・イデオロギー』に触れるなら、延々と、いやになるほどマックス・シュティルナーを罵り倒した部分が圧倒的なページ数を占めていることくらい知らなければ恥ずかしいだろう。

そのシュティルナーの著作は『唯一者とその所有』というが、ほとんどだれも知られてはいない。数年前に新訳が出たが、それ以前の有名な翻訳と言えば、関東大震災で暗殺された無政府主義者・大杉栄にまで遡らなければならないだろう。彼は、著者の名を「ステルネル」と表記している。

(今では書店で見ることもない)国民文庫には『ド・イデ』は抄訳しか載っていないはずだ。同じ大月でもマルエンの『全集』では、マックス・シュティルナー批判(というか、罵り倒すほどの非難に読めたほど)が載っている。あの「スタ様」爺は、それを知らないのかもしれない。

プルードン批判もバウアー兄弟批判も、それなりに辛辣だったが、シュティルナーだけは、批判というよりもバカにしきっている様が読み取れる。「究極のエゴイスト」という彼に対して、現実には商売一つできないヤツ、と容赦ない。

頭の中では、どこまでも偉そうに「究極のエゴイスト」を演じようと構わないが、君の現実は、ミルク屋に失敗したことだった、と。

なぜ、あそこまで、攻撃的だったのか。一言で言えば、ヘーゲルのマネをしたつもりだろうが、とんでもない言いざまだ、という怒りだったのではないかと、推測している。(今で言えば歴史を書き換える百田尚樹に対するくらいのテンション。)

あの「オレはスターリン全集から何から、よく読んできたぞ」の傲慢爺さんの「究極のエゴイスト」ぶりと重なるではないか。今でも、腹を抱えて笑いたいほどの喜劇ではあった。

嫌がらせ ⇒以前は無邪気なネトウヨが絡んでくることが多かったが、昨日は、化石のような時代遅れがまとめて何人かたかってきた。創価大学法学部卒、「共産趣味」同盟(笑)など。

彼ら、人をへこませたいだけの諸君だから、自分の思い込みで独り相撲に走るので、とても滑稽な姿を曝け出す。暇人だから、かなりしつこいのだが、それだけ惨めな姿を曝け出してくれるから笑える。

さて、こうした諸君に共通していると思うのは、まずは、何はともあれ、非難の材料をかき集めようとする涙ぐましい努力。どんどん古めかしい話にすがるしかなくなるので、まるで化石のような難癖しか持ち出せない。

もう一つ思うのが、人をへこませたい憎悪が動機なのだから、とてもひねくれている姿。「共産趣味」同盟などは、自分が何者であるかを語ることすらできずに人に漫罵を飛ばす。揚げ足取りも得意技だ。

そういう彼らの文面を見ていて思うのは、「こいつら、惨めだなぁ」という虚しさでしかない。

ただ、創価は、ツイート回数やフォロー関係の数字を見る限り、新たに立ち上げた捨てアカかもしれない。わざわざ創価を名乗るだけ組織的な使命感に奮い立っているのかもしれない。犯罪のデパート、謀略団体らしい動きの一端だろうか。

「共産趣味」同盟は、とても、単純明快で、「スタ全」読まずして「偉大なレーニン」語れずとノタマワル。『レーニン主義の基礎』(スターリン著)のゾンビでもあれば、さすがに「趣味」程度の傍観者らしい迷走。

いたんだよなぁ、「新左翼」崩れ。
労働組合で三役やってた頃、私が委員長で「元革マル」が書記長で。彼の発想はいつも敗北論だった。闘いの前進面をどう評価するかといえば、いつも放棄で「負けは負け」と投げやり。

それで皮肉屋になって、ついには、ひねくれ者になる。共産「趣味」程度の諸君は、出会った限りは、だいたい、このパターン。名古屋の支部長だった「元中核」も奇妙なほど似た言動だった。

全く違うパターンもある。猛烈なビジネスマンになった諸君だ。ある上場企業で、役員の大半が革マル出身という会社もあった。今は、身売りして中国企業の傘下にある。

また、猪瀬直樹や糸井重里などの「元中核」の例もあるように、トロツキストの一部は体制内化するばかりでなく、ネオコン(ネオ・コンサバ=新保守)にも名を連ねる者も出るほど変節ぶりはすさまじい。

勤行に励んで念仏でトランス状態になっちゃった盲信者が人にどんな罵声を浴びせようとも、
趣味程度にしか共産主義を語れない程、自分を隠さなければならないヒネクレ者がエセな知性をひけらかそうとも、

人をへこませたい動機でしかない限り、何かを言いつのるほどに惨めな姿を曝け出すだけの話だ。それが自覚できていないのだから、お笑いになるだけの話なのでもある。

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。(『吾輩は猫である』)

追記:
これが今の情勢なのだと思う。
運動が広がり高揚するほど、ヒネクレ者が嫉妬のケチをつけたがる。攻撃的になりたがる。ヒネクレ者は、しょせん、大衆の声にかき消されるだけの話だが、それでまた、「無視された」とひねくれるのが常。

日本新聞協会の売上高の推移。
2005年の96社2兆4188億円をピークにほぼ減少の一途で、14年は92社1兆8266億円。4分の3くらいにまで縮小。広告収入も05年は売上構成比30.8%だったのが14年には同22.9%。
http://www.pressnet.or.jp/data/finance/finance01.php

もっと広告依存度の高かった時代の方が、もっと伸び伸び書いていたように思うが、売上が後退し、広告収入もきつくなってきたから、販売も広告営業も低姿勢のスパイラルに入ってしまったのか。
思い切った言論機関へ、という決断は、ますます、やりにくくなっているのかなぁ。
業界全体の沈滞感、か。

会員企業92社は、夕刊紙もスポーツ紙も入っているほか、NHKはじめ放送局も加盟。
どういう理由かは知らないが「東愛知新聞」が2017年2月16日まで会員資格停止となっている。

数字から見て嫌な流れだと思うのは、戦前の新聞業界が思い出されるから。
特に日露戦争前後の推移。汚職事件で軍隊の批判が渦巻き、反戦運動も盛んだったが新聞は伸び悩んだ。戦勝ニュースの増加につれて新聞は売り上げを伸ばし、世論もわずか1年で好戦的になった。皇国の勇ましさほど新聞が売れた。

新聞協会の売り上げデータの推移に見る停滞感という以上に沈滞感は、そんな時代と重なって見えるのであり、そこに嫌な流れが生まれかねない空気を感じるのだ。
明るい話題・勇ましい話題でないと人も読みたがらない。そういう事情を抱えた体質が巨大部数を抱える新聞の宿命のような歴史なのだ。

 

見え透いた嘘 ⇒安倍内閣で急増している政府のウソが、あらゆる問題と言っていいほど、広範な分野で相次いでいる。
どうして、そんなにしてまで、嘘に嘘を積み重ねなければならないのだろう。どうして、そこまで、恥知らずなのだろう。

解くカギは、この政権ばかりではない諸事件にある。大企業ブランドの相次ぐ不正・腐敗、経営層の内乱など、誰もが思い浮かぶ事件の多さに呆れ返るほどだ。政界・財界のどこを見回しても、「劣化」と呼ぶのがふさわしい事態が蔓延しているのだ。

今の共産党にとっては、レーニンの位置づけは微妙なようだが、私が若い頃は、レーニンもまた、まがりなりにも左翼とか左翼的であれば読んでいなければ恥ずかしい話だった。今、生きているのは、おそらく哲学の論争的な著作『唯物論と経験批判論』くらいかもしれないが。

そのレーニンの『帝国主義論』が、帝国主義段階(=シェア競争後の世界市場の分割段階)の資本主義の特徴として指摘した中に「腐敗」がある。帝国主義的腐敗。
ビジネスの上では資本の競争は独占化を辿らざるを得ない話はマルクスの頃からの指摘だが、それが、同時に、複合化、国際化も伴わざるを得ず、国家権力との癒着を深めざるを得ない、と。多角化・財閥化とグローバル化、と言えば分かりやすいかもしれない。

普通に商売をしていたのでは、もう、稼ぎを増やせない。そこで、騙しのテクニックで、なんとか、手抜きをする・ごまかす・政府を動かしての節税(=優遇税制)・政府にたかる(=原発や武器の売り込み)、さらには、業績までもごまかすことになる。
そんな調子だから、経営トップの内紛、オーナーと経営者との内紛など、資本の内部での不団結まで露呈させることになる。

資本の上層部で表面化し始めているこれらの問題は、もっと以前から、広く、中小・零細企業いじめで始まっていた。政府統計で倒産件数が減っていると自慢げな説明を聞くたびに、その前に、とっくに、潰れるところは潰れてしまった後の枯野の姿だ。
実際、日本の就業人口のうち、製造業は首位ではなく、流通・サービス業と順位が逆転している。物作り大国では、なくなり始めているのだ。

たとえば、ある自動車メーカーの下請けの例で、ある部品を製造するのに、その複雑な形状とか材質の特殊性などから、プレス機も旋盤も入れ替えたり、熟練工の給料を上げて定着してもらう努力をして、結果、単価100円で納めることになったのだが、翌年からの態度がひどい。

「去年、100円で出来たんだし、ウチも充分買い取ったんだから、設備の減価償却も進んだろう。だから、今年は半額、50円でできるよね」
その次の年には20円。
それが、下請けいじめのどこにでもある実態だ。信じられないほどの単価の切り下げを迫られるのだ。ついに、長年の社員たちを切り、「研修生」という名の不法就労状態の外国の人たちを入れるようになった。

発注側も、現場の社員にしてみれば、コストダウン圧力で尻を叩かれているから、鬼になって単価切り下げの交渉というより、圧力をかけるしかない。どこの現場でも、表向きはWin & Winの関係と言っているが、言わされているだけの白々しい関係なのだ。
こんなところからも、不平・不満・脱力感は、受注側にも発注側にも染み渡ることになる。どこの業界の、どの階層でも、「言えない本音」を抱え込むことが日常になる。

上も上なら下も下というほど、至る所で、この「腐敗」に起因する喘ぎが広がっていると思う。見え透いた嘘を重ねざるを得ない安倍政権の姿は、だから、日常の仕事と生活の場の表れでもあると思う。
それは、だから、今更、驚かない人々にもつながっている。こんなウソだらけの世の中、もう、別に、驚くこともない。世の中、所詮、こんなもんだ、と。

数日前に、よく見たツイートは、テレビの街頭取材で「選挙の投票に行かない」という20代の男子の発言に対する不快感だった。
今の政治に期待していないから、その意思表示として棄権するのだ、と。
それがカッコ悪いとか、投票しなくちゃ、などの声が渦巻いたが、恐らく、彼にとっては、そういう声の全体が「ウザい」だけにしか聞こえないかもしれない。
私などは、この男性について、「こうやって屁理屈を言うことが処世術なんだろう。多分、せいぜい係長どまりで、上には行けないだろう」とか思ってしまった。

こういう例を含めて、本当のこと(=考えや気持ち)を語れない世の中になってしまっていると思うのだ。それが、言ってみれば、資本主義の辿りつく先の「腐敗」の現象なのだろうと思うのだ。

だから、安倍政権が、ある意味では、決して特殊ではなくて、むしろ、帝国主義的腐敗が蔓延した社会のカガミなのだろう、というふうに見えるのだ。彼らは、だから、資本主義が辿りつく末期症状の典型なのだ。

一面では、絶望的にも見える「終末観」だが、実は、これこそが、新しい時代の扉を切り開く「夜明け前」でもあると思う。
それが今、共産党がしきりに強調している「市民革命的な」運動なのだと思う。共産党自身、「市民革命」とは言い切っていない。「的な」萌芽だと受け止めている。それは、共産党の運動の到達点でもあり、むしろ、政党の政治運動だけではない形の大衆的な運動の広がりに「変化の芽」を読み取っているからでもあると思う。

この変革の運動の嵐を正視できるか否か、それが、これからの日常の仕事や暮らし、政治的運動の中で、活発に議論され、行動につながる波が高まり始めていると思う。その意味では、楽しみな時代の始まりなのだ。

彼らは追いつめられ、焦る側の立場だ。我々は、それを押しのけて、主権者国民を開花させる側の立場だ。ワクワクするではないか。
みんなが笑顔で暮らせる世の中。
それこそが、何世代も受け継いできた、働く者たちの願いなのだから。

ところで、『帝国主義論』を巡っては、その帰結としての「全般的危機論」(セカイノオワリ)的な煽り方は、実は、スターリンによるレーニンの改ざん、ということ、レーニンの著作は全てソ連時代にズタズタにされていること、などから、レーニンの業績の正確な評価ができなくなってしまっているのが現状だろう。

スターリンが汚いのは、それらの換骨奪胎を、全て「レーニン主義」として喧伝したことにあった。人の名前を利用して自分の悪行を正当化したことにあった。国民的な、また、世界的な英雄の名を騙る(かたる)ことで、世界の人民をだまし続けた「悪行」だったのだ。

レーニンについて語ることは、今、多くはないと思うが、また、スターリンの「悪行」が充分総括されているのか、という問題意識も含めて、慎重にならざるを得ないと思う。
そんな中でも、教育学者としても有名だったレーニンの妻、クルプスカヤが、革命後の巷の様子を嬉しがった話は印象に残っている。

民主主義の学校だと、彼女が嬉々として語った話の一つが革命後のロシアのおばちゃんたちの井戸端会議だった。
洗濯や水汲みで集まったおばちゃんたちの間で話が盛り上がり、
「これからは、男女平等なんだから、もう、家事はやらない」と「決議を上げた」というエピソード。
主権者になった人たちが、こうやって、民主主義を体験し始める第一歩として、楽しくてしょうがなかった、と。

ということで、今夜は、ひとまず、終了。
ある人のツイートを見て抱いた感想・意見の連ツイ(連続ツイート)です。

いろいろあった結果、自責の念の人のようだ。
泣き言が言えるうちは、まだ、追いつめられていない幸運かもしれない。
思うに、考える人であるほど、夢や希望を膨らませることも多いけれど、悲観的事態となると、どこまでも落ち込む。

でも、もともと「考える」のは何故だろうか。 たとえば、労働を通じて人間は発展してきたとされるけれど、単純に同じ労働を続けてきたわけではない。「考える」ことを積み重ねたのは、ぶっちゃけた話、もっと楽をしたい、言い換えれば、なんとかして手抜きをしたいからだ。
皮肉とも言えるのは、だから、手抜きをするために必死になって発明を積み重ねた人々の歴史。それがまあ、生産力発展の原動力だろうと思う。

手を抜きたい、楽をしたい、そういう思いは、言い換えれば、発明の原動力でもある。決して悲観的になる必要はないのだ。
但し、悲惨なほどに人生かけて、発明に没頭する道を選ぶだけの執着心とか集中力が必要だと思う。そのためには、いわゆる「限界状況」が尻に火をつける必要があるかもしれない。

ホモ・ルーデンス という言葉もある。
「遊びをせんとや生まれけむ」 という詞もある。
楽をしたい・手を抜きたいのは、自由な時間がほしいからだ。自由に遊びを楽しみ、思いがけない発想の楽しさや快適さを味わいたいからだ。 発明の発想も、手を抜きたい、から、楽しみたい、の次元に進む。

そんな「遊び社員」を抱えていたのがかつての日本の製造業界だったと思う。一見、遊ばせているような人たちから、目の覚めるような発明も生まれたのだ。
怠惰とか、甘えだとか、自分勝手だとか、散々罵られようとも、居直るくらいが、ちょうどいい。それが、いずれ、皆の役にも立つのだから。と思う。
ニュース・キャスター ⇒今日から「報道ステーション」再開ということで、若干の考察。

例えば古館伊知郎の場合、もともと、報道マンではなかったと思う。プロレスとかF-1中継での独特の表現力が人気だったのだから。報道ステーションの仕事を通じて、政治・経済・社会の問題意識を磨くことになる「しかなかった」のではないか。

音楽番組やクイズ番組などで目立っていた久米宏がニュース・ステーションを通じてある意味で硬派となっていったように、古館もまた、問題意識の塊りとならざるを得なかったのは、ひとつの宿命のようにも思える。

普通に、マジメに物事を考えていけば、政権に対する批判意識が育つのは当然のことだと思う。なぜなら、政権が実行しようとすることは一面の利益のために他面の犠牲や負担を強いるのだから。その不利益を被るのが多数者なのだから。

ニュース番組でフリーの人材を使うなら、その人たちが初めはノンポリのように見えながら・軽薄なように見えながら、実は、仕事に真剣に向き合うことで同じような道を辿ると思う。それが、視聴者と同じ目線から視聴者に「気づき」の機会を提供することになる。

権力にとっては、当然、気に入らない存在の一人になっていくだろう。それを受け入れるかどうかは、社会の自由と民主主義の空気のメルクマール(物差し)でもあると思う。いま、その包容力のない社会になりつつあると感じる。

今日から再開した「報道ステーション」は、メイン・キャスターに局アナを据えた。この時間帯の多くの報道番組の中ではNHKを除けば異例だろう。局アナである限り、フリーのキャスターと同じ道を辿ることはありえない。局の一員として局の不利益にならない配慮が優先するのだから。

古館を手放してハシゲにメディア常連に返り咲く場を提供したテレビ朝日だ。「局の利益」がどんな方向を向いているかはおのずと知れる。その局アナの「報道ステーション」に何かを期待できるだろうか。推して知るべしだろう。

「読売」の体質がどうであろうと波紋の記事を連発した大阪の社会部の黒田軍団、「朝日」の体質がどうであろうと西部開拓と称した時代から侵略の歴史のアメリカを告発し続けた本多勝一など、勝れたジャーナリストも数々生んだ歴史がメディアにはある。

今のメディアには、「就社」したのか「就職」したのか、報道の在り方を巡って恐ろしいほどの感覚マヒが広がっていると思う。その方向を左右している経営幹部は団塊の世代の次の世代、高度成長とバブルしか知らない、ある意味でオメデタイ世代。

つまり、還暦前後の、まさに安倍晋三世代だ。ただし、その同じ世代が共産党の志位和夫委員長だ。右に典型的な人物がいるように、左にも象徴的な人物がいるのがこの世代だ。

絶望することはない。腰抜け・骨抜きとなったメディアからも「(今の時代の)こんな流れ、おかしいだろ」の声が上がるのは、まだ、間に合う。と、思う。但し、機を失えば、戦前の新聞各社と同じことになるほどの局面。