見え透いた嘘 | kyottides的 喜怒哀楽

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

見え透いた嘘 ⇒安倍内閣で急増している政府のウソが、あらゆる問題と言っていいほど、広範な分野で相次いでいる。
どうして、そんなにしてまで、嘘に嘘を積み重ねなければならないのだろう。どうして、そこまで、恥知らずなのだろう。

解くカギは、この政権ばかりではない諸事件にある。大企業ブランドの相次ぐ不正・腐敗、経営層の内乱など、誰もが思い浮かぶ事件の多さに呆れ返るほどだ。政界・財界のどこを見回しても、「劣化」と呼ぶのがふさわしい事態が蔓延しているのだ。

今の共産党にとっては、レーニンの位置づけは微妙なようだが、私が若い頃は、レーニンもまた、まがりなりにも左翼とか左翼的であれば読んでいなければ恥ずかしい話だった。今、生きているのは、おそらく哲学の論争的な著作『唯物論と経験批判論』くらいかもしれないが。

そのレーニンの『帝国主義論』が、帝国主義段階(=シェア競争後の世界市場の分割段階)の資本主義の特徴として指摘した中に「腐敗」がある。帝国主義的腐敗。
ビジネスの上では資本の競争は独占化を辿らざるを得ない話はマルクスの頃からの指摘だが、それが、同時に、複合化、国際化も伴わざるを得ず、国家権力との癒着を深めざるを得ない、と。多角化・財閥化とグローバル化、と言えば分かりやすいかもしれない。

普通に商売をしていたのでは、もう、稼ぎを増やせない。そこで、騙しのテクニックで、なんとか、手抜きをする・ごまかす・政府を動かしての節税(=優遇税制)・政府にたかる(=原発や武器の売り込み)、さらには、業績までもごまかすことになる。
そんな調子だから、経営トップの内紛、オーナーと経営者との内紛など、資本の内部での不団結まで露呈させることになる。

資本の上層部で表面化し始めているこれらの問題は、もっと以前から、広く、中小・零細企業いじめで始まっていた。政府統計で倒産件数が減っていると自慢げな説明を聞くたびに、その前に、とっくに、潰れるところは潰れてしまった後の枯野の姿だ。
実際、日本の就業人口のうち、製造業は首位ではなく、流通・サービス業と順位が逆転している。物作り大国では、なくなり始めているのだ。

たとえば、ある自動車メーカーの下請けの例で、ある部品を製造するのに、その複雑な形状とか材質の特殊性などから、プレス機も旋盤も入れ替えたり、熟練工の給料を上げて定着してもらう努力をして、結果、単価100円で納めることになったのだが、翌年からの態度がひどい。

「去年、100円で出来たんだし、ウチも充分買い取ったんだから、設備の減価償却も進んだろう。だから、今年は半額、50円でできるよね」
その次の年には20円。
それが、下請けいじめのどこにでもある実態だ。信じられないほどの単価の切り下げを迫られるのだ。ついに、長年の社員たちを切り、「研修生」という名の不法就労状態の外国の人たちを入れるようになった。

発注側も、現場の社員にしてみれば、コストダウン圧力で尻を叩かれているから、鬼になって単価切り下げの交渉というより、圧力をかけるしかない。どこの現場でも、表向きはWin & Winの関係と言っているが、言わされているだけの白々しい関係なのだ。
こんなところからも、不平・不満・脱力感は、受注側にも発注側にも染み渡ることになる。どこの業界の、どの階層でも、「言えない本音」を抱え込むことが日常になる。

上も上なら下も下というほど、至る所で、この「腐敗」に起因する喘ぎが広がっていると思う。見え透いた嘘を重ねざるを得ない安倍政権の姿は、だから、日常の仕事と生活の場の表れでもあると思う。
それは、だから、今更、驚かない人々にもつながっている。こんなウソだらけの世の中、もう、別に、驚くこともない。世の中、所詮、こんなもんだ、と。

数日前に、よく見たツイートは、テレビの街頭取材で「選挙の投票に行かない」という20代の男子の発言に対する不快感だった。
今の政治に期待していないから、その意思表示として棄権するのだ、と。
それがカッコ悪いとか、投票しなくちゃ、などの声が渦巻いたが、恐らく、彼にとっては、そういう声の全体が「ウザい」だけにしか聞こえないかもしれない。
私などは、この男性について、「こうやって屁理屈を言うことが処世術なんだろう。多分、せいぜい係長どまりで、上には行けないだろう」とか思ってしまった。

こういう例を含めて、本当のこと(=考えや気持ち)を語れない世の中になってしまっていると思うのだ。それが、言ってみれば、資本主義の辿りつく先の「腐敗」の現象なのだろうと思うのだ。

だから、安倍政権が、ある意味では、決して特殊ではなくて、むしろ、帝国主義的腐敗が蔓延した社会のカガミなのだろう、というふうに見えるのだ。彼らは、だから、資本主義が辿りつく末期症状の典型なのだ。

一面では、絶望的にも見える「終末観」だが、実は、これこそが、新しい時代の扉を切り開く「夜明け前」でもあると思う。
それが今、共産党がしきりに強調している「市民革命的な」運動なのだと思う。共産党自身、「市民革命」とは言い切っていない。「的な」萌芽だと受け止めている。それは、共産党の運動の到達点でもあり、むしろ、政党の政治運動だけではない形の大衆的な運動の広がりに「変化の芽」を読み取っているからでもあると思う。

この変革の運動の嵐を正視できるか否か、それが、これからの日常の仕事や暮らし、政治的運動の中で、活発に議論され、行動につながる波が高まり始めていると思う。その意味では、楽しみな時代の始まりなのだ。

彼らは追いつめられ、焦る側の立場だ。我々は、それを押しのけて、主権者国民を開花させる側の立場だ。ワクワクするではないか。
みんなが笑顔で暮らせる世の中。
それこそが、何世代も受け継いできた、働く者たちの願いなのだから。

ところで、『帝国主義論』を巡っては、その帰結としての「全般的危機論」(セカイノオワリ)的な煽り方は、実は、スターリンによるレーニンの改ざん、ということ、レーニンの著作は全てソ連時代にズタズタにされていること、などから、レーニンの業績の正確な評価ができなくなってしまっているのが現状だろう。

スターリンが汚いのは、それらの換骨奪胎を、全て「レーニン主義」として喧伝したことにあった。人の名前を利用して自分の悪行を正当化したことにあった。国民的な、また、世界的な英雄の名を騙る(かたる)ことで、世界の人民をだまし続けた「悪行」だったのだ。

レーニンについて語ることは、今、多くはないと思うが、また、スターリンの「悪行」が充分総括されているのか、という問題意識も含めて、慎重にならざるを得ないと思う。
そんな中でも、教育学者としても有名だったレーニンの妻、クルプスカヤが、革命後の巷の様子を嬉しがった話は印象に残っている。

民主主義の学校だと、彼女が嬉々として語った話の一つが革命後のロシアのおばちゃんたちの井戸端会議だった。
洗濯や水汲みで集まったおばちゃんたちの間で話が盛り上がり、
「これからは、男女平等なんだから、もう、家事はやらない」と「決議を上げた」というエピソード。
主権者になった人たちが、こうやって、民主主義を体験し始める第一歩として、楽しくてしょうがなかった、と。

ということで、今夜は、ひとまず、終了。