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kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

パナマ文書・再考 ⇒人間が人間を支配した長い歴史の果てにカネが人間を支配し人間自身が商品となって以降、とうとう、国家の体制やその命運を左右する政治権力の違いなど関係なしに、大富豪の道を訴求する時代になった。

富の独占に対する大衆的な闘いは、19世紀にヨーロッパで巻き起こり、20世紀には植民地各国で爆発した。さて今、21世紀。世界の至る所から格差拡大に対する怒りの渦が大波に高まり始めている。

怒りは、昔も今も胃袋の欲求から爆発する。低賃金・長時間労働・不安定雇用と、人をまともに飯も食えない状態に追い込んでおきながら、私腹を肥やす者たちが権力者だの企業オーナーだのと、ふざけるな、と。

しかも、奴らは、税金逃れのタックス・ヘイブン? いいかげんにしろ、と。格差問題では収まらない新たな怒りの渦が世界で巻き起こる。日本もまた、いずれ、例外ではいられないだろう。そう思う。
いつか来た道 ⇒酷いことになったもんだなぁと日々思う。自民党が保守勢力全体ではなく一部の右翼だけに牛耳られ、国会から地方議会までそんな諸君の暴言失言が相次ぐなど「まるで明治憲法下」と評されるような日々なのだから。
大正デモクラシーからファシズム国家に転落したのは急展開だった。

米騒動が1918年、ロシア革命が1919年。日本でも世界でも今で言えば格差社会への抗議が高揚した中、デモクラシー運動が盛んになった。抑圧されていた労働者が主役という国が生まれて運動は励まされた。(但し、ロシアは悲惨な官僚主義国家となってしまったが)
日本の普通選挙権が1925年。

普通選挙権と言っても、女子の参政権は封じられたままだった。その普選が成立した同じ会期の国会で治安維持法が出現。その後の運用強化による国内弾圧の酷さは「1928・3・15」(小林多喜二)などでも有名だ。多喜二はこの作品がもとで官憲の恨みを買って虐殺された。

その後、国家総動員法が1938年。10年余りでファシズム国家が成立した。 同じころ、ドイツではナチスが台頭した。世界で最も民主的・進歩的とされたワイマール憲法を「機能停止」させて独裁国家にしてしまったナチスのやり方の経緯は先日の古舘・報道ステーションの特集でも反響を呼んだほどだ。

重税感と格差社会の不公平感とが頂点に達したとき、日本の軍国主義とドイツのナチスなどのナショナリズムが煽られた。それと似た現象が今日米欧などで生まれている。昔の対抗軸は、労働者主権の国家とか民族独立の植民地運動などだった。今の対抗軸は、労働者主権とまでは言わない「市民革命」だろう。

この、あまりにも似た「いつか来た道」に戦慄するのと同時に、20世紀前半の轍を踏まないだけの21世紀の知性と運動にも励まされたり期待したりする。似た道ではあるけれど、同じ道は辿らせない運動の広がり・高まりを願い、期待する。
野次や暴言 ⇒ここのところ特に目立つのが国会から地方議会に至るまで自民党や公明党、おおさか維新の議員たちの反共攻撃と口汚い野次、それに自ら墓穴を掘るような暴言の数々。

明らかに「おごり高ぶっている」という以上に「焦り」の表れだと思うのだが、それにしても、どうして低劣な方向を強めているのだろうか。女性蔑視から国民主権の否定に至るまで、また、民族的排外主義など人を人とも思わない低俗化が顕著だ。

自民党そのものが変質しているとよく指摘される。以前の自民党は保守勢力全体をまとめ上げていたが今は時代錯誤な意識に染まった右翼一色になっているからだ。そんな勢力になったから低俗化するわけだ、と。

だが、自民党だけではない。おおさか維新の奇妙な論理は自民党以上の暴論だ。典型的なのは大阪府知事・松井によるトランプ共振発言だろう。共振というのは、不適切な作用の場合はマイクのハウリング現象が一例で、手がつけられない暴走になる。

さて、どうして、こうしたトンチンカンな議論を振りまく右翼が台頭してきたのだろう。私が思うには、政治・経済の行き詰まりが原因だろうと見ている。

過労死とか長時間労働が世界から見ても日本は異様だとされながらも、少しでも夢を見ることができた時代には夢を振りまくことができた。そのうえで勝ち残ればいいのだと思わせることができた。

だが、今は違う。ワーキング・プアという単語が目立ち始めたのがほぼ20年前、バブル景気が崩壊した頃からだった。今では日本に限らず、格差社会という言葉が日常生活で飛び交うようになった。一部の「敗者」だけの問題ではなくなってきた。

「資本主義の終焉」論もさまざま語られ始めた今、夢を売ることができなくなった勢力の震源地は財界だ。労働法制の破壊、社会保障の責任逃れに手を付け始めているのだ。それを代弁するのが政治的右翼に他ならない。


信じ込ませる夢を売れなくなった開き直りが、文句を言うな、仕事があるだけありがたいと思え、おんなは黙って引っ込んでろ等々の苛立ちだ。だからこそ、おとなしく従順な「国民」をつくりたがる。

財界とその代弁者としての右翼勢力。その彼らの口汚さが激しくなるのは、そういう事情からだろうと思う。

野次は議会の華、と言われた時代は終わった。それは、まがりなりにも「豊かになる夢」を語ることができた時代の話だ。いまは、右派の苛立ちだけが突出している。醜悪さを増す分、それは国民全体に対する恫喝になっていくだけの話だ。

国会から地方議会まで、どこでも、議場が野次で騒然とすればするほど、それは変革の時代の始まりだと心得るがいいだろう。街頭では彼らとは反対側の人たちの声が至る所で騒然とし始めているのだから。
ものすごく後味の悪い思いをする相手に辟易した。
結局のその相手は人に漫罵を浴びせた挙句にツイッターをブロックすることで聞く耳を持たない態度を自ら曝け出した。

そんな人物など相手にしなければよかったとも思うのだが、何があったのか覚えておくのも無意味ではないだろうと考えることにした。おそらく、比較的ありがちな「思い込み」の一例として人が考える材料になるかもしれないからだ。

はじめは報道ステーションの「03-18 ワイマール」についての私の投稿に対して話しかけてきたことから始まった。この番組の反響は大きく、自分でも思うところをツイートしたその発言にコメントを入れてきたのだった。
その時点では歴史を学ぶことがいかに大事なことかと波長の合う話だった。ボタンの掛け違いが発生したのはテレビドラマもまた歴史を学ぶ材料になり得る、という話からだった。そんな中で、あるドラマのあるシーンについて登場人物が「冷たい」云々から英国ドラマの主人公に比べて冷たいのは日英の文化の違いだと思ったのだそうだ。
さて、ここから、スッタモンダが始まった。
ワザと「冷たい」演出をする話の例として宮崎駿作品についての宮崎監督自身のコメントを紹介したところ、「全く違う世界の話」と反発され、以後は、拒否・否定のスイッチが入ってしまった相手は、こちらの話には何も理解も示そうとしなくなった。
ドラマがそのまま歴史を語るのではなく脚本・演出のフィルターがかかっていること、歴史上の話を想像するならほかの例もあること、それらの根底には時代の背景も理解しておく必要もあること、などなど、言葉を返すたびに「違う、違う」「全然わかってくれていない」と反発モード。
なんだこりゃ、と思うしかなかった。「全然わかっていない」のは、そっちの方だろう、と。
挙句には、ドラマは歴史とは違う、と言う始末。「それ、こっちが言いたかった話だよ」と思った。歴史を知る材料の例としてドラマを挙げたのはそっちで、その脚色ぶりの見極めや時代考証の必要性を説いたのはこっちだよ、と。

そのうえで「私が言いたかったのは庶民に対する態度の日英の文化の違いを感じたこと」という。だから、危ういのだと思った。登場人物の役割を理解しているのだろうか、文化の違いに一般化できるものだろうか、と。
単純な話、一方の英国ドラマでは主人公、他方の日本ドラマでは悪役。ならば、描き方は、それこそ効果的な演出が強調されるだろう。それを庶民に対する文化の違いなのだと「主観の推測」で判断していいものだろうか。
彼女は私に対して「あなたは主観の推論でものをいう」と、捨て台詞ののちに私をブロックすることで、終わりにした。

「失礼な人ですね」と。英国社会の歴史的な背景、とくに今に至るも厳しい階級社会であるとの指摘など「わかっていますよ、当たり前ですよ」と癇に障ったらしい。
歴史について、文化について、それほど不勉強ではないというつもりだったのだろうが、ドラマのシーンから文化の違いを読み取ろうとすること自体がとても危ういという指摘への反発は、とうとう、侮辱的な返答になるしかなくなった。

さて、誰が失礼なのだろうか。人のことを散々罵倒するような「(人の話の)理解ができない人」「主観と推測で話す人」「失礼な人」という言葉を投げつけた挙句、ツイッターをブロックする人ではないのだろうか。

もともと、ドラマを題材に挙げて歴史を考える材料にしようとした彼女だが、ドラマと歴史とは違うと、こちらの考えと同じ結論にたどり着いたこと自体は、まあ、彼女の成長には役だったかもしれない。
だが、人との接し方は、おそらく、まだまだ、未熟だろう。人に投げつける言葉が実は自分に当てはまることが多い、ということは、多分、まだ、分かっていないだろう。「失礼」「理解が足りない」「主観の推測でものを言う」のは全部ブーメランになって彼女に返る。
鳥ってどうしてあんなに前後に頭を振りながら歩くのだろうかと不思議に思ってきた。あんなに頭を振ってたら目まいを起こすのではないか、と。まあ、頭蓋骨の中に脳みそを覆うショックアブソーバーがたっぷりあれば心配もいらない、か。その分、脳みその割合は少ないことになる。

で、頭を前後に振る生き物と言えば、鳥だけでなく、馬などのように哺乳類にもいる。 どちらにしても、前後に頭や首を振る、というのは、人間にしてみれば、頭や首がおかしくなりそうな奇妙な動き方だ。だが、鳥や馬にとっては自然なのだ。 なぜだろう。

ところで、鳥の中でも獲物を捕食する猛禽類は、頭を前後に振ることはない。ワシとかフクロウなどの首は前後に動くのではなく、くるくると回転する。人間も含めて、その方が自然な動物は少なくない。 この違いは何か。 自分なりの結論は、目が横についている生き物と前についている生き物との違いだ。

目が前についてる生き物は、大概、肉食系でピンポイントで獲物に辿りつく距離感に優れている。 目が横についている鳥や馬などは、襲われる危険を警戒するために視野を広く取ろうとする形になっている。 どちらの場合も、目の動きは見えるものとの距離感という点で自然な動きをとることになる。

目が前についている動物にとっては、首を前後に振ることは距離感を変えることになる。これは、かなりつらい動きだ。 目が横についている動物にとっては、首の前後の動きは目を左右に動かすだけのことで見えるものの距離感は変わらない。

鳥にとって頭を前後に振ることは、人間にとって左右をキョロキョロすることと変わらないのだろう。 という私なりの結論です。

(以上、Twitterに投稿した文面のコピーです。)
ISをめぐる世界情勢は混沌の一途をたどり、政府・国軍レベルで短絡的な苛立ちが目立ち始めている。フランス軍のシリア領内ISへの空爆、領空侵犯のかどだとするトルコによるロシア戦闘機の撃墜、野蛮に対して野蛮で報いる苛立ちは、だが、実は、兵器産業がほくそえむ。

南シナ海にしゃしゃり出ようとする安倍に対して、米国・オバマは同盟関係の一般論を語るだけで話をはぐらかした。これもまた、自分たちの(儲けの)出番だとはしゃぐ兵器産業の駆け引きだ。世界が動く経済の軍事化は、あの第二次大戦前夜の再来なのか。

違うのは、戦争という行為自体を犯罪だと断じる世の中になっていることだ。第二次大戦を経験して獲得した人間社会の教訓は戦争犯罪という概念だと言える。 基本的人権という概念が歴史の中で生まれ浸透してきたように、戦争犯罪という概念も常識化する。いまは、その過渡期なのではないかと思う。

だが、それにしても痛ましいのは、暴力の応酬が国家レベルで正当化される「野蛮のカオス」だ。こんなにも痛みを味あわなければ歴史は前に進まないのか、いつも思うのは、「歴史の歩みの遅さ」だ。

かつて、イランのホメイニ政変をイスラム「革命」だと持ち上げたメディアだが、その当時、これって革命なのか?と疑問を抱き続けていた。実は反革命なのではないのか、と。 米国の傀儡の腐敗政権を打倒したイラン政変という意味では、革命的に見えたかもしれないが、主義主張は反革命だろう、と。

そんな頃から、世界情勢は資本主義勢力・社会主義勢力・イスラム反革命勢力の三つ巴に絡み合ってきたように見える。中でソ連型の自称社会主義は、その実態が官僚主義だったことによって偽物の社会主義だったことが明白になったことも伴って一歩後退したような風潮となった。

実際には、社会主義勢力は、衰えるどころか、南米で広がりを持っているのをはじめ、欧州でさえ勢力復活の傾向にある。 この場合、共産主義者も社会主義者も大枠としては共同歩調にあることが今の情勢の特徴だろう。 女性の人権を訴える少女マララ・ユスフザイが自ら社会主義者だと名乗るように。

そんな中で、今、資本主義勢力とイスラム反革命勢力との対立が先鋭的になっていると思うのだが、これ自体が、実は、資本主義勢力のマッチ・ポンプに思えてならない。イスラム反革命勢力を封じるなら野蛮な戦闘行為よりも糧道を断つ経済封鎖の一致協力だろう。だが、どうして、その合意にならない?

「赤旗」が度々企画している連載のように、経済の軍事化、この問題は資本主義社会である限り陥らざるを得ない悪魔のささやきの世界だ。人間の命を守り育てることよりも、殺戮と破壊のための物資の産業に儲け口を見出すのだから。言い値で売れる最高の儲け口なのだ。

テロとの戦い。そのキャンペーンに同調する前に、では、どうやって戦うのかよく考えてみようではないか。野蛮の連鎖のカオスに巻き込まれるのか、もっと違う道を選ぶのか。 日本の共産党が呼びかける北東アジア平和協力構想、ISなどの対テロ対策の非軍事的方法での国際協力、こういう声こそ必要だ。
久しぶりTwitterで連ツイしました。以下は、そのコピーです。

暴力の連鎖との闘い ⇒歴史の大きな流れを考えるとき、こういう表現になるのだろうと思う。人が人を支配する仕組みからの解放の闘いの過程だという位置づけ方もできるだろう。膨張を続けるテロとの戦いに武力を用いる意味とか効果が問われているように、国策としても武力の意味は転換点にあるだろう。

この点で特に思うことは、核兵器廃絶を目指す運動の広がりだ。国連は、被爆地訪問の必要性を認め、各国の指導者などに広島・長崎訪問を呼び掛けるに至った。日本の被爆者をはじめとした反核運動の到達点の一つだと感慨を覚える。(この点で中華人民共和国のナショナリズムは理解に苦しむ話ではある。)

核兵器の非人道性を人類共通の認識にしようという運動は、広がることはあっても後退することはないだろうと思う。 これと相似的に思い起こす話の一つが米国などの銃の規制を巡るせめぎ合いだ。無差別銃撃事件が絶えない恐怖社会を乗り越えようとする運動と銃器にすがりつくライフル協会の極反動。

暴力手段は社会から排除しようではないか、という運動と、身を守るために必要だとする暴力的社会にしがみつく勢力と。これ自体、核兵器廃絶の運動とまるで同じ論理の対決に見える。 安全保障とは言いながら、暴力排除を目指す立場と暴力にしがみつく立場のどちらに立つのか至る所で争点になっている。

いま、この日本で、だから、大きな争点に押し上げるべき運動だと思うのが、戦争法廃止の国民連合政府の呼びかけなのだ。あの憲法違反な無法者どもが強行した法など一日も早く廃絶させるべきなのだと思っている。
安保法制ばかりでなく、今では安倍政権打倒の声が高まり政権与党の中には自分から火種を撒く者も漏れ出て、怒りは「燎原の火」(「赤旗」見出し)。 こんな中からユーモアあふれる作品や力強い作品がヴィジュアルでもサウンドでもパフォーマンスでも生まれ広がる。新しい文化の芽吹き。

映画に触発された風船で釣り上げる垂れ幕、ミュージカルに感動した「民衆の歌」などの高校生「合唱団」、軽トラ・デモ、パロディ画像などなど、至る所から思いもよらないアイデアが繰り出される。 闘いの中から生まれる創造性。なんとも楽しみではないだろうか。

それに、今の時代には今のツールがある。プラカードなどはコンビニでコピーが手に入るほど、あっという間に全国に広がる。こんなに、誰もが発信できる世の中には、それだけお互いがアイデアをつなげ合える素地がある。誰もがクリエイターになれる今の時代の市民感覚、人権感覚、これが力だ。反動打倒!
安保法制を巡る反対運動の " 増殖 " ぶりを例えてみた。菌でなくてもコレステロールでも善玉・悪玉があるようだが。どうして、こういうふうに見えるかと言えば、どこでも自己増殖、という印象から。

SEALDs、ミドルズ、オールズさらにオーバーシーズ、それにママの会、パパの会。SADLや反原連、ANTIFAなどの運動が凄まじい勢いで広がっている。もっとあって、私のいる群馬ではPAG=ピース・アクション・(フロム)グンマ というローカル性を表した集まりも生まれている。

仕事や生活の普段の(組織的な)つながりとは限らない人たちが増殖し合って大きな塊に育ってきているのが今の特徴だ。

それが当然のように広がるのは、より多くの人たちが共通に抱く思いで繋がり合うからだ。労働組合や業者団体、住民運動などがまとまる共通利害は、埒外の人にまでは理解してもらえないこともある。それに比べて、今の安保法案反対の運動は、誰にとっても他人ごとではないことが理解され、浸透してきたからだ。

だから、いま広がり続けている運動は、どこからでも増殖し合い繋がり合っている。善玉菌の増殖のように。

抑止力こそ緊張拡大、武力に頼らず平和外交こそ憲法9条、(世界の)誰も加害者にも被害者にもさせるな、格差テコの経済的徴兵制に警戒、民間人も巻き込まれる(憲法違反の)集団的自衛権。
国民をバカにするな、守れ憲法、守れ立憲主義、これが民主主義だ、自民議員の暴言を糾弾、ついに、国会サボる総理はいらない。

戦争法案廃案の要求とともに、保守政党から右翼政党に変質した自民に対する民主主義感覚の怒りも爆発的に広がっている。政治的には長年の保守層の人々までも合流してきている。善玉菌は量から質の変化をも産み出している。

と感じるのでした。(^◇^)
最近のデモや集会は、誰が主催者? といろんな人たちが入り乱れている。08/30の国会前行動にしても、総がかり行動実行委員会とSEALDsとは、別々に参加者数を発表しているし、同じ日の大阪の大集会は、SADLの名も挙がるし統一行動ながら、繋がり方はとても緩やか。
じつは、この緩やかな集まり方が、今の新しい力強さなのだと思う。強烈な指導集団があるのではなく、誰が主役でもなくて皆が主役という、こういう繋がり方。その分、デモでも集会でも、実数がつかみにくくなっているのだろう。いったい何人が動いているのか、権力は最も恐れる。
この混沌とした盛り上がり方が、恐ろしいのだ。権力にしてみれば、もぐら叩きのように、どこを叩いたらいいのか分からなくなってきたのだから。これこそが、民主主義という草の根からの闘いの恐ろしさなのだ。 おおいに見せつけてやろうではないか。