kyottides的 喜怒哀楽 -5ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

大日本帝国の頃との違いは幾らでもある。なんといっても主権者意識の違いだし、その上での差別感覚の違いもある。それに、そうした基礎の上に、今や世界的に情報の流通自体が全然違う。大手媒体を真に受けないし、海外媒体の視点もすぐに目に入る。知的目覚めの機会は格段に違うのだ。
だからだと思う。デモだとか、シンポジウムなどの集会だとか、そんなあり方もどんどん変わってきているのだ。言ってみれば、雨後の筍のように、どこからどんな運動が起こるかわからないくらい様々な角度の問題意識から動きが始まり、方法も創意工夫に溢れている。8月30日の国会前で、高校生たちが新しい「うたごえ」を響かせたように。
権力の目論見は焦りを増して、ますます、危険な方向への暴走を始めているが、それに抗する国民的な運動の在り方は、ますます、思いもよらない形で広がり始めている。安保法案を巡る闘いはここからが正念場だが、新しいエネルギーがどんどん合流して闘い抜く力強さも感じるのだ。
頑張ろう!!
久しぶりの遠出から戻ってみると、お笑い満載でしたので、
世の中、お盆休みのところ、お目汚しではありますが
晒してあげるのにちょうどいいサンプルが手に入りましたので一考を申し上げることにしました。

いつまでもつきまとう陰湿な性格の者の、見果てぬ夢の笑える名前のアカウントと、似たり寄ったりな思考内容と水準の滑稽なもう一人。

もの言えば 醜態晒す 阿呆ヅラ

では、お暇な方は、ヨロシクお付き合いのほどを。

まず、話の組み立て(プロット)を挙げておきます。
0.序文
1.ネトウヨの、または、それっぽい人の変遷
 ・リアルな右翼からネットだけの引きこもりへ
2.最近の、それっぽい諸君の特徴
 ・引きこもり精神を支える独りよがりの「黄泉の国」
3.今後の見通し
 ・中学生にも分かることが理解できない諸君の末路
00.結語

はじめに
先月だったか、マルクスとエンゲルス共作の『ドイツ・イデオロギー』は、マックス・シュティルナーの『唯一者とその所有』のことを全く理解せず、乱暴な(下品な)非難に終わっている、とする人との対話がありました。結局は、トロツキストなどが陥ったユートピア主義とマルクス主義のリアリズムとの論争で終わったこと、無政府主義などのユートピア論は風雪に耐えないことは、彼も理解したようです。

さて、今回の話は、そういう理論闘争とはかけ離れた、あまりにお粗末な「悪口」云々の低俗な諸君のサンプルです。あえて、こんな低俗な話をすることにしたのは、昨今のネトウヨの特徴の一つだと思うので、これをサンプルにしながら、なぜ、こういう諸君が生まれるのかを考える材料にしていただけたら、と思うからです。

おりしも、自民党の武藤貴也などの時代錯誤や狂気の発言が話題になってきたことでもあり、彼らの言動が決して特殊ではなく、日本社会の一部では蔓延していることを示す話でもあるだろうと思うから、サンプリングすることにしてみた次第です。

1.ネトウヨの、または、それっぽい人の変遷
 ・リアルな右翼からネットだけの引きこもりへ
 このツイッターで、私とケンカ状態になった人はさまざまいました。最後には何も言えなくなってしまった公明党・大阪市議とか、カソリックなどの中にいる宗教的極反動の諸君など、概ね、戦闘性むき出しの人々でした。

 そうした彼らに共通していたのは、行動右翼らしい脅し方です。「(おまえの)上層部に、言いつけるぞ」「党本部に言いつけてやる」。
 大いに笑ったのが、つまりは、彼らは上下関係のヒエラルキーの中で汲々としている諸君であることを自ら告白していることでした。上にチクれば下が引っ込むという体質は、一般に官僚主義と言いますが、それは、コミュニストが最も嫌い嘲る体質です。誰かにへいこらする卑屈って、笑える、と。だからこそ、今の日本に必要なことは誰もが隔てない立場となる民主主義革命(社会の民主化)なのだと、コミュニストは自覚しているのではあります。

 以前は、そうした実践的で行動的な右翼や極右は、それぞれの組織運営の仕組みのもとに従順だったのですが、年月とともに、「自己流」「一人よがり」の右翼モドキの時代となっていきました。チクるような上層部がいない「一人よがり」の諸君にとっては、一般社会で通用すべきリテラシーなどは無縁なのです。
 要は、右翼的な諸君は、年月とともに引きこもってきた、という印象です。屁理屈は達者だが、行動自体は社会的には毒にも薬にもならない「無駄な存在」へと急激に劣化しているのを感じます。実際、ヘイトのデモ・集会の類いが急激に後退しているのですから。

 行動力のないネトウヨはインターネットでSNSに引きこもるしかありません。ザイトクカイの右翼の例では、行動右翼になろうとして、ことごとく惨めな結果しか残せず、実践面では無力ぶりを曝け出しています。
 それで、ネット右翼が何を学び取るかといえば、「ネットでしか通じない世界」、言葉遊びの世界へと逃げ込む以外にはなくなっています。そうすることで、現実社会を揶揄することに内心の平安を得ようとする以外には逃げ道はなくなっているわけです。

 そんな彼らにとっては、理解と納得を経て行動につながる社会性などは、皆無です。なにしろ、「唯一者」(M.シュティルナー)なのですから。
 シュティルナー批判(非難)の中でも、とりわけ「下品」なマルクスの攻撃は、(崇高な) 唯一者として究極のエゴイズムを実践するシュティルナーに対して、ミルク屋を開いたものの全然売れず、腐りかけのミルクまで店頭に並べていたほど不人気で店を潰した、それがシュティルナーの実生活だと、独りよがりな気高さを盲信した相手を、事実に照らしてどこまでも徹底的に、あえて「下品」に罵り倒しました。

2.最近の、それっぽい諸君の特徴
 ・引きこもり精神を支える独りよがりの「黄泉の国」
 さて、そんなことを踏まえながら、以下のコピーの紹介です。多少うんざりするかもしれませんが、これらの文面の一連のコピーを敢えて晒すことで、この人物が、どんな人間であるのか、一端が窺い知れると思うので、敢えて、お目汚しです。
最初に押しかけて来たのが6月17日で、その最初の頃の様子。
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お呼びでないのに、いちいち絡んできた例
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 私にとって最も印象的だったのは、この人物について、パラノイアという単語が浮かんだことでした。執拗なつきまといは、今では、ストーカーという新たな規定まで生むようになりました。どの程度にそうであるかを想起してもらうのにいいサンプルになったと思い、こういうコピーアップすることにしました。


 この人物が語る内容については、ついでのオマケの人物ともども、滑稽極まることは、のちに触れたいと思います。

 総括的にくくれば、一般社会の人間関係にはなじむことができない独りよがりであって、そこから沁みだす性格異常な症状が浮き彫りなので、仮にその本性を隠しながら生きようとしても抑えきれずに反社会的な行動に踏み出しかねない爆弾を抱えている病的な人物だ、ということです。本当の病気になってしまうか回避できるかは、とても危うい境界に立ちすくんでいることがうかがい知れます。

 いちいち論評するのもバカバカしいとは思うのですが、以下、具体的に彼らの特徴を挙げてみようと思います。

 まず、とても陰湿な「てんしんらんまん @kt154415440 」ですが、
・「外国人生活保護」、「憲法は飾り」、そして、何かといえば一つ覚えの「中国」連呼。 =これらの文言を見るだけでも、およそまともな議論が成り立つ相手ではないことは容易に分かります。
・長期にわたる嫌がらせの絡み。 =無視されていることを承知でいつまでたっても執拗に絡みついてくることに、この人物の特殊性を見る思いがします。「暇そう」「淋しそう」「ストレスが溜まっていそう」などなど、人に投げつける言葉自体が、全て本人の状態を物語っているとは自覚できていないようです。

 私が、この人物の特徴の一つとして挙げておきたいと思う話は、以下の点です。つまり、思考の一つのパターンとしての「ご都合主義」だということです。
 まず「外国人の生活保護」から絡んできたのですが、その外国人とは、いわゆる在日コリアンを指すものと思われますが、昨日まで無理やり日本人にされていた人々がある日突然、外国人だとして切り捨てられた事情はまったく顧みることもなく、まるで不当滞在の無法者のように外国人だとする排外主義にほかなりません。
 この点については、金明秀( @han_org )氏の『特別永住資格は「在日特権」か?』( http://synodos.jp/politics/11245 )がとても分かり易い文章だと思います。
 にも関わらず、「知ってるよ」とはいうものの、在日となった人々についての事情を顧慮することは一切なく「生活保護の憲法基準」と言い出す始末ですから、私にとっては議論するのもバカバカしい話です。「憲法は飾り」と言いながら、そういう話に持ち込みたがる神経自体が支離滅裂なご都合主義なのですから。
 相手にしてみれば、護憲勢力のサヨクなら、憲法を掲げて語って見せろ、ということでしょう。そこから憲法が保障するのは日本人だけだぞ、外国人の保護など認めていないぞと、そんな筋書きが見え透いています。その「憲法は飾り」論者にとっては、日本で暮らす者の健康で文化的な生活を営む権利などは眼中にないことは言わずもがなです。

 この「ご都合主義」は、おそらく、引きこもる者たちに共通の「一人よがり」に由来するでしょう。これは、「社会性」という言葉に敏感に反応することにも示されています。つまり、アキレス腱となる言葉として反応するのです。
 社会性ごもっとも、でも、それって「自分の言葉」を失うことだよね、と、どこまでも「一人よがり」にこだわりたい諸君が僻む(ひがむ)キーワードの一つとも言えるでしょう。
 唯物論者にとっては、とても簡単な理屈なのですが、人はどのようにして人になるのか、という基礎的な認識が彼らには欠けているのです。たとえば、日本人は今、どのようにして日本人になっているのか。決して「一人よがり」に「自分の言葉」だけで成り立っているわけではありません。この日本という環境のもとで日本語を覚え、日本語を使って考え、日本語で行動しているからなのです。イロハの命題の「存在が意識を規定する」のです。
 存在が意識を規定する ⇒この命題を捉えて、「規定」を敢えて「決定」と言い換えることで、唯物論者は人間の精神性を軽視(または、否定)していると難癖をつけるのがバカどもの反共主義者の19世紀からの常とう手段です。

 さて、ここで、オマケの人物 @anno_un のついでのおバカな話を織り込んでおくことにします。
 「一人よがり」と「ご都合主義」が分かり易い、未熟な段階の「引きこもり右翼」またはその予備軍程度の水準の言説ですが、すでに、思考パターンは完全に逝っちゃってる実例です。
 共産党・小池副委員長が参院で暴露した統幕監部の内部文書を巡るほかの人との対話に割り込んできて墓穴を掘った人物です。

そんなオマケの発言例
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・ まずはシミュレーションという単語についての「一人よがり」。この人物に言わせると危機回避とか避難訓練とか、そんな一面的な意味でしかないらしい。しかし、シミュレーションという言葉自体には、そんな限定的な意味などはありません。例えば演劇のリハーサルもまたシミュレーションです。この単語は、つまり、もっと広い意味を包含しているのです。
・ 小池質問の何が破壊力を持っていたのかが何もわかっていない未熟者。つまり「国会審議を無視」は理解できるが、それ以外は何が問題なのか全然分からない思考力なのです。あまりに幼い。もともと、今審議中の安保法案が違憲だということすらも分からないのですから、先日の高校生デモに参加していた中学生たちにも劣る貧困な理解力であることに驚いてしまう次第です。
 
 そんな人物が語る「深いレベルの話」というのは、要するに「深い(妄想の真っ暗闇な独りよがりの)レベルの(黄泉の国の)話」ということにすぎません。シミュレーションの一面的、または、断片的な自己流の解釈に続いて、安保法案の問題点のイロハも中学生レベルにも届かない理解力(というか無理解)は、自分の言葉に酔うだけの「ツイッターでしか通じないような」言語解釈力にすぎません。

 これら二人に共通するのは、人に相手にもされていないことを、逆立ちして解釈していることです。相手にされないこと自体が、自らが孤高の人物だと思い込むカリカチュア。古典的に有名なのはドン・キホーテですが、物語の彼は、妄想家ではあっても無我夢中で現実と格闘したからこそ、涙が出る面白おかしさを演じました。涙が出るほどの感激を味わう喜劇だったからこそ、現代に生きる生命力を持った作品でした。
 あのふたりが、何世代にもわたって語り継がれるほどのキホーテになれるかといえば、まあ、推測は、人に任せておくことにしましょう。少なくとも、わたしにとっては、無視して放置しておくのがせめてもの親切だと思うだけの話です。

 「そんなふうに言われることは、分かっているさ。だが、そんなふうにしか言えないことが自分の言葉を持たないバカどもさ」と開き直るのが関の山でしょう。つまり、彼らにとっては、言葉の世界はどこまでもメタ言語であって、言葉についての言葉の遊びでしかないのですから、いくらでも屁理屈を返してくるのは容易に想像できます。
 メタ言語を本気で学習するなら、論理実証主義とか分析哲学の世界がお勧めなのですが、実は、この世界は高校数学までの話で言えば集合論、大学教養課程で言えば論理学(しかも数学的な形式論理学)の、とてもとても難しいお勉強をしなければついていけない世界です。
 言葉についての自己流の解釈だけで開き直っている腐ったアタマには、おそらく、無理な世界でしょう。なにしろ、日常の社会性そのものにとてつもなくコンプレックスを抱く引きこもり諸君なのですから。

3.今後の見通し
 ・中学生にも分かることが理解できない諸君の末路
 ここまで来てみれば、以前はもっといた行動右翼ほどの「社会性」もないネットの世界だけで生きる妄想家どもは、相手にするにも足りないハエのような存在でしかないことは、明白だとは思います。

 どうして彼らのような「層」が生まれるのでしょうか。そして、彼らのような「層」は今後どうなっていくのでしょうか。
 マルクスやエンゲルスの文献で時折出てくるルンペン・プロレタリアートという「層」があります。最初に触れているのは『共産党宣言』で、ルンプロのことは、最初からプロレタリアートの敵だと断じています。団結する以外に武器を持たないプロレタリアートに対して目先のカネに目がくらんで平然と裏切り行為をするような団結を破壊するほどの階級の敵なのだ、と。
 ルンプロが登場するもう一つの文章は『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』です。ナポレオン3世を僭称したヤクザのもとに集結したヤクザどもの話。この話を読んでいると、20世紀のドイツのヒットラー・ユーゲントの姿に連なります。似たような連中と言えば、日本でも米国でもどこでも存在してきた在郷軍人会や国防婦人会のような盲目的な諸君をも思い浮かべることになります。
 引き籠っている右翼モドキとは違った行動右翼の例は19世紀から幾らでもありますが、先にも指摘したように、今、この日本では、まったく大衆性の根を欠いています。そんな中で、臆病者の「一人よがり」たちは、「ネットでしか通じない」世界に逃げ込むしかなくなっているのが、現状でしょう。
 そんな彼らが「逆立ちした世界観」(ヘーゲルのことを指したマルクスの一言)で、自分たちが俗世を超絶していると思い込みながら、現実には地面の下の奥深い「黄泉の国」で靖国的な亡霊のゾンビに頬ずりしながら、ドロドロの腐臭に酔うおどろおどろしさに気づくこともなく、感染した身を自ら滅ぼすだけなことにさえも気づかずに、腐り果てていくことは、気の毒ながら、手に取るように予見できてしまう次第です。

おわりに
 ということで、私に絡んできた者の中でも、年々水準が低下しているなぁと思う象徴的な例を取り上げてみました。しかし、この文章では、まだ、充分に語ることができていないのは、「なぜ、そんな彼らが発生するのか」です。
 まだ、確言はできずにいるのですが、一つの背景は「引きこもり」が容認される生活環境だろうと見ています。引き籠っていてもメシは食える、そういう生活環境がある限り、この種の「一人よがり」は温存されるでしょう。
 バカなこと言ってないで今日のメシ代を稼がなければならない生活に追い込まれている人であれば、現実社会との格闘の中で、どうすればもっと自らの暮らしを改善できるのかという実践的な問題意識が切実だからです。そういう切実さのかけらもないのが「引きこもり右翼」なのだと感じています。
 ひとつは、そこそこに暮らせる収入がある者は、バカなことを考える迷走もあり得るでしょう。自民党のバカな発言を繰り出すような議員どもが代表的な例でしょう。オリンピックの父親の七光りでコネ社会を泳いできた竹田恒泰のようなチンピラもまた、そんな一人でしょう。
 しかし、そんな俗物どもに加えて名もない妄想の俗物どもがはびこるのは、経済的条件が背景にあるだろうと見ています。そんな彼らの存在基盤を揺るがすのは、これから大量に発生する遺産相続問題でしょう。親の財産のもとで安穏としてきた諸君にとってこれから発生する経済問題の一例だと思います。
 仮に、そんな「引きこもり右翼」が勤労者として、または、学生として、一般的な社会生活を平穏に過ごしているとすれば、実態としては、臆病で内気な社会的影響力のかけらもない「いてもいなくても同じ」一人として密やかに過ごしているだけの話でしょう。行動右翼になることはできずに「ネットの世界」でアイデンティティを確認しているだけの諸君なのですから。

 そんなわけで、経済的基盤を失うとき、「引きこもり右翼」もまた、消滅していくことは目に見えている、それが、わたしの予見です。
 まあ、そんなときは、共産党の「生活相談所」にお世話になることだろうと将来像が見えるだけ、輪をかけて気の毒なほどに惨めなお笑い人生に陥るルンプロ像が浮かんでしまうのです。あとは「生活相談所」に巡り合える幸運と、そこで目覚めることができる幸運を祈るのみ。

 あと、彼らの無知ぶりのダメ押し。
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 北朝鮮はいまだに労働党の独裁なのですが、ベトナム労働党がいつから共産党になったか知らないでしょう。北朝鮮は主体思想の頃からもう、将来的には共産党への名称変更はできない道へと迷走を深めていることもまた、理解できないでしょう。そうした政党名が含む意味など、もともと理解できないでしょう。何も知らない「引きこもり」諸君の無知ぶりがよく分かる会話。

以上、お目汚し、でした。
被爆の実相 ⇒この語り部運動は、だいたい戦後50年前後になってからのことだった。なぜかと言えば、それ以前は、自らの被爆体験を語ることは、多くの人が避けていたからだ。余命いくばくもない、もう定年も過ぎた年齢だ。そんな人たちが人生の最後に語っておかなければと口を開き始めたのだった。

なぜ、被爆体験を語りたがらないのか。それを思うにつれ、日本の大衆的な気分感情の卑劣を味わうことになる。 原爆被爆者や東京大空襲などの戦災孤児など、あくまでもどこまでも被害者なのに、戦後の社会はどのように扱ってきたか。露骨な差別と排除の感覚がまかり通った。

戦災孤児にとって「戦争が終わってから戦争が始まった」と言わせたように、また、原爆被爆者にとって「被爆の事実よりも、その後の人生が辛かった」と言わせたように、日本の社会は、孤児や被爆者を徹底的に差別し尽して来た。今の「いじめ」問題以前に苛烈だったのだ。

たとえば、被爆体験を語る催しで小学生の子が夜も眠れなくなるほどうなされた、ということで、その母親は「精神的後遺症になった、この責任はどうしてくれるのか」と被爆者に詰め寄ったという。それほどに、今もなお、無自覚な自己中心性は被爆者を傷つけ続けているのだ。

夜も眠れなくなるほどに深く心に沁みつけてほしい、それでこそ平和のために尽力する人になってほしい、それが、被爆者や戦災孤児だった人々の願いなのだ。残酷な話にこそ向き合い学んでほしいのだ。
私自身の経験では、中学生の頃に無数の戦争写真を見た衝撃が残り続けている。

現実に起きた事実に向き合う覚悟、これこそが、今の日本の人々に求められているのではないか。社会的に、そうした学びを染み渡らせることが必要ではないか。そのうえで、吐きそうになったり、うなされたり、散々に辛い思いをしたうえで戦争という殺戮と破壊を憎むのではないか。

そのうえでこそ、被爆者や戦災孤児に対する差別・偏見の歴史を恥じることにならないだろうか。そのうえでこそ、人間としての潔さを取り戻すことにならないだろうか。恥ずべき歴史を踏まえてこそ、前に進むのではないだろうか。

 武藤貴也 @takaya_mutou   ⇒華々しい学歴のわりに、何も知らない大日本帝国亡者。神道だか何かの新興宗教だか知らないが、妄想家であるには違いない。
笑える話の一つが「自分中心、極端な利己主義」だが、これは、欧米でも中国でも、また、日本でも、どこでも昔からある話。

謙譲の精神など、実は、それが欠けるからこそ必要だと訴えられてきたことなど知らないだろう。もともと謙譲の精神があるのなら、その必要性など説かれるわけもないのだ。実際に実践されているはずだから。他の「美徳」の類いもみな同じことだ。

海外に出かけたことがある人なら、すぐに気が付くと思うが、イタリアやフランスのバスの昇降口の異様な広さと、ドイツやイギリスのバスのそれが人一人程度の間口の狭さとの落差。ラテン系の人々は行列とか待つことを嫌う。なので、昇降口がだだっ広い。

間口の狭い鉄道の客車なら、ミラノでもフィレンツェでも、乗りたがる客と降りたがる客とで押し合いへし合いで、いつまでたっても埒が明かない。日本の女の子などは「映画を観てるみた~い」とか言って、そんなイサカイの光景の見学を楽しんでいた。

大陸の人たち、という意味では、中国も同じだろう。で、我先にという生き方は、戦乱がひどかった歴史の国々ほど顕著ではないかというのが私の感想なのだが、それはともかく、みんながそれだから、お互いに誰も責めるわけでもない。

お互いさまに、必死なのだと思っているから、勝った負けたの憤慨はあっても、卑怯者だのと人間性を責めることはしない。そんなわけで、ラテン系や中国系など、騒々しい民族は騒々しくも楽天的に生きているのを感じる。

倫理的に問題だと、人を責めたがる者の方が、なんだか、イヤらしいと感じる気風なのだ。
因みに、日本人ほど恐れられた海賊もいなかったのが室町時代のことだ。東南アジア各地には日本人町も生まれた。

頂点に上り詰めた山田長政の話は、この時代に興味を抱く人なら知ってて当り前だろう。で、国内では戦乱が続き、秩序もへったくれもないその時代に日本人は国内での「下克上」の出世物語もあれば、国外では「倭寇」として恐れられるほど、自己中だった。

インドシナ方面では、近隣諸国が恐れた越南の傲慢ぶり以上に倭寇のやりたい放題に辟易していたのだ。越南も倭寇も、要するに海賊貿易という強盗集団だった。やったもん勝ちという意味では、ラテン系と大差なかったと思う。

さて、では、武藤 @takaya_mutou のような世間知らず・歴史知らずの時代錯誤はどのようにして生まれたか。一言で言えば、知ることよりも信じることに埋没した結果だろう。神国ニッポンを信じることにした者たちにとっては、何もかもが逆立ちに映る。

ということで、ここらで、小休止。あとは、語らずとも分かるだろう。分からない者は、武藤的妄想家だろうと思う。
次に論じたくなる機会があればまた、話してみようと思うが、さて、いつのことになるやら。



噴水と戯れる子供たち ⇒猛暑のニュースの度に、幼い子供たちが噴水と戯れる光景が流される。うっ、う・ら・や・ま・し・いっ!! 全身びしょ濡れになって、キャーキャー言いながら走り回っている至福の光景。そのうち、おじさん・おばさんたちが街なかの噴水と戯れる光景もあり、かも。
8/7 17:01

今日は911。あれからちょうど40年です。
 NYテロではなく、チリ・クーデター。
民主的に選ばれ、国民生活も向上していた矢先の政府をCIAとその手先が破壊した日です。


ウィキペディア「チリ・クーデター」


YouTube ヴェンセレーモス(我々は勝利する)
 クーデターで倒されたチリ人民連合政府の革命歌。世界中で歌われました。

なかなか、進まない・・・。

この9月からサーバーを乗り換えて、HP(ホームページ)もネットショップも作り変えることになったのだが、リニューアル作業が遅々として進まな い。今まで使っていたソフトとは隔世の感のある新しいCMS(コンテンツ・マネージメント・システム)が使いこなせずにいるのだ。
このCMSというのは、段々と分かってきてみると、非常に便利なことが分かる。アプリケーションを追加して行けば、機能をどんどんと拡張できるし、デザイ ン変更なども制作者だけでなく来訪者もある程度楽しめる。現に、このブログもWord Pressというソフトをモジュールとして追加したものだ。
ところが、作業が遅々として進まない。作業を始めてから、ここまでほぼ一週間かかっているのだが、まず、新しく契約したレンタルサーバーの扱い方に慣れる のに手間がかかった。せっかく持っている独自ドメインを有効化するだけでも手間がかかった。次には、HPを作るのにどういうソフトを使うかが数日迷った。 以前使ってタイMovable Typeは、バージョンアップを繰り返していたからまったく初めて扱うソフトのような状態だったし、Word Press も使い慣れていない。両方ともインストールして試してみては辞めるのを繰り返し、結局、いまのCMSを基調にすることに決めメタ。それだけで4~5日か かっている。
このモタつきぶりが、まあ、情けないというか、苛立っている理由だ。

とはいえ、ここからは、なんとなく、テンポアップができそうな見通しが開けてきたような気がする。デザインをいじることに悪戦苦闘してきたのとは 違って、これからは、コンテンツ(内容)を作っていく作業になるからだ。しかも、その材料は、従来のHPやネットショップに合ったものを再利用できるのだ から。
実は、行き詰った時は、HTML(ハイパー・テキスト・マークアップ・ランゲージ)でページを作ってしまえば、それらをリンクするだけでもHPは作ってい ける。しかし、それでは、いかにも、素人づくりのサイトになってしまうのは目に見えている。せっかく手にいれたCMSを使いこなせ利用になることが目標で もあり、楽しみでもある。
その次にやってくるのはネットショップの再構築だ。これが難関で、Zen Cartというソフトで作るのだが、CMSよりも面倒な設定項目がたくさんある からだ。とくに、お客さんのカード決済であるとか、送料無料、特価商品の設定など、やらなければならないことが山ほどある。
今、急いでいないのは、今回契約したレンタルサーバーでは、まだSSL(セキュア・ソケット・レイヤー)設定ができないからだ。お試し期間の2週間を経過 しないと利用できない。これがないと個人情報のやり取りをするのが危険だから、ショップ作りはまだ、急がない方がいいのだ。

いずれにせよ、この9月は、見たこともないシステムと格闘しながら、新しいHPを披露するために、延々として、なかなか進展しない作業の日々に耐えるのみ、ということになる。この苦行からは、まだまだ、解放されそうにない。

※なお、あたらしいHPも同じドメインです。⇒ら・ふろーらる
※Wiord Pressのブログ⇒「遅々として・・・。」