kyottides的 喜怒哀楽 -2ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

民主集中制 ⇒共産党の組織原則で、これを問題視する人たちもいるのだが、さて、どこに問題があるだろうか。 これは共産党内の組織原則であって、これを社会一般の運営の仕組みにしようというのではないことが、まず前提だ。いろんな党派が入り混じる議会制民主主義の中で、看板に責任を持つ態度だ。

軍事化を進める三菱、福祉切り捨てを進める厚労省など、日本のどの組織でも、中央集権だ。そうでなければ、組織としての整合性は成り立たない。 では、共産党の中央集権は、どこが独自なのか。民主主義的中央集権、つまり、民主主義を根底に据えている組織、という点にある。

三菱に代表される企業や官庁は、民主主義的だろうか。 部長や事業部長、さらにはその上の役員クラスなど、どうやって選出されているだろうか。一切民主的ではないことは誰もが知っているだろう。上意下達の官僚組織に他ならない。 資本主義の下での企業も公務員も、みな、官僚的集中制のもとにある。

官僚的集中制のもとでわが身の立身出世に汲々としながら民主集中制を攻撃する諸君の姿が、とても滑稽に見えるのではある。

因みに、組織原則としての民主集中制は、民主的労組や民主的市民団体の組織原則にもなっている。信任に絶えない者がいつでも罷免される選挙制度の下で運営されるのは、株式会社や役人たちの官僚的人事システムとは違う。 さて、どちらが自由で民主的だろうか。

一人ずつ相手にするのが面倒なので、軍事費問題について、ひとまとめに考察してみることにしました。
@LumpLump2015
@zgmfx10afreedo4
@_Osahiro

この問題は、とどのつまりは、中国の脅威が増しているのだから、軍事的に対抗しようとするのはやむを得ない「現実」路線だという議論です。そのうえで、世界は軍縮どころかドイツのように武器輸出大国になった例もあるではないか、とも主張するわけです。

結論から言えば、中国脅威論に乗せられるのは安倍内閣のキャンペーンに乗せられ、それを煽るマスコミに乗せられている話に過ぎないのが一点。もう一点は、米国の視点から世界を見るのと自主独立の視点から世界を見るのでは、まるで違う流れが読み取れる、という点です。まずは、この二点から「現実」路線に対抗する議論を試みたい。その上で、では、その「現実」路線の震源地はどこにあるのかを最後の三点目としてまとめてみようと思います。

まず、大前提として第二次大戦後の世界は国連を中心にした平和共存維持体制の構築を目指したはずでした。国連憲章の第1章(第1条と第2条)では「目的および原則」が掲げられています。その中に
「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」(第2条・4項)というのがあります。つまり、日本国憲法とそっくりな内容なのですが、これにより、国家による戦争行為は犯罪として扱う合意形成が目指されることになりました。
ところが、この創立の直後から、米国をはじめとした植民地宗主国(当時)が持ち出した議論が「集団的自衛権」でした。
国連がこういう姿勢に立ったにもかかわらず、戦後、世界各地に軍事基地を張り巡らせた米国は、一方で「集団的自衛権」の名のもとに軍事同盟を次々結び、他方では、実は、国際的な信義を裏切る行為を散々に積み重ねました。
国家による戦争行為、つまり、宣戦布告のうえでの戦争行為は違法なものだという合意形成を目指す中、米国がやったのは「宣戦布告」抜きの戦争の積み重ねでした。それも世界各地でのことですから、第二次大戦後、国連が出来て以降、最も戦争にまみれているのは米国だし、この70年余りの戦後の中でもほぼ一貫して戦争中なのは米国だけでしょう。

こうした歴史の中で、米国は、ベトナム戦争に疲弊してニクソンショック(ドルショック)の事態に陥りました。同じようなことは、アフガニスタンに侵攻して泥沼の戦いとなった旧ソ連でも起こり、経済が破綻する中で、あっさりと、その官僚的独裁政権を放棄することとなりました。武力に依存し、それを使い続けることで経済破綻を招き体制崩壊にまで至ったことは、この両大国の苦い教訓でしょう。

さて、こうした中で、軍事力に関する米国の世界戦略は、大きな後退を続けてきました。冷戦の敵だったソ連グループは自滅したのですから、他の諸国にとっても米国と軍事同盟を結び続ける必要はなくなってきたのです。特に劇的な変化が起きたのが中南米でした。今では、何らかの軍事同盟に参加している国は、中南米では皆無になっています。また、アジアでも、軍事同盟からの離脱は進み、ASEAN各国はじめ、非同盟化が進んでいます。
軍事同盟に参加している国々は、世界の人口比率で言えば、かつては世界の2/3という67%を占めていたけれど、今では16%、つまり1/6程度にまで減少しています。

さらに、国連では、非軍事化の要求を反映した動きが高まっています。クラスター爆弾や地雷の問題での禁止条約を目指す話もそうですが、いま最も喫緊の課題として話し合われているのは核兵器廃絶に関する議論です。毎年のようにこの問題を提起してきたことで有名なのが欧州のオーストリア代表ですが、アジアのマレーシア、米州のメキシコも最有力な論客としてこの問題を訴え続けています。
その結果、核兵器廃絶のための実務的な話し合い、つまり、廃絶の理想を語り合う段階ではなく、実務的な実行の話し合いをスタートさせる国連決議に賛成する国が130ヵ国を越え、これに反対したり棄権する国が60ヵ国以下になる事態となりました。
特徴的な問題として世界が非難の目を向けているのが、核廃絶に積極的な賛成だった中国が米国などの核保有グループの一員として行動し始めたことです。もう一つが、被爆国日本がいつまでたっても米国の尻の下であることに対する嘲笑を込めた批判です。
こうした後ろ向きの軽蔑すべき態度の国々がある中、オーストリアやメキシコなどは、中国を含めた核保有国グループに激しい論戦を挑んでいます。そんな中で、「抑止力論」や「段階的削減論」を一つ一つ論破し、核大国グループとそれに追随する国々は、あとは開き直りしかない状態に追い込まれています。
こんな中で、国連の日本政府代表の態度といえば、恥ずかしい限りだと言わざるを得ません。

因みに、日本政府の国連での態度は、恥ずかしい事例に溢れ返っています。労働時間制限等の古い古いILO条約すら批准していなければ、女性の権利向上のための条約とか差別撤廃条約など、一応賛成しておきながら国内法の整備を進める義務は果たしていないなど、不誠実な態度の山を築いている状態です。核兵器のように軍縮問題などで米国追随の態度を揶揄されるだけではないのです。国民の生活と権利を守り向上させるための国連決議の批准・国内法整備はことごとくサボタージュしているのが日本政府です。
さて、これが今の世界の政治情勢です。

日本では、米国フィルターがかかっているから、中東の戦乱と拡散するテロリズムばかりが強調され、また、日本政府独自の観点としての東アジアでの緊張激化ばかりが強調されています。
ところが、こうした立場は、昔、植民地支配をしていた国々、いろんな国が独立を果たした戦後も「新植民地主義」(政治的に独立の形態を与えながら、経済的には独占的利益を貪り、その富を吸い上げる多国籍企業の侵略)の国々にとっての利害の問題であることが大半です。

後に独立インドの初代の首相となったネルーが、独立闘争を闘っていた頃、日露戦争に勝った日本について「最初、我々は、欧米に打ち勝ったアジアの解放者として歓迎したが、ほどなくして、その正体に失望した。何のことはない、帝国主義の侵略者が新たに一員増えただけの話だった」と語ったのは有名な話だと思いますが、日本という国は、その頃から、つまり、20世紀のはじめの頃から、帝国主義的侵略者というのが世界の評価であり、戦後もその残滓を引きずっていることを知るべきだと思います。

さて、以上を踏まえて、申し上げたい結論は、「現実」路線というような発想・感覚がいかにアメリカ的イデオロギーであるか、ということ。米国やこれに追随する勢力は、今では世界の少数派に追い込まれ、明晰・判明な課題に後ろ向きであることを許されなくなっていることを知るべきだと思います。
もう一点は、核兵器についてと同様に、通常軍備についても、同じ道を辿るのが世界の趨勢だということです。武器輸出、武器の共同開発など、武器を巡る国際的な動きは非難されこそすれ奨励されることはないのです。それを敢えて踏み越えて「現実」路線だと称する諸君の主張は、たとえば、日本とイスラエルの技術開発の協力で何をすることになるかといえば丸腰のパレスチナ人の殺害だ、という話なのです。
人の血を飲みながら乾杯する日本経済になることを、果たして、我々は容認できるのだろうか。

ということで、最後に、日中関係の「中国の脅威」に触れておきたい。
中国の大国主義・覇権主義については、日本ではおそらく共産党だけが正面切って批判し、論争もしてきたと思います。自民党はじめ、どの政党も、中国共産党とのまともなバトルはやっていないでしょう。
日中の共産党間にはそういう歴史があります。1950年代以来の中国からの激しい干渉に対して闘った歴史があり、最終的には40年くらいたった1990年代になって過去の歴史について中国側が謝罪することになりました。それでも、今でも意見が一致することはまれで、基本的には日本の共産党から見て中国共産党は共産党らしくない、という立場です。

そういう共産党間の関係である上で、尖閣諸島についての日本共産党の立場は一貫して日本の領土という立場だし、歴史的資料を集めたうえで堂々と論争できるという立場です。日本政府は「日中間に領土問題はない」としらばっくれることで中国との論争を逃げ回っています。

さて、こうした背景のもと、中国はどうして尖閣諸島に関連した挑発を繰り返すのでしょうか。一つには、原因を作ったのは石原慎太郎だ、という問題があります。「東京都で買う」の、あの騒ぎでした。そして、もう一つの側面がありますが、これは、日本のマスコミも全然触れないし、日本の大半の人にとって眼中にもない話だと思います。

私が何人かを相手に、中国の態度は「一つの中国」のデモ、といっても、相手はほとんど何も理解できない様子だったことが印象的です。
尖閣については、日本から見れば日中問題です。ところが、中国から見れば、何も日中問題だけではないのです。そのことが理解できない人が圧倒的に多い。つまり、安倍内閣と翼賛マスコミに洗脳されちゃっている人が圧倒的に多い。
これは、中国の立場に立ってみれば、一瞬にして分かる話でしょう。「一つの中国」というデモンストレーションで中国政府が意識しているのは日本ではないのは、すぐわかるでしょう。だれに向けたデモなのか、と。
この意味が分からないようなら、よほどの島国根性だろうと思います。内向きの狭い世界観でしか物事を見ることができない偏狭な人、という意味になります。

それを敢えて承知の上で中国の脅威を喧伝するのであれば、向かう結論は軍備の充実でしょう。敢えて充実というのは増強でもない軍拡でもないと言いたがる人がいるからですが、充実と表現したとしても、実質は、火力の増強・殺傷能力の増強に他なりません。

ということで、世界情勢と尖閣情勢とを重ね合わせてみると、アベ政権の好戦的な態度が際立つと思います。世界では軍縮の努力が進み、これを阻む者たちが旧・帝国主義的植民地支配者とその同盟者であること、その彼らが一様に武力依存という暴力的社会を維持したがる時代錯誤な勢力であること、そのために、無数の犠牲が強いられつつあること、こういう問題なのです。
アベ政権の積極的平和主義が武力依存の様々な道を開こうとすればするほど、殺人産業への依存を強めることになり、日本国民は「現実」路線として、パレスチナなどの子ども・女性・年寄をはじめとした膨大な生き血を吸うことになるのだ、ということが分かると思います。

では、どうすべきなのか。
明白です。「アベ政権、打倒」。これがまず、出発点です。日本の憲法を堅持すること、国連憲章に沿った国際的態度をとること、そのためには米軍追随をやめること。
対米従属から抜け出すこと、これは、世界の他の国々では実行出来た話の一部です。日本でもできないはずがない課題です。
安倍晋三の著作の中にある「血の同盟」という事態を現実のものにさせない闘いがまず、求められています。そんな安倍を政界から追放するくらいの勢いのアベ政権打倒の闘争を目標にすべき時だと思います。

最後に、三菱重工の長崎造船所は、民間船舶の建造・補修からは一切撤退して、自衛隊艦船だけを相手にすることにしました。同社にとっては、とてつもなく利益率が上がることになるからです。
たとえば、米国のボーイング社は、旅客機の製造販売では大した利益は上がりませんが、米軍相手の商売では暴利をむさぼっているという話が伝わっています。同社の有名な軍用機といえば、第二次大戦の頃のB29、ベトナム戦争の頃以来のB52などがあります。同社が米軍相手に売りつけている航空機部品で、最も利益率の高いのがネジ1本で、一般販売なら100円もしないようなネジが米軍相手なら10万円というデタラメがまかり通っていると、米国内で大騒ぎになり始めています。日本でも、政府と防衛産業各社は、そうした体質に浸かっていくと見通すのも自然でしょう。

平和な社会は理想だが戦力やむなし、という「現実」路線の諸君が、いかに、何も考えていないのか、よく分かるだろうという意味合いを込めて、長めの文章をつづってみた次第です。
以上で、今回は終了です。

「たましい」が独り歩きする主観的観念論 ⇒自分は唯物論的弁証法の立場だからバカバカしいと思うのだが、多分、人類がどんなに進歩を遂げてもなかなか消滅しないだろう。 構想力があるのが人間だが、それと引き換えに、空想や妄想の中で、また、錯覚も含めて、間違えるようにできているのだから。


「日本が大好き」「日本に生まれてよかった」「日本人でよかった」などの日本(人)的なものには、「たましい」という観念が貫かれているが、日本教ともいえるこの妄想の中身は「中空」(何もない)ことがカナメになっている。何故なら一つは本当に空っぽで、もう一つは言葉になどできない神秘だから。


日本(人)的なもの、とは、聖徳太子の憲法とか律令制度とか明治憲法などに明文化されたものより根源的で、日本人の「たましい」に深く潜む何かであって、古事記などでも触れていないように、何か教義があるわけではない無意識のうちの力なのだ、と思い込む。 だから、一言で言えば、空っぽの心性。


だが、この「中空」であること、言葉にできない何かであることこそが肝心の狙いなのだ。 どうとでも解釈できる恣意性をもって、いくらでも日本(人)的なものだと牽強付会の話を成り立たせ、人心を酔わせることができるのだから。それをもって「ニッポンバンザイ」の風潮を作れるのだから。


オリンピック中継などで「ニッポンバンザイ」をやっているうちは、この日本教的な「たましい」の独り歩きの世界観からは抜け出せないだろう。

左右の日和見主義 ⇒世の中の矛盾に気付いた人たちの種々雑多な共産主義の運動があった中、科学的社会主義として指針を明示することになったのがマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』だが、ブランキ、プルードン、バクーニンなど初めから他派との理論闘争の歴史だったし、今も終わらない宿命。


一つには、世の中が資本主義社会である限り、絶えず、闘わなければならないあらゆる問題が基礎にある。特に資本主義イデオロギーを乗り越えるビジョンはなかなか広まりはしない。 もう一つは、資本主義を乗り越えようとする者の間でも時代に苛立って過激になるとか、萎えて消極的になるなどの動揺。


その全体に流れるのは、唯物論的弁証法という科学的世界観と論理、史的唯物論という科学的歴史観という歴史の必然性の洞察、そういう科学的観点に立った思考方法が身につくかどうかという内面的な違いが避けられないからだ。弁証法のつもりでいながら形而上学、という事例など無数にある。


これまでの歴史が支配階級の交代という形の階級闘争の歴史だったのに対し、今闘っているのは階級闘争そのものの歴史を終わらせる間口に立ったものだということは、こうした科学的社会主義の思想と運動の学習と実践を深めない限り理解はできない。理解している人たちの間でも往々にして動揺は生まれる。


資本主義社会を終わらせる闘いというのは、多難な、基本的には少数派から抜け出すのが困難な闘いだ。 だが、革命的情勢というのは、いつの時代も一旦走り出したら一挙に高揚したのも事実。 地動説がいかに少数派だろうと真実だったように、共産主義もまたそういうものだと、自覚的な人々は挫けない。

それにしても、コミュニスト ⇒とても狭い道をわざわざ選んで突き進む勢力。
ロシア革命の時も、反ファシズム統一戦線の時も、だいたいの場合は少数派で、大衆うけしていたのは社会党などの社会民主主義勢力。ところが、実際の運動とか闘いを通じて一挙に支持が広まったのも共産党。


一言で表せば、「言ってることとやってることが違う」というのが社民勢力が急速に支持を失った原因で、「さすが共産党」と、評価が逆転してきたからだ。レジスタンス、パルチザンなどの歴史は、だから、共産党が最も犠牲を払いながら最も尊敬を集めることとなった。煮え切らない社民と違って統一戦線を繰り返し呼び掛けていたのだから。
中国でも蒋介石は日本軍との戦いよりは共産党を潰すことに躍起になっていた。そんな国民党軍を相手に奇想天外な方法で国共合作を受け入れさせたのも共産党の統一戦線路線だった。


コミュニストの路線は、なかなか理解は得られない。それは、資本主義社会を終わらせようというビジョンを科学的に説明しようとするからだ。その感覚がなかなか大衆的にはならない。
だが、それでも、科学的なリアリズムだと考えるのだから、コミュニストをやめる気になるはずもない。
実際、議論の場よりも実践の場では、その見通し方、運動の道筋の付け方には、「やっぱり、共産党の言うとおりだった」という実績が摘み上がるのだから。
今の「国政レベルの野党共闘」。絵空事のように思っている人たちもいるかもしれないが、先の参院選では、まさかの32の1人区すべてで共闘を実現した。

 

「やってみれば、共産党の言うとおり」「共産党に感謝」「私自身が変わることができた」 なので、 おそるべし共産党、おそるべしコミュニスト。
なかなか多数派になれないのも、目指す社会の展望の大きさが、全然違う勢力だからなのだ。だが、そのビジョン実現のためのリアリズムは誰よりも力強い。

参院選の余波か、共産党の「自衛隊違憲」論をめぐって絡みついてくるおバカたちが、まだいる。 論点は二つと見ていいだろう。 一つは、中国、北朝鮮が攻めてくるじゃないか。 もう一つは、非武装で国防出来るのか。 一つ目は幼稚で素朴な話。二つ目は非武装論ではない話の想像力の欠如。

 

中国、北朝鮮が攻めてくる話。 ⇒軍事も経済の問題だと言ったって、その意味が分からない坊やたちだから、北朝鮮なんか正気を失っているから攻めてくる、と言い募る。
他国を攻撃しても構わないことにするには口実が必要なことは常識だろう。でなければ、逆に、一挙に国際的非難のもとに殲滅される。


だから、どこの国だって、自分から手を出そうとはしないのだ。口実を得るまでは。 ところが、その口実をでっち上げることなら、戦後世界ではアメリカの常套手段だった。そしてまた、日本もその同盟国だ。戦争を仕掛けるとしたら、日本の側からだろう、というのが私の見立て。だから、危険な政権。


今のアベ政権なら、あの盧溝橋事件の再現さえやりかねないほど、危ないとみている。その矛先は、北朝鮮だ。 なぜなら、国際的な信用を失い、対話のテーブルに着かないのだから「こいつら相手なら、何やっても構わない」くらいには思っているだろうから。 だから、北朝鮮の挑発は絶好の手段になる。


だから、結論は、中国も北朝鮮も、散々挑発は繰り返すだろうが、実際には戦争をする気はない、ということ。むしろ、危険なのは、アベ政権による「盧溝橋事件化」の策動があるのではないか、ということ。 なぜなら、それによって、北朝鮮を韓国化するだけでも新市場が生み出せるのだから。


さて、もう一つの「非武装論」。 坊やたちが完全に勘違いしているのは、共産党が「憲法9条を堅持する」ことが非武装論だという早とちり。 非武装論は、今の社民党の前身の社会党の主張だった。共産党は独立自営論。 米軍を撤退させたのち、その従僕としての自衛隊という官僚組織を解体させたのち、


官僚的ではない自衛組織を作る、という発想だ。 何が大事かといえば、中央政府が権限を握った官僚組織ではない自衛組織、という発想だ。 世界のどこでも昔から、国防軍は人民に敵対したことも少なくない。クーデターで万単位の人民を殺害・拷問した例も少なくない。そういう軍政の可能性を奪うのが


共産党的な発想の人民が担う防衛組織なのだ。 思い切り雑な例えをするとすれば、いまの「消防団」のような性格の自治組織の一貫として「防衛」組織を作ることで、国の官僚システムによる軍事組織としての自衛隊を解体させる、という方向だ。 いやいや、そんな悠長な。今や最新兵器の時代。の異論も。


だから共産党が言うのは、そういう軍事的緊張を解消するための努力の上での話、ということだ。軍事的な力関係を誇示しようとも、それが無意味になるような環境を作ることで、「猜疑心」の関係から「共生」の関係へと作り変える努力。それが、LAでも東南アジアでも起きている運動なのだ、と。


武器を無力化するための努力は、絵空事ではない。現実に、武器に依存したがる勢力は、国連でも少数派となり、ASEANでもLA(ラテン・アメリカ)でも少数派となり、軍事同盟に参加しない国が増えている。 軍事同盟は、旧・帝国主義国だけになってきた。彼らの正当性は無くなり始めた。


そんな中で憲法9条の堅持というのは国際的な意味を持ち始めている。 日米軍事同盟のような帝国主義勢力の体制から抜け出して、なおかつ、武器を使わせない平和地帯の構築の先頭に立つだけの使命がある条文として。


自衛隊を解消するというのは、そういう意味でもある。防衛が心配なら、「防衛団」にこそ作り変えるべきだろう。 だから、憲法9条を堅持する姿勢と、自衛隊の段階的解消論とは、実際のプロセスの上では何の矛盾もないだろう。むしろ、アメ帝の下請けのような状態からの解放のためにこそ必要だろう。

差別 ⇒資本主義社会である限り、なくなりません。なんといっても、お互いが没落したくない競争社会なのですから。だから、セクハラもパワハラもあれば、職場から学校その他に至るまで「いじめ」の蔓延です。 なんとかして、うちだけは、幸運に恵まれたい。そんな人々の競争の裏面が差別ですから。


あり余るほどの生産力がありながら売れ残る恐慌でクビになって貧困を味わう。あり余る目の前の商品は誰も買えなくなってしまう。こういう矛盾した社会を終わりにしようというのが共産主義です。 ぶっちゃけて言えば、労働時間は今の半分でもいいくらい、というのが『資本論』が描く未来社会です。


資本主義社会は、もう、終わりにして搾取のない社会に作り変えようではないか。それが共産主義です。 勿論、ブルジョアジーは、絶対に体制変革を望みません。プロレタリアートとの階級闘争は避けられません。それが平和的だろうと暴力的だろうと。 平和的変革を望んでいるのは大衆政党の共産党です。


共産主義運動の実例を一つ。 きょうの共産党の「しんぶん赤旗」のコラム蘭「潮流」に載った話です。 80年前にフランスとスペインで人民戦線政府が樹立され、フランスでは労働者の生活改善の政策も大きく前進して「バカンス」制度を獲得した、と。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-07-28/2016072801_06_0.html …


共産主義者の運動は、何も労働運動には限りません。基本的には政治革命という政治運動なのですから。それに、さらに、もっと、実は、重大な課題だと見なしているのが社会革命です。政治体制を変えるだけでは世の中の変革は不十分。社会全体の仕組みや意識改革が欠かせない。まさに社会革命です。

一番肝心な話。 資本主義社会を終わらせて社会主義へ、さらに共産主義へというのはどういう意味かと言えば、人類史上初めて搾取のない社会、階級差別のない社会を実現しよう、ということです。


現代社会には巨大な生産と流通の能力が生まれています。この果実を私的所有に任せるのではなく、社会的な所有、つまり、民主的な管理のもとに運営しようということです。 例えば、会社の管理職とか経営役員など、身分上の違いがない人たちによる選挙制度にし、職場の選挙でいつでも罷免できる形です。


そうした民主主義が社会のどこでも浸透するようにすることが政治権力を獲得する政治革命にとどまらない社会革命なのです。 なので、例えば公務員にしても、あらゆる階層が選挙制のもとに罷免可能な形となり、どの役職だろうと収入には大差がない社会のイメージです。利権目当ての天下りもありえない。


といって、みんなが物足りない経済ではなく、誰もが今よりも生活水準が上がるし、労働時間は短縮されて家族のだんらんも自らの趣味も広げることができる社会です。
それほどに、今の資本主義的生産様式の社会はひどい搾取を受けているのです。
そうした社会を実現することによって、


遥か先に展望が開けるのが、 人が特定の職業に縛られ続けることもなく、人生のいろいろな機会にいろいろな仕事を選べる社会、それに耐えうる各人の知性の飛躍的な発展、生存のための生産活動の負担はますます軽減される社会(つまり労働時間の一掃の短縮)という「バラ色の世界」としての共産主義。


とはいっても、そんな先の話を楽しんでも仕方ないので、科学的社会主義の立場からは社会主義・共産主義とひとくくりにした表現だけにとどめていると思います。 実現可能性を見出すのは、まずは、日本社会の民主化という民主主義革命。その成果の前進を伴ったうえでの社会の社会主義化というプロセス。


ということで、共産主義者にとっては、やはり目標は搾取のない社会、階級支配の根絶という人類史上初の社会の実現が目標になります。 それを実現するプロセスについて、つまり運動の目標の立て方については、日本社会の現状をどう見るかという点で、かつて、社会党と共産党の論争がありました。


社会党は社会主義革命を目指すべきだと言い、共産党は民主主義革命が課題だと主張した論争でした。一方の側は今では消滅してしまいましたが、当然だろうと思います。革命というのは願望が先走っては誰も支持しないからです。 共産党の、日本で必要なことは民主主義革命からという路線が正確でしょう。


ただ、社会の民主化というだけでは、差別問題は解消できないだろうなと思っています。それに、社会主義社会に前進したとしても、たぶん、そう簡単には解消しないだろうと、個人的には、思っています。 一言で言えば、男女差別が解消される段階にならない限り差別の根は残る、というふうに思います。

 

 

 

 

 

安倍晋三とか小池百合子とか、いらない。

アベが語れない社会 ⇒例えばオバマの場合、理不尽な黒人殺害事件の度に人種差別でなく和解を呼び掛ける声明を出す。 相模原の事件は犠牲者・被害者の数からみても世界に配信されたほどのヘイト犯罪の異様さを示した。だが、首相は沈黙のまま。政府のどこからも差別のない社会への呼び掛けはない。

 

「国民の命と財産を守る」安倍首相の国民像は自民党改憲案の「家族の和、家族の支え合い」による自助努力・自己責任社会でしかないから、差別との闘いなどは語ることすらできない。むしろ、アベ的な自民党がまるごと「ナチのやり方に学んだらどうかね」(麻生太郎)体質だから。 小池百合子も一員。


弱者がいてこその社会

階段しかなかった所に緩やかなスロープが設けられ、建物の中の段差は極力なくしていき、横断歩道では青信号の時にメロディが流れ、電車のプラットホームに転落防止のドアが設置される。多くの弱者の犠牲と被害から生まれ、多くの人の命を救うことになっていく。人の命に向き合う事業こそ、公共事業。


目で追うだけでPCの文字入力ができてコミュニケーション・ツールを手に入れることができた人たちが、どれほど深い人間性の表現力を発露させたことだろうか。 パラリンピックで活躍する選手たちが頼りにしているのは、失った身体の補助具の世界一の職人というのは日本の職人たちだという。


技術の開発は、弱者の立場に立ってこそ、画期的な成果を生む。そのおかげで、ハンディキャップもない人たちは、ますます、利便性の恩恵にあずかる。 役に立つとか立たないとか、そういうプラグマティズムの発想であれば、実は、逆に、技術の進歩も滞(とどこお)る。


そもそも、誰が誰に存在理由の説明なんか必要なのか。 障がい者が生きるために、生きる理由など必要なのか。そんなふうに、人に存在理由を突きつける者たちは、反対に問い返されてみたらいい。「お前の存在理由は何なのか」と。 生きること自体を、なぜ、もっと喜び合えないのか。


と、言ってるうちに、涙が出てきた・・・。ここで終了。



東京都知事選 ⇒小池百合子にだけは騙されるな、と言いたい。ウソはつくし、政治資金などカネの問題には汚いし、頭の中身は戦前回帰の日本会議そのものの極端な右翼だし。バックがいないなんてとんでもない。自民党の中央は、除名もせず、しっかり抱え込んでいる。選ぶなら鳥越俊太郎しかいない。
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