孝徳天皇による大化の改新と、斉明天皇の重祚について | せぐ吉の読書ブログ

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『孝徳天皇による大化の改新と、斉明天皇の重祚について。』(第3回)(重祚とは、一度引退した天皇が再び皇位につくことをいう)

参考文献は、橋本治さんで『日本の女帝の物語』(講談社新書)。



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皇極天皇の後をついだ36代孝徳天皇は、開明的な人物だった。即位後、都を大阪難波に遷すと様々な行政改革を強行した。

殉死の禁止、戸籍の整備、地方行政の整備、役職世襲の禁止、冠位や官僚機構の再構築、儒教式の礼法の導入、等々。

孝徳天皇によるこれら一連の改革は、後の世に「大化の改新」よばれる。

しかし、数々の改革を強行したためか、孝徳天皇は多くの敵を作ってしまう。世論は古き善き時代の秩序に戻ることを望み、その期待は皇祖母尊(皇極天皇)のもとに集まっていた。


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約10年間の孝徳天皇の治世は、皇祖母尊(皇極天皇)の人柄をかえた。弟の振る舞いをみるうちに、皇祖母尊は天皇という位のもつ権力の大きさを理解し、興味をもつようになっていた。

皇祖母尊は、反・孝徳天皇勢力の旗頭として積極的に活動した。


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紀元654年、孝徳天皇崩御。皇祖母尊は世論に歓迎される形で、再び皇位につき、斉明天皇を名乗った。

しかし斉明天皇の治世は、世論の期待した通りにはならなかった。


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斉明天皇は、自身のため巨大な庭園を作成した(両槻宮)。あからさまな権力の私用行為であったため、多くの人は彼女の思惑に失望した。

現在、奈良の観光名物となっている、亀石、猿石、酒船石等は、斉明天皇の作成した庭園のオブジェではないかとも言われている。

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〈所感1〉
大化の改新。蘇我氏の暗殺事件はただの導入だった。

孝徳天皇は、古墳時代的な経営(人治主義)を、法律に基づく国家の運営(法治主義)へと政体を移行させた。権力者のさじ加減で自由にできない領域を一つ一つ明確にした。

この流れは、約50年後に完成する大宝律令へと繋がる。今回、意図的にふれていない中大兄皇子については、後のページで。

〈所感2〉
亀石、猿石、酒船石等。謎の奇石とかいわれるとオカルトネタだけど。庭園のオブジェっていわれると、ガッカリしつつもいろいろ腑におちる。