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『皇位継承のルール「譲位」。その初めてについて。』(第2回)
参考文献は、橋本治さんで『日本の女帝の物語』(集英社新書)。
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34代舒明天皇まで「譲位」という手段は存在しなかった。一度皇位についたら、死ぬまで天皇の位に在りつづけるというのが常識だった。
○舒明天皇の死後、天皇の位につくよう求められた宝皇女(舒明天皇の后)は、その要請を喜ばなかった。しかし情勢に押される形で、35代皇極天皇を名乗らされた。
皇極天皇本人に、施政に参加する意思はなく、実質は蘇我氏が切り盛りをしていた。
◇即位より3年経過した645年。自身の後見人である蘇我入鹿が、息子の中大兄皇子に暗殺されるという事件(大化の改新)が起きた。
即位の時よりその位を重荷と感じていた皇極天皇は、この事件を機に引退を宣言した。(事件の大きさに引きづられる形で、この宣言は受理されてしまった)
天皇の位は、弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲り、自身は政治の舞台より身を引いた。
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〈所感〉
後の時代になると、いろいろ争いの原因となる「譲位」という制度。最初は自然な流れの中(事件のどさくさ)で認められました…という話。