(『その1』から つづく。)
引き続き、
● 7月1日(日) 横浜
10:40 ~
◆ [2]『日本郵船氷川丸』
退役後、横浜港に係留されている貨客船。船内を資料として公開中。
この日の行程の後の方に登場する(予定の)『日本郵船歴史博物館』とは “ 姉妹館 “ とも言える関係かと思います。
徒歩で 20分くらいの距離にはありますが、入場チケットはそれぞれ単独のものと/お得なセット券の設定があります故。
『歴史博物館』の方には過去 3回ほど訪問しております。
最後に行った際、「そのうちに行くから・・・。」と『氷川丸』とのセット券を購入。(期限なしで使えます。)
そして そのまま紛失しました。
今回は確実に両方観るので(予定)、改めて お得なセット券を購入。
『氷川丸』の方は、その外観を観るのもお初。
いや、これだけ横浜行ってるし、山下公園にイベント観に行ったりもしてるので観てないはずはないのですが・・・。
その存在自体を意識していないと “ 見たはずなのに見えてない “ ってなことになってしまうんでしょう、きっと。
歴史博物館 に 氷川丸 竣工当時に作られたという大型の模型が展示されているので、「デカい船」というイメージだけはありましたけど。
ちょっとマニアックな 歴史博物館 には 3回も訪問しているわけですが、メジャー度で言ったら「むしろ『氷川丸』の方が先なんじゃね?」と思います。
まあ、それくらいに「『氷川丸』の何たるか?」というところが全く分かっておりませんでした。
「『日本郵船』っていうくらいだから、郵便物を運ぶ船・・・?」
みたいな、かな~りテキトーな認識。
乗船してすぐのホールに大きなスクリーンがあって、日本郵船 や 氷川丸 の歴史を解説するビデオが上映されてました。
(結構長くて、10分くらいはあったかと思います。)
そこで得た 氷川丸 についての知識は、かな~り大雑把に
・昭和初期に竣工。
・第二次大戦中は病院船として軍に徴用され、白塗りに赤十字の姿で運行。
そして、そのビデオで特に「へ~!」と思ったポイントとしては、
・戦後は「引き揚げ船」として運用された。
というところ。
南方の兵士引き揚げに始まり、後に満州開拓団の引き揚げに従事したとのこと。
私の父親の一家は満州開拓団として彼の地へ渡っております。
(父が 4歳の時に渡航、終戦の 1年後 9歳で帰国。)
父親から聞いた満州にまつわる話と言えば、親戚の集まりの席でお決まりのように語られる「お手伝いの中国人一家の話」とか「屋外のトイレが凍る話」とか。
冬は -30° の極寒という過酷な環境。
にも関わらず。漠然とではありますが、雄大な自然と牧歌的な生活をイメージさせるエピソードがほとんどでした。
加えて、「ソ連軍に追われて命からがら逃げ出して来た。」という話もなくはなかったのですが・・・。
父の友人に、自費で地元の郷土史を編纂/製本して友人知己に配っている方がいらっしゃいまして。
(趣味の延長線上(?)とはいえ、20頁/1巻 くらいで 2018年 8月現在 既に 80巻(!)に及んでいます。)
父が生前 その友人の達ての希望で満州の記憶を手記にまとめていたのを知ったのは、父が他界した後でした。
当時のことを思い出すのも辛いと拒む父を どうにかこうにか説き伏せて・・・という状況だったらしい。
現地での生活自体については、「今思い出しても、楽しい日々であった。」という述懐も。
実際に前述のイメージに近く、日々の農作業にまつわる話などが当時小学1~2年生の子供の記憶とは思えないくらいに仔細にしたためられております。
ところが・・・。
終戦を境に、状況は 正に一夜にして激変。
約 10日間・300km に及ぶ 凄惨を極めた逃避行の後、現地での 1年間の収容所生活。
逃避行の途上では、多くの人々が命を落としたり/脱落して取り残されて行く様を目の当たりにしつつ。
自身も一時家族とはぐれたりと、ホントにギリギリのところで生きて帰国が叶ったという状況だったらしい。
引き揚げについては「九州博多港に着いた。」という一言で語られていて、詳細は分かりません。
『氷川丸』船内観覧の順路も終盤に差し掛かった頃、急に「もしかしたら・・・。」という思いに駆られまして。
「幼い当時の父親が、正にこの空間にいたのかも知れない。」
そう思うと、涙が溢れてまいりました。
(幸い周囲に人はいなかったので、セーフでしたが・・・。)
今となってはホントのところは分かりません。
引き揚げ船について浅~く調べてみた限りでは、米国の艦船やら小さな漁船なども投入されていた模様。
となると、父が 氷川丸 に乗った可能性は決して高くはなさそう。
でも、氷川丸 が博多を拠点に満州方面からの引き揚げに従事し始めた時期と 父の帰国時期とがちょうど重なっております。
父が乗った引き揚げ船が 氷川丸 だったのかどうか?
最早 “ そこ “ は左程重要ではないのかも知れません。
それでもやはり、「もしや・・・。」と思ってしまう。
氷川丸 に対して、にわかに愛着のようなものが湧いて参りました。
(単純。)
ふと、「ここに父親を連れて来たかった。」とも思いましたが、それはきっと余計なお世話なのでしょう。(もしかしたら何かの折に訪れていたかも知れないし。)
私が勝手にその先に思いを馳せるためのトリガーとして内に留めておけばよいだけのお話かと。
(『その3』に つづく。)
■ FJスズキ ■