こんにちは。芦屋の癒し人、松村知典です。
自分ではそう思っていても、
他の人はそう見ていない状態がある。
もしかしたら、それは正しいのかもしれない。
複数の界層から見た場合、いろいろな見方があるからだ。
深慮
ものの見方について思うことを書いてみる。
あることを正しいと考えている人がいる。
そのあることを、正しくないと考えている別の人がいる。
正しい、正しくない、というものの見方。
それは、ある認識を持って、その判断がなされている。
したがって、その認識が異なっている場合、
そのふたつの意見、
正しい、正しくない、は相いれない。
ものの見方が異なっているからだ。
たとえば、ある認識を考えてみる。
経済的利益が一番だと考えているひと、認識を持つ人がいるとしよう。
このひとにとっては、利益が上がることが最優先。
そこには、極端な場合、経済的活動の伸張のみが目に入っている。
そして次に、
ひとのために役立つことを一番だと考えているひと、認識を持つ人がいるとする。
このひとにとっては、他の人のために役立つことが最優先。
そこには、極端な場合、他の人への奉仕のみが目に入っている。
ふたつの立場において、
それぞれが絶対正しいと認識している場合、考え方にずれが生じる。
目的や見ている到達点が異なるから。
世の中の全ての不調和は、その部分の認識の仕方の差異によって生じる。
そういう時に、私はよく思うことばがある。
ダライラマがよく使っている言葉。
「利他の心」
「菩提樹の心」
自分と他人を置き換えて考えてみること。
他人にやさしく接すること。
分かりやすい。
認識する基準を持つのに最適な考え方だ。
コンビニ問題で、ニュース解説者が言っていた。
「これを自分の会社だと思うと、こんな近くに同じ会社を作ることはしませんよね」
ものの見方が優しくなくなっているひと。
それは、恐怖に支配されている状態の人とも言える。
誰も好き好んで、他人がいやがることをする人はいないだろう。
それ以上に、そのひとは恐怖に襲われている。
自分と他人を置き換えることを無視して、目をそらして、見ていない状態。
こういうことがなくなると、
人間の美徳として、
当たり前に備わっている状態のもの。
ダライラマの言葉もあえて言う必要がなくなるのに。
それを分かった顔をして、したり顔で、
この世界での「学び」と言ってしまうのも、非常に味気ない。
それを地道に変えていこうとするひとたち。
そういう行いをみていると、「いいな」と思う。
ガイアの夜明け、カンブリア宮殿を見ているときに思う。
最近よく思っていることのお話でした。
●DNA活性!サイキック能力の開発!
●アトランティス伝承の神秘的プログラム
