PASTBLOG -21ページ目

僕がただのチキンでしかないというお話。

このまえ帰省したときのこと。

小・中学校時代の友達で集まりました。
学童に通っていた僕たちは、家族ぐらいの頻度で会って
夏休みも、冬休みも遊んでたりもした。

中には、(僕も含めて)就職を控えたやつ、留年したやつ
もう働いているやつ、いろいろ。

そん中でも浪人し、さらに留年したやつがいた。
聞けばネガティブで、環境や周りのせいにして
なぜか、いろいろな事に諦めムードが漂う。

ここで、僕が取った行動は一つ。
「ただただ聞く」ということ。
つまりはそれに対して何も言えなかった。

言うのが良し悪しという問題があるかもしれないが
僕は曲がりなりにも学生団体をやっている。

「動くこと」を知って、大学生活を楽しんでもほしい
それをずっと伝えている。

いやそれは、伝えている「ふり」を
していただけだったのかもしれない。
もしくは、そんなこと、できていなかったのかもしれない。

悶々としたその人を目の前にして
何もすることができなかった。
逃げていた。刺されるのが恐くて。

昔と違うな、とか言われたり
なんなんだよ、って反応されたり
嫌な雰囲気になるのが恐かった。





何をしているんだ。俺。

何かしたかった。
でも、フィルターをかけて
何もできなかった。

というよりは、
何もしなかった。

自分という人間を、
自分で否定してしまった感じ。
とてもへこむ。

***
もっともっと、オリジナルで。
もっともっと、コミットしないと。

結論を言えば

こんな人間が学生団体、を名乗っていて
とても申し訳なかったという思い、

そして、そのもやもやを自分にもたらしてしまった
自分に反省という

その2点であります。

未来を写した子どもたち

『BASURA』と同じく、にしのみや・アジア映画祭にて*

とにかくwebを見た瞬間に、この映画は見なきゃいけないと思った。
インド、売春窟、カメラ、子供、、何かが臭う雰囲気。
そしてインドを旅した身として、もっともっと知りたいという好奇心。

一人のカメラマンが入り込み、奮闘しながら周りを巻き込んで
「ムーブメント」起こし、本気で取り組んでいる姿には感動しました。

***
貧困をなくそう、とか、貧しい子供にボランティアを
みたいな、軽い言葉の増幅装置に僕はなりたくなくて

あのカメラマンのように、隣の人一人でもいいから
なにかをしてあげられる革命家になりたい。

>>>>introduction
インド・カルカッタの売春窟で暮らす子どもたちに、夢や希望は与えられていない。女の子は売春婦に、男の子は女たちの世話をするよう運命付けられている。

ニューヨークで活躍する写真家ザナ・ブリスキが、売春婦の取材にカルカッタを訪れた時、そこで暮らす子供たちの悲惨な運命を目の当たりにする。ザナは「どうにか子供たちをここから救い出したい」願いから唯一彼女にできることを始める。それは写真教室を開くこと。インスタントカメラを購入してそれを子どもたちに与え、構図から現像まで一通りのことを教え始め、同時に映像作家ロス・カウフマンがその活動を映像に収めていった。(HPより)
http://www.mirai-kodomo.net/

>>>>trailer


***
映像も綺麗で見やすく、刻々と変わる子供とその世界に、心を奪われる。
そして何もかもがうまくいく、わけでないリアルなところが
また一ついいところでもある。

見てください。

BASURA

先日の「にしのみや・アジア映画祭」にて。

ちょっと前からこれには注目していて
やっと見れたな~という感じ。

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 2006 年、新たな気持ちでフィリピンの貧しさの現実に向き合う覚悟を決め、四ノ宮浩は自らの作品の原点であるマニラを訪れた。
 そこで目にしたのは商店街の軒下で寝転ぶホームレスの家族や、街中でゴミをあさる子供たちといった初めてフィリピンにやってきた20 年前となんら変わらない貧しい人々の光景……。 そんな中、第一作『忘れられた子供たち スカベンジャー』との舞台であり、1995 年11 月に政府によって閉鎖されたスモーキーマウンテンの周辺だけはどこか整然としていて、「変わった」という印象だった。 
 20年前に撮影を通して出会った彼らはどうしているのだろうか?
 四ノ宮浩は、処女作『忘れられた子供たち スカベンジャー』を通して出会った登場人物たちをひとりひとり訪ねる旅に出た。(HPより)

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 フィリピンはマニラ近くのゴミ山に暮らす人々を描いた作品。ハンディのドキュメンタリー性と人間味で溢れている。プロデューサーが何かを意見したりするわけでなく、ただただ、映像が提示される。
 貧困ってどうしたらいいのかなあ、、と、漠と考える。
 「この国が良くなる一番の方法は、大人が全員死ぬことだ」という、劇中タクシー運転手の言葉が忘れられない。その言葉通り、子どもは実にまっすぐで、倫理観も希望もある。それに社会が応えれてないのかなあ、と。
 結局は国の「志」次第?その国が何をポリシーとして何を目指すのか。それが明確で、かつ人々が国を選べるような、そんな柔軟な世界はありえるのかなあ。ナショナリズムが「場所」でなく、人々の「心」にあれば、どうにかなるのでしょうか。
 
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