ニヒルなニーチェの原罪論から日本人の隠匿体質を探る? | Do More with Less

Do More with Less

好きな事=主張したい事を唯我独尊のスタンスで書いてます
クルマ、バイク、モーターレース、音楽、映画、本、社会に対して言いたい事、twitterでつぶやいた事のまとめ(キュレーション)など
メインタイトルは尊敬するCG創設者の故小林彰太郎さんの書から引用しました

よくXでの情報拡散ポストで取り上げているのになぜか人気の低いサイトからまた気になるモノが有って、それに関する思考を表しましょう。

 

 

この方のブログ記事は欧州の政治情勢を知るのに非常に役立っているのですが、哲学や宗教の話、特にキリスト教の話になるとやや専門的過ぎる様に感じられて、もしかしてそれがあまり一般に拡散されない理由なのかと思っています。

 

それで今回取り上げられた題材はそれこそ日本の組織(学校、起業、官公庁)でよく行われる事でもあるので傾聴というか傾読する必要が有ると思ったのですが、例によって哲学者ニーチェの話で例えられています。

 

> ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900年)は「神は死んだ」と言明したが、それだけではない。その後に「私たちは皆、(神を殺した)殺害者だ」と言い切っているのだ

 

> ニーチェは人間は原罪を背負う存在だというキリスト教の根本的教えを「私たちは全て、犯罪者だ」と表現した。皮肉なことに、「原罪を持つ存在」ゆえに、そして「私たちは全て犯罪者である」ゆえに、他者の罪に対して寛容な対応を強いられてきた

 

つまりこんな事を前提にしたら他人の罪を見て見ぬ振りをするのは原罪と延長として認められてしまうのである。だからカトリック教会の性犯罪を見逃してしまった人に罪は無いとなってしまう。ここに何とも言えないやるせなさが感じられます。

 

ところで一方今の日本ではどうでしょうか?我々日本人のほとんどはキリスト教徒ではありません。それでは仏教徒かと言うとそうとも言えずあまりに複雑な、それこそ日本的宗教観で生きています(簡単には神仏習合と言われるが、そんな簡単には言い表せない)。

 

その日本人の宗教心や哲学心(後者についてはほとんど無いのかもしれませんが)に照らすと、上記は絶対当てはまらないと言い切れます。なら何が日本人の隠匿体質を形成しているのか?

 

やはり簡単に言うなら同調圧力体質でしょう。そしてそれこそが日本人の宗教観の正体。

 

残念ながら日本でもカトリック教会並みに隠匿体質が治りそうもありません。