スポーツの世界でも社交ダンスの世界でも名人と言われ
多くの人達の憧れと成っている人達は一体私達と何処が
違っているのでしょう。
名人と言われる人達には長年の厳しい練習の元で素晴らしい
パフォーマンスを獲得した方がいるかと思えば殆ど目立つ
練習をする事なく特別の知識を持っているとも思われないのに
一度踊り出すと誰もが目を見張る素晴らしい音楽表現を
いとも容易く演じて見せる人もいるのです。
人並外れた努力の末素晴らしい音楽表現が出来る様に成ったと
言うのなら納得できるのですが殆ど練習をすることなく
本番になると別人の様に素晴らしいパフォーマンスで驚かせ
理解しがたい踊り手もいるものです。
私が現役当時同期で競っていたプロの選手の中にも素晴らしい
成績を収めるのに普段は練習も競技会の一週間ほど前からしか
すること無く賭け事に明け暮れている教師が居ました。
しかしながら競技会と成ると豹変し誰よりも練習をしたかの様な
パフォーマンスで審査員でさえ目を見張りました。
まさに天才としか言いようがないと誰もが思ったものです。
では死ぬほど努力をして素晴らしい音楽表現を身に付けた人と
ほとんど何もしないで驚くべき成績を収めた人と何処が違うので
しょうか。
自分は才能が無いとか運動能力が無いとか言って踊る事を諦める
人並み以上の素晴らしい踊り手を多く見て来ましたがもう少し
頑張れば素晴らしい踊り手に成るのではと思える場合も少なく
ありませんでした。
やはり諦めないで続けることが何事においても思いを達成出来る
方法かとも思われますがその一方努力では語れない別の理由が
有る事も事実なのです。
それは才能と言うものでは無く誰もが持っている自分が演じたい
パフォーマンスを思うがままに演じる能力です。
この力はあらゆる状況に対応出来持っている能力を最大限発揮
出来る運動機能なのです。
天才と言われる人も努力の結果思うがままに踊れる様に成った
人も同じ領域の運動表現を身に付けたと言えるのです。
私達は多くの知識や運動表現を学びその記憶を元に身体を動かし
思うようなパフォーマンスを行いたいと思うのですが
その覚え方や演じ方はそもそも自分が思うがままに踊れる方法
では無く客観的な印象の元に作られた真似事に過ぎないのです。
私達の身体は本来身体に備わった感覚機能が外界の物事を
感じ取り反射的に身体を動かすように出来ています。
つまり前もって運動形態を決めておいてから記憶の元に動く事は
非常に不自然と言えるのです。
踊るフィガーやルーティンが決まっていても演じ方を知って
いたとしても常にお相手の運動表現に反射的に動くように
出来ているのです。
何故踊る時は自分の身体の動き以上にお相手と音楽を感じる事が
重要かという意味でも有るのです。
例え多くの知識を持ち運動能力に長けていたとしてもお相手と
音楽を感じないで自分の思いだけで音楽表現をしようとすると
正確に演じているとしてもそれはお相手にとっても自分自身に
とっても不自然な運動と成ってしまい身体が自然に踊る事を
拒否してしまうのです。
上手く踊れない一つの理由に自分の身体が欲しない運動を
行っていると言う事が有ります。
社交ダンスは男女がお互いにお相手の心と身体を感じる事で
その時その場面での最適な音楽表現が生み出されるのです。
天才と言われた彼が練習を差ほどしなくても競技会に於いて
素晴らしい成績を上げる事が出来たのは彼にはお相手の
心と身体を感じる力がとても強かったと言えるのです。
社交ダンスをする時もスポーツをする時もこの対人対物の
センスが如何にあるかが持っている技術や運動能力を発揮する
大きな力と成るのです。
社交ダンスだけでなく日常生活に於いても常にこの感覚を
育てる事に因ってあらゆる状況に対応できる力を身に付ける事が
出来る様に成るのです。
既成の知識のみならず自らの持っているあらゆる状況を楽しく
幸せにする能力を育てる事が生きて行く上で一番大切と
言えます。