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断片の集積

日々の断片を記憶に残すために集積する



主にポルトガルでの生活について

アルバム曲はまだ手探り感もあったけれど総じて最高でした。
本編2時間弱でしたが3時間半くらいの充実感。
疾走、MAWATA、Reverbの厚み、熱量は素晴らしかった。
金やんのベースと亀井さんのコーラスばかり聴いてた。
金やんかっこ良すぎる。

色々書きたいことあるけれど、ライブ全てから感じたことを端的に二つだけ。

一つ。彼等にとって彼等の音楽を奏でることは呼吸するのと同じようだと感じられたこと。
二つ。彼等がいれば僕らは安心して大人になれる(歳を重ねられる)ということ。

この二つが分かれば他には何もいらない。


彼等のライブを聴いて欲しい。
6/6ツアーファイナル豊洲PIT、まだ空いてるみたいだよ。


P.S.ツアーパンフは角田さんデザインでした。嬉しいよ。
こんなこと書いてる場合じゃない。明日の午前中の打合せまでにやらなきゃいけないことが山積み。

でも、書きたいから、書かないと前に進めないから書く。

『今回のツアーは一つも上手く曲振りが出来てない』と話していたが、わっち本人の口からの活動休止の理由とその直後にやった「Message from the front」を聞くために行ったという感じ。
「Message from the front」ってそういう曲だったのか、と。

それと、ダブルアンコール後のSEが「ロードストーン」で、ファンがみんなで大合唱していたのだけれど、その様子がすごくて(あと、小さい会場だったりするとメンバーがステージに戻ってきてSEに合わせて踊るっていう恒例行事があるから、今日も戻ってくる可能性あるのか?と思って)、曲が終わってからもずっと動かずにその様子を見ていた。
SEの曲が切れても「おーおおお」っていうコーラスをファンがみんなでアカペラで歌い続けて、その様子はまあ壮観で、「これどういう終わりを迎えるんだろうか」と期待して待っていたら、PAが「レインメーカー」(だったかな)を流して、それでファンも終わりを悟って、みんなで拍手しておしまい。
「レインメーカー」(だったかな)が流れ出した時に隣にいた人が「ずるいな」って呟いたんだけど、俺もそんな気持ちだった。もうちょっと歌わせてくれても良かったと思うよ。ファンみんなが「ああ、これはもう出てこないな」ってなんとなく感じるまでは歌わせてあげれば良かったのに。
多分、2階で見ていた関係者とかも含めて、あの場に残っていたみんなが「もう少しだけ、この瞬間よ、続け」って願っていたんだと思う。

バンド側が「マイナスなことがあって活動休止をするんじゃないよ。このままやり続けることも出来るけど、ちょっと時間が欲しいんだよ」っていうことをライブ全体を通して表現していたから、見ている側も、決して寂しい気持ちにもしみったれた気持ちにもならなかったし、「きっとすぐ戻ってくるでしょ?」って思えたけど、でも、やっぱり同時に(最後のライブも最高に良かったからこそ)「まだ、終わらないでくれ」って言う気持ちがずっと絶えなかった。
終わってから時計をみたら2時間半以上やったんだけど、前回のブリッツでは「アンコールでVERTIGO(2枚目のミニアルバム)全曲再演」があったことがどうしても頭の片隅にあるから、一発目のアンコールのときは「もう終わりなの?」と感じてしまったし。

で、わっちのメッセージの概要を書き記しておくと、
「ずっと純粋に音楽が好きでやってきた。すげー曲が書きたいとか、みんなに喜んで欲しいとか、売れたいとか、でかい箱でやりたいとか、そういう漠然とした目標を持ってやってきて、それはあくまでも象徴みたいなもので、そこに向かっていればそれでよかった。
でも、続けているうちに色々な足かせが出来て、大きな目標を達成するためには、小さな目標を立てて、一つ一つクリアすることを要求されるようになった。例えば、箱の話しだと「ブリッツはもう満員にできるから、つぎは●●での開催を目指しましょう」みたいに。
そういう足かせを具体的に意識し出すと、大きな目標も具体的に立てないといけなくなってしまって、それがどんなに大きな目標であっても、仮にその目標に到達したら、じゃあそこでゴールしてしまって、終わりなのか?と疑問に思うようになった。
そのことを疑問に思うようになってしまってから、色々な足かせを取っ払って、純粋な想いを純粋に形に出来る状態にならないとこのまま続けても音楽を嫌いになってしまうし、いろんなことが嫌になってしまうと思うようになった。
だから、色々なことが綺麗になるまで、すこし休むことにした。
全然上手く話せないけれど、大切なことは全て歌の中で言ってきたつもりである(俺がお前のロードストーンになろうとか笑)。」
記憶で書いているので、あくまで俺のフィルターが掛かっているし、俺はこういうメッセージだと受け取った、ということだけど、まあ、大体合っていると思う。

それで、この話しのあとに「Message from the front」を歌った。
多分法律的にアウトなんだろうけど、歌詞全文記載しておく。

『進んでるか止まってるか見分けもつかぬ
仕事を抱えながら
続けるだけじゃどこにも辿り着けない
男は知っていた

真夜中に紛れてロードワークを始める
走ることは美しい
風はつくるものだ 景色は変えるものだ
それを教えてくれる

It' message from the front

「自分らしさは」勝てなけりゃ意味がない
男は知っていた
しみったれた「ありのまま」じゃ辿り着けない
男は走り出す
Message from the front

進むだけでゴールに近づけることがあまりにも少ない世界で
走り出せ

Message from the front

You'll get a message from the front』


2回目のアンコールのときには竹尾も喋ってくれて、それは
「(客席から「3年後」という声があったのを受けて)3年後になるか何年後になるか、帰ってくるかどうかも分からない。だから、待っててくれなんて言わない。他に好きなバンドが見つかったらそのバンドを全力で応援して欲しいし、やりたいことが見つかったなら全力でそのやりたいことをやって欲しい。でも、戻ってきた際にはまた全力でお前らのこと口説いてやるからな!」
というもの。これは結構ぐっと来た。

オーラスは今までみたいに「LOVE」じゃなくて(LOVEは3曲目ぐらいでやった)、「フラッシュワープ」。
最後の歌詞が「また会おうよ」だからね。でも、バンド側がそういう意志を伝えてくれたんだから、僕らは大人しく待っている。ただそれだけ。


もう少しだけ(ライブの内容どうこうとは外れる話しだけど)書いておく。

一つ目。最初にfozztoneをブリッツで見たときは(それまでちっちゃい箱でしか見たことなかったから)「fozztoneってこんなにファンがついてるんだ、ブリッツクラスでも満杯になるんだ、嬉しいな」と思った。でも、今回は「fozztoneってこんぐらいの箱が最低限の基準で、もっと大きい箱のほうが似合うんじゃないかな」と素直に思った。それと、もう4月のgrapevineツアー初日のブリッツのチケットを確保しているので、最初の方は「grapevineこの規模で見られるなんて嬉しすぎる」なんてことを考えながら見ていた。

二つ目。開演ぎりぎりで入ったため場所がなくて一番後ろの照明をいじるブースの真横で見ていたので、ちょくちょく照明の操作を観察していた。若い女の子がやってて素直に「すげーな」と思いながら見ていたんだけど、そういうことに意識が向きだすと、段々、無意識に照明のデザインのことを考えてしまっていた。「デザイン」っていうのは、スイッチングのタイミングとかはもうプロの技って感じで、すごいんだけど、きっとバンド側とリハしながら決めたんであろう、例えば「このタイミングでミラーボール使うんだ」とか、「暗転させるタイミングワンテンポ後の方が良かったんじゃないの?」とか、「二回目のアンコールで、少しでも長くメンバーの姿を目に焼き付けたいっていうファン心理なのに、後ろから強い照明あてたらシルエットしか見えないじゃん。これライブのスタート時には効果的だろうけど、このタイミングでやる演出じゃないだろ」とかのこと。あんまり照明のことなんて考えてライブ見たことないけれど、こうやって見るとまた違った楽しみ方が出来て面白い。でも、ライブを楽しむことより、ステージ全体をどう演出するかということについて仕事のときと同じ意識で見ちゃうから、それはいいのか悪いのか分からないが笑

なんだかんだ、最高に楽しめたよ。
fozztone、待ってるから早く戻ってきてね。


そうだ、最後に一つ。
ライブ終演後に中村貴子さん(貴子さんについては一ファンとしてだいぶ昔に本ブログに書いた)がツイッターに
「フォズヘッズが聴かせてくれた、ブリッツに響き渡るハンドクラップとストンプ。
日本のライブでも、こういうこと、出来るんだよね。
日本人でも、こういう楽しみ方、出来るんだよね。
光を貰ったー☆」
って書いてくれてて嬉しかった。
フォズヘッズとしても嬉しいし、中村貴子ファンとしても嬉しい。なんだかむずがゆい感じ。
それとそれと、貴子さんツイッターで「どやさ」って使いまくってて、それも嬉しい。
前回のgrapevineのBurning treeについて書いた時に、最後に「どやさってどこかで使っているのを見たら、『こいつまたGRAPEVINEに影響されてやがるな』って思って軽く流して欲しい」ってことを書いて、まあ、別に書く程のことじゃないかって、消したんだけど、
貴子さん影響受けまくってるじゃん笑

おれも「どやさ」使いまくっていこっと。
4年と少し前に、藝大生と話して考えたことを
「リアリズムに関して考えたこと」として本ブログに書いた。

あれからまだそんなに経っていない気がするけれど、それなりの時間が過ぎ、
彼女はメディアから「期待の若手」と評されるようなアーティストとなり、
僕もまあ色々あるが、建築の仕事に従事している。

そして、昨年末に彼女から連絡があり、
「初めてインスタレーションをやるから手伝ってくれないか」と相談を受け、
実現方法から制作、設営まで関ることとなった。

出来上がった作品がどんなものなのかをこと細かく説明するつもりも無いし(後程さらっとは書くが)、
作品の背景についても明らかにはしない(何となくは聞いたがちゃんと理解していないという理由もある…)。

ただ、出来上がった作品が、4年前に考えたことと非常にリンクしており、“リアルさ”とは何か?という問いかけになっているように感じたので、あくまで客観的な感想として、再び“リアルさ”について書いておきたいと思った。

今回制作した作品について簡単に説明すれば、
観客が作品を見るラインから奥へと、1mごとにレイヤがあり(全部で5レイヤある)、その一番奥のレイヤだけが絵筆で書いた油絵の作品(おおきな1枚の絵)で、それより前のレイヤはすべてフォトショップで加工したものを印刷したパネルが数枚ずつ吊るしてある構成になっている。
そして、作品を見るラインのある一点に立つと、全てのパネルと奥の大きな油絵がうまいこと重なり連続するため、一つの大きな作品として完成する。
というもの。

この、「ある一点から見ると全てが繋がって、一つの大きな作品として完成する」ということを実現するために、色々と精度が求められ大変だった訳だ(だから、その見え方に大きな意味があるのだと思う)、が、個人的にはそこは興味の対象ではなかった。

時間をかけて人の手によって描いた油絵と、一見同じように見える印刷したパネルがどのような違いを持って見えて来るのか、はたまた全く違いが感じられないのか。
鑑賞者はどう受け取るのか。
それが最も気になるところである。

一番奥のメインの絵は中心に配され、一番大きい。
なので、その絵が重要であることは一目瞭然である。
一方、その絵は鑑賞者からは最も遠いところにある。そして、特別にその絵だけを引き立てる様な(その絵だけに特別に強く光を当てるという様な)演出もしていない。

何も知らない人が“フィジカルな行為を伴う油絵”と“機械によって印刷されたパネル”の違いを
説明されなくとも強く感じるのだろうか?

少なくとも、それを感じるためには油絵とパネルを別々に認識することが必要になってくる。

最初に作品を見た瞬間というは、どうしたって全てのレイヤが集まった“全体”を一つの作品として捉えることになる。
遠くから見た作品全体には圧倒的なパワーがあるし、
「ある一点から見るとすべてが繋がって一枚の大きな絵に見える」という説明がなされていれば、嫌でも「その一点から作品全体を把握しよう」ということに意識が集中する。

そこから「油絵⇔パネル」に着目するためには、鑑賞者がそれぞれの中で(ある一点に立って)作り上げた全体としての作品を、再度意図的に解体することが必要になる。
その、「解体」という作業を手助けするために、レイヤの中をくぐって(作品に入り込んで)一番奥の油絵の前まで歩み寄って行くことを許容している。
(この『個々人の意識の中で作品が解体すされる』という点が、アーティスト本人の言う「デコンストラクションへの興味」に繋がっているのでしょう。よくわかんないけど…
もう一つ言えば、“解体”するためにはその前に“構築”が必要となるので、一点からのみ作品全体が繋がるという仕掛けはとても重要な訳だ(興味の対象ではないと先述してしまったが笑)。)

何も説明がなくとも、この作品に興味を持った鑑賞者は、レイヤの中へと進んで行くだろう。
そして、パネルと油絵それぞれに近づいて、目の前でそれぞれを見れば、(材質的な違いではなく、訴えかけてくるパワーに)大きな違いがあることに気がつくだろう。

そして、一番興味があるのは、
もう一度作品からはなれて、元の位置まで戻ってきた時に、どのようにこの作品が見えて来るのかということである。

その人はもう、パネルと油絵の違いを知っている。違いを知った上で、もう一度全体を見ている。
その時に最初と見え方は変わるのか、変わらないのか。
中心の油絵がより強く見えて来るのか、全体を認識しようとすると全体の一部として他と同化するのか。
仮に、強く見えてくるなら、それは(フィジカルな行為を伴う)油絵なのだということを知った“知識”によるものなのか、近寄って見た時に受けた“感覚”の違いから来るものなのか。

そういったことに対する「問いかけ」として
今回制作に関ることのできた“この作品”は非常に面白いと思う。
そういった意図をそれとなく投げかけることが出来れば、鑑賞者に「リアルとは何か」を考えてもらうことができる作品だと思う。

もしこのブログを読んで、“この作品”がどの作品なのか分かって、その作品を見に行く機会があるという方は、ぜひ、最後にレイヤの中から戻って、振り返って見た時に何を感じたのかを強く記憶に留めて欲しいと思う。

作者が「リアリズムの作品をつくる意義はこれだ」と語っていたり、そういうことが
分かりやすく見えて来る作品よりも、こういった「問いかけ」になっている作品の方が意味があると思う。
こういう作品に関ることができたのは嬉しい。



僕が4年前に頭の中で勝手に考えて出した答えを疑ってみる様な、鑑賞者それぞれが考えるきっかけになる様な作品を、4年前の僕の勝手な考察などつゆ知らないはずの友人が作ってくれた。
でも、その考察のきっかけになったのは彼女と話したことだから、もしかしたら同じ様なことを考えていたのかもしれない。
買いました、聴きました。

今のところはBig tree song とIPAが良い。
特にBig tree song はえげつない。洋楽好きの人のほうがはまる気はする。

アートワークについては、想定していたよりは良かったが…
戻るまで何度でも言うけど、はやく角田純一デザインに戻して欲しい。
ちなみにIN A LIFETIMEのほうは辛うじて角田さんだったから戻る可能性が無い訳じゃないだろう。

まあ、ショップ特典のポストカードとかに見向きもせず、潔く(かなり安く買える)アマゾンで予約出来るっていうメリットはあるけど。

でも、ちゃんとお金出して、お店に足を運んで買うから、頼むから角田さんにして下さい。
今後何があろうと、GRAPEVINEが新譜出したらちゃんとCDとして“もの”を買うと思うが、やはりデータでダウンロードも簡単に出来る時代にCDを買うからにはアートワークも含めて楽しみたいし、角田さんに戻らないのであれば、今後どんなに(楽曲が)いいアルバムが出ても、人にプレゼントとして差し上げるときは「sing」か「真昼のストレンジランド」を選ぶと思う。

ちなみにジャケットが
「sing」は画家としても活躍している(画家活動時は角田純名義)角田さんご自身の絵、
「真昼のストレンジランド」はピエロ・デル・フランチェスカの絵の一部を鈴木親が撮影、
ベスト盤は五木田智央の絵、
「another sky」「スロウ」は若木信吾の写真、
「circulat∞r」「風待ち」「疾走」は川内倫子の写真
「Everyman, Everywhere」は大森克己の写真
「放浪フリーク」はアンダース・エドストロームの写真
とぱっと思いついただけでもそうそうたるメンバーで、こんなバンド日本には他にいないし、これが出来たのは全て角田さんの力だと思うんです。

だからビクターが今後一切角田さんにgrapevineのアートワークを頼まないとすれば、それは日本の音楽業界にとっても大きな損失だと、勝手に思っている。

こんなにいいアルバムなのに、アートワークに対するもやもやのほうを強く感じてしまう。

もうちょっと落ち着かんと、ちゃんとCDの方に向き合えんし、まだまだ特典DVDにもIN A LIFETIMEにも進めんなあ笑
頭で分かってること、心と体が拒否してる。
相手方はそんな気持ち全くないのだろうけれど、こっちはダメージ受けまくってる。
部屋から出られない。
ケータイが魔物のように感じられる。

それじゃいけないって分かってる。
でも何も出来ない。寒気と震えがくる。

これって心が弱いってことなのかな。
確かに心は弱いんだろうけれど、打ち勝たないといけないのかな。
けろっとしていられればいいんだろうけど。
頭も痛い。

ここまでのことになったのは自分のせいなんだろう。
でも、自分を責めたらもうダメになる。
自分の権利を主張して喧嘩して終わるべきなのか。
その力も残っていないけれど。

どうすればいいんだろう。
悩んでたって仕方ないんだろうけれど。
けろっと出来る図太いやつが羨ましい。
守ってくれる人が居ないなら、自分で自分を守るしかないんだろう。
涙出てくるよ、まじで。

誰かに電話して、うだうだと答えのでない悩みを延々と話したり(相手は本当に迷惑だろうけど)、こういうところに吐き出すことで少しだけ心を軽くする。
自分のための無益な弱音の吐き出し。
誰のためにもならない無駄なブログ。
僕のためだけの糞なブログだ。