美術制作のお手伝い(リアリズムに関して考えたことpart2) | 断片の集積

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主にポルトガルでの生活について

4年と少し前に、藝大生と話して考えたことを
「リアリズムに関して考えたこと」として本ブログに書いた。

あれからまだそんなに経っていない気がするけれど、それなりの時間が過ぎ、
彼女はメディアから「期待の若手」と評されるようなアーティストとなり、
僕もまあ色々あるが、建築の仕事に従事している。

そして、昨年末に彼女から連絡があり、
「初めてインスタレーションをやるから手伝ってくれないか」と相談を受け、
実現方法から制作、設営まで関ることとなった。

出来上がった作品がどんなものなのかをこと細かく説明するつもりも無いし(後程さらっとは書くが)、
作品の背景についても明らかにはしない(何となくは聞いたがちゃんと理解していないという理由もある…)。

ただ、出来上がった作品が、4年前に考えたことと非常にリンクしており、“リアルさ”とは何か?という問いかけになっているように感じたので、あくまで客観的な感想として、再び“リアルさ”について書いておきたいと思った。

今回制作した作品について簡単に説明すれば、
観客が作品を見るラインから奥へと、1mごとにレイヤがあり(全部で5レイヤある)、その一番奥のレイヤだけが絵筆で書いた油絵の作品(おおきな1枚の絵)で、それより前のレイヤはすべてフォトショップで加工したものを印刷したパネルが数枚ずつ吊るしてある構成になっている。
そして、作品を見るラインのある一点に立つと、全てのパネルと奥の大きな油絵がうまいこと重なり連続するため、一つの大きな作品として完成する。
というもの。

この、「ある一点から見ると全てが繋がって、一つの大きな作品として完成する」ということを実現するために、色々と精度が求められ大変だった訳だ(だから、その見え方に大きな意味があるのだと思う)、が、個人的にはそこは興味の対象ではなかった。

時間をかけて人の手によって描いた油絵と、一見同じように見える印刷したパネルがどのような違いを持って見えて来るのか、はたまた全く違いが感じられないのか。
鑑賞者はどう受け取るのか。
それが最も気になるところである。

一番奥のメインの絵は中心に配され、一番大きい。
なので、その絵が重要であることは一目瞭然である。
一方、その絵は鑑賞者からは最も遠いところにある。そして、特別にその絵だけを引き立てる様な(その絵だけに特別に強く光を当てるという様な)演出もしていない。

何も知らない人が“フィジカルな行為を伴う油絵”と“機械によって印刷されたパネル”の違いを
説明されなくとも強く感じるのだろうか?

少なくとも、それを感じるためには油絵とパネルを別々に認識することが必要になってくる。

最初に作品を見た瞬間というは、どうしたって全てのレイヤが集まった“全体”を一つの作品として捉えることになる。
遠くから見た作品全体には圧倒的なパワーがあるし、
「ある一点から見るとすべてが繋がって一枚の大きな絵に見える」という説明がなされていれば、嫌でも「その一点から作品全体を把握しよう」ということに意識が集中する。

そこから「油絵⇔パネル」に着目するためには、鑑賞者がそれぞれの中で(ある一点に立って)作り上げた全体としての作品を、再度意図的に解体することが必要になる。
その、「解体」という作業を手助けするために、レイヤの中をくぐって(作品に入り込んで)一番奥の油絵の前まで歩み寄って行くことを許容している。
(この『個々人の意識の中で作品が解体すされる』という点が、アーティスト本人の言う「デコンストラクションへの興味」に繋がっているのでしょう。よくわかんないけど…
もう一つ言えば、“解体”するためにはその前に“構築”が必要となるので、一点からのみ作品全体が繋がるという仕掛けはとても重要な訳だ(興味の対象ではないと先述してしまったが笑)。)

何も説明がなくとも、この作品に興味を持った鑑賞者は、レイヤの中へと進んで行くだろう。
そして、パネルと油絵それぞれに近づいて、目の前でそれぞれを見れば、(材質的な違いではなく、訴えかけてくるパワーに)大きな違いがあることに気がつくだろう。

そして、一番興味があるのは、
もう一度作品からはなれて、元の位置まで戻ってきた時に、どのようにこの作品が見えて来るのかということである。

その人はもう、パネルと油絵の違いを知っている。違いを知った上で、もう一度全体を見ている。
その時に最初と見え方は変わるのか、変わらないのか。
中心の油絵がより強く見えて来るのか、全体を認識しようとすると全体の一部として他と同化するのか。
仮に、強く見えてくるなら、それは(フィジカルな行為を伴う)油絵なのだということを知った“知識”によるものなのか、近寄って見た時に受けた“感覚”の違いから来るものなのか。

そういったことに対する「問いかけ」として
今回制作に関ることのできた“この作品”は非常に面白いと思う。
そういった意図をそれとなく投げかけることが出来れば、鑑賞者に「リアルとは何か」を考えてもらうことができる作品だと思う。

もしこのブログを読んで、“この作品”がどの作品なのか分かって、その作品を見に行く機会があるという方は、ぜひ、最後にレイヤの中から戻って、振り返って見た時に何を感じたのかを強く記憶に留めて欲しいと思う。

作者が「リアリズムの作品をつくる意義はこれだ」と語っていたり、そういうことが
分かりやすく見えて来る作品よりも、こういった「問いかけ」になっている作品の方が意味があると思う。
こういう作品に関ることができたのは嬉しい。



僕が4年前に頭の中で勝手に考えて出した答えを疑ってみる様な、鑑賞者それぞれが考えるきっかけになる様な作品を、4年前の僕の勝手な考察などつゆ知らないはずの友人が作ってくれた。
でも、その考察のきっかけになったのは彼女と話したことだから、もしかしたら同じ様なことを考えていたのかもしれない。