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断片の集積

日々の断片を記憶に残すために集積する



主にポルトガルでの生活について

無事に年を重ねた。あっという間に一年は過ぎてしまう。


最近よく、「気持ちはまだ20歳だ」とか「昨日すごく若く見られた」とか言って喜んだりしているけれど、そう言っている時点でもう若くないんだよね。子供の自由でいかれている発想と大人のちゃんとしたところを持ち合わせていなければと思う。


去年の誕生日はリスボンで過ごし、たくさん日本の友達がメールをくれた。

今年は日本の友達からのメールは少なかった分、リスボンの友達がたくさんメッセージをくれた。

そういうもんなのかなとも思うし、そういうものなんだろうとも思う。


昨年の目標はいらいらしないというものだったけれど、今年は自分を放出していく年にしようと思う。それはいろいろな形で表現していくということ。文章を書いたり絵を描いたり。貯め込んでいたものを少しずつ解放していく年。


頑張ろう。



最近サッカーの話をしていなかったので、代表についてでも。


日本代表は新たなチームとなり、あっという間に90分が過ぎてしまったと感じさせたパラグアイ戦、退屈だったグアテマラ戦の2試合を戦った。見ていて感じたのはボールがおさまるFWの必要性と香川、細貝の出来の良さかな。


ザッケローニ新体制となるアルゼンチン戦はもうすぐ。楽しみ。ザックは野沢に注目しているという記事が出ていたが、以前も書いたとおり野沢好きなので嬉しい。それから個人的には青山(サンフレッチェ)はもうそろそろ代表に呼ばれてもいいともうのだけれど。中盤の若手で最もゲームをコントロールでき、味方を叱責することのできる選手だと思うのだが。


ただ、はっきり言って次の試合はアルゼンチンに対する期待が大きい。サネッティ・カンビアッソも戻ったベストメンバーだし、パストーレもいる。そして何よりうれしいのがダレッサンドロ。サビオラとかアイマールとかコロッチーニとかいたアルゼンチンでのワールドユースでのダレッサンドロのプレーは当時中学生だった僕にとっては衝撃的だった。今でもどこかにあのとき録画したビデオはとっておいてあると思う。ボールの上にちょんと足を乗せて、相手DFがつられて動きを止めた瞬間に一気にかわしていくあのプレー。日本戦で出番があるのかは微妙だと思うけれどぜひもう一回見たい。

そしてパストーレ。若くて、背が高くて、サッカーうまくて、かっこよかったらいうことなしだ。パストーレは最近調子がいいみたいだし、見ていてスカッとするプレーをたくさんしてくれるので期待したい。飄々とプレーしているところも共感が持てる。まあ、パストーレにしたって出場するかは微妙だと思うけれど、ぜひ見たい。


話は変わって、季節も変わって、今日はびっくりするほど涼しくなっていたので、お土産に買ってきたベンフィカのスウェットを引っ張り出し、ジーンズとわりといい革のベルトに合わせて街へ出た。着心地もいいし、真っ赤な服だから思っていた以上に気持ちもしゃんとし、いい革のベルトを合わせることで結構おしゃれな着こなしになっていたのではないか。まあそうはいっても周りにどう映っていたのかはわからないし、この格好で遠出する気にはならないけれどね笑


そして今日、今まで知らなかったトライセラトップスの曲に出会った。それは最近ラジオでかかりまくっているcanとcan'tのパスポートとかではなくもっと古いfinallyという曲


何処までも続いている道の途中に咲く花 それが君であるのに変わりはないけれど

最後に僕がたどりつく場所なんて実はわからない


いい歌詞だし、和田さんの声と曲が最高にあっていてよかった。

でも


友達の特に燃えているわけでもない安定した恋がうらやましく思えてくるけど


という歌詞とか部分的に(あくまで部分的にだけど)つよがりに似た曲調とかちょっとミスチル度が高くない?とも思った。


いずれにしろいい曲。




そうだ中国について思ったことがあったんだ。今回の一件で日本人の対中感情が悪くなったことも政府に対する不信感が強くなったことも事実だと思う。中国のやり方はいやらしいけれど、どんなスポーツだって企業の駆け引きだっていやらしいことをするのは常套手段でしょ。外交だっていい顔するばかりでは成り立たない。日本だって少し圧力をかけてもう少ししたたかに外交をしなければならいんじゃないの?と素人ながらに感じた。

ただひとつ頭に入れておかなければならないのは、中国はなぜあんなに怒っているのかということ。日本に住んでいると日本政府のいうことがすべて正しくて、中国政府のいうことはすべて嘘と思ってしまいがちだけれど、本当にそうなのか?中国のいうように日本が中国人船長を不正に拘留していた可能性が0%とは言えないのだ。

当初、前原外務大臣は(正確には覚えていないが)レーダーだかビデオやら破損状況から中国と日本とどちらの言い分が正しいかすぐに客観的に証明することができると話していたと記憶している。ただ、その後、そういった明白な物的証拠に基づく事故状況というのは説明されていないように思う。僕のように考えている日本人の懸念を晴らすためにも、中国に圧力をかけるためにも、「日本の巡視船に中国漁船が衝突してきた」のだということをはっきりさせて欲しい。


それからフジタの職員は一刻も早く釈放されることを望みます。


で、この事件に関連してなんだかいろいろなことが中止になっているけれど、文化交流だか何だかで日本の大学生ら1000人の訪中が中止になったというニュースがNHKで流れているのを見た時は驚いた。

NHKで流すってことは結構公的な訪中ってことだよね?そのお金ってどこから出てるの?1000人ってあほらしい。100人じゃないんだよ?1000人なんだよ?そんなに行かせる必要がどこにある?数で勝負ってわけでもないだろうし。事業仕分だか何だかで大事なところへのお金は結構シビアに削られてるのにこんなバカっぽいことに使われてるって思うとびっくりだ。どんなに多くても50人くらい行けば十分だろ。


本当にこのニュース聞いた時は久々にすごい違和感を感じたから思わず熱くなってしまった。


最後に付け加えておくと、国家としての中国に対して多少の嫌悪感はあるけれど、中国人にあるわけではない。うちの研究室にも中国からの留学生がたくさんいるけれど、彼らは本当に一所懸命に勉強しているもの。

まあ、たまに面倒な時もあるけれど笑


自分の家の隣が火葬場だったら?


確かにあまり気持ちのいいものではない。毎日毎日喪服の人々が次から次へと現れて悲しみを昇華させて戻っていく。その様子を常に眺めていなければならないなんて、それは厳しい。


でも、その火葬場が毎日使われるものではないとしたら。そして、そこで燃やされる人が、すべてある程度の面識のある人だとしたら?         それならばまあ無くは無い気もする。


火葬場を共有する共同体をつくることは可能なのだろうか?難しいとは思うけれど共同体というものを考えるひとつのきっかけになる気もする。


火葬場で論文を書くという後輩の話を聞いてそんなことを考えていた。



ちなみにある高校は火葬場の隣に建っていた。今では火葬場が移転したため過去形である。今ではそこに火葬場が建っていたということは全く分からないが、その後に他の施設がつくられるということもなく空き地のままである。

僕の友達はその高校の卒業生であり、火葬場が稼働しているときも、閉鎖したときも、その後取り壊された後のことも知っているという。やはり、隣に火葬場があるというのは誰にとっても気持ちの良いものではなかったという。また、事実として火葬場が稼働していた時は高校の生徒か先生が毎年一人亡くなっていたのだが、移転後はそれがなくなったという(ちなみに僕は霊感が無いしこういうことは信じないたちである。僕の高校時代のことを思い返してみると、一年生の時はクラスメイトが事故で亡くなり(彼が事故にあった数時間後に僕も家族とともにその場所を車で通っており、これは本当につらい出来事であった)、二年生の時は他学年の生徒が一家無理心中に巻き込まれるという事件も起こったから、これを単純に火葬場のせいに帰するのはどうかと思う)。


また、火葬場でバイトをしている女子大生のブログをまとめた本によると、「火葬場でバイトをしている」と報告するとたいていは、「え、何を好き好んで?」「他にもバイトの口くらいたくさんあるでしょ?」というリアクションをされるらしい。


いずれにせよ火葬場は嫌われているようだ(現状では関連法令が迷惑施設として扱っており、それが周辺住民の反対運動の拠り所ともなっている)。だからこそ市町村合併とあいまってどんどん数が減り、どんどん郊外へと追いやられている。そして弊害として「火葬場が取れない」という事態が起っている。僕の祖父がなくなった時は一番近い火葬場が埋まっており、バスに揺られ30分程度は走らされた記憶がある。ちなみに特定はしないが場所は東京である。また親父の叔父がなくなった時には火葬場が取れなかったため、すぐにお通夜を行うことが出来ず、死者は数日間(正確な日数は把握できなかった、僕が留学中の出来事なので葬儀には参加していない)自宅で夜を越したという。ちなみに場所は茨城である。また親父が知り合いの葬儀に伺った時、異常に長くバスに乗せられたこともあるという。隣に座っていた人に聞いたところ、近くに火葬場が全くなく、大宮まで行かなければならないのだと説明を受けたとのこと(もちろん埼玉でのはなし)。


このような状況は本当に正しい方向に向かっていると言えるのだろうか。

もう少し火葬場が生活と近いものであってもよいのではないか。


とはいっても火葬場とはそもそもどのような位置づけだったのであろうか?昔は死者を焼くという行為が生活と結びついていたのだろうか。それとも初めから生活とは切り離された次元として行われていたのか。

それを知るためには日本の都市の骨格となっている城下町のケースと農村のケースを調べてみればよいだろう。昔の農村には村八分という言葉が生まれるくらい(そういうことができるくらい)の規模と強さを持った共同体が存在していたわけだし、城下町は一つの大きな社会としての都市が成り立っていたわけだから。


これは僕の論文のテーマではないから深入りはしないが気になったので少し調べてみた。

特に気になったのは城下町においてどういった位置に火葬場が存在していたのかということ。農村の場合はなんとなくイメージできる。人が亡くなったら共同体みんなで決まった場所まで隊列を組んで棺を運び、そこで野焼きをするといったようなイメージである。しかし、江戸時代にしろ、安土桃山時代にしろ栄華を誇った城下町のどういった位置に火葬場が設けられていて、どのように火葬が行われていたかというはのは全く想像もできない。

そこで、江戸時代の江戸がどうなっていたのかということを調べてみた。

江戸の主要な火葬場は

  ・上大崎村増上寺下屋敷火葬地

  ・目黒桐ヶ谷村霊厳寺荼毘所

  ・代々木村狼谷火屋

  ・上落合村法界寺荼毘所

  ・小塚原火葬地          など

があったらしいのだが、いずれも江戸の境界をなす朱引の外縁部に分布していたという。

これらは本来もう少し内側にあったものが市街地の拡張に伴い外へ外へと押し出され、その結果17世紀後半に位置が確定したのだという。この事実の裏には清浄を保つべき将軍スペース(江戸城や霊廟からの距離)の拡大という思惑が見て取れる。つまり「火葬」という方法がメジャーになった当初から、遺体を焼くという行為に大した意味も重みもなく、むしろ不浄で中央にあるべきではない場所と捉えられていたということが分かる。お盆になれば魂が戻ってくると考える日本では肉体を失うという瞬間は意味のないものだろうか?

そう考えてみると遺体が燃やされている間、遺族は何をして待っているのだろうか。何度か経験しているはずなのだけれど、全然覚えていない。炉に入る前に最後のお別れをして、焼いた後には骨上げと型が決まっているけれど… たぶん控室で静かにしているんだろう。そうやって待っているなら、そりゃ覚えているわけがないよな。


一方で遺体が燃やされている時間をとても印象的に描いた小説もある。

 『私は今、屋根の上にいる弟を見上げている。

  火葬場から数十メートル離れたところにある、農具の置かれた小屋だ。春は器用に屋根に上がっていったが、私はそのまま下に残っている。 -中略-

 十分ほど前、父の入った棺桶が火葬炉に入っていくのを確認すると、私と春は、控え室で待つのではなく、そのまま、ふらふらと外に出てきてしまった。二人で田圃道を歩いているうちに、この農具小屋に辿りついた。

 火葬場が真正面に見えた。煙突から煙が上がっている。最近はガス式設備などが広まって無煙のところも多いらしいが、そこは違っていた。火葬される父の煙が、空に向かっていくのが見える。ゆらゆらと気まぐれを見せながら、確実に煙は伸びている。「行け」上から春の声がした。

 何事だ、と二階を見上げる。春が小屋の二階屋根から大声で叫んでいた。 -中略-

人は、脳の中の神経伝達物質の流れで思考をしたり、様々なホルモンの分泌で生活をしているので、死んで骨になってしまったら、人の本質など消えてしまう。どちらかといえば、そう考えてしまうほうだった。 -中略-

 だから、煙を応援している。魂や死後の世界がないとしても、煙は確かにそこにある。それは事実だ。誰にも文句は言わせない。私たちが今、見つめ、縋るべきは、あの実体を持った煙だ、と確信する。のんびりと、しかし着実に昇っていく煙は、父に似合っていた。慎みがあって、好感が持てる。

 「行け!」春がまた叫んだ。 -後略- 』


火葬場を生活に近づけるためには、いかに火葬することに意味を持たせるかにかかってくるのではないか。いかに印象深く肉体が失われていくということを示唆するか。それが生きるということ・死ぬということ・体があるということについて考えるきっかけにもなるし、火葬することが一つの象徴になって火葬場がただの遺体焼却場ではなくなるための大きな手掛かりなのではないか。


ちなみに日本の火葬は世界的に見て先進性と特異性を持っている(らしい)。それは火葬率の高さと会葬者全員で行われる「骨上げ」、すなわち火葬によって具体的に死を確認する所作にみられる、とのことである。そうは言っても明治6年に「火葬は仏葬だ」と廃仏毀釈の観点から火葬禁止令が出されたという事実や、千葉県においては火葬率が1915年ではわずか6.1%、1965年ですらわずか49.5%などというデータを見ると火葬にあまり深い伝統があるとも思えない。だからこそ逆に火葬場の存在、価値観を大きく転換させることも可能なのかもしれないと感じた。


最後に、ちょっと付記しておくと火葬場でのバイトは葬儀社に雇われて火葬場に派遣されるという形で任され、時給は結構いいらしい。今はご遺体がキリスト教信者であることもあるし(牧師さんが付いてくる)、遺族がいないということもあるらしい(施設などで亡くなり遺族との連絡が取れない場合など。葬儀担当者が遺族の代わりをすべて行うとのこと)。


もう一つだけ。個人的な体験なのだけれど、祖父が亡くなり、葬儀が行われ火葬場で焼かれた日というのは僕の成人式の日であった。別に成人式に出られないということに対しては取り立てた感情もなかった(亡くなった時点で受け入れていたし、いろいろなことに忙殺されその日が成人式だということも忘れるくらいだったから)が、火葬場からの帰り道、バスの中から外を見ていたら大きな区立のホールがあってそこから大量の新成人たちが出てきて、「ああ成人式か」と他人事のように感じたことを覚えている。その時、同じようにスーツを着ているけれど全然違う意味でスーツを着ているんだなと漠然と思った。祖父の葬儀における火葬場でのことを思い出そうとしてもその景色しか思い浮かばないし、逆に成人式と言われてもその景色しか浮かばない。そのことを思い出してしまった。



そんなこんなで火葬場のことを考えたお彼岸の一日。まだ帰国してからお墓参りに行っていない。


ちなみに昨日は中秋の満月。必ず満月の日にはワンマンライブを行うバンドのボーカルが出演しているイオンの満月ロゼのCMはすごい心地よい。そこで使われている新曲を今日初めてラジオでほんの少しだけ聞いたけれど、サビになった瞬間にいい曲と出会った時のゾクゾク感を感じた。やっぱり売れてくるとノッてくるのかな。今、すごくいい状態にあるんだろうな。ただただ純粋に心地よい音楽を聴くというのもいいもんだ。こんな日の最後に優しい曲を聞けて良かった。



「火葬場より。女子大生のしみじみノート」 山口奈津江著

「墓と埋葬と江戸時代」 江戸遺跡研究会編

「火葬場の立地」 火葬研究会立地部会編

「重力ピエロ」 伊坂幸太郎著

お世話になったリスボンのクラスメイトにいくつかお礼の品を送るために上野へ赴いた。


同じクラスを選択していた留学仲間とほぼ1カ月ぶりに再会し、アメ横やらデパ地下やらで何がポルトガル人には喜ばれるのだろうかとああだこうだいいながら日本らしい小物やら日本酒やらを買った。

そして、喫茶店で話し込んだりもした。


アメ横は3連休の中日ということもあってかおびただしい数の人で、そこは確実に日本でありながら無国籍地帯であり、鮮度の高いものしかない生鮮食品屋が多いことを理解しつつも何処か少し不衛生な感じもして、とっても人間的な場所だった。

あいかわらずカットフルーツは大人気で、アメ横の店員さん達はバイタリティーにあふれていた。


それだけでも十分に充実した一日なのだが、せっかく上野まで出るのだからと待ち合わせの前にシャガール展へ行ってきた。

そして、買い物を終えてから銀座に向かった。ファストファッションが進出した後の銀座というものをまだ未体験であったし、ZARA・H&Mといった店が日本ではその程度の価格設定で商売をしているのかを知りたかったし、資生堂ギャラリーで開催されている石上純也展も見ておきたかったのだ。


銀座駅を出ると今日は歩行者天国でまたそこにもたくさんの人々が存在していた。

銀座の街は…なんだかだんだんとどこにでもある街に変わっていっているように感じた。ただそれは日本のどこかと通ずる既視感ではなく他国(ヨーロッパ)と通ずるものであった。まあ、元々銀座はウォートルスが銀座煉瓦街大通りを作って初めて歩道と車道が明確に区別されたときからヨーロッパのような街並みだったわけだし、それが日本における銀座のアイデンティティーであって、今まではそれを銀座の魅力と感じていたのに、ヨーロッパに住みヨーロッパの都市を巡り、ヨーロッパが身体感覚として決して遠いものではなくなったという僕自身の変化がそこに既視感を作り出した原因だったのかもしれない。


ファストショップに関して言うと、ZARAはヨーロッパよりも高いなあという感覚、H&Mはいずれにしろ安いなあという感覚。

H&Mにたくさん人が群れていたけれど、向こうで生活していた感覚だとH&Mはオフの時に着て、着倒して、悪くなったらすぐ捨てるという感じ。昔のユニクロに対する日本人の感覚のような。H&Mが日本に入ってきた時は安いしいいなあと思っていたし、ウィーンに旅行した時も「日本で買うよりもさらに安い!」ってH&Mで買い物したけれど、留学を超えた今となってはあまりH&Mで買う気にはならないなあ。質がやっぱりZARAとかユニクロとかのほうがいいし。そうはいってもウィーンで買ったTシャツも留学中に買ったズボンも大切にして着続けてはいるけどね。


さて、で石上純也展の話。

一番気になったのは「余白」という言葉。一番気になったのは「森と街」というプロジェクト。

今の日本の住宅の転換というのは閉じることから開くことへの転換であろう。住吉や中野本町といった名作からアニハウスや森山邸へ。少しずつ解体して明確なパブリックやプライベートのなかった下町の感覚を取り戻そうと。そういった流れをさらに推し進めたところに石上さんのプロジェクトはあるのかなと感じた。ものすごく緩やかな仕切りがあるのかないのか分からないようなニュートラルな感覚。

閉じていることから開いていくことへの転換は都市計画においても行われていかなければならないことで、それなのに団地、ニュータウンときて超高層もいまだ完全に閉じられた世界が形成されている。そういう状況を打破する可能性として「森と街」というのは面白かった。まず樹木の集まりをつくっていくこと、そのうえで樹木の集まり(=森)のヴォイドに都市を計画していくというやり方。森を先に作るというのは価値観を転換するということ。例えば自然の豊かな別荘地ですら、本来は「自然の豊かな」という魅力があるから人が集まってきているのに、資本主義に任せて土地開発がなされ別荘地の拡大が進んでいるという事実。市場原理に任せていると需要があればいくらでも開発は行われてしまう。それは自然がいくら大事でも、いくらそこに価値があろうと自然が自然であるからで、そこがサイトとみなされてしまうからだろう。

でも、もし先に森を作ったら?そこはつくられた場所であり、自然な場所ではないけれど、それが人工自然であるがゆえに森は守られ、都市は森が残した「余白」にしか作られない。閉じる開くの話からはずれてしまった(この話は機会があったらちゃんとまとめよう)けれど、一つの可能性・考え方としてとても興味深い都市計画の仕方だなあと感じた。


さて、(もちろんそうじゃないプロジェクトもあったが)概してどれも、可能な限り儚く、あたかも何もないような境界を求めているように感じた。そしてそれを象徴するような細い足の支えるテーブルに、それを象徴するような模型が並んでいた。ただ、この台、些細な振動でものすごく揺れる。そしてそこに載る模型たちも。

しっかりとした閉じられた箱の中にいるとき、自分が箱の中にいることなど気にも留めない。その箱が自分を守っていようとも閉じ込めていようとも関係はない。でも、その箱が抽象的で繊細になればなるほど箱は「私」に働き掛け、中にいる「私」はその箱のことを意識するようになる。健康な時は何も思わないのに、傷を作ったり、病に冒されたりすると体というものに意識的になるように。

また空間がニュートラルになればなるほどその「外部」というものに意識が向くようになるのではないか。

そんなことを強く感じた。

今年のヴェネチアビエンナーレの作品もそうだが、極限まで存在をなくすことで逆にその存在を強く感じさせるということを意識的にやっているのだとする、これはすごいなあと思う。


いやぁ、消化しきれてない文章。今日は眠すぎる。今度もう一回考えてみよう。でも、今日感じたことを今日書いておくことって自分のために重要なのではないだろうか。


ということでシャガール展についても。

シャガールの圧勝だった。シャガール以外の作者の作品も多かったけれど、これなら「シャガール」を大々的にアピールして宣伝してもよいでしょ。

多くの画家の絵を見ても(それがモディリアーニであろうとゴーギャンであろうと、マティスであろうと)、ただ、それが作風なんだ、としか感じないのだが(もちろん好みはあるし、そう感じるのが悪いとかではなく上にあげた3人の画家はいずれも大好きである)、シャガールの絵を見ると、彼の周りの世界はこういう世界だったんだろうと感じる。それがシャガールの中だけで起こっていることではなく彼の生まれたヴィテブスクをはじめ、その周辺の世界はこうだったんだろうと。

うまく説明できないけれど、浮世絵を見る感覚に似ている。浮世絵は油絵やリトグラフやその他の欧米の絵画とは全く違っている。でもそれを見て違和感も感じないし、当時の日本はそういう世界だったんだろうとただ思うだけだ。あれが真実で、江戸はああいう世界だったと。それと同じ感覚なのだ。だから僕はベラルーシやその周辺のロシアの村で馬の顔が鶏であろうとカップルが空を飛んでいようと何の不思議も感じないし、いまでも

その街を訪れれば、そんな風景が見られるのでは(もちろん現実世界でではないが)と思っている。

そういう感覚を一人きりで作り出してしまうシャガールはすごすぎるって今日改めて感じたのだ(浮世絵はたくさんの浮世絵師の集積によってその感覚が作り出されているから、それと比較すると、ね)。


でもこの感覚って相当伝わりにくいし、この感覚伝わらない人が読んだら相当病んでるって思われるんだろうな。

あっという間に秋。やっと過ごしやすくなってきた。


僕の場合、季節が変わったことに気づくのって匂いによることが多いんだけれど、今回は急激な気温の変化と女子高生のカーディガンによってそれを感じた。


昨日は「昨年の今日、ポルトガルに行ったんだな」って実感しながら免許センターに行って、免許を更新してきた。ついにゴールドだよ!なんだかちょっと嬉しいもんだ。


で、それとポルトガルに旅立ったことと何が関係あるの?って思うだろうけれど、また深くポルトガルのことを思い出したのは国際免許を返却したから。


ああ、こいつで何度も運転したな、楽しかったなって。


話変わってメキシコの学生からメールが届く。

WSの内容についてはなーんにも書いてなくて、WSの前に東京見学、後に京都見学したいんだけど可能かな?とか、宿泊費はいくらかかるの?とかそんなことばっかり。


メキシコの田舎町から来る学生は日本で何を感じるのだろう。

彼らにとって一番面白いのは何だろう?

もちろん木造建築とか寺院とかも興味深いんだろうけれど、一番面白いのはきっと僕らが当たり前と思っていることなんだろうな。それは縦横無尽に張り巡らされた鉄道網(特にメトロ)だったり、駅のホームだったり、一人暮らしの狭い部屋だったり、24時間開いてるコンビニだったりするんだろう。AT車とか紅葉とか刺身とか。


考えてみて思うのは、伝統的な住居や建築っていうのは場所によって全然違うのに、ちょっとお金のかかった公共建築ってどの国も似通っている。

技術もある。物流もある。情報はすぐに伝わる。そんな世界でこれからどんな建築を作っていけばいい?その場所でしかできないことを見つけることって出来るのか。むしろ、場所の特異性ってどういうところによりどころがあるんだろうか。


さあ、また頑張ろう。



載せ忘れていたから変なタイミングだけれどこれを。

リスボンで買ったタイル。釉薬がかかった美しい手作りのタイルを留学生活のお土産としました。

この中で今も手元に残っているのは父と母がそれぞれに選んだ2枚だけです。
断片の集積