断片の集積 -10ページ目

断片の集積

日々の断片を記憶に残すために集積する



主にポルトガルでの生活について

卒業設計選択者による卒業論文発表会が今日行われた。


そこで感じたことなのだけれど、面白い見方や切り口で入っても辿りつく結論は既視感があるというか一般的に言われている普通のことばかり。


まず、当たり前だと思っていることや普通だと思っていることが本当にそうなのかという前提を疑ってみる必要がある。


そして、価値観は多様化してきており、ニーズに着目した独特の事業者のやり方があるのにそういったやりかたを「普通」の見方で、また「一般的」かという切り口で評価しても全く意味のないことだ。


そういうことばかりだったので、レベルの低さ以前の思考の低さみたいなものに驚いてしまった。


少なくとも僕らの研究室では(いや、おそらく僕らの世代ではと言い換えてもいいだろう)当たり前になっている「当たり前のことを疑ってみる」という姿勢が若い世代においては欠如してしまっているのだろうか。


それは刃向かってみることや闘ってみることの欠如のような気がしてしまう。


それは自分なりの考え方をちゃんと持てるかということにつながっていると思うのだけれど。


(そうそう、借り物の言葉で話されても何もわからない。そういう人も何人かいて、それもまたこわかった。)



でも、自分の言葉で話すってのはなかなか難しいことだったりもするよな。

さぁ切り替えて、これから、初めての場所で金曜の夜を楽しんで来よう!

無印良品がついにポルトガル進出を果たすようです。

リスボンの中心、バイシャ駅の近くに第一号店が出店するとMUJI好きの友達から連絡がきた。


日本企業の進出力もすごいけれど、どんどん世界が均質化していく気もする。いろいろ考えなくてはならないことがある。


話変わってアイレス・マテウス。


今日、ちょっと思うことあってマテウスをネット検索したら、リスボン留学中の美術館の設計において部分的に参考にした「Santo Tirso Call Center」が2010年の6月には完成していたことを知る。


くぅ~、留学中に知っていれば無理してでも見に行ったのに。写真で見てもめちゃくちゃかっこいい。もちろんかっこいいと思うかどうかは好みの問題だと思うけれど、僕にとってはめちゃくちゃかっこいい。


せっかくなのでネットで拾った写真をあげておく。


↓全貌
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↓参考にした(パクった?笑)エントランス
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↓(以前載せたことがあるかもしれないが)僕がポルトガルで設計した美術館の模型写真
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何故マテウスを調べたのかというと、マテウス事務所に遊びに行ったときに見せてもらった住宅の模型を参考にしたくて、それはヴェネチア・ビエンナーレに出すやつだと言っていたから、もしかしたら何処かにその模型写真が落ちてないかなと思ったのだ。

唐突だったから仕方なかったとは言え、あのときカメラを持っていかなかったことが悔やまれる。でも、あのときカメラを持っていたら、その住宅の作り方にどっぷりはまって、リスボンでの僕の課題は全く別の体をなしていたかもしれない。


ちなみに、調べていたら現地では誰の作品だか分らなかったモウラの集合住宅もマテウスのものだと知る。
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さて、ひととおり読もうと思っていた本が読めたせいか、また、ものすごく設計がしたいモードになってきた。


そういう波があること自体問題かもしれないけれど、まあいいじゃないか。興味の対象は数限りないほうが人生は面白いはずだ。


忙しかったバイトもひと段落ついた後に、長谷工のコンペについて考えてみて、一つなかなかいいと思ったアイデアに到達できたけれど、それは締め切り4日前のこと。プランを詰めてみたけれど、このアイデアで100戸の住宅をあの敷地内に作るのは不可能ということが分かり、提出はあきらめる。

でも、この考え、今度絶対どこかにいかそう。


ちゃんとコンペやろう。言い訳しちゃだめだ。


文章もまとめなければ。

久しぶりにポルトガル関連の話題。


昨日、マノエル・デ・オリヴェイラ監督の「ブロンド少女は過激に美しく」を鑑賞してきた。


感想をどのように表現すればよいのかがわからない。とても美しい映像で、慣れ親しんだリスボンの街、言葉、喧騒が映し出され、ストーリーに起伏はあるものの、終始幸せな気分でスクリーンを眺めていることができた。

でも、(複線からある程度の予想はついていたとはいえ)ああいった唐突な終わり方をされたとき、そこから何を感じ、何を思えばよかったのだろうか。それは、もちろん許されないことであるけれど、それを赦すことで始まるもう一つの壮大なストーリーがあるのかと少し期待していた僕にとっては、あまりに唐突な終わり方であったと言わざるを得ない。

今思うと、劇中に引用されたペソアの言葉がとても示唆に富んでいたような気がする。


東京では5日(金)までとのこと。


なんだかんだいって、見る価値はあった。映像の美しさは幸せを感じさせるし、心にざらっとした感触を残すラストだって、幸せな終わり方よりもずっと引きずるもの、残るものは大きい。

それから、本篇が始まる前に14分間のゴダールによる短編が上映された。これは素直に良かった。



さて、「ブロンド少女」鑑賞と同時にドミニク・ペロー展にも足を運んだ。


感じたのは「無秩序なものがある必然性をもって存在しているとき、その建築はとても面白い存在になる」ということ。

今あるもの、簡単に読み取ることのできるコンテクストというものは歴史の中のいつかの時点で人工的につくりだされたものであって、そういったコンテクストに刃向かってみることでできる、既存の都市の形態が崩された形の中から生まれるものもあると感じ、そう感じたのはコンテクストに対して無秩序に挿入されたそれらがある種の必然性を持っていると感じたからで、それはぺローのいう「歴史に対しての地形の優位性」「地形に従う(大地とのセックス)」により生み出された必然性なのだろう。


もちろん、ただ、都市を無視して地形に従えばいいという訳ではないけれど、うまい具合に既存の都市とずれたあるまとまりというのは予想だにしないたくさんの面白いことが生まれるだろうというわくわく感をもたらした。


それからパリに留学しぺロー事務所でインターンしていた東大生が関わっていたという美術館改修のコンペ案はすごく良かったと思う。前に見せてもらったときには特にいいとも思わなかったけれど、今回の展覧会で見たら良いなと素直に思えた。ペロー自身も気に入っていたらしいけれど、それでもコンペを取れないこともあるんだよね。やっぱり、運というか、審査員のモードとうまく合うかっていうのは重要だよなと思う。まあ、いずれにしろ出さないことには始まらないわけだが。


最後に本の話。


帰り路八重洲ブックセンターに立ち寄り、ほしかった本を手に入れた。

A+U2010 11月増刊号「ル・トロネのアルヴァロ・シザ-経路と作品」である。ル・トロネを訪れたときにはあれらのオブジェ(あえてオブジェと呼ぶ)がシザの手によるものだとは思わなかったけれど、大理石をくりぬいて作られた矢印はル・トロネの雰囲気を壊すことなく明確な役割を果たしていたし、進入禁止を示す懸垂ケーブルもそれ自身はル・トロネを鑑賞するうえで不必要な存在感を消しつつも、観光客から建物を守る強力なパーツとなっていた。

そして、この本の後半には(ほぼ半分のページを割いて)シザのプロジェクトの写真とスケッチ、そのプロジェクトに関係する建築家・ジャーナリスト・神父らのエッセイが掲載されている。この本に載っている(一つの住宅を除いて)すべてのプロジェクトの空間を生で体験してきた者にとってはどうしても手に入れておきたい本だったのだ。

まだ、さらっと写真とスケッチを眺めただけであるけれど、文章を深く読みこんだら感じること、発見がたくさんあると思う。そうしたらまたブログに思ったことを書こう。


結局この日は「ベロニカは死ぬことにした」パウロ・コエ―リョ、「見えがくれする都市」槇文彦、「ユリイカ(菊地成孔の特集の号、バックナンバーで安くなっていた)」と4冊もの本を買ってしまった。

「ベロニカ」はあっという間に読み終えてしまった。何度も再読することになるだろう。そういう本だった。


気持ちが前に向かないときに読み返すことで回復できる本というのがいくつかあって、今そうなったときに一番手っ取り早く読めて、一番手っとり早く回復できるのは「虫歯と優しさ」(山崎ナオコーラ、「人のセックスを笑うな」に収録。)なのだけれど、「ベロニカ」はもっと深く悩んでいるときに読むいくつかの本と同じように、読むことで自分の悩みをもう少し深く悩ませるというか、ちゃんと考えるほうに仕向けてくれる本だと思う。


ブログを書きだすと書きたいことがあふれてくるのだけれど、なかなか書こうという気にならないのは日本にはポルトガルの何百倍も娯楽があふれていて、ポルトガルの何十倍もの範囲が生活圏だからだろう。選択肢が多すぎる中でちゃんと取捨選択しなければならないと思うし、そのためには強くならなくてはならない。街にあふれているさらっとした娯楽は瞬間的に幸せをもたらすけれど、真の充実をもたらすことはない。その日の自分に納得して眠りに落ちることが出来たらそれが一番幸せ。


最後に最後に一つだけ引用


少年達よ、どこへ行くのだ。

「それは言えないよ、でもここは嫌なんだ」

なんでだ、どうして嫌なのだ。

「バカだなぁ、大人が用意した場所だからさ」

大人が用意してはいけないのか。

「しすぎてるんだよ、余計なモノまで」

余計なモノとはなんなのだ。

「いらないモノ」

-中略-

「だから探しにいかなくちゃ」

少年達よ、なにを探すのだ。

「場所だよ、自分で用意する場所」

-後略-

(黒・迷子/満島ひかり パピルスvol33より)


これを読んだ時、「あっ、公共空間!」と思った。公共空間ってこういうことだよなって。


ちなみに満島ひかりの書く文章は好き(そういえば小学生だか中学生だかの時、みんながなっちだ鈴木あみだって言っているときにひとり「フォルダー5がいい」って言ってた変な奴がいたけれど、あいつは今の満島ひかりの活躍に鼻高々だろうな)。今回は黒をテーマとしていたようで、もう一つ「黒・そいつ」というすんごくいい短文があるのだけれど、それはまた今度。

無事、終了しました。

なんだかんだいって楽しかった。

朝、6時半に成田で待っていたのにロストバッゲージのせいで8時半過ぎまで出てこなかったり、彼らは都市工学の学生で建築の話をしても全然乗ってこなかったり、WSの内容も建築の話からは大分それた「地図を作る」という所に終始してしまったし、広く学科中に宣伝して行ったメキシコの先生方のオープニングレクチャーも全然建築とは関係なくて頭を抱えてしまう内容だったり、僕の連絡不足のせいで日本人学生が戸惑ったり、大変なこともいろいろあった。

でも、せっかく荷物が無いのだからそのまま東京に行こうとメキシカンと一緒に初めての成田エクスプレスに乗ったり、メキシカンを引き連れて初めての鋸山を案内したり、今まで入ったこともない他学科の建物に侵入していろんな人にアンケートをとったり、楽しいこともいろいろあった。

そして何より一番驚いたことは、予想以上にスペイン語が聞き取れるということ。もちろん全く話せないのだけれど、WSの話し合いにおいては内容が予想できているということもあるし、建築用語やポルトガル語と共通な基本的ないくつかの単語を元に推察すると半分まではいかなくてもそれに近い割合の話の内容が聞き取れるということが分かった。

ポルトガルにいるときは語学力の向上なんて全然感じていなかったけれど、やっぱり10カ月もいれば少しは自然と身についているものなんだ。

さて、何かに追われているときはそれをただひたすらこなしていけばいいだけだからある意味では辛いけれど、ある意味ではすごく楽。一つ山を超えると、自分で動かなきゃ何にもならないということがまた大きくのしかかってきて、自分が駄目な奴だって気づかさせられる。

自分で決めたことをちゃんとこなしてちゃんと前に進みたい。自分をごまかさないこと。自分に言い訳しないこと。まだ24になって一カ月もたっていないのに、誕生日に決めた目標をあっさり覆すようだけれど、24の目標は自分に嘘をつかない、誤魔化さないということかもしれない。自分が嫌いな自分にならない。

人に嫌われたっていいじゃないか、自分が自分の思う道を嘘つかずに進めていれば支えてくれる人だって現れるさ。そう思っていく。戦っていく。

頑張ろう。

それにしても、夜が来るのが早くなった。あっという間に季節が変わっていってしまう。

日本がアルゼンチンに勝った。


アルゼンチンはコンディションも悪かったみたいだけれど、それでも勝たなければアルゼンチン国民は納得しないだろうね。


アルゼンチンは今後もこういうサッカーを目指していたら限界があるっていうことが露呈された。ある意味W杯のドイツ戦よりもはっきりと示された気がする。


逆に日本でも細かくつないでくる相手には味方同士の距離を短く取って、しっかりカバーリングをすれば対応できるということがよくわかった。


今日、日本にとって一番良かったことは勝ったとか負けたとかいうことよりも、期待できるFWがいるってことが証明されたことだと思う。


南米のDF相手に身体のぶつかり合いで全く負けない、引っ張られても倒れない、スピードがあり、身体に切れがあるFW。あとは点を取ってくれれば申し分なかったけれど。

フリーの味方がいても自分で勝負してシュートまでいける。FWに大切なエゴも持っている。


前田遼一がボールを持つたびに、日本代表から感じるのは久々のドキドキ感わくわく感を感じることができた。

次は前田先発でみたいね。


アルゼンチンは、ダレッサンドロがうまくいっていなかったし、パストーレはクラブだともっと自由にプレーしているけれど、やっぱりいまだにちょっと譲っている部分があるなと思う。


それからやっぱりイグアインは好きじゃない。ゴール前にいたら怖いけれど、サイドで持ってもプレーが遅くなるだけ。



とにかく、あんまり喜びすぎないこと。

でもうれしいことはうれしいよね。



それから改めてバルセロナっておかしいチームだ。スペイン代表+メッシ! 笑うしかないね。